同じクラスの我妻至(あがつまいたる)くんは、目つきが悪くとても無口で、いつも不機嫌そうな顔をしている。
学校にいるあいだは誰とも親しく関わることがなく、その姿はまるで一匹狼のように静かで孤高だ。
しかしいくら大人しく見えていても、我妻くんからはどこか人を圧倒するようなオーラが滲み出ており、そのためこの高校に入学してからというもの、彼は生徒たちからはおろか先生たちからも怖れられる存在になっていた。

そんな我妻くんのことを「もったいないな」と、先ごろの席替えで彼の隣の席になった私――瀬尾結花(せおゆいか)は思っている。
と言うのも、たしかに険のある表情をしてはいるのだけれど、我妻くんはとても整った顔立ちをしているのだ。
三白眼ぎみの切れ長の目にスッと通った鼻筋、真一文字に結ばれた薄めの唇など、難癖などつけられないくらいにひとつひとつのパーツが綺麗な造作をしていた。
美人の真顔は怖いと言うけれど、きっと我妻くんもそうなのだろう。
少しでも微笑んでみせたら、彼を怖いと思う人だって減るはずだ。
それどころかたくさんの人を魅了してしまえるだろうに、“もったいない”。

廊下側から二列目の一番後ろの席で、私は授業中、何度も右隣に座る綺麗な顔を横目でひっそりと盗み見る。
謎多き一匹狼の生態を観察するのは、私の最近の趣味になりつつあった。
不良然とした態度の我妻くんだけれど、授業は気怠げながらもきちんと受けている。
返却されたテストの結果がちらりと見えたことがあるが、成績もかなりいいようだ。
そしてどれだけ大食漢なのか、彼は休み時間ごとにパンやおにぎりを食べていた。
どちらかと言えば細身であるその体のどこに大量の食料が詰め込まれているのかが、私の今一番の謎である。

美しく気高く少し不思議な同級生。
その空気がピンと張り詰めるような彼の隣の席を、私はけっこう気に入っていた。

「結花、お昼ごはん食べよう」

午前の授業が終わると、友人の亜季(あき)ちゃんがお弁当を持って私の席までやってきてくれた。
そして彼女と入れ替わるようにして我妻くんが席を立つ。
彼がお昼休みを教室で過ごすことはほとんどない。
噂によれば、購買部で大量のお昼ごはんを買い込んでから、静かな裏庭で過ごしているらしい。
おそらくうるさい場所が苦手なのだろう。
彼のごはんの食べっぷりを眺めるのは私の楽しみのひとつでもあるのに、お昼だけは見ることができなくて残念だ。

()っっわぁ……!」

教室から出て行く我妻くんの背中を名残惜しく見送っていると、しばらく黙っていた亜季ちゃんが溜めた息を吐き出すようにそう言った。

「今、我妻に睨まれたよ。あたし、うるさかったのかな?」

「そんなことないよ。きっと亜季ちゃんの声に反応しただけだと思う」

「それならいいんだけどさぁ」

我妻くんとは逆隣の席のイスを引っ張ってきた亜季ちゃんは、疲れた様子でどっかりとそこに座った。
彼女曰く、我妻くんの目は獲物を狙う爬虫類のように怖ろしいのだそうだ。
ひと睨みされると、それだけで心臓が縮こまってしまうらしい。

「結花は我妻の隣の席で怖くないの? あたしなんか目が合っただけで震えるんだけど」

「ええ? うーん、別に」

対する私は、我妻くんのことをそれほど怖いと思ったことはなかった。
けれど、たぶんそれは。

「我妻くんってさ、昔おばあちゃんの家で飼ってたハスキーに雰囲気がそっくりなんだ。だから不思議と怖いと思ったことはないんだよね」

おばあちゃんがかわいがっていたシベリアン・ハスキーのベル(♀)のことを思い出す。
ベルはキッと怖い顔をしているけれど、幼い私がちょっかいをかけても動じないくらい穏やかで、いつも凛と背筋が伸びたとても賢い子だった。
そう言えばベルも、我妻くんと同じようにたくさんごはんを食べる子だったっけ。
そんなベルに似ているからか、私は我妻くんにどこか親近感を覚えてしまうのだろう。
お気に入りの赤い首輪をして、私と庭を走り回ってくれたベルの姿を思い出して懐かしむ。
すると私の話を聞いた亜季ちゃんは、「信じられない」とでも言いたげに眉を寄せた。

「我妻がわんこに似てるなんて、結花ってほんと大らかというか、肝が据わってるというか……」

「そうかな? たしかに能天気だとは思うけど」

私はまだ我妻くんのことを何も知らない。
けれどどうしても彼を悪い人だとは思えないのだ。
あの不機嫌な表情の下に、別の一面を隠し持っているような気がして。

「いつか仲よくなれたらいいなって思ってるよ」

空っぽになってしまった隣の席を見つめる。
彼はベルとは違って人と関わるのが好きではないのかもしれない。
けれどいつの日か、ここに座った我妻くんと楽しく話せる日が来ればいいなと、私は心の片隅で願っている。



私の住んでいるところは豪雪地帯とは言えないまでも、冬になればきちんと雪が積もるような寒い地域だ。
とはいえ例年の積雪は多い日でも10センチ程度で、慣れている人間ならばそこまで生活に困ることはない。
しかし数年に一度くらいのペースで、交通が麻痺するほどの大雪が降ってしまう。
そして今年がちょうど、そんな大雪に見舞われる年だったらしい。

朝、私が目を覚ますと、昨晩から降り続いた雪が辺り一面を銀世界へと変えていた。
おそらく一晩で50センチは積もったのだろう。
すべてを覆い尽くす雪景色は非日常的でドキドキするけれど、おかげでどの電車やバスもことごとく止まり、 通学の足がなくなってしまっていた。
SNSやトークアプリを確認しても、全校の半分以上の生徒が学校には来られそうにないようだ。

いつもは電車通学をしている私も、今日は父の出勤の車に同乗させてもらうことでなんとか登校していた。
通学路も渋滞が起こっており、校門に着いたころには1限が始まってしまっていたけれど、生徒がほとんど集まらない中で授業を進めることはできないはずだから、きっと丸一日自習時間で終わってしまうだろう。
そのため急ぐ理由もなく、雪で滑ってしまわないようにのんびりと教室へ向かう。
人気(ひとけ)のない生徒玄関は、雪が音を吸収しているせいか、世界が終わってしまったかのように静かだ。
なんとなく不気味な感じがして、早く上履きに履きかえてしまおうと足早に歩みを進める。
しかし誰もいないと思っていた靴箱のところに蹲る人影を見つけ、私は小さく悲鳴を上げてしまった。

「あ、我妻くん……?」

思いがけない人影に驚いたものの、よくよく目を凝らして見てみれば、そこにいたのは隣の席の我妻くんだと分かった。
彼は具合が悪そうに身を屈めながら、なぜか肩で息をしている。
私の声に振り向いたその顔は、血の気が感じられないくらいに真っ青だった。

「我妻くんどうしたの!? 大丈夫!?」

異常事態に気づいた私は、慌てて彼に駆け寄ると、すぐさまその額に手を当てた。
手のひらから伝わってくる温度は生ぬるい。
おそらく熱はないようだけれど、ただの不調とは思えないくらいに顔が歪み、こめかみには冷や汗が滲んでしまっている。
もしかして、何か悪い病気にでもかかってしまったのではないだろうか。

「触るな……どっか行け……」

「こんなときに何言ってるの!」

我妻くんが緩慢な動作で私の手を振り払う。
しかしいくら彼が群れることを嫌う性質(たち)なのだとしても、こんな状態の人を放っておけるほど私は薄情者ではない。
頑なに拒もうとするその腕を自分の首の後ろに回し、私はなんとか彼を立たせようとした。

「保健室に行こう? ほら、私に掴まって――」

「やめろっ……!」

私を突っぱねるように身じろぐ我妻くんは、まるで毛を逆立てて威嚇する野生動物のようだ。
何がそこまで彼を追い立てるのかは分からないけれど、こんなにも弱っているというのに、ここまで他人の手を拒むものだろうか。
およそやりすぎとも思える拒絶に怯みながらも、おいそれと引き下がるわけにはいかず、もう一度立ち上がろうと試みる。
しかし中腰になった直後、肩を強く後ろに引っ張られる感覚がして、私はバランスを崩してしまった。
そのまま後ろにすっ転び、背後の靴箱に体を打ちつける。

()ったぁ……」

反射的に後頭部を守ったせいで、背中を強打した。
情けない声が漏れ、げほげほと咳までこぼしてしまう。
どうやら怒った我妻くんに引き倒されたらしい。
むりやり手を貸そうとした私も悪いけれど、そこまでして私に触られるのが嫌だったのだろうか。

彼と仲良くなりたかった手前、少しショックを受けながら転んだときにつむった瞼を開く。
するといつの間にか、弱っていたはずの我妻くんが私の目の前に回り込んでいた。
我妻くんは見つけた獲物を逃すまいとでもいうように、私の両肩を掴んで靴箱に押さえつける。
おそるおそる見上げれば、いつ見ても綺麗だと思っていた彼の顔が、今は私の間近にあった。

「我妻くん……?」

しかしいつもと違うのは、その目がギラギラと金色に輝いているということだった。
彼の目は特段珍しくもないブラウンの色をしていたはずなのに。
なんなのだろう、今のこの目は。

普通の人間ではあり得ないような目の色の変化を、呆然としながら見入る。
やがてその喉仏が生唾を飲み込んで上下したかと思うと、我妻くんのつくる影が私に重なり、唇に知らない温度が乗った。
それが生まれて初めてのキスだと気づいたのは、数秒遅れてからのことだった。

「んん……!」

我妻くんからキスをされている。
なぜ、どうして、こんな脈絡もなく。
あまりに突拍子もない出来事に混乱しつつ、それでも私がどこか冷静でいられたのは、我妻くんの瞳が手負いの獣のように切実に見えたからだった。
彼は私が好きなわけでも、もちろんキスがしたいわけでもない。
ただどういうわけか、こうするほかに手立てがなかったのだと、なぜだかそう思わされたのだ。

初めは私の肩を掴んでいただけだった我妻くんは、そのうち私の上にのしかかるような体勢になり、両手で私の頬を固定した。
重ねるだけだった唇も、次第に啄むような大胆な動きに変わり、時おり軽く歯を立て、舌で擽る。
どうやら固く閉じた私の口を開かせたいらしい。
けれど、それはさすがに無理な話だった。
なにしろこちらは触れるだけのキスでさえ驚いてしまっていて、それ以上に高度なことなどできるはずもないのだ。
それにそもそも、私たちはただのクラスメイトのはずで――。

――そうだ、私、どうして我妻くんとキスをしてるの……!?

「んんっ! やっ……!」

異様な状況に麻痺していた思考が一気に動き出し、弾かれたようにもがいて抵抗する。
しかしいくら私が突っぱねても叩いても、男子の持つ強い力には敵わなかった。
それでもなんとか逃れるために体を捩っていると、煩わしい様子で目を細めた我妻くんが、右手で私の鼻を摘んだ。
自ずと呼吸ができなくなってしまい、出せない悲鳴が喉の奥へと消えていく。
やがて酸素を求めて開いてしまった口に舌を捩じ込まれ、私は目を白黒とさせた。

口内で蠢く舌が熱い。
ぐちゃぐちゃと響く音がうるさい。
上手く息ができなくてどうしようもなく苦しい。
生理的な涙を流しながら、我妻くんの動きに翻弄されていく。
しかしそんな状況下にいても、私は彼の意図になんとなく気づけたような気がしていた。
おそらく彼は私の唾液を啜ろうとしているのだ。
どうしてそんなことをするのかというところは、まったく見当もつかなかったけれど。

「はぁっ……」

色気も何もない捕食のようなキスが終わると、我妻くんの拘束も解け、私はその場にへたり込んだ。
荒くなった息をどうにか整え、酸素を肺に満たしていく。

キスというものがこんなにも息苦しい行為だったなんて知らなかった。
テレビドラマや少女漫画で見ていたようなロマンチックで心がときめくものとは違う、まるで嵐が過ぎ去るのを待つような時間だった。
もしかしたらただ単純に私が経験不足で下手くそだったせいかもしれないけれど、それでも想像していた甘さなんてひとかけらもなかったことに、私はただただ驚いていた。

いまだ呆然としつつ、濡れた口元を手の甲で拭う。
それからちらと視線を上げると、その先で惚けたように虚ろにしている瞳が見えた。
彼の目はいつの間にか元のブラウンに戻っていて、私と目が合うなり数度瞬きをした。
そして我に返ったように目を見張ると、額を床にぶつけそうなほどに勢いよく頭を下げたのだった。

「わっ、悪い……!」

「あが、つまくん……?」

「いや、謝って済むようなことじゃないよな。なんというか腹が減ってて……って違っ、そうじゃなくて、その……。ああクソッ、とにかく本当に悪かった」

前髪を乱雑に掻きながら、我妻くんが声にならない声で唸る。
どうやらあからさまに気が動転してしまっているらしい。
こういうとき自分より混乱している人を見ると、やけに落ち着けてしまうのはなぜなのだろう。
バツが悪そうに顔を顰める我妻くんを見て、そんな表情もできるのだなと、私はどこか感慨深い気分になった。

「あの、我妻くん、落ち着いて。どうしたの? すごく体調が悪そうだったけど大丈夫?」

「ああ、もう平気だ」

「そっか。それならよかった」

本人の言うとおり、先ほどまでの姿がまるで嘘のように、今の我妻くんはピンピンとしていた。
むしろいつもよりも血色がよく見えるくらいで、どうやら本当に体調は持ち直したらしい。

「その、さっきね、我妻くんの目が金色に見えたんだけど……」

無事を確認したところで核心をつく質問をすると、我妻くんは少し肩を揺らしてから、小さく舌打ちした。
おそらく自分自身に対して苛立っているのだろう。
ふいに強い眼差しで探るように顔を見つめられ、私も負けじと我妻くんを見つめ返す。
するとそのうち諦めたようにため息を吐いた彼は、重たそうな口をやっと開いてくれた。

「登校に時間がかかったから、手持ちの食い物がなくなっちまって。コンビニに寄るより購買部に行く方が早いと思ってここまで来たけど、飢餓感で急に動けなくなったんだ」

「えっと、お腹が空くとあんなふうになるの?」

「ああ。夢魔なんだよ、俺」

「夢魔って……?」

「人間の体液を啜って、そこに含まれる精気を得ながら生きる悪魔のことだ。信じてほしいなんて言わないけどな」

我妻くんが自嘲するように笑うのを見て、私は言葉を失った。

――人間の体液を啜って、そこに含まれる精気を得ながら生きる悪魔。

そんな非現実的なものを、すぐさま信じられるわけがない。
けれど先ほどの事象を説明するには、あれこれ論理的な話をされるよりも、彼が人間ではないと言われた方が素直に納得できると思った。
我妻くん曰く、彼の遠い祖先が本物の夢魔で、彼自身は人間との混血らしい。
そのため幼いころは普通の人間として生活をしていたものの、思春期になったくらいから夢魔としての(さが)があらわになってきたのだそうだ。
普段は精気ではなく人間と同じものを食べて生きているけれど、夢魔が人間の食糧で栄養を摂るのはとても効率が悪く、四六時中何かを食べていなければ先ほどのような猛烈な飢餓感に襲われるのだという。
我妻くんがいつもたくさんごはんを食べているのに、まさかそんな理由があっただなんて。

「何度も言うけど、本当に悪かったよ。飢えすぎて無意識にあんたに手を出した」

「そっかぁ。災難だったね」

「のん気な返答だな。災難だったのはあんたの方だろ」

我妻くんが呆れたように眉根を寄せる。
たしかにあれは驚いたし苦しかったけれど、そこまで嫌悪感があったわけでもないし、私としては繰り返し謝ってもらうことでもないというのが本音だった。

「それはそうと、どうして普段からその精気っていうやつを喰べないの? いつも精気を摂取していれば、そんなふうにお腹が空いて苦しむこともないんでしょう?」

そもそも日常的に精気を得ていれば、彼の抱える問題はすべて解決できるはずなのだ。
それを頑なにしないのは、いったいなぜなのだろう。
話を聞いた上で当然のごとく感じた疑問を、率直に我妻くんへぶつける。
すると私の疑問を受け止めた彼は、鋭い眼光で私を射すくめた。

「もしもあんたが夢魔だったとしたらどうだ」

「えっ……?」

「腹が減ったら、好きでもない人間の体液すら啜りたくなるんだぞ? そんなの気持ち悪いだろ。俺はそんな浅ましい生き方はしたくない。昔のように、普通の人間として生きていたいんだよ」

それを聞いて、私はやっと彼の境遇の難しさに気づくことができていた。
毎日毎日お腹が減るたびに他人の体液を啜りたくなるなんて、人間としてのプライドがあるならばとても苦痛なことに違いない。
それにこれからも穏やかに生きていきたいのであれば、人ならざる者であるということを周囲に気づかれるわけにもいかないはずだ。

おそらく彼は夢魔として目覚めてから、ずっと苦しんできたのだろう。
そんなこと、少し考えれば分かるはずなのに、私はなんて浅はかな質問をしてしまったのか。
あまりにも軽率だった振る舞いを反省していると、我妻くんはまたもや自分を嘲るように笑った。

「まぁ、それで他人を襲うようじゃ世話ないけどな。あんたに迷惑をかけて、改めてこの生き方には無理があるんだって分かったよ」

我妻くんの瞳が悔しさを隠しきれないほどに揺れる。
心の底から夢魔としての本性を嫌悪しているのに、夢魔として生きていかなければならない。
他人事ながら、本当に難しい問題だ。
それなら偶然彼の秘密を知り得た私に、何かできることはないだろうか。
そう考えて、思いつくのはひとつだけだった。

「……ねぇ、我妻くん。私が我妻くんに精気を分けてあげようか」

「はぁ!?」

「もちろんこのことは誰にも言わないし、我妻くんが私でよければの話だけど」

小首を傾げながら、おそるおそる提案する。

これからも精気の摂取を拒否し続ければ、今日と同じことが再び起こってしまうかもしれない。
そのときがちょうど周囲にたくさんの人間がいるタイミングであったら、ちょっとした騒ぎでは済まないだろう。
ならば少し我慢をして、彼の正体を知った私から精気を摂取すれば、そんな最悪の事態だけは回避できるのではないかと考えたのだ。
するとまさかそんなことを言われるとは思っていなかったらしい我妻くんが、あからさまに目を剥いてこちらを見た。
驚きすぎたのか、なかなか声が出せないようで、唇だけがわなわなと震えている。

「……かっ、軽々しく言うなよ! それがどういうことなのか、あんたも分からないわけじゃないだろ!?」

「もちろん、ちゃんと分かってるよ」

「だったらなおさらタチが悪いな。興味本位かお人好しかは知らないが、安易に近づいてこようとするな。自分の身を滅ぼすだけだぞ」

ドスの利いた声で我妻くんが脅してくる。
しかし私はちっとも怖くはなかった。
もちろん彼の拒絶には、人間から精気を得ることへの嫌悪感が一番にあるのだろう。
けれどぶっきらぼうな物言いの中には、こちらへの気遣いもたしかに含まれていたのだ。

彼の優しさに気づいて確信する。
思っていたとおり、この人は悪い人ではないのだ。
やっぱり私、我妻くんと仲良くなりたい。
もっと彼のことをたくさん知りたい。

「あのね。私、好きな人がいるんだ」

続けて私がそう言うと、我妻くんは余計にわけが分からないとでも言いたげに頭を抱えながら項垂れた。
おかげで初めて見ることができた彼の旋毛に向かって、にっこりと微笑みかける。

「だけどその人はね、絶対私に振り向いてくれない人なの。それでも私は一生その人しか好きになれないと思うから、誰とキスをしたってどうでもいいし、それで我妻くんの役に立てるなら別に構わないよ」

私が大手を振って協力できる理由を話すと、我妻くんはおずおずと顔を上げた。
その表情には、ほんのわずかに期待の色も見える。
どうやら彼は今、人間の理性と夢魔の欲望というふたつの狭間で揺れているらしい。

「……あんたには関係ないことだ」

「もしもまたお腹が減って、別の人に同じことをしたらどうするの? そうならないためにも、やっぱり日常的に精気を摂取してた方がいいと思わない?」

「だからあんたには関係ない」

「ふぅん。そんなこと言うんだ」

けっこう強情な我妻くんに業を煮やして腕を組む。
ここまできたら奥の手を使うしかないだろうと、私は不敵に笑った。

「あーあ、私、あれがファーストキスだったのになぁ。それをあんなふうに奪われて、この先トラウマになっちゃうかも」

「ぐっ……」

「そう言えばさっき、我妻くんに倒されて背中も打ったんだった。あれは痛かったなぁ。痣になってるんじゃないかなぁ」

わざとらしく悲しい顔をしながら、良心が痛むような言い方をする。
おそらくだけれど、彼は見た目に反して人がいいところがあるのだ。
こんなふうに責められれば、きっと折れてくれるに違いない。
案の定、精神的に追い詰められた様子の我妻くんは、「クソッ……!」と悪態をついてからこちらを睨んだ。

「分かったよ。本当にいいんだな!?」

「うん、もちろん!」

私の目論見どおりに事が運び、してやったりとほくそ笑む。
そのまま上機嫌で立ち上がり、床についてしまっていたスカートを払っていると、我妻くんが何かを言いたげに私を見下ろした。

「どうしたの?」

「あんたの願いはなんだ」

「へっ?」

「これ以上、貸しばかりつくりたくない。俺にできることならなんでも叶えるから言え」