冬の日は晴れるほど寒い。高気圧の影響でどうとかいう理由なのだろうが、理由が分かったところで人間にできることなどあまりない。せいぜい制服の下にセーターを着込み、下着も冬仕様の化学繊維を選んで、毛糸のマフラーを首が締まるほど巻きつけて出かけるしかない。
「さっむ」
溶けかかって黒ずんだ雪の上をローファーで踏んでしまう。水っぽいシャーベットにスプーンを差したときみたいな「ズズッ」という感触の後、数秒の時間差をおいて足に冷たさが滲んできた。
「うっへぇ」
言葉にならない苛立ちと絶望感と諦めが同時に襲ってくるが、それすらも振り切るように足を動かすしかない。こんなに底冷えするのも、数十年に一度の寒波とかいうやつと、まだ年が変わる前なのに降った雪のせいだ。
それにしても、制服ってどうしてこんなに寒いのだろう。やたら分厚くて重い生地を使っているのに、保温性の欠片も感じられない。冬休みだというのに、学校に来るなら制服着用なんて、学生はなんとも面倒な身分である。
「っくしょい!」
豪快なくしゃみを響かせたところで、ようやく目の前に目的の文字が見えてきた。
「立ち入り禁止」
俺は初めて、その警告をまたぐ。
ここは俺の通う朝霧学園高校、かなり歴史ある私立校である。実際レンガ造りの風格ある校舎やら、現代の学校には必要ない庭園にテラスやら温室やらが残っていて、見た目だけなら上品なセーラー服のお嬢様が校門に一礼して出入りしていそうな雰囲気がある。が、あくまでも雰囲気だけだ。現実として通っているのはブレザーを着崩した現代っ子たちだし、優雅な庭園は三角コーンとチェーンの規制線で立ち入り禁止になっている。時代と共に生徒のサボりスポットになってしまったあげく、喫煙する不良まで確認されたためだという。もう何十年も前の話らしいから、結局は噂だけども。
俺がその規制線をまたいで侵入したのは、温室を見たかったからだ。庭園エリアは毎年文化祭などの学校行事の際だけ解放されることになっていたが、去年起こった「事故」のせいで、今年はずっと立ち入り禁止になっていた。入学して九か月、結局足を踏み入れる機会も無かったのである。
小径を辿って着いたのは、吹きさらしの生垣と花壇。寒々しい外の土壌に植わっているのはパンジーだろうか。そしてそこに隣接するのが、一軒家ほどもあろうかという大きな温室だった。ガラスを隔てた向こうでは季節が反転したかのように色彩が溢れている。ガラス壁には全体的に薄っすらとムラのある汚れが付き、場所によっては気温差で曇ってもいたが、中で繁る緑や赤やピンクは隠れようもない。
今の俺には中に入る以外の選択肢はなかった。その景色に惹かれたのも多少あるが、それどころではない。頭の中は『暖かそう』の一言に支配されていた。
「お邪魔しまーす」
どうせ誰もいないだろうが、念のため。
中は予想通りに温かくて、ジメっとした重い湿度と植物の匂いを感じた。夏の雨上がりを思い出す空気だ。迷路みたいに緑の壁、もとい生垣が無数にそびえ立って視界を塞いでいる。
見える範囲に咲いているのはほとんどが薔薇だった。それも赤とか白とかよく見る色じゃない。黄色い花の縁取りだけ赤かったり、マーブルだったり、グラデーションだったり、八重咲だったり、黒だったり。変わった見た目のものばかりだった。
「研究所かよ」
ふと、ちょうど目の高さに咲いていた満開の一輪が目に入る。八重咲の重そうな花で、藤みたいな薄紫色だった。吸い寄せられるように伸びた俺の手が枝を折る。
そこに呑気な声がかかった。
「あ、泥棒」
「ひっ!」
生垣の間から同じ制服を着た生徒が顔を出していた。クラスは違うが、この顔は知っている。
「二組の王子じゃん」
「それ、真正面から言ってくる人なかなかいないよ」
王子というのは彼、大葉正吾の陰で呼ばれているあだ名。成績優秀、品行方正、顔が良いとかの少女漫画みたいな人物像も理由なんだろうが、それ以前に大葉は理事長の孫なのである。正真正銘この学校の王子様ということだ。俺だったら迷わず別の学校選ぶけどな。
その大葉はシャツの袖をまくり、ネクタイも外した姿で重そうな袋を肩に担いでいた。全身が土だらけである。
「君、誰だっけ。えーと、顔は見たことある気がするんだけど」
「四組の松下一紀」
「あ、そうそう!」
「絶対覚えてねぇだろ」
まあ、いいや。人がいるならさっさとお暇するとしよう。
「じゃあな」
「ちょっと待ってよ、花泥棒」
「ちっ。覚えてやがった」
追及される前に逃げようと思ったのに。
「そもそも、ここ立ち入り禁止だよね。侵入者」
「自分だって入ってんじゃん」
「俺は許可とってるから」
どうせ理事長の特許だろうな。
「で、花返せばいいのか? それとも警察突き出されりゃいいの」
「どっちも意味無いな」
「何がしたいんだよ!」
なんだかイライラしてきた。その元凶である大葉はまだ結論を言う気はないらしい。
「何か目的があってきたんじゃないの。冬休みに、わざわざチェーン乗り越えてさ」
「別に、ちょっと見に来ただけ。ついでに寒かったし」
「分かる。ここ、あったかいもんね」
荷運びしている様子はむしろ暑そうだった。
「その花あげるからさ、ちょっと手伝ってくんない。ここの整理を二週間」
「拘束期間、長っ! そもそもお前の所有物じゃないだろ」
「二週間は出入り自由のフリーパスだよ。理由を付けて家の大掃除から逃げられるし、何なら宿題手伝ってあげてもいいし」
ちょっと心動かされているが、何だろう。この誘惑は何かが危険な気がする。
「嫌なら通報……」
「ああ、はいはい!」
こうして何が何だか分からないうちに、俺は王子にこき使われることになったのである。
「さっむ」
溶けかかって黒ずんだ雪の上をローファーで踏んでしまう。水っぽいシャーベットにスプーンを差したときみたいな「ズズッ」という感触の後、数秒の時間差をおいて足に冷たさが滲んできた。
「うっへぇ」
言葉にならない苛立ちと絶望感と諦めが同時に襲ってくるが、それすらも振り切るように足を動かすしかない。こんなに底冷えするのも、数十年に一度の寒波とかいうやつと、まだ年が変わる前なのに降った雪のせいだ。
それにしても、制服ってどうしてこんなに寒いのだろう。やたら分厚くて重い生地を使っているのに、保温性の欠片も感じられない。冬休みだというのに、学校に来るなら制服着用なんて、学生はなんとも面倒な身分である。
「っくしょい!」
豪快なくしゃみを響かせたところで、ようやく目の前に目的の文字が見えてきた。
「立ち入り禁止」
俺は初めて、その警告をまたぐ。
ここは俺の通う朝霧学園高校、かなり歴史ある私立校である。実際レンガ造りの風格ある校舎やら、現代の学校には必要ない庭園にテラスやら温室やらが残っていて、見た目だけなら上品なセーラー服のお嬢様が校門に一礼して出入りしていそうな雰囲気がある。が、あくまでも雰囲気だけだ。現実として通っているのはブレザーを着崩した現代っ子たちだし、優雅な庭園は三角コーンとチェーンの規制線で立ち入り禁止になっている。時代と共に生徒のサボりスポットになってしまったあげく、喫煙する不良まで確認されたためだという。もう何十年も前の話らしいから、結局は噂だけども。
俺がその規制線をまたいで侵入したのは、温室を見たかったからだ。庭園エリアは毎年文化祭などの学校行事の際だけ解放されることになっていたが、去年起こった「事故」のせいで、今年はずっと立ち入り禁止になっていた。入学して九か月、結局足を踏み入れる機会も無かったのである。
小径を辿って着いたのは、吹きさらしの生垣と花壇。寒々しい外の土壌に植わっているのはパンジーだろうか。そしてそこに隣接するのが、一軒家ほどもあろうかという大きな温室だった。ガラスを隔てた向こうでは季節が反転したかのように色彩が溢れている。ガラス壁には全体的に薄っすらとムラのある汚れが付き、場所によっては気温差で曇ってもいたが、中で繁る緑や赤やピンクは隠れようもない。
今の俺には中に入る以外の選択肢はなかった。その景色に惹かれたのも多少あるが、それどころではない。頭の中は『暖かそう』の一言に支配されていた。
「お邪魔しまーす」
どうせ誰もいないだろうが、念のため。
中は予想通りに温かくて、ジメっとした重い湿度と植物の匂いを感じた。夏の雨上がりを思い出す空気だ。迷路みたいに緑の壁、もとい生垣が無数にそびえ立って視界を塞いでいる。
見える範囲に咲いているのはほとんどが薔薇だった。それも赤とか白とかよく見る色じゃない。黄色い花の縁取りだけ赤かったり、マーブルだったり、グラデーションだったり、八重咲だったり、黒だったり。変わった見た目のものばかりだった。
「研究所かよ」
ふと、ちょうど目の高さに咲いていた満開の一輪が目に入る。八重咲の重そうな花で、藤みたいな薄紫色だった。吸い寄せられるように伸びた俺の手が枝を折る。
そこに呑気な声がかかった。
「あ、泥棒」
「ひっ!」
生垣の間から同じ制服を着た生徒が顔を出していた。クラスは違うが、この顔は知っている。
「二組の王子じゃん」
「それ、真正面から言ってくる人なかなかいないよ」
王子というのは彼、大葉正吾の陰で呼ばれているあだ名。成績優秀、品行方正、顔が良いとかの少女漫画みたいな人物像も理由なんだろうが、それ以前に大葉は理事長の孫なのである。正真正銘この学校の王子様ということだ。俺だったら迷わず別の学校選ぶけどな。
その大葉はシャツの袖をまくり、ネクタイも外した姿で重そうな袋を肩に担いでいた。全身が土だらけである。
「君、誰だっけ。えーと、顔は見たことある気がするんだけど」
「四組の松下一紀」
「あ、そうそう!」
「絶対覚えてねぇだろ」
まあ、いいや。人がいるならさっさとお暇するとしよう。
「じゃあな」
「ちょっと待ってよ、花泥棒」
「ちっ。覚えてやがった」
追及される前に逃げようと思ったのに。
「そもそも、ここ立ち入り禁止だよね。侵入者」
「自分だって入ってんじゃん」
「俺は許可とってるから」
どうせ理事長の特許だろうな。
「で、花返せばいいのか? それとも警察突き出されりゃいいの」
「どっちも意味無いな」
「何がしたいんだよ!」
なんだかイライラしてきた。その元凶である大葉はまだ結論を言う気はないらしい。
「何か目的があってきたんじゃないの。冬休みに、わざわざチェーン乗り越えてさ」
「別に、ちょっと見に来ただけ。ついでに寒かったし」
「分かる。ここ、あったかいもんね」
荷運びしている様子はむしろ暑そうだった。
「その花あげるからさ、ちょっと手伝ってくんない。ここの整理を二週間」
「拘束期間、長っ! そもそもお前の所有物じゃないだろ」
「二週間は出入り自由のフリーパスだよ。理由を付けて家の大掃除から逃げられるし、何なら宿題手伝ってあげてもいいし」
ちょっと心動かされているが、何だろう。この誘惑は何かが危険な気がする。
「嫌なら通報……」
「ああ、はいはい!」
こうして何が何だか分からないうちに、俺は王子にこき使われることになったのである。