いつも通りの時間に登校してきた同級生の様子が変だった。顔面をうっすら青く染め、他の奴らの挨拶にも反応せず。どうしたんだよ、と誰かが尋ねる前に開口一番こう言った。
「昨日の帰り……吉成んとこにお見舞い行って。元気だった。話し方とかもいつも通りで。でもそろそろ帰るわってときに、あいつ急に……カナちゃん最近来てくんない、とか言い出して……」
ザワッ、と一斉に小さな悲鳴や驚きの声で場が沸いて、瞬時に凪いだ。そして揺り戻しが来たかのようにめいめいが思うまま発言し、不穏な言葉を投げ合っていた。『ヤバくない?』『治ってないんじゃ』『カナちゃんて、去年さあ』。
教室の一角に落とされた不安の波紋は瞬く間に広がっていた。それは席について硬直していた俺の胸元まで到達し、本当に波に攫われたときのような揺れとして感じられた。いやに生々しい感触だった。
棒立ちしている男子たちは、俺と同じように固まっている。女子のひとりが突然泣き出し、顔を覆って俯いた。同じように動揺していた周りの女子たちが彼女の異変を察知し、背中をさすり慰めていた。
事の詳細を知りたかったが、集まるタイミングを逃してしまい立ち上がれない。事情をよく知らないであろう者たちは個々で集まり、噂話に勤しんでいた。動揺と不安の集団感染で起こってしまった喧騒は、担任教師が入室してくるそのときまで収まらず、皆が囀り続けるばかりだった。
バスケの試合で頭を強打し、救急搬送された吉成は現在も入院中だ。観覧席で一部始終を見ていた俺たちはあのときも、今のような恐慌状態に陥ったことを覚えている。事故の再現で使われるようなのっぺらぼう人形のごとく、体育館の床をめがけて思いきり倒れた吉成の姿。きっと一生忘れられない。くっきりと焼きついていて消えやしない。
でも吉成は今も生きている。怪我が治ればすぐに帰ってくるだろう。そんな俺たちの期待はあっさり裏切られる形になった。記憶の混濁が見られた吉成は精密検査やら何やらのため、俺たちが予想していた以上に入院期間が長引いたのだ。
面会謝絶が解禁され、みんなで会いに行ったときのこと。話自体にはきちんと反応してはいたが、それが限界である様子だった。特に顕著だったのは話者の名前や、いま話題にしている者がどこのクラスの誰のことなのかがいまいちピンとこないようだったこと。みんな明るく和やかな空気を作って話しながら、実は全員が大小辛いものを感じていたと思う。
しかし退院予定日が近づくにつれて、その明瞭としない奴の記憶は徐々に回復を遂げてゆき、人の顔の見分けから名前までもを無事に思い出せてきたようだった。
この辺の事情はほとんど伝聞である。俺は奴とは異なる部活をサボり毎日会いに行ってはいたのだが、家庭の事情でしばらく足を運ぶことができなくなった。そのわずかな期間で、こんなに大変なことになっていたなんて。だって、吉成の彼女であった『カナちゃん』は、もうとっくに。
——————
「お前どこ中だった? へー、知らん。オレは美浜中。知らないか。ふーん。クラスに知り合い何人いる? ひとりもいないの? えー、オレも!」
ドキドキとうるさい心音を必死で感じぬふりをして決死の覚悟で話しかけたが、当の吉成は予想外に気さくな態度で接してくれて拍子抜けをした。入学式の当日に見かけたときは気だるい空気を纏っていて、誰とも仲良くする気はないです、とでも言いたげな印象を持っていたからだ。後日にその理由を尋ねたら『眠かっただけ』と言っていたが。
たとえ卒業の日まで誰とも親しくならずとも、あいつはそういう奴だから、という気遣いをしてもらえそうな雰囲気を外見から漂わせていた。後ろ頭をざっくり刈り上げ、その他の髪は長めに下ろしたファッション性のある髪型。美容室で一体どう注文していくら払えばそうなれるのか、そこからして全然わからない俺からすると奴はカッコいい、という賞賛に値する男だった。
しかし態度や年齢からしてベテランであろう我らが担任教師から見れば、俺たちなどは幼子同然であるらしい。吉成は初日から早速彼に『お前、それで前見えてんのかよ。顔が全然見えねえだろが。切れ切れ』と、注意されていた。
返事は一応していたようだが声まではこちらに届かず、また教師も奴に構いすぎず、意識をすぐに別の方向へと変えていた。よくある教師と生徒の光景。翌日になれば言った当人であれど忘れてしまいそうな軽い指摘を、しっかり聞き入れ改善してきたことに気づいたときは、あまりの素直さに感動を覚えて思わず話しかけに行ってしまった。
「……あのさ。髪ってどこで切ってんの? 街の方とかにある美容室?」
「ん? うちはオカンが美容師だからオカンの店で。ていうかあの人ソフトモヒカン大好きだからさー、バリカン持って来られっとハラハラすんの。あっ、とか言ってミスったフリして前髪バイバイとかマジ有りうるし」
「ふっ、バイバイウケる。オカンって大体そんなもんよ。俺さ、痛くなくなるおまじないするよー、つって抜けかけの歯に糸巻かれて、強制乳歯バイバイされたことある」
「ひー、つら。同情を禁じ得ない。オカン残酷エピソードじゃん」
「大丈夫、髪は切られても痛くない」
「痛いわハートが。しばらく凹むわ。あっ、オレ吉成湊。以後よろしくー」
このときが一番ハラハラしていたと、かえすがえすもそう思う。緊張のあまり不適切な表現をペラッと使ってしまわないか、言葉に詰まって話のリズムを狂わせてしまわないか、そんなことばかりを考えながらも会話を成立させていたのだ。
当然であるが不慣れな環境で頭を高速回転させ続けたその日は帰宅後に、制服を着たままでこんこんと寝入ってしまった。翌日に目覚めたときは今日が土曜で良かったと胸を撫で下ろしたが、その安堵は軽い発熱症状となって噴出し、結局ずっと横になることしかできなかった。
月曜にまた登校するのが楽しみなような、不安なような。そんな考えの虜となって朝食もろくに食べられず、俺は朝から情緒を乱していた。『あんたそんな繊細タイプだっけ』と母にからかわれながら家を出て、バスに揺られて小一時間。
教室でまた吉成の顔を見たときは、ああ俺は性懲りもなく、と内心己に呆れながらも笑顔を作った。先週と雰囲気が違うなんて思われないよう、懸命に笑っていた。
——————
見舞いに行くのは久しぶりのことだ。俺は気楽な文系部活を気軽にサボり、吉成が入院している大きな病院へ向かっていった。最近まで面会すらできなかったせいか、そこそこの広さを確保してある個室で奴は過ごしている。
何度も見たクリーム色の扉をしばらく眺め、よし、と覚悟を決めてノックをし『どうぞー』という返事を聞いてから息を吸って吐き、取っ手を握って横に引いた。
後ろ手で扉を閉めながら見た吉成の表情は、想像以上に明るかった。パッと華やぎ嬉しそうで、正直なところじっくり見たいがやめておこうと思うくらいには甘い笑顔を俺に真っ直ぐ届けてくれた。
少し痩せてしまったような気がする。前も同じことを思ったけれど。『病院食飽きたー』と言っていたから、あまり食べられていないのかもしれない。
「ごめん、久しぶり。うちさ……」
「すげー久しぶり! 最近全然来ないからら、飽きられたのかと思った!」
「いやいや、飽きたりしないから。最近さ、俺の父方の——」
「えー? だってオレ、頭これじゃんか。縫うためにがっつり剃られちゃってさー。めっちゃ似合わんかっこわる、って醒められたかと思って」
「? いや、別にカッコ悪くはないけど。ていうか元が良い——」
「遠い遠い。説得力がない。ほらー、嫌じゃないならこっちおいでー。今の時間帯なら誰も来ないから!」
——こっちおいで?
俺が入室してからずっとニコニコと上機嫌である吉成は、まるで子どもか何かに語りかけるような優しい口調で側へ寄れ、と誘ってきた。
奇妙なような面映いような気分で目線をあちこちにやってしまったが、なにか面白い話なんかを聞かせたいのだろうかと考えつき、丸椅子を片手に側へと寄った。しかし、吉成が言う『こっち』とは、白い手すりがついたベッドの真横のことではなかった。
相変わらずニコニコとしながら、ベッドの上をポンポンと何度も叩いているのだ。しかもわざわざ自分は少し移動して、座らせるための空間を作ってまで。まさかそこへ座れと? 俺が? いやいや、変だろう。なんでだよ。距離感がちょっとおかしいぞ。
吉成は変な顔をしていたであろう俺を見て『早くー』と急かしてきた。真っ白なシーツの上で、奴の手のひらが忙しなく羽ばたいている。
そこへ自分が座ったときの光景を先に想像し、顔に血が集まる気配を感じて俺は大いに焦ってしまった。頭の中を即座に検索した結果、なるべく別のことを考えれば良いと思いつき、今日習ったばかりの数式を思い浮かべながら恐る恐る腰掛けてみた。
「なに……あ!? えっ!? なんでっ、吉成! なんだよマジで!」
「今日さー、なんかよそよそしくない? やっぱり引いてんでしょ。この頭。ショック〜〜」
「だから引いてないって、あ、ちょっ! なあっ……」
「ねー、なんで湊って呼んでくんないの。さびしーなー。ほんとにお別れ言いに来たんじゃないんだよね?」
……せっかく、せっかく赤面せぬよう頑張ったのに。何もかもが水の泡である。吉成の野郎は迷いなく俺の上半身を両手で抱きしめ引き寄せて、み、密着し、さらに、耳にキスまで落としてきやがった。
これでどうやって平静を保てというのだ。無理だそんなの。絶対無理。しかもこいつ、まさかとは思うが、俺の唇を奪おうとしているのではないか。顔が近い。焦点が合わなくなるくらいにグイグイと近づいてくる。
顔が熱い。身体も熱い。汗がドッと吹き出してきた、バレたくない。無言で狙いを定めている気配が濃くなってきたのを感じた俺は、必死で首をひねってねじって回避した。それでなんとか避けたつもりだった。
「あ、ちょ……! 離してっ……!」
「イヤでーす」
「誰か来るって……! 見られるから……!!」
「来ませーん」
顔だけに集中していたせいで、剥き出しの首には意識を全く向けていなかった。まんまと噛んでしゃぶるような行為を許したせいで、あらぬ所が準備を開始する。汗なんかはまだ気付かれたって良い方だ。でもここだけは絶対にいけない。俺の尊厳と、今後の関係性にヒビが入る。
湿った舌の柔らかさ。奴の粘膜から浸透してくる温かさ。太い動脈を埋め込んだ俺の首筋へと直接に。耳元で弾けるリップ音。目を閉じていても形がわかるくらいに押し付けられた、奴の顔面の造形すべて。思っていたよりずっと強かった、男の腕力の怖さと迫力。
騒いでしまえば人が来る。でも振り解いてしまえばきっと次はない。次を期待していることも絶対知られたくないが、期待してしまったことは己の欲望から発生したものであり、事実であるからして曲げられない。それはすでに俺の記憶媒体へ刻まれた。上書きなど不可能である。
どうしよう。どうすればやめてくれるのか。やめて欲しくはないけど駄目だから。別に駄目なことじゃないはずだけど、とにかく駄目だ。ほんとは良いけど、絶対駄目。このままでいたいとほんとは思うけど。
「ここじゃダメ?」
「えっ……えっ!? なにが!?」
「ちょっとだけ」
「だから……!! なにが!!」
「もー。せめてチューしたーい」
「……!! ダメ……!!」
甘えるような口調でこれ以上を求める台詞をさらりと吐かれ、思わずギョッとして顔だけ振り向いた。するとチャンスとばかりに奴の手が俺の顎や頬を掴んできて、一度死守したはずの唇は奪われた。
キスがどういうものなのか、今までずっと知らないままで生きてきた。服で隠れる箇所は自分で触れても、ひとりでは絶対できない行為だからだ。情けないがこれをどう受け止めて、どう構えていれば良いかもわからず、ずっと目を閉じ硬直していたような気がする。
なのに侵食された口の中だけは、奴の舌と体温で溶かされてゆく心地がした。常に空洞であったはずの口腔内は、どこからが俺でどこまでが俺じゃないのか判別がつかなくなっていた。味なんかなにも感じないはずなのに、柔らかくて優しい甘さのものをたっぷりと与えられたような恍惚感で頭の芯から痺れがきて、背中の軸がゆるみ、腰がわずかに抜けてしまった。
股間だけは元気に硬直していたが。触られることを今か今かと期待して。座っているため、そいつを隠してくれる衣服は上下左右へと引っ張られている。余裕と遊びを失くした布地は中の膨張を抑え込むことしかせずに、誰にも構ってもらえない器官は痛い痛いとひとり虚しく叫んでいた。
「……ねえ、カナちゃん。なんでしばらく来てくんなかったわけ? 忙しかった? いつも遅くまでいたからお父さんとかに叱られた?」
「…………え…………?」
その一言を耳にして、意味をしっかり理解できたその瞬間、混乱と等量であった夢心地気分は瞬時にどこかへ消し飛んだ。一年生のときに同じクラスであった、あの同級生の台詞を思い出す。
——カナちゃん最近来てくんない、とか言い出して——
間違えているなんてものじゃない。吉成は完全に、俺をかつての彼女だと認識していたのだ。顔など全く似ておらず、体格もまるで違う、そもそも性別が異なる相手を『彼女』だと。
全身がゾワリと総毛立った。俺を至近距離から見ているはずの目に、俺は最初から映っていなかったのだ。本人は『カナちゃん』を見ている。本気でそう認識している。
しかし本当のことを言ってしまえば、こいつは一体どうなるか。素人の俺ではまるで予想がつかない。パニックを起こしてしまうのではないか。そして自分のやったことを思い返し、なぜお前がいるのだ、と突き飛ばされるのではないか。
『カナちゃん』はどこにいる、なんて聞かれたら。どう答えるのが正しいか。馬鹿正直にこの場で教えてしまえば、せっかく身体が回復したのに生きる気力を失うのでは。
急に飛び退るように身体を離した俺を見つめている吉成は、怪訝な顔というよりも心から心配している、という表情を浮かべ黙っていた。全て『カナちゃん』に向けた感情だ。その温かいものを俺が代わりに受け取ったとしても、かつての彼女には渡してあげられない。
彼女の姿は覚えているが、口調や人となりまではよく知らない。それでもなんとか話を合わせる努力をした。笑える気分では一切なかったのだが笑顔を作り、お父さんが心配するからと嘘をつき、子どものように手を振りながら病室を出た。
帰り道は歩くだけで精一杯だった。一度涙腺を決壊させてしまえば、その場に蹲って立てなくなるのは明白だから。
道端で泣きわめく子どもになることもなく無事に帰宅し、夕食を食べ、風呂に浸かって脚を伸ばした。泣きたい気持ちはまだあるが、いざひとりの時間を手に入れてみると涙は不思議と出なかった。
温かい湯溜まりの中にいるはずなのに、いくら待っても気持ちは冷えたまま。そんな静かで暗い混沌の中に俺はいた。本来は俺が開けてはいけない他人宛てであるはずの、しかも秘密の贈り物を勝手に開け、身につけて使ってしまったような罪悪感が頭を洗えど身体を流せど、へばりついて落ちてくれない。
困ったことに贈り物の中身というのは、俺が一番切望していたものだった。頭では間違いだとわかっていても手放すにはあまりにも惜しい。このまま黙っていればバレないのでは、という悪魔の囁きの声を聞いた。
気持ちを返品するにしても、その理由としての適切な説明など俺にはできない。周りに相談するとしても、後で笑い話にできるようなことではないだろう。遺恨が残る可能性はある。かつての彼女へ贈る気持ちは全て、宛先不明で返ってきてしまう。受け取り先がないならば、俺が受け取ったって良いのでは。
受験を意識し始めて、自分のレベルと実力を再認識し、勉強時間を増やして増やして桜を咲かせた。しかしあの高校に入ることが真の目的というわけではなかった。単に家から距離があったから。費用を負担してくれる親への説得と、目下の現実逃避のためだけに設定した目標だった。
中学時代の連中を見ると嫌でも思い出してしまうからだ。あいつもこいつも嫌いだったわけじゃない。嫌なことを言われたりされたりした覚えもない。好きな奴ができるたびに己の性癖を隠して隠して隠し通して、孤独に陥り疲弊していた過去から逃げたかった。それだけだった。
入学式のとき見かけたあの瞬間から、あいつのそばに居るのが通う目的になった。俺はまた同じことを繰り返しているのではないか。相思相愛が確約されている道ではないのに。先は真っ暗闇なのに。嫌々でも繰り返して身につける努力の類は、単語や公式の暗記だけにしておきたかったのに。
——————
「もう夏休みかー。その前に退院できると思ったのに。明日やっと帰れるわ」
「頭のことだから仕方ないよ。後遺症がなかったのはラッキーだったね」
「でもさー、しばらくバスケ復帰しちゃダメだって。先生じゃなくて親に言われた。これからもっと暑くなるのに、あんな蒸し暑いとこで運動してたら血液ドロドロになって、まだ治りきってないとこに詰まるだろって。いや、治ったし!」
「心配なんだよ。察してあげよう。湊、しばらく意識なかったんだから」
あれを目の当たりにしておきながら、結局毎日のように病院へ通うことはやめられなかった。俺はまた誘われるがまま吉成のベッドに腰掛けて、回された腕から体温を分けてもらっている。
時折、俺の首筋に顔を埋めて話すものだから声の質感が届きすぎて、皮膚の下にある神経を音圧で刺激されたような感覚が走る。ビリビリとまではいかずとも、ジワリとゆっくり見えない手を制服の下に滑らせて、身体を弄られているような気がして正気を保つのが難しかった。
抱きしめている相手が緊急事態に陥っていることも知らずに話す吉成は、突然話題を俺のことへと変えてきた。ドキッとした。ここには『カナちゃん』しか存在しないはずで、演じているのは俺だから。
「——でさ、オレも一応大変な身だけどあいつも大変? らしくてさ。でも遺品整理ってそんな時間かかるもんなんかな。お父さんの実家がゴミ屋敷だったとか?」
「いや……そんなことは滅多にないでしょ」
「だよねー……なんかさ、気のせいかもしんないけどさ、ずっと避けられてる気がすんの。二年のクラスも別になっちゃったし、遊びに誘っても来てくんないし」
「人の彼女が一緒だと気を遣うから、行きたくなくなる人もいるんじゃない?」
「えー? そんな繊細な奴じゃないけどなー。ノリ良くて面白いからさ、カナちゃんにも紹介したいんだけど。多分友達になったのはさ、最初の数学の時間にさあ——」
入学式から間もなくして、数学の授業が始まった。若い教師がお決まりの挨拶を済ませたところに吉成が、ド定番の質問をぶん投げたのだ。
「せんせー! 彼女いますかー?」
にわかに教室内は沸き立った。そこそこ良い進学校とはいえど、俺たちが在籍しているのは本気で勉強に取りかかるための特進コースなどではなく、ごく普通の進学コースである。
苦しかった受験を終わらせ無事に入学し、みんな肩の力は抜けている。ドベの学校などではないので荒れる要素は少ないが、生徒が教師に対して発する軽口自体は時々見られていた。
その教師も若いとはいえど学校内の空気感は理解しているようで、特に嫌な顔もせず答えてくれた。
「いませーん。結婚してまーす」
「ええ!? そんな……!!」
「そっち!?」
教室内がドッと沸いた。吉成がかました絶望の演技に突っ込んだのは俺である。お前ソッチ系かよという意味と、ここで囃し立てるんじゃないんかいという意味と、女子かお前はという意味を全て詰め込んだ、自分で言うのもアレだと思うが会心の一言であった。
もちろん場を沸かせた手応えを感じていたので達成感は得られたが、吉成との繋がりがもっと欲しいという気持ちの方がより強く、その願いをひとつ叶えられたかもしれない、そんなことを考え悦に浸っていた。
なんというか、我ながらいじらしいと思う。アホだとも思う。勝手に抱いた希望の先へ行けたとしても、明るい未来なんて約束されていないのに。
「オレがボケたら拾ってくれんの。角度キツめな無理めのボケでも絶対拾ってくれるからすごい喋りやすい。いい奴でしょ。頭いいんだよ。理数系の成績とかもオレより若干上なのに、文系コースに行っちゃって。それ知ったときちょっと怒ったし。そんでそのあと、オレなんかしたかなーって考えた。……はずなんだけど、それも頭打って忘れたんかなー」
「……成績良くても、これ以上は無理だなとか、伸ばしても良いことなさそうとか思ったんでしょ。自分の実力は自分が一番わかってるから」
「えーでもさー、うーん……じゃあ怖いけど、聞いてみる。本人に。一回頭打ってんのを言い訳にして」
吉成はベッドの傍にある台の上に置かれたスマホを横目で見ながらそう言った。しまった、俺のスマホ。電源が入っている。マナーモードにはしているが、着信は全部わかってしまう。
それを知られてしまうと困るため、そろそろ帰ると伝えて身体の向きを変えようとした。すると回されていた腕の力が強くなり、無言で引き留められてしまった。
きつく叱るわけにもいかず、焦り始めた俺の気持ちなど知らない吉成は背中に顔を押し付けてきて『怖いなー』と、落とした声で呟いた。くぐもった声と、湿った息がくすぐったかった。
俺の両親は、階下にある店舗で飲食店を経営している。利便性の良い土地であり周囲に会社も多くあるため、基本的にはいつも忙しい。しかしどこかに所属し勤めているわけではないので、突発的なことへの調整が容易だという利点がある。
今回、父方の祖母が亡くなったことで発生した遺品整理や相続などをなるべく一気に済ませるため、しばらく店を閉めることになっていた。家に残された俺と妹は、普段できない店の清掃と家事を任され、まあまあ忙しい日々を送っていた。
しかしその状況がずっと続いていたわけではない。周囲の連中や吉成には言っていないだけで、そんなお家事情はとっくの昔に解決していた。何故か。俺が俺として、吉成の前に出られなかったからだ。
吉成は俺のことを『カナちゃん』だと思っている。記憶をほとんど取り戻した吉成の前にみんなと連れ立って行ってしまえば、当然ながら悲劇が起きる。もし完璧に間違った認識を正せたとして、ギリギリの線で面白黒歴史にはできるかもしれない。
でもそのオチをつけるからには『カナちゃん』にしていたような甘いやり取りはもう二度としてもらえない、という事実をしっかり腹に落とし込まねばならない。もしほんの少しでも未練を残してしまえば、関係性にヒビが入るどころではない。断絶する。中学のときに考えていた、最悪のシナリオを現実のものにしてしまう。
既読がつくと困るので、見ないようにしていたメッセージをようやく開けた。怖い、と言っていた様子は全く読み取れない、いつも通りの能天気な文書だった。
「オレお前に嫌なことしてたかも。でも頭打って忘れてるだろうから教えてー」
「別に嫌じゃない」
病院内でスマホを使えるのは限られた場所だけになっている。返信は翌日だろうと思っていたら、わりと早めに返ってきた。
「じゃあなんで一回も来てくんないのー。めっちゃ寂しー。もう夏休みだしうち来てよ」
「わかった」
喜びを示すスタンプが送られてきて、その日のやり取りは終了した。そういえば『カナちゃん』とのやり取りはどうしていたんだろう、既読すらつかないはずだが、と考えたのだがすぐやめた。
いまの吉成の認知は狂っている。俺も同じように狂っている。吉成の家族もクラスの同級生もみんな望んでいた完治なんて、俺にはどうでもいいからだ。
——————
「えっ、えっちょっ、待って! やめよう、やっぱやめよう!」
「やめようってなんだよー。傷つくなー」
「やめ、うっ…………! お、お友達! 来るんじゃないの!?」
「えー? 来ないよどうせ。あーあ、友達ひとり失ったー……」
「は、話し合えばいいじゃん、喧嘩したわけじゃないんでしょっ……! ねえ……!」
「話し合いってー、相手が応じてくんなかったら意味ないんよねー。はあ、ほんとになんかしたっけかー。記憶にない。ん? なんか今日の下着かっこいいなー」
俺はそのつもりで支度をして、そのつもりで訪問した。が、いざ本当にそういうことになってしまうと、妄想とはまるで違うリアリティに圧倒されて怖気付いたのだ。アホだなんだと笑うがよい。
背丈はそんなに変わらずとも、上に乗られてしまうとかなり大きく見えることを知った。興奮している相手というのは話が通じず、意志に向かって真っ直ぐ進んでゆくため説得が難しいことも今知った。生の人間と交わったことなどないが、意思のない無機物相手とは違い先に進んでしまうと、当然記憶を共有するため後戻りはできないことは知っていたつもりだった。
俺の身体を見て我に返る可能性だってちゃんと考えていた。もしそうなれば、それはそのときに考えようと思っていた。甘かった。事の重大さを舐めていた。
「なんだあ、もう濡れてんじゃん。挿れていい? 久しぶりすぎて既に限界」
「ま…………まっ……てっ……」
「あ、暑い? 冷房強くする? 顔すっごい赤いよ。汗かいてるし」
「だいじょ……いいっ、もう脱がさなくて
、いいからっ……」
「えっ? んー……それはそれでエロいな。じゃあ汚さないように気をつけよ」
「え、え、あ、よしな……じゃなっ、湊っ、みなと……!!」
自分で自分の欲を処理することには慣れていた。これで収まるのだから安いものだと。相手の機嫌や交際期間や雰囲気作り、そんな前段階を踏む必要もなく、気遣うための手数がない、手軽で良いものである。だから相手は別に生身の人間じゃなくても良い。全くもって構わないと。
しかし相手は人間、しかもずっとずっと好きだった人。性欲に感情を乗せた性交は、足し算ではなく掛け算となり処理し切れない数字の積となる。想像以上の感情量は飲み込む以前に溢れてしまい、酔わされて、他のことが考えられなくなる。これも今初めて知ったことだった。
目で確認することのできない弱い粘膜だらけの奥までは、自分の手を使ったときでも怖くてろくに進めなかった。浅いところだけを押して擦って、一時的に欲を満たしていたのだ。
その見えず光も届かぬ狭くて暗い場所に、熱くて硬い自分と形の違うものが、己の意思とは別の動きと速さをもって侵入する。慣らしたはずの肉壁は思った以上に広げられ、鈍い痛みがわずかに走った。少し焦ったが、その痛みすらも良いものだと勘違いしてしまうくらい、今まで到達したことのない奥の奥を硬い肉で押しつけるように擦られ続ける快感は、病室でのキスと比べて何十倍も気持ち良かった。
こんなことは好きでなければ、また信頼していなければ、到底受け入れられないことだと思った。しかし心と身体、両方の中に入れても良いと思える愛しい相手でも、緊張が解けてくれるとは限らない。いまも破れそうなくらいに心臓がドクドクと鳴っているし、目に入って痛いくらいに汗をかいており、手をどこにやれば良いかがわからない。
吉成の肩を掴んだり、ベッドの上で彷徨わせていた手に手を重ねて握られたその瞬間、心臓がギュッと強く収縮したあと悲鳴をあげたように大きく鳴った。さっきよりもずっと身体と身体は密着し、吉成も鼓動を早めていることが皮膚感覚で伝わってくる。
笑顔を消して、俺をじっと見つめている奴の目に何が見えていたっていい。関係ない。いまは身体を繋げて同じ方向を向いている。想像上の生き物ではない、元気に生きている俺の好きな人と。
やがて大きく開いた脚の付け根が徐々に痛くなってきていたし、中をもっと濡らせば良かったなどと思っていたが、まだ終わらないでほしい、官能的な時間がもっと続いてほしい、と願っていた。
何度達したかはわからなかった。中が収縮していたのか、その都度動きを緩めてくれてはいたのだが、前に触ってくれることはほとんどなかった。興奮して上に上がった膨らみの下は指で優しく擦ってくれる。それだけでも気絶しそうなくらいに気持ち良かったが、その上で屹立しているものには自然と意識が向かないようだった。
それがとても切なかったが、だからといって自分で扱くわけにもいかない。ほんの少し残った正気でなんとか我慢をしていたが、その生殺し状態のせいもあり何度イッても甘イキ、という状態になっていたと思う。
先に意識の限界が来そうだ、と星の見える不思議な視界を眺めながら上下にガクガクと揺らされていたそのとき、吉成が大きく息を吐き、腰の律動を早めてきた。もう出るものが出ず、喉はカラカラで脚の感覚も鈍く正直かなり辛かったが、それでも身体は次がないかもしれないと貪欲に食らいつき、感じることをやめてはくれなかった。
次がなかったらどうしよう、よりも痛みと快感の区別がつかなくなったらどうしよう、というのが最後に考えたことだった。まあ、なったらなったでその時だろう。俺の思考の癖はどんなことがあっても簡単には変わらぬようだ。
「声出してもいいよカナちゃん」
「うんっ……! でも……!」
「もうすっごい濡れてるけど。ここで挿れていい?」
「え、ここで……あっ……!!」
「あー、ごめんごめん。最近すごい感じてくれるから、ちょっと我慢できなくて……」
朝から殺人的な暑さである。当分の間は外出禁止を言い渡されたという吉成は、宿題を一気に終わらせてしまおう、という誘いを『カナちゃん』の俺にかけてきた。
また約束を破ることになるのは心苦しいので、家のせいにして『俺』とは会えない設定にしておいてある。その寂しさも相まってか、ことさら奴は『カナちゃん』に会いたがった。
あんなことはそうそうないだろう、だって付き合いたてじゃないんだし、と俺は自分で自分を納得させていた。だが違っていた。
入院中は検温やら様子伺いやら、誰がどのタイミングで病室に入ってくるかわからない。たとえトイレに行ったとしても、大きな病院は人が多い。入院患者や、外来患者が採尿のために利用したりで騒がしい。消灯時間は一人になれるが、そこは夜の病院というシチュエーション。どうしても気分は沈んでしまう。だから思うようにはいかなかったそうだ。
ある意味禁欲生活明けの吉成は、部屋で二人きりになってしまうと宿題なんかそこそこにして、すぐにそういう雰囲気を醸し出してくる。あれ、もしかしてこれってアレか、と思ったころには背後を取られてその場に押し倒されたり、スキンシップ程度に見せかけたキスから入り、本気のキスが始まったりする。
さっきも背後から抱きしめられて、振り返ったところで唇を奪われ、Tシャツの裾をたくし上げて手を入れられた。胸など全くないことに気付かないのか、女の子とは違うはずの突起を指で優しくこねくり回して遊び出す。
そうされると俺もスイッチが入ってしまう。ちょっと体重をかけられただけで簡単に倒れてしまったし、楽だから着ていたスウェット地のズボンを下着ごと引っ張られ、下を剥き出しにされている。
冷房の風がひやりと太腿を冷やしてすぐに、吉成の熱い肌が密着した。『カナちゃん』はこういうのが好きだと思ったのか、いつも全部は脱がされずに事が始まる。
「今日さ……、泊まってかない? 親いないから」
「あっ、あっ……え? 泊まりっ……? あっ」
「一緒にお風呂入ろーよ」
「え、やだ、ダメっ……やっ、あっ!あっ!」
「いいじゃん。なんでダメ?」
「そんなっ、人様のお家でダメだよ、勝手なこと……!」
恋人の家はラブホじゃない。そういう常識というか、心理的抵抗があったのはもちろんとして、風呂場で全裸を見られたのがキッカケで我に返られる可能性もある。それはこちらとしても全力で避けたかった。
呆然とした全裸の男共が風呂場で棒立ちしている光景。突っ込み役が不在の空間。惨劇じゃないか。いたたまれない。そんな妄想をしていると、集中していないことを咎めるように腰の打ちつけ方を強くされた。
「明日からお盆に入るじゃんか。オレは近々本家に行くからしばらく会えないしさあ、今日だけ特別。ねー、いいでしょ?」
「あ、んっ、強いっ……! んんっ……!!」
「うわ、きっつ……! すっごい締まる……! 緩めて緩めて」
「はあっ……! はっ……! ちょ、ちょっとまっ……しゃべれ、ないっ、あっ、やっ、みなと!」
「じゃあ、一緒にお風呂は諦めるから。とりあえず準備してまたうちに来てよ。いい? わかった?」
「わかっ……わかった、わかったからっ、あっ、みなとっ、つよくしないでっ……みなと! わざとでしょ!」
吉成は片手で低いテーブルの縁を掴み、もう片手で四つん這いになった俺の腰を掴み揺さぶっている。ガタガタと一緒に振動しているテーブルからペンが転がり落ちてきた。その様子をなんとなく目で追いながら、これはいつまで続くものなのか、夏休みも後半へ突入しかけているのに、と今更なことを考えていた。身体の内側から何度も強く圧迫され、吐き出す途中で切れてしまう息と同じように思考も途切れさせながら。
節ばった手のひらが一瞬視界に入って引いた。猫のように上げた腰を両手で掴まれ、後ろの方へ引き寄せられる。そろそろ限界に近いようだ。揺れによる視界不良のせいで、落ちたペンの輪郭がひとつも見えない。
俺には余計なものがついている。誰にも触ってもらえず硬くなっているだけのそこは、時折吐き戻すように白濁した粘液を溢してしまう。ゴムをつけるタイミングなどないので、いまも淡い水色のカーペットにうっすら光る跡をつけてしまった。拭くものは持参してあるので、また自分で片付けをしないとならない。それが惨めだと感じた。少しだけ。
さすがにもう無理だろう。ちゃんと言わねば。関係の断絶は避けたかったが、吉成の尊厳をこれ以上傷つけたくない。でもなんて言えば伝わるだろう。それにかなり衝撃を受けてしまうのでは。
あいつはあんな能天気に見えて友達思いの奴だから、俺に危害を加えてしまった、なんて考えて思い悩むのでは。充分あり得るから怖い。でも怖がっていては前に進めない。
願わくば、避けられない精神的ショックと共に、俺にやったことを全て忘れてほしいと思っていた。忘れられるのは正直辛い。でもそんな感傷に浸る資格はない。俺は吉成の認知の狂いを利用して、いままで散々身体を繋げてはよがり狂ってきたのだ。もう潮時だ。いい思いをさせてもらった。文章や画像には絶対残せない、素晴らしい思い出を貰ったのだ。
好き好んで洗脳したわけではないが、そういう類の間違いを正すつもりで吉成の家の門を再度くぐった。長期戦になるかもしれない、と気合いを入れる。お盆の時期を過ぎても変わらなければ、残り少ない夏休みを一日ずつ数えては焦るばかりになるだろう。時間はあまり残されていない。
相変わらず俺が『カナちゃん』に見えているらしい吉成は、上機嫌で迎え入れてくれた。本物の彼女をここに招いていたときも、こういう顔と仕草を見せていたのだろうか。男友達には絶対に見せない姿を。
「すげーなカナちゃん! 手際いいー。卒業したら結婚してよ!」
「別に普通、っていうか親と比べたら遅い方だよ。結婚のほうはまだ早いよ」
「えーだってー。早くしないと取られるじゃん」
「誰に。あっ、テーブル拭いてってば」
「はーい」
「拭き方が違う。四角いテーブルは四角く拭いて!」
本音を言うと、吉成の奥さんごっこに付き合うのは骨が折れた。うちは飲食店だが、店でも家でも誰が何役をやるなんて一切決まっていない。手隙の者がやるというのが不文律だ。それは子供だからといって免除はされない。できる事からやらされたし、勉強という大義名分がなければ家事をどんどん任されていたと思う。現に妹は勉強嫌いなのと、小遣い増額目当てという動機をもって活躍している。
うちはある意味、世間一般の人たちが作ろうとしている理想の家庭なのかもしれない。単に親たちの仕事が同じであるからして、協力関係を築く他ないというのが実情だが。
「肘つかない」
「あっ、はーい」
「寄せ箸しない。行儀が悪い」
「寄せ箸ってなんだっけ?」
「だからそれだよ。お皿が倒れたり、滑って落ちたりしたら料理がもったいないでしょ」
「ふーん、わかった」
「箸の持ち方が違う。こう」
「んー……それ、なんか持ちにくくて」
「今から慣れれば良いでしょ。ペンの持ち方もおかしいし……」
「カナちゃんお母さんみたーい。小言多いけどイイ奥さんになりそうだなー。料理もすげー美味しいし! お店みたい!」
小言を言わせているのはどこのどいつだよ、とイラッとしたり作ったものを褒められてちょっと嬉しく思った食事を済ませ、洗い物は当然のように俺が片付け、一息ついたところでお風呂をいただいた。
頭を洗いながら『カナちゃん』も色々大変だったのではないか、それとも似たような人種なのかと細かいことをブツブツと考えていた。
いや違う。俺は甘やかされ三男坊である吉成の躾をしに来たわけではない。しっかり真実を告げて、この奇妙な関係を終わらせるために来たのだ。
手前勝手な寂しさとは折り合いをつけた。つけたつもりだ。もしぶり返しが来てしまっても、幸いクラスは分かれている。部活も違う。一旦リセットがかかるだけ。
将来はきっと、甘えたで寂しがりなところのある吉成は誰かと結婚するのだろうが、俺は中学のときからその道に諦めをつけておいてある。元からひとりで歩む道に、再度戻って歩くだけ。
「……吉成、待って」
「今日はもうダメ? あと一回だけ。おねがい」
「やだよ、ダメ……ダメって言ってるでしょ、話聞いて。準備してないから」
「準備? なんの。できてるじゃん。いい匂い〜」
「あのな、俺はな、男だから。よく見ろ。目ぇ覚ませよいい加減……、あっ、ちょっ……」
「なんなのその喋り方。違うでしょ……」
「吉成、なあ、お前のカナちゃんは、去年の冬……っ、あ、そこ、噛むなよ……!」
「………………」
「……吉成! 嫌なのはわかるよ、ショック受けたくないのもわかるつもり、でも全部本当のことだから! マジで聞けよ! おい、吉成!」
「うるっせーんだよ奏多!! オレだっておかしいなとは思ってたんだよ!!」
——…………え? 思ってた?
客用布団がないという言葉を間に受けて、二人では少々狭いがベッドを使うかと話した途端、一緒に見ていたそこに向かって俺は強引に押し倒されてしまった。
最後の思い出作りという俺の勝手な名目はすでに終えている。もう寝るだけとなった頃に話をし、もし決裂したらそのまま帰ろうと決めていた。食事も風呂も済ませているので、何があっても互いにあとは眠るだけ。眠れないかもしれないが、一日のノルマとも言える行動を済ませたあとならより気が楽であろう、という家事全般が出来そうにない吉成のため、ちょっとした配慮を込めたつもりの行動だった。
しかしここに来てこの発言である。予想不可能な言い草に、俺の情緒は大きく乱された。いま俺の名前を呼ばなかったか。音が似ているから間違えたとか? いや、友達と彼女は間違えない。いくら似ていてもそれはないだろう。
おかしいなとは思ってた? いつから? 一体どこからだ? やっぱりあれだけ好き放題触っていれば、違いにはちゃんと気付くよな。じゃあなぜあんなに躊躇がなかった? ずっとノリノリだったぞお前。ほんの少しでも勘付いているなんて、俺は夢にも思わなかった。
無意識に口を開けていたのだろう、先ほど拒否したばかりのキスを勝手に再開され、思いっきり舌を入れることを許してしまった。あの病室でのキスと同じように、舌と舌の境目がわからなくなるやり方で。
うるせえ、と俺を罵ったばかりの口で今度は俺を愛撫する。優しく柔らかに舌を這わせて可愛がり、身体を繋げたときの音と感触を連想させて興奮を引き出すための前戯のひとつ。
これをされるのに俺は弱かった。身体が勝手に目蓋を落とし、もっと味わっておくべきだ、と他の情報を遮断するべく働き出す。俺はそんなつもりはないのだ、と理性を総動員して抵抗を試みてみるも、もう腰に力が入らない。周囲の血液は股間の先端へと送り込まれ、すでに四肢は使わぬ判断を下された。
俺が演じる下手な『カナちゃん』にするのと同じように吉成は、衣服を掴んで引き剥がしてくる。俺の両脚を掴んで開き、平らな身体に視線をじっくり這わせている。今は何が見えているのだろう。本当に幻想の世界から帰ってきたのか。
見つめていた時間は数秒だった。あろうことか吉成は、立ち上がって先端から透明な液体を滲ませ続け、根元までもを濡らしていた股間のものを、指の腹で拭うようにそっと撫で始めたのだ。
裏の筋から先端へ。一緒に濡れた指を細かく動かして、不規則に痙攣する竿のくびれを輪にした指をもって捉え、親指で表面だけを優しく擦る。やがて指の全てを添えて包み、やや力を込めて握り、いつも俺が自分でやっているのとは違う感触と強さで粘液の噴出を促す動きをし始めた。
俺は夢中になってしまった。これは念願だったから。拒否の選択肢など選べない。しかし、まさか現実のことになるなんて。俺にも夢を見る権利が回ってきたのか。
脚が勝手に細かく震えるのが止まらない。なぜか踵が上がり、つま先だけで脚を支えてしまうからだ。腹筋が痛い。腰が前後に動いてしまうため、その運動に無理やり腹が付き合わされているからだ。
しかし次から次へと沸いて出てくる脳内麻薬が身体的苦痛を和らげていたらしく、自分が無理な姿勢を取っていることや、ずぶ濡れの指で後ろの孔を触られていることにもろくに気付かず、俺は快楽だけを貪り食わせてもらっていた。熱のこもった脳は頭蓋骨の中に密封されたままで汗みずくになり、それが髪の生え際から押し出されているような心地だった。
ふいに吉成の手が引かれ、夢心地の感触が消えた。うっとりと余韻に浸りながらも、これでおしまいなのかと切なくなった。しかし弾んだ呼吸を整えている間に事は次へと進んでいたようで、少々強引な仕草で腰を持たれて下の方へと引っ張られ、きつく脚の間へ割り込まれた。
「あっ、待っ……いた! 痛いから!」
「あー……そうだった。ごめん、痛いよな。待ってて、ここに良いものが……」
「ちょ、何それ。マジで……? ……なあ、お前わかってんだろ、俺がっ……! 嘘だろ……!」
「ちょっとだけだから。あとで話そ」
「うそ……!! …………!!」
「声出してもいいよ、カナたん」
なにがカナたんだ。変な呼び方しやがって。わざわざそんなもんを使って濡らしてまでヤリたかったのか。入れば誰だっていいのかお前は。変態だな。最悪だ。
そんな思いはまた口の中に突っ込まれた舌と、興奮の意思を示す肉の塊を下からねじ込まれたことで封じられた。出しても良いと言われた声は頭の中だけで反響し、すっかり逃げ場をなくしていた。
本当に夢なんじゃないかと思った。現実の俺たちはさっき眠りについたばかりで、今頃は狭くなったベッドの上で無意識に陣地を奪い合ってうなされているのでは。
でも閉じようとする目蓋を無理やりこじ開けてみれば、真剣な眼差しをした吉成が見える。怒ったような目と目がかち合う。冷えているはずの室内で汗をかいている。いかにも邪魔くさそうに、上に着ていたTシャツを引っ張り上げて脱いでいる。
履いていた部屋着を剥ぎ取られた俺の脚が視界の端で揺れている。そういえば一応毛を剃ってきたのだ。冷房の風が当たるたびにスースーする。今日はさすがに必要なかったかもしれないなんて、余計なことを考えていた。
俺の両脇に手をついて腰を動かしていた吉成が、おもむろに俺の片脚を持ち上げてキスをした。そのまま膝の裏の柔らかいところを舐めしゃぶられ、舌を這わせてきたのでくすぐったく、反射的に引っ込めてしまった。
そのまま高く脚を持ち上げられ、さっきよりも激しく穿たれた。視線は俺の局部に注がれている。全部見られていると気付いた途端、顔だけに熱風を当てられたかのような感覚に襲われて、とてもじゃないが見ていられずに目蓋を強く閉じた。
記憶は定かではないが、吉成は事の最中で俺に『泣くなよ』と言った。そんな自覚はなかったが、少し視界が曇って見えたのは揺れのせいだけではなかったようだ。
「………………カナたん」
「カナたんやめろ」
「えー………………カナきゅん」
「きゅんもやめろ。なんだよ」
「カナちゃんに叱られた」
「え?」
散々ヤリ散らかしたあとの朝である。昼過ぎに親が町内会の旅行から帰ってくることを初めて聞かされた俺は、先にシャワーを浴びておこうかと誘われ汗を流してきた。吉成は、もう限界だからいらんことをするなという俺の言いつけをしっかりと守ってくれた。
しかしその後。階下から微かに聞こえてくる洗濯機の音をなんとなく聞き流しつつ、のんべんだらりと冷房の効いた部屋で涼んでいたら突然『カナちゃん』の名前が出てきたのだ。
まだ俺が彼女に見えるのか、と聞いたらそうではないという。昨日の夜、先に眠った俺の横で微睡んでいたときに見たのだと。何を。『カナちゃん』をだ。
「えっ…………怖い話?」
「いや? 全然怖くはない話。あー本物のカナちゃんだ、って感じだった。なんか見え方が陽炎っぽくて、うっすら透けてた気がする。ちょうどその辺に立っててさ」
「うわ!! マジか!!」
「いやいや、もういないから。ウケる」
……今日からお盆期間である。タイムリーすぎる話が思わぬ角度から飛び込んできて、俺は早くも鳥肌を立ててしまった。全く気づかなかった。吉成のせいで疲れに疲れ、泥のように眠っていたからだ。
「事故ったときに着てたからかな。制服だった。別に怪我とか全然してなくて。前とおんなじ綺麗な顔してた。で、脚上げたなーと思ったら、俺の腹んとこガッ、って思いっきり蹴ってきて——」
——ん? 腹を蹴っ……なんて??
初めて彼女を見かけたのは、部室にひとりでいたときの窓越しだった。テスト期間のために全部活動は休止していたが、俺は混雑しているバス停へ行く気にならず、部室で時間が過ぎるのを待っていた。
どこかでお喋りでもしていたのか、すこしまばらになってきた生徒たちの中に二人がいた。あれが噂の可愛い彼女か、と目で追った。吸い寄せられた。
色白の肌に映える黒髪は、風に靡いてはするりと肩に留まる。その真っ直ぐな髪の素直さは、彼女の性格を表しているように思えた。清楚でいかにも大人しそうで、吉成はああいうわかりやすい女の子が好きなのかなんて思いながら、二人の姿が見えなくなるまで声もかけずに見送った。
人気の少ない校内。時間が溶けてなくなる音が聞こえそうなほどに静かであったが、俺の心の中ではブクブク、グツグツと泡が沸いては弾け去る音がひっきりなしに立っていた。嫉妬と羨望を泥状に混ぜ込んだ、この世で一番汚い音が。
「おい!! お前なにやってんだよコノヤロー!! って」
「え? お前がキレたの?」
「ちげーよ。カナちゃんがだよ。……おいお前、友達にナニやってんだよ。責任取れよ!! わかってんのかコラァ!! ……って。クソほど巻き舌で」
「えー……っと、え? カナちゃんそんなキャラ? ……え? ……マジの話??」
吉成はベッドの上で涅槃ポーズを取りながら『マジマジ』と死んだ目をして呟いた。俺の記憶の中で微笑んでいる清楚で可愛い彼女と、吉成が語る昭和ヤンキーキャラの彼女のイメージがまるで合致しない。バラバラキャラ変事件である。
吉成はこれまでずっと彼女のことを自分からは語らなかった。俺は己の嫉妬と戦うのに忙しくしていたのでうろ覚えだが、他の奴が根掘り葉掘り聞いてもその応対は一貫していたと思う。絶対話さないわけではないが、とにかく詳細は濁していたのだ。
「最初はさー、よそのクラスに可愛い子いるなーって気にしてて。思い切って告白したけど誰あんた、ってすごい妥当な理由で断られて。そりゃそうか、みたいな。中学のノリ引きずってたわ」
「お前……うん、それで?」
「それでー、色々遊びに誘ったり、友達に断られたからーって嘘の理由つけて映画に誘ったりとかして、なんとかかんとか頑張った。ちなみにそのとき一緒に観たのはー」
……頸。時は戦国時代、家臣の謀反にキレた偉い人が、他の家臣たちに褒美をチラつかせながら謀反人を探しに行けとミッションを……みたいな。映倫区分はR18じゃなかったか? R15? まあ、そんなの今はどうでもいいか。
「……やばかったなー。初っ端から首なし死体がごーろごろ。その辺にいたザリガニみたいなやつがその死体ムシャムシャ食ってて、しかも——」
「あっ、内容はいい。気持ち悪くなる。お前、それ知らないで誘ったの?」
「ううん。知ってたけど頑張った。カナちゃんがさあ、観たいっていうから……」
「そっか……」
「カナちゃんさあ、男兄弟ばっかの中に産まれた子らしくて。可愛がってはもらったけど躾とかは男のそれで、特別扱いとかはなかったって。だからあんなに勇ましく……」
「お淑やか清純系なのに……」
「中学のときまでは中身そのまんまのヤンチャな見た目で、高校でイメージ変えようと思ったんだって。最初は俺がリードしよー、とか思ってたときもありました」
概ね悪口になってしまうため言えなかった、という初めて聞く話を遠い目で滔々と語る吉成は、苦笑いを交えた複雑な表情を浮かべていた。こいつはマナー全般がなってない。最後の子だということで、猫可愛がりされた末の子どもである。
彼女は他の男兄弟たちと区別も差別もされず、ときに厳しくときに甘く、口の悪い家族に囲まれ大切に育てられてきた。特に食事のマナーを厳しく躾けられてきたという彼女。一緒に食事をする機会の多い恋人関係を吉成と結んだあとは、口だけでなく時々手や足も飛ばしてきたそうだ。それはお前が悪いと俺も思う。大いに反省するがよい。南無三。
「カナちゃんが交通事故に遭ったときさ。もうとっくに別れてたんだよね。やっぱ合わないって。オレが子どもすぎるって。オレもずっと叱られすぎててさ、全然踏ん張れなかったわ。事故のこと知ったときは落ち込んだけど。元彼なりに」
「そっか……」
「そんで……次はオレが頭打った事故。最初はさ、なぜかみんなのことがわかんなかった。顔の違いはわかるのに。前と同じ記憶がサッと出てきたのはカナちゃんだけ。もういないことは覚えてなかったのに。いつも来てくれてたから、しばらく思い出せなかったわ」
「まあ、それはお前が実際に付き合ってたカナちゃんのことじゃないけどな」
「いや、あれはカナちゃんだった。何回会ってもそう見えた。でも会えば会うほど……なんていうか、視界の端に映ってるのはお前なの。でも焦点を合わせるとカナちゃんがいる。声とか触った感じとか、いないはずなのになーっていうおぼろげな記憶は、違和感として感じてた」
「……そうなん? 不思議だな……」
「でしょ。でもさ、あの気性の激しいカナちゃんじゃなくってさ、付き合う前にオレが思い描いてたカナちゃんだった。優しくて、よく笑ってくれて、つまんない話もうんうんって最後まで聞いてくれる」
「ふーん。そんな風に見えてたのか」
「オレさー。これ言うの恥ずかしいけどさ、お前が彼女だったらいいのにって多分思ってたと思うんだよねー」
「へえー………………ん??」
吉成は目を盛大に泳がせながらも、辿々しい説明と仮説を唱え始めた。見た目の好みは『カナちゃん』であるが、中身の好みは俺らしい。とても。だから一年生の終わり頃に配布されたアンケートに、自分とは別の科目を俺が書いていたと知ったとき、実はかなり怒っていたらしい。そして同時に気に病んでもいたという。
「記憶ってさ。かなり個人差がある曖昧なもんなんだって。同時に同じものを見たはずなのに、あとで聞いたら証言が食い違うとかザラだって。大きさとか、色や形とか。ていうか脳みそってそもそも解明されてないことがほとんどらしい」
「え、でもさ、俺と元カノを間違うなんてさすがに……」
「いやいや。オレらより遥かに頭の良い大人たちが雁首揃えてわかんないって結論付けてんだもん。そういうこともあるかもよ、ってか実際あったんだから仕方なくね?」
「えー……うん……じゃあ百歩譲って……うーん……」
「そんで今回、事故の衝撃によってオレの記憶が引き出しごとガーッと抜き出され、床にバーっとぶちまけられたとする。とりま死なないために身体の回復を先にして、記憶はあとで整理した。あーあー、ってしぶしぶ片付け開始。あっ、好きなもんみっけ。これとこれがオレは好き。ドーン、みたいな」
「お前、そんな……ペンパイナポーアッポーペーン、みたいな……」
妙なはにかみ笑いをしながら視線を彷徨わせていたアホの吉成は、好きなものを見つけてウキウキする少年の顔へと表情を変化させていた。黙っていたことを語り尽くしてスッキリしたのか身体を起こし、なぜかドアの方へと向かっていった。
まあ、本人が楽しかったなら幸いだ。今回のことは二人だけの秘密にして、良いお友達に戻ればいいじゃないか。俺は自分からそう言って、オチをつけるつもりだった。……しかし。
「まあさ、女装しろとかいう話じゃないから。奏多は奏多だし、そのまんまでいいからね」
「え? うん。それは元々趣味じゃない、っていうかやってないし。覚えてないかもだけど、ほんとに……」
「でさあ、ひとつお願いがあんだけど」
「……なんでドアの鍵閉めたし」
「オレと!! お付き合いしてください!!」
「は!? なんで!?」
吉成はごく自然な動作で鍵を閉め、さらにその前へと座り込んで俺を物理的に出られないようにしやがった。さらに目の前で見るのは初めてである低姿勢を俺に見せ、とんでもないことを叫び始めた。
なんでそうなる。お前はまだ現実に帰ってきていないのか。できないだろうが……できたけど。それはそれ、これはこれだろう。そもそも興味本位では困るのだ。
俺は出来る限りの言葉を尽くし、子どもをなだめすかすように諭していった。聞いているのかいないのかも判然としない吉成は、まだ認知が歪んでいる可能性がある。それは医師の判断を仰がねばならず、素人判断などもってのほかであること。思いつき、または性的欲求を満たすための願いなら、破局前提のお付き合いになるということを。
そしたらお前もそうなるが、俺は友達と恋人を同時に失うことになる。何事もなかった関係に今戻っておけば、それは最低限避けられるのだと。
今度は俺の方が目を泳がせる番だった。吉成はじっと視線を合わせてきたのでなんだか妙に喋り辛く、居心地が悪かったからだ。それでも頑張った。食い下がった。目先の欲を優先し、なし崩しに事を進めるリスクのことを考えて。
それに怖かった。何がと言うと、いまにも襲いかかってこられそうな雰囲気も感じていたからだ。例えるなら大型の猫科動物が、獲物をじっと狙っている姿勢と目線によく似ていた。
思ったとおりにジリ、ジリ、と吉成は膝を前に出して近寄ってきた。俺はまだ喋りながらも後ろに下がる。数十センチ単位で近づいてくる吉成。下がる俺。ぽすん、と何かが背中を押し返したので振り返ってみると、ベッドの端っこが目に入った。
あ、もう下がれないと気付いた瞬間、空けたかったパーソナルスペースに勢いよく侵入された。なし崩しだけは避けたい俺は、反射的に横を向いたが見覚えのある手がすでにベッドの端を握っていた。
「じゃあ聞くけどさあ」
「……何を」
「お前はなんで最後までヤらせちゃったわけ? 女じゃないんだからさあ、事前に色々やんないといけないことがあるよなー。よく知らんけど。これから知るけど」
「……きょ、拒否したら傷つくかなって……」
「ほー、そうかあ。優しさかあ。とーっても気持ち良さそうに見えましたが」
「………………」
「いんじゃね。やってみれば。もう一線超えちゃってるのに元通りとか不可能でしょ。じゃない?」
「ふ……不可能じゃない。理論上は……」
吉成は俺の上に乗っているときと同じ顔をして、着地点はこっちが決めるぞと暗に示していた。据わった目をして脇見もせず、そこだけを真っ直ぐに見つめている。あとはお前が諦めてくれれば話は早い、と。
俺は絶対負けたくなかった。隠しに隠すことで保ってきたプライドを今更へし折りたくない。もしここで諦めてしまったら、誰にも見つからないところで散々泣いた、かつての俺に申し訳が立たない。
そうだ、俺はたくさん泣いたじゃないか、と過去の可哀想な自分を思い出し、鼻の奥をツンと痛くしてしまった。こんな近くでベソをかいたらすぐバレるのに、身体の反応が先んじた。
ベッドの端を掴んでいた拳が解け、俺の頬を包み込む。同時に近づいてきた吉成の顔は手のひらで押し返した。いまはそんな気分にはなれないのだと、口には出さず行動だけで示した。もし出せば、無関係なはずの吉成に八つ当たりをしてしまいそうで…………あ、しまった。
「いっ……てえ〜〜」
「あ、えっと、ごめ——」
などと思っていたそばから俺は、ほとんど反射で吉成の顔面をブッ叩いてしまった。土下座されたのも初めてだったが、人をビンタしたのも初めてだ。自分のやったことに自分で怯んでしまい、隙を作ったが最後。服の襟首と顎を強く掴まれて、怒気を孕んだ視線で射抜かれ、ああやり返される、と身構えたのだが。
「………………!!」
「付き合って」
「嫌だ、んっ…………」
「付き合って!」
「やだって! キスすんな、やめ…………!」
「付き合って!!」
この甘やかされ三男坊が。前からずっと思ってたよ。欲しいものは手に入れるまで欲しい欲しいとやかましく、あげたらあげたでまた次を期待してまとわりつく。お前という奴はいつもそうだ。一本くれと何度も言うから何度もあげたポテトとか。合計するといくつになるよ。絶対何個か買える総計になる。返せよたまには。
キスがやたらと上手すぎるのにも腹が立つ。どこで覚えてきやがった。今まで何人と付き合ってきた。別に聞きたくないしどうでもいいが、これをすれば俺は大人しくなる、言う事を聞くと思っているだろう。ふざけるな。
「……やめろ、触んな……」
「勃ってるじゃんか。触ろっか」
「………………いやだ」
「言うの遅いわ。上手くできっかな……」
「え? え!? ちょっ、ちょ待っ……やめろやめろ!!」
「いてててて! 噛んじゃうだろ!」
「噛むな!!」
「じゃあ耳引っ張んないでくれる!?」
「ただーいまー! 湊ー! お友達いるのー? お土産あるから持ってったげてー! ねえ湊ー! いるんでしょー?」
——秒で萎えた。危なかった。
マジか、と見るからに気分を害した吉成のことは放置し俺は服装を、といっても部屋着だが、とにかくマシに見えるよう整えて、ボサボサになっていた髪を手のひらで撫でつけながら慌てて階下へ降りていった。
リビングで荷物の開封をしていた吉成のご両親を前にして、ご不在のときにお邪魔してしまってすみません湊くんと同じ高校の者でして、と極めて平静を装った風のご挨拶をした。
普通のことを言ったはずだが、なんだかいたく感激されてしまい『あなた甘いもの好き? しょっぱい方がいい?』『両方持ってっていいよ!』とお土産をその場に並べまくられ、名前はとか、一緒のクラスなのかとか、どこへ進学する予定なのかとか、質問責めにもされてちょっと困った。
ご両親には満面の笑みで『これからも湊をよろしくね!』と言われ、後からのんびり降りてきた吉成には『そうそう。ずーっとヨロシクネ』と、白々しい台詞をポイっと雑に投げつけられた。お前のよろしくは全然意味が違うだろ。ていうか土産を貰ったなら即食う前に、まずはありがとう、と一言添えろ。
——————
「ねーカナたん。ちょっとご休憩しよーよー」
「しない。まだ終わってない」
「明日やればいいじゃんよ。もう疲れたー」
「なあ湊。お前さあ、この怠け具合でよくうちの高校受かったよな。あー、あれか。やってんなお前」
「あっひどーい。カンニングなんかしたことないし。ちょっと天才なだけですし。ちなみにオレのおとーさまの大学なんて——」
「…………えっ!? 難関じゃん……クッソ、遺伝子か……この世ってほんと不公平……こらっ、やめろ、脱がすなって! コラ!」
「最近全然してないじゃん。ねー。いいじゃんいいじゃん」
誰か俺を馬鹿だ阿呆だと罵ってくれ。あれだけ関係性がーとか、尊厳がーとか、さんざんわかったような口ぶりで賢しらげなことを呟いていたくせに、俺は。
偶然の産物ではあったが、早めに帰宅してくれた吉成のご両親のおかげで脱出できたにも関わらず、結局ここへ戻ってきてしまっている。俺はまた誘われるがまま吉成の家へ行き、学生の本分である勉強を真面目にしていたが、いまは腕を回されついでに釦を外され、肌で愛情表現を受け止めている。恋人として。
「……あのさあ。学校でカナたんカナたん言うのやめろよ」
「なんで? いいじゃん。ていうか集中してよ」
「みんなが……カナちゃんの事情知ってる奴らが、変な顔するときあるから……」
「あー。付き合ってるの知ってるからじゃね?」
「は!?」
「そんなんどうでもいいじゃん。集中してよー、もー」
出来るわけないだろ馬鹿野郎。俺に断りもなく、いや言うなと言った記憶はないが、そんな個人的な情報をこいつは勝手に言いふらしやがったと。なんてことだ。神がお隠れになってしまった。世界は永久に真っ暗だ。
「最悪だ……! 終わった……!」
「どうせもうすぐ進路相談の時期じゃんか。みんなそれどころじゃないってば」
「でもっ……あ〜〜マジか〜〜……」
「みんな大人よなー。誰ひとりとしてしつこく深掘りしてこない。いつもと態度一緒じゃね? だからカナたんも気付かなかったんじゃん」
「深掘りなんか怖くて出来ないだけだろが。お前さあ。カナちゃんはいいよ。可愛い自慢の彼女だし。でも俺のことまでペラペラ喋るのほんと何なんだよ……」
「は? カナたんが可愛くて良い子だからに決まってんじゃん。ほら、床じゃ嫌でしょー。こっちおいでー。カナたーん! 今日もカワイーネー!」
俺は先ほど頭を抱えた手指にすら脱力感を覚え、指の隙間越しに湊を見た。大きく広げた腕と同じように顔一面にも大きな笑いを広げている。その背後にある窓枠は奴のために設えた額縁のようであり、位置を狙ったかのように白く輝く太陽までもがひょっこりと顔を覗かせている。雲ひとつない、本日は晴天なり。
なんて能天気な絵面だろうか。落ち込んだ俺との落差が半端ない。諦めて飛び込んでしまえば楽になれるのだろうが、過去に必死で頑張っていた俺自身が、現在葛藤している俺の情けない姿を横目で見ている気配がする。
行くか行かぬか。乗るか反るか。決定権があるのは現在の俺だけである。迷うなあ、と呟いた。太陽が似合う陽性の権化はきょとんと小首を傾げながら『迷う余地ある?』などと言いのけた。
「昨日の帰り……吉成んとこにお見舞い行って。元気だった。話し方とかもいつも通りで。でもそろそろ帰るわってときに、あいつ急に……カナちゃん最近来てくんない、とか言い出して……」
ザワッ、と一斉に小さな悲鳴や驚きの声で場が沸いて、瞬時に凪いだ。そして揺り戻しが来たかのようにめいめいが思うまま発言し、不穏な言葉を投げ合っていた。『ヤバくない?』『治ってないんじゃ』『カナちゃんて、去年さあ』。
教室の一角に落とされた不安の波紋は瞬く間に広がっていた。それは席について硬直していた俺の胸元まで到達し、本当に波に攫われたときのような揺れとして感じられた。いやに生々しい感触だった。
棒立ちしている男子たちは、俺と同じように固まっている。女子のひとりが突然泣き出し、顔を覆って俯いた。同じように動揺していた周りの女子たちが彼女の異変を察知し、背中をさすり慰めていた。
事の詳細を知りたかったが、集まるタイミングを逃してしまい立ち上がれない。事情をよく知らないであろう者たちは個々で集まり、噂話に勤しんでいた。動揺と不安の集団感染で起こってしまった喧騒は、担任教師が入室してくるそのときまで収まらず、皆が囀り続けるばかりだった。
バスケの試合で頭を強打し、救急搬送された吉成は現在も入院中だ。観覧席で一部始終を見ていた俺たちはあのときも、今のような恐慌状態に陥ったことを覚えている。事故の再現で使われるようなのっぺらぼう人形のごとく、体育館の床をめがけて思いきり倒れた吉成の姿。きっと一生忘れられない。くっきりと焼きついていて消えやしない。
でも吉成は今も生きている。怪我が治ればすぐに帰ってくるだろう。そんな俺たちの期待はあっさり裏切られる形になった。記憶の混濁が見られた吉成は精密検査やら何やらのため、俺たちが予想していた以上に入院期間が長引いたのだ。
面会謝絶が解禁され、みんなで会いに行ったときのこと。話自体にはきちんと反応してはいたが、それが限界である様子だった。特に顕著だったのは話者の名前や、いま話題にしている者がどこのクラスの誰のことなのかがいまいちピンとこないようだったこと。みんな明るく和やかな空気を作って話しながら、実は全員が大小辛いものを感じていたと思う。
しかし退院予定日が近づくにつれて、その明瞭としない奴の記憶は徐々に回復を遂げてゆき、人の顔の見分けから名前までもを無事に思い出せてきたようだった。
この辺の事情はほとんど伝聞である。俺は奴とは異なる部活をサボり毎日会いに行ってはいたのだが、家庭の事情でしばらく足を運ぶことができなくなった。そのわずかな期間で、こんなに大変なことになっていたなんて。だって、吉成の彼女であった『カナちゃん』は、もうとっくに。
——————
「お前どこ中だった? へー、知らん。オレは美浜中。知らないか。ふーん。クラスに知り合い何人いる? ひとりもいないの? えー、オレも!」
ドキドキとうるさい心音を必死で感じぬふりをして決死の覚悟で話しかけたが、当の吉成は予想外に気さくな態度で接してくれて拍子抜けをした。入学式の当日に見かけたときは気だるい空気を纏っていて、誰とも仲良くする気はないです、とでも言いたげな印象を持っていたからだ。後日にその理由を尋ねたら『眠かっただけ』と言っていたが。
たとえ卒業の日まで誰とも親しくならずとも、あいつはそういう奴だから、という気遣いをしてもらえそうな雰囲気を外見から漂わせていた。後ろ頭をざっくり刈り上げ、その他の髪は長めに下ろしたファッション性のある髪型。美容室で一体どう注文していくら払えばそうなれるのか、そこからして全然わからない俺からすると奴はカッコいい、という賞賛に値する男だった。
しかし態度や年齢からしてベテランであろう我らが担任教師から見れば、俺たちなどは幼子同然であるらしい。吉成は初日から早速彼に『お前、それで前見えてんのかよ。顔が全然見えねえだろが。切れ切れ』と、注意されていた。
返事は一応していたようだが声まではこちらに届かず、また教師も奴に構いすぎず、意識をすぐに別の方向へと変えていた。よくある教師と生徒の光景。翌日になれば言った当人であれど忘れてしまいそうな軽い指摘を、しっかり聞き入れ改善してきたことに気づいたときは、あまりの素直さに感動を覚えて思わず話しかけに行ってしまった。
「……あのさ。髪ってどこで切ってんの? 街の方とかにある美容室?」
「ん? うちはオカンが美容師だからオカンの店で。ていうかあの人ソフトモヒカン大好きだからさー、バリカン持って来られっとハラハラすんの。あっ、とか言ってミスったフリして前髪バイバイとかマジ有りうるし」
「ふっ、バイバイウケる。オカンって大体そんなもんよ。俺さ、痛くなくなるおまじないするよー、つって抜けかけの歯に糸巻かれて、強制乳歯バイバイされたことある」
「ひー、つら。同情を禁じ得ない。オカン残酷エピソードじゃん」
「大丈夫、髪は切られても痛くない」
「痛いわハートが。しばらく凹むわ。あっ、オレ吉成湊。以後よろしくー」
このときが一番ハラハラしていたと、かえすがえすもそう思う。緊張のあまり不適切な表現をペラッと使ってしまわないか、言葉に詰まって話のリズムを狂わせてしまわないか、そんなことばかりを考えながらも会話を成立させていたのだ。
当然であるが不慣れな環境で頭を高速回転させ続けたその日は帰宅後に、制服を着たままでこんこんと寝入ってしまった。翌日に目覚めたときは今日が土曜で良かったと胸を撫で下ろしたが、その安堵は軽い発熱症状となって噴出し、結局ずっと横になることしかできなかった。
月曜にまた登校するのが楽しみなような、不安なような。そんな考えの虜となって朝食もろくに食べられず、俺は朝から情緒を乱していた。『あんたそんな繊細タイプだっけ』と母にからかわれながら家を出て、バスに揺られて小一時間。
教室でまた吉成の顔を見たときは、ああ俺は性懲りもなく、と内心己に呆れながらも笑顔を作った。先週と雰囲気が違うなんて思われないよう、懸命に笑っていた。
——————
見舞いに行くのは久しぶりのことだ。俺は気楽な文系部活を気軽にサボり、吉成が入院している大きな病院へ向かっていった。最近まで面会すらできなかったせいか、そこそこの広さを確保してある個室で奴は過ごしている。
何度も見たクリーム色の扉をしばらく眺め、よし、と覚悟を決めてノックをし『どうぞー』という返事を聞いてから息を吸って吐き、取っ手を握って横に引いた。
後ろ手で扉を閉めながら見た吉成の表情は、想像以上に明るかった。パッと華やぎ嬉しそうで、正直なところじっくり見たいがやめておこうと思うくらいには甘い笑顔を俺に真っ直ぐ届けてくれた。
少し痩せてしまったような気がする。前も同じことを思ったけれど。『病院食飽きたー』と言っていたから、あまり食べられていないのかもしれない。
「ごめん、久しぶり。うちさ……」
「すげー久しぶり! 最近全然来ないからら、飽きられたのかと思った!」
「いやいや、飽きたりしないから。最近さ、俺の父方の——」
「えー? だってオレ、頭これじゃんか。縫うためにがっつり剃られちゃってさー。めっちゃ似合わんかっこわる、って醒められたかと思って」
「? いや、別にカッコ悪くはないけど。ていうか元が良い——」
「遠い遠い。説得力がない。ほらー、嫌じゃないならこっちおいでー。今の時間帯なら誰も来ないから!」
——こっちおいで?
俺が入室してからずっとニコニコと上機嫌である吉成は、まるで子どもか何かに語りかけるような優しい口調で側へ寄れ、と誘ってきた。
奇妙なような面映いような気分で目線をあちこちにやってしまったが、なにか面白い話なんかを聞かせたいのだろうかと考えつき、丸椅子を片手に側へと寄った。しかし、吉成が言う『こっち』とは、白い手すりがついたベッドの真横のことではなかった。
相変わらずニコニコとしながら、ベッドの上をポンポンと何度も叩いているのだ。しかもわざわざ自分は少し移動して、座らせるための空間を作ってまで。まさかそこへ座れと? 俺が? いやいや、変だろう。なんでだよ。距離感がちょっとおかしいぞ。
吉成は変な顔をしていたであろう俺を見て『早くー』と急かしてきた。真っ白なシーツの上で、奴の手のひらが忙しなく羽ばたいている。
そこへ自分が座ったときの光景を先に想像し、顔に血が集まる気配を感じて俺は大いに焦ってしまった。頭の中を即座に検索した結果、なるべく別のことを考えれば良いと思いつき、今日習ったばかりの数式を思い浮かべながら恐る恐る腰掛けてみた。
「なに……あ!? えっ!? なんでっ、吉成! なんだよマジで!」
「今日さー、なんかよそよそしくない? やっぱり引いてんでしょ。この頭。ショック〜〜」
「だから引いてないって、あ、ちょっ! なあっ……」
「ねー、なんで湊って呼んでくんないの。さびしーなー。ほんとにお別れ言いに来たんじゃないんだよね?」
……せっかく、せっかく赤面せぬよう頑張ったのに。何もかもが水の泡である。吉成の野郎は迷いなく俺の上半身を両手で抱きしめ引き寄せて、み、密着し、さらに、耳にキスまで落としてきやがった。
これでどうやって平静を保てというのだ。無理だそんなの。絶対無理。しかもこいつ、まさかとは思うが、俺の唇を奪おうとしているのではないか。顔が近い。焦点が合わなくなるくらいにグイグイと近づいてくる。
顔が熱い。身体も熱い。汗がドッと吹き出してきた、バレたくない。無言で狙いを定めている気配が濃くなってきたのを感じた俺は、必死で首をひねってねじって回避した。それでなんとか避けたつもりだった。
「あ、ちょ……! 離してっ……!」
「イヤでーす」
「誰か来るって……! 見られるから……!!」
「来ませーん」
顔だけに集中していたせいで、剥き出しの首には意識を全く向けていなかった。まんまと噛んでしゃぶるような行為を許したせいで、あらぬ所が準備を開始する。汗なんかはまだ気付かれたって良い方だ。でもここだけは絶対にいけない。俺の尊厳と、今後の関係性にヒビが入る。
湿った舌の柔らかさ。奴の粘膜から浸透してくる温かさ。太い動脈を埋め込んだ俺の首筋へと直接に。耳元で弾けるリップ音。目を閉じていても形がわかるくらいに押し付けられた、奴の顔面の造形すべて。思っていたよりずっと強かった、男の腕力の怖さと迫力。
騒いでしまえば人が来る。でも振り解いてしまえばきっと次はない。次を期待していることも絶対知られたくないが、期待してしまったことは己の欲望から発生したものであり、事実であるからして曲げられない。それはすでに俺の記憶媒体へ刻まれた。上書きなど不可能である。
どうしよう。どうすればやめてくれるのか。やめて欲しくはないけど駄目だから。別に駄目なことじゃないはずだけど、とにかく駄目だ。ほんとは良いけど、絶対駄目。このままでいたいとほんとは思うけど。
「ここじゃダメ?」
「えっ……えっ!? なにが!?」
「ちょっとだけ」
「だから……!! なにが!!」
「もー。せめてチューしたーい」
「……!! ダメ……!!」
甘えるような口調でこれ以上を求める台詞をさらりと吐かれ、思わずギョッとして顔だけ振り向いた。するとチャンスとばかりに奴の手が俺の顎や頬を掴んできて、一度死守したはずの唇は奪われた。
キスがどういうものなのか、今までずっと知らないままで生きてきた。服で隠れる箇所は自分で触れても、ひとりでは絶対できない行為だからだ。情けないがこれをどう受け止めて、どう構えていれば良いかもわからず、ずっと目を閉じ硬直していたような気がする。
なのに侵食された口の中だけは、奴の舌と体温で溶かされてゆく心地がした。常に空洞であったはずの口腔内は、どこからが俺でどこまでが俺じゃないのか判別がつかなくなっていた。味なんかなにも感じないはずなのに、柔らかくて優しい甘さのものをたっぷりと与えられたような恍惚感で頭の芯から痺れがきて、背中の軸がゆるみ、腰がわずかに抜けてしまった。
股間だけは元気に硬直していたが。触られることを今か今かと期待して。座っているため、そいつを隠してくれる衣服は上下左右へと引っ張られている。余裕と遊びを失くした布地は中の膨張を抑え込むことしかせずに、誰にも構ってもらえない器官は痛い痛いとひとり虚しく叫んでいた。
「……ねえ、カナちゃん。なんでしばらく来てくんなかったわけ? 忙しかった? いつも遅くまでいたからお父さんとかに叱られた?」
「…………え…………?」
その一言を耳にして、意味をしっかり理解できたその瞬間、混乱と等量であった夢心地気分は瞬時にどこかへ消し飛んだ。一年生のときに同じクラスであった、あの同級生の台詞を思い出す。
——カナちゃん最近来てくんない、とか言い出して——
間違えているなんてものじゃない。吉成は完全に、俺をかつての彼女だと認識していたのだ。顔など全く似ておらず、体格もまるで違う、そもそも性別が異なる相手を『彼女』だと。
全身がゾワリと総毛立った。俺を至近距離から見ているはずの目に、俺は最初から映っていなかったのだ。本人は『カナちゃん』を見ている。本気でそう認識している。
しかし本当のことを言ってしまえば、こいつは一体どうなるか。素人の俺ではまるで予想がつかない。パニックを起こしてしまうのではないか。そして自分のやったことを思い返し、なぜお前がいるのだ、と突き飛ばされるのではないか。
『カナちゃん』はどこにいる、なんて聞かれたら。どう答えるのが正しいか。馬鹿正直にこの場で教えてしまえば、せっかく身体が回復したのに生きる気力を失うのでは。
急に飛び退るように身体を離した俺を見つめている吉成は、怪訝な顔というよりも心から心配している、という表情を浮かべ黙っていた。全て『カナちゃん』に向けた感情だ。その温かいものを俺が代わりに受け取ったとしても、かつての彼女には渡してあげられない。
彼女の姿は覚えているが、口調や人となりまではよく知らない。それでもなんとか話を合わせる努力をした。笑える気分では一切なかったのだが笑顔を作り、お父さんが心配するからと嘘をつき、子どものように手を振りながら病室を出た。
帰り道は歩くだけで精一杯だった。一度涙腺を決壊させてしまえば、その場に蹲って立てなくなるのは明白だから。
道端で泣きわめく子どもになることもなく無事に帰宅し、夕食を食べ、風呂に浸かって脚を伸ばした。泣きたい気持ちはまだあるが、いざひとりの時間を手に入れてみると涙は不思議と出なかった。
温かい湯溜まりの中にいるはずなのに、いくら待っても気持ちは冷えたまま。そんな静かで暗い混沌の中に俺はいた。本来は俺が開けてはいけない他人宛てであるはずの、しかも秘密の贈り物を勝手に開け、身につけて使ってしまったような罪悪感が頭を洗えど身体を流せど、へばりついて落ちてくれない。
困ったことに贈り物の中身というのは、俺が一番切望していたものだった。頭では間違いだとわかっていても手放すにはあまりにも惜しい。このまま黙っていればバレないのでは、という悪魔の囁きの声を聞いた。
気持ちを返品するにしても、その理由としての適切な説明など俺にはできない。周りに相談するとしても、後で笑い話にできるようなことではないだろう。遺恨が残る可能性はある。かつての彼女へ贈る気持ちは全て、宛先不明で返ってきてしまう。受け取り先がないならば、俺が受け取ったって良いのでは。
受験を意識し始めて、自分のレベルと実力を再認識し、勉強時間を増やして増やして桜を咲かせた。しかしあの高校に入ることが真の目的というわけではなかった。単に家から距離があったから。費用を負担してくれる親への説得と、目下の現実逃避のためだけに設定した目標だった。
中学時代の連中を見ると嫌でも思い出してしまうからだ。あいつもこいつも嫌いだったわけじゃない。嫌なことを言われたりされたりした覚えもない。好きな奴ができるたびに己の性癖を隠して隠して隠し通して、孤独に陥り疲弊していた過去から逃げたかった。それだけだった。
入学式のとき見かけたあの瞬間から、あいつのそばに居るのが通う目的になった。俺はまた同じことを繰り返しているのではないか。相思相愛が確約されている道ではないのに。先は真っ暗闇なのに。嫌々でも繰り返して身につける努力の類は、単語や公式の暗記だけにしておきたかったのに。
——————
「もう夏休みかー。その前に退院できると思ったのに。明日やっと帰れるわ」
「頭のことだから仕方ないよ。後遺症がなかったのはラッキーだったね」
「でもさー、しばらくバスケ復帰しちゃダメだって。先生じゃなくて親に言われた。これからもっと暑くなるのに、あんな蒸し暑いとこで運動してたら血液ドロドロになって、まだ治りきってないとこに詰まるだろって。いや、治ったし!」
「心配なんだよ。察してあげよう。湊、しばらく意識なかったんだから」
あれを目の当たりにしておきながら、結局毎日のように病院へ通うことはやめられなかった。俺はまた誘われるがまま吉成のベッドに腰掛けて、回された腕から体温を分けてもらっている。
時折、俺の首筋に顔を埋めて話すものだから声の質感が届きすぎて、皮膚の下にある神経を音圧で刺激されたような感覚が走る。ビリビリとまではいかずとも、ジワリとゆっくり見えない手を制服の下に滑らせて、身体を弄られているような気がして正気を保つのが難しかった。
抱きしめている相手が緊急事態に陥っていることも知らずに話す吉成は、突然話題を俺のことへと変えてきた。ドキッとした。ここには『カナちゃん』しか存在しないはずで、演じているのは俺だから。
「——でさ、オレも一応大変な身だけどあいつも大変? らしくてさ。でも遺品整理ってそんな時間かかるもんなんかな。お父さんの実家がゴミ屋敷だったとか?」
「いや……そんなことは滅多にないでしょ」
「だよねー……なんかさ、気のせいかもしんないけどさ、ずっと避けられてる気がすんの。二年のクラスも別になっちゃったし、遊びに誘っても来てくんないし」
「人の彼女が一緒だと気を遣うから、行きたくなくなる人もいるんじゃない?」
「えー? そんな繊細な奴じゃないけどなー。ノリ良くて面白いからさ、カナちゃんにも紹介したいんだけど。多分友達になったのはさ、最初の数学の時間にさあ——」
入学式から間もなくして、数学の授業が始まった。若い教師がお決まりの挨拶を済ませたところに吉成が、ド定番の質問をぶん投げたのだ。
「せんせー! 彼女いますかー?」
にわかに教室内は沸き立った。そこそこ良い進学校とはいえど、俺たちが在籍しているのは本気で勉強に取りかかるための特進コースなどではなく、ごく普通の進学コースである。
苦しかった受験を終わらせ無事に入学し、みんな肩の力は抜けている。ドベの学校などではないので荒れる要素は少ないが、生徒が教師に対して発する軽口自体は時々見られていた。
その教師も若いとはいえど学校内の空気感は理解しているようで、特に嫌な顔もせず答えてくれた。
「いませーん。結婚してまーす」
「ええ!? そんな……!!」
「そっち!?」
教室内がドッと沸いた。吉成がかました絶望の演技に突っ込んだのは俺である。お前ソッチ系かよという意味と、ここで囃し立てるんじゃないんかいという意味と、女子かお前はという意味を全て詰め込んだ、自分で言うのもアレだと思うが会心の一言であった。
もちろん場を沸かせた手応えを感じていたので達成感は得られたが、吉成との繋がりがもっと欲しいという気持ちの方がより強く、その願いをひとつ叶えられたかもしれない、そんなことを考え悦に浸っていた。
なんというか、我ながらいじらしいと思う。アホだとも思う。勝手に抱いた希望の先へ行けたとしても、明るい未来なんて約束されていないのに。
「オレがボケたら拾ってくれんの。角度キツめな無理めのボケでも絶対拾ってくれるからすごい喋りやすい。いい奴でしょ。頭いいんだよ。理数系の成績とかもオレより若干上なのに、文系コースに行っちゃって。それ知ったときちょっと怒ったし。そんでそのあと、オレなんかしたかなーって考えた。……はずなんだけど、それも頭打って忘れたんかなー」
「……成績良くても、これ以上は無理だなとか、伸ばしても良いことなさそうとか思ったんでしょ。自分の実力は自分が一番わかってるから」
「えーでもさー、うーん……じゃあ怖いけど、聞いてみる。本人に。一回頭打ってんのを言い訳にして」
吉成はベッドの傍にある台の上に置かれたスマホを横目で見ながらそう言った。しまった、俺のスマホ。電源が入っている。マナーモードにはしているが、着信は全部わかってしまう。
それを知られてしまうと困るため、そろそろ帰ると伝えて身体の向きを変えようとした。すると回されていた腕の力が強くなり、無言で引き留められてしまった。
きつく叱るわけにもいかず、焦り始めた俺の気持ちなど知らない吉成は背中に顔を押し付けてきて『怖いなー』と、落とした声で呟いた。くぐもった声と、湿った息がくすぐったかった。
俺の両親は、階下にある店舗で飲食店を経営している。利便性の良い土地であり周囲に会社も多くあるため、基本的にはいつも忙しい。しかしどこかに所属し勤めているわけではないので、突発的なことへの調整が容易だという利点がある。
今回、父方の祖母が亡くなったことで発生した遺品整理や相続などをなるべく一気に済ませるため、しばらく店を閉めることになっていた。家に残された俺と妹は、普段できない店の清掃と家事を任され、まあまあ忙しい日々を送っていた。
しかしその状況がずっと続いていたわけではない。周囲の連中や吉成には言っていないだけで、そんなお家事情はとっくの昔に解決していた。何故か。俺が俺として、吉成の前に出られなかったからだ。
吉成は俺のことを『カナちゃん』だと思っている。記憶をほとんど取り戻した吉成の前にみんなと連れ立って行ってしまえば、当然ながら悲劇が起きる。もし完璧に間違った認識を正せたとして、ギリギリの線で面白黒歴史にはできるかもしれない。
でもそのオチをつけるからには『カナちゃん』にしていたような甘いやり取りはもう二度としてもらえない、という事実をしっかり腹に落とし込まねばならない。もしほんの少しでも未練を残してしまえば、関係性にヒビが入るどころではない。断絶する。中学のときに考えていた、最悪のシナリオを現実のものにしてしまう。
既読がつくと困るので、見ないようにしていたメッセージをようやく開けた。怖い、と言っていた様子は全く読み取れない、いつも通りの能天気な文書だった。
「オレお前に嫌なことしてたかも。でも頭打って忘れてるだろうから教えてー」
「別に嫌じゃない」
病院内でスマホを使えるのは限られた場所だけになっている。返信は翌日だろうと思っていたら、わりと早めに返ってきた。
「じゃあなんで一回も来てくんないのー。めっちゃ寂しー。もう夏休みだしうち来てよ」
「わかった」
喜びを示すスタンプが送られてきて、その日のやり取りは終了した。そういえば『カナちゃん』とのやり取りはどうしていたんだろう、既読すらつかないはずだが、と考えたのだがすぐやめた。
いまの吉成の認知は狂っている。俺も同じように狂っている。吉成の家族もクラスの同級生もみんな望んでいた完治なんて、俺にはどうでもいいからだ。
——————
「えっ、えっちょっ、待って! やめよう、やっぱやめよう!」
「やめようってなんだよー。傷つくなー」
「やめ、うっ…………! お、お友達! 来るんじゃないの!?」
「えー? 来ないよどうせ。あーあ、友達ひとり失ったー……」
「は、話し合えばいいじゃん、喧嘩したわけじゃないんでしょっ……! ねえ……!」
「話し合いってー、相手が応じてくんなかったら意味ないんよねー。はあ、ほんとになんかしたっけかー。記憶にない。ん? なんか今日の下着かっこいいなー」
俺はそのつもりで支度をして、そのつもりで訪問した。が、いざ本当にそういうことになってしまうと、妄想とはまるで違うリアリティに圧倒されて怖気付いたのだ。アホだなんだと笑うがよい。
背丈はそんなに変わらずとも、上に乗られてしまうとかなり大きく見えることを知った。興奮している相手というのは話が通じず、意志に向かって真っ直ぐ進んでゆくため説得が難しいことも今知った。生の人間と交わったことなどないが、意思のない無機物相手とは違い先に進んでしまうと、当然記憶を共有するため後戻りはできないことは知っていたつもりだった。
俺の身体を見て我に返る可能性だってちゃんと考えていた。もしそうなれば、それはそのときに考えようと思っていた。甘かった。事の重大さを舐めていた。
「なんだあ、もう濡れてんじゃん。挿れていい? 久しぶりすぎて既に限界」
「ま…………まっ……てっ……」
「あ、暑い? 冷房強くする? 顔すっごい赤いよ。汗かいてるし」
「だいじょ……いいっ、もう脱がさなくて
、いいからっ……」
「えっ? んー……それはそれでエロいな。じゃあ汚さないように気をつけよ」
「え、え、あ、よしな……じゃなっ、湊っ、みなと……!!」
自分で自分の欲を処理することには慣れていた。これで収まるのだから安いものだと。相手の機嫌や交際期間や雰囲気作り、そんな前段階を踏む必要もなく、気遣うための手数がない、手軽で良いものである。だから相手は別に生身の人間じゃなくても良い。全くもって構わないと。
しかし相手は人間、しかもずっとずっと好きだった人。性欲に感情を乗せた性交は、足し算ではなく掛け算となり処理し切れない数字の積となる。想像以上の感情量は飲み込む以前に溢れてしまい、酔わされて、他のことが考えられなくなる。これも今初めて知ったことだった。
目で確認することのできない弱い粘膜だらけの奥までは、自分の手を使ったときでも怖くてろくに進めなかった。浅いところだけを押して擦って、一時的に欲を満たしていたのだ。
その見えず光も届かぬ狭くて暗い場所に、熱くて硬い自分と形の違うものが、己の意思とは別の動きと速さをもって侵入する。慣らしたはずの肉壁は思った以上に広げられ、鈍い痛みがわずかに走った。少し焦ったが、その痛みすらも良いものだと勘違いしてしまうくらい、今まで到達したことのない奥の奥を硬い肉で押しつけるように擦られ続ける快感は、病室でのキスと比べて何十倍も気持ち良かった。
こんなことは好きでなければ、また信頼していなければ、到底受け入れられないことだと思った。しかし心と身体、両方の中に入れても良いと思える愛しい相手でも、緊張が解けてくれるとは限らない。いまも破れそうなくらいに心臓がドクドクと鳴っているし、目に入って痛いくらいに汗をかいており、手をどこにやれば良いかがわからない。
吉成の肩を掴んだり、ベッドの上で彷徨わせていた手に手を重ねて握られたその瞬間、心臓がギュッと強く収縮したあと悲鳴をあげたように大きく鳴った。さっきよりもずっと身体と身体は密着し、吉成も鼓動を早めていることが皮膚感覚で伝わってくる。
笑顔を消して、俺をじっと見つめている奴の目に何が見えていたっていい。関係ない。いまは身体を繋げて同じ方向を向いている。想像上の生き物ではない、元気に生きている俺の好きな人と。
やがて大きく開いた脚の付け根が徐々に痛くなってきていたし、中をもっと濡らせば良かったなどと思っていたが、まだ終わらないでほしい、官能的な時間がもっと続いてほしい、と願っていた。
何度達したかはわからなかった。中が収縮していたのか、その都度動きを緩めてくれてはいたのだが、前に触ってくれることはほとんどなかった。興奮して上に上がった膨らみの下は指で優しく擦ってくれる。それだけでも気絶しそうなくらいに気持ち良かったが、その上で屹立しているものには自然と意識が向かないようだった。
それがとても切なかったが、だからといって自分で扱くわけにもいかない。ほんの少し残った正気でなんとか我慢をしていたが、その生殺し状態のせいもあり何度イッても甘イキ、という状態になっていたと思う。
先に意識の限界が来そうだ、と星の見える不思議な視界を眺めながら上下にガクガクと揺らされていたそのとき、吉成が大きく息を吐き、腰の律動を早めてきた。もう出るものが出ず、喉はカラカラで脚の感覚も鈍く正直かなり辛かったが、それでも身体は次がないかもしれないと貪欲に食らいつき、感じることをやめてはくれなかった。
次がなかったらどうしよう、よりも痛みと快感の区別がつかなくなったらどうしよう、というのが最後に考えたことだった。まあ、なったらなったでその時だろう。俺の思考の癖はどんなことがあっても簡単には変わらぬようだ。
「声出してもいいよカナちゃん」
「うんっ……! でも……!」
「もうすっごい濡れてるけど。ここで挿れていい?」
「え、ここで……あっ……!!」
「あー、ごめんごめん。最近すごい感じてくれるから、ちょっと我慢できなくて……」
朝から殺人的な暑さである。当分の間は外出禁止を言い渡されたという吉成は、宿題を一気に終わらせてしまおう、という誘いを『カナちゃん』の俺にかけてきた。
また約束を破ることになるのは心苦しいので、家のせいにして『俺』とは会えない設定にしておいてある。その寂しさも相まってか、ことさら奴は『カナちゃん』に会いたがった。
あんなことはそうそうないだろう、だって付き合いたてじゃないんだし、と俺は自分で自分を納得させていた。だが違っていた。
入院中は検温やら様子伺いやら、誰がどのタイミングで病室に入ってくるかわからない。たとえトイレに行ったとしても、大きな病院は人が多い。入院患者や、外来患者が採尿のために利用したりで騒がしい。消灯時間は一人になれるが、そこは夜の病院というシチュエーション。どうしても気分は沈んでしまう。だから思うようにはいかなかったそうだ。
ある意味禁欲生活明けの吉成は、部屋で二人きりになってしまうと宿題なんかそこそこにして、すぐにそういう雰囲気を醸し出してくる。あれ、もしかしてこれってアレか、と思ったころには背後を取られてその場に押し倒されたり、スキンシップ程度に見せかけたキスから入り、本気のキスが始まったりする。
さっきも背後から抱きしめられて、振り返ったところで唇を奪われ、Tシャツの裾をたくし上げて手を入れられた。胸など全くないことに気付かないのか、女の子とは違うはずの突起を指で優しくこねくり回して遊び出す。
そうされると俺もスイッチが入ってしまう。ちょっと体重をかけられただけで簡単に倒れてしまったし、楽だから着ていたスウェット地のズボンを下着ごと引っ張られ、下を剥き出しにされている。
冷房の風がひやりと太腿を冷やしてすぐに、吉成の熱い肌が密着した。『カナちゃん』はこういうのが好きだと思ったのか、いつも全部は脱がされずに事が始まる。
「今日さ……、泊まってかない? 親いないから」
「あっ、あっ……え? 泊まりっ……? あっ」
「一緒にお風呂入ろーよ」
「え、やだ、ダメっ……やっ、あっ!あっ!」
「いいじゃん。なんでダメ?」
「そんなっ、人様のお家でダメだよ、勝手なこと……!」
恋人の家はラブホじゃない。そういう常識というか、心理的抵抗があったのはもちろんとして、風呂場で全裸を見られたのがキッカケで我に返られる可能性もある。それはこちらとしても全力で避けたかった。
呆然とした全裸の男共が風呂場で棒立ちしている光景。突っ込み役が不在の空間。惨劇じゃないか。いたたまれない。そんな妄想をしていると、集中していないことを咎めるように腰の打ちつけ方を強くされた。
「明日からお盆に入るじゃんか。オレは近々本家に行くからしばらく会えないしさあ、今日だけ特別。ねー、いいでしょ?」
「あ、んっ、強いっ……! んんっ……!!」
「うわ、きっつ……! すっごい締まる……! 緩めて緩めて」
「はあっ……! はっ……! ちょ、ちょっとまっ……しゃべれ、ないっ、あっ、やっ、みなと!」
「じゃあ、一緒にお風呂は諦めるから。とりあえず準備してまたうちに来てよ。いい? わかった?」
「わかっ……わかった、わかったからっ、あっ、みなとっ、つよくしないでっ……みなと! わざとでしょ!」
吉成は片手で低いテーブルの縁を掴み、もう片手で四つん這いになった俺の腰を掴み揺さぶっている。ガタガタと一緒に振動しているテーブルからペンが転がり落ちてきた。その様子をなんとなく目で追いながら、これはいつまで続くものなのか、夏休みも後半へ突入しかけているのに、と今更なことを考えていた。身体の内側から何度も強く圧迫され、吐き出す途中で切れてしまう息と同じように思考も途切れさせながら。
節ばった手のひらが一瞬視界に入って引いた。猫のように上げた腰を両手で掴まれ、後ろの方へ引き寄せられる。そろそろ限界に近いようだ。揺れによる視界不良のせいで、落ちたペンの輪郭がひとつも見えない。
俺には余計なものがついている。誰にも触ってもらえず硬くなっているだけのそこは、時折吐き戻すように白濁した粘液を溢してしまう。ゴムをつけるタイミングなどないので、いまも淡い水色のカーペットにうっすら光る跡をつけてしまった。拭くものは持参してあるので、また自分で片付けをしないとならない。それが惨めだと感じた。少しだけ。
さすがにもう無理だろう。ちゃんと言わねば。関係の断絶は避けたかったが、吉成の尊厳をこれ以上傷つけたくない。でもなんて言えば伝わるだろう。それにかなり衝撃を受けてしまうのでは。
あいつはあんな能天気に見えて友達思いの奴だから、俺に危害を加えてしまった、なんて考えて思い悩むのでは。充分あり得るから怖い。でも怖がっていては前に進めない。
願わくば、避けられない精神的ショックと共に、俺にやったことを全て忘れてほしいと思っていた。忘れられるのは正直辛い。でもそんな感傷に浸る資格はない。俺は吉成の認知の狂いを利用して、いままで散々身体を繋げてはよがり狂ってきたのだ。もう潮時だ。いい思いをさせてもらった。文章や画像には絶対残せない、素晴らしい思い出を貰ったのだ。
好き好んで洗脳したわけではないが、そういう類の間違いを正すつもりで吉成の家の門を再度くぐった。長期戦になるかもしれない、と気合いを入れる。お盆の時期を過ぎても変わらなければ、残り少ない夏休みを一日ずつ数えては焦るばかりになるだろう。時間はあまり残されていない。
相変わらず俺が『カナちゃん』に見えているらしい吉成は、上機嫌で迎え入れてくれた。本物の彼女をここに招いていたときも、こういう顔と仕草を見せていたのだろうか。男友達には絶対に見せない姿を。
「すげーなカナちゃん! 手際いいー。卒業したら結婚してよ!」
「別に普通、っていうか親と比べたら遅い方だよ。結婚のほうはまだ早いよ」
「えーだってー。早くしないと取られるじゃん」
「誰に。あっ、テーブル拭いてってば」
「はーい」
「拭き方が違う。四角いテーブルは四角く拭いて!」
本音を言うと、吉成の奥さんごっこに付き合うのは骨が折れた。うちは飲食店だが、店でも家でも誰が何役をやるなんて一切決まっていない。手隙の者がやるというのが不文律だ。それは子供だからといって免除はされない。できる事からやらされたし、勉強という大義名分がなければ家事をどんどん任されていたと思う。現に妹は勉強嫌いなのと、小遣い増額目当てという動機をもって活躍している。
うちはある意味、世間一般の人たちが作ろうとしている理想の家庭なのかもしれない。単に親たちの仕事が同じであるからして、協力関係を築く他ないというのが実情だが。
「肘つかない」
「あっ、はーい」
「寄せ箸しない。行儀が悪い」
「寄せ箸ってなんだっけ?」
「だからそれだよ。お皿が倒れたり、滑って落ちたりしたら料理がもったいないでしょ」
「ふーん、わかった」
「箸の持ち方が違う。こう」
「んー……それ、なんか持ちにくくて」
「今から慣れれば良いでしょ。ペンの持ち方もおかしいし……」
「カナちゃんお母さんみたーい。小言多いけどイイ奥さんになりそうだなー。料理もすげー美味しいし! お店みたい!」
小言を言わせているのはどこのどいつだよ、とイラッとしたり作ったものを褒められてちょっと嬉しく思った食事を済ませ、洗い物は当然のように俺が片付け、一息ついたところでお風呂をいただいた。
頭を洗いながら『カナちゃん』も色々大変だったのではないか、それとも似たような人種なのかと細かいことをブツブツと考えていた。
いや違う。俺は甘やかされ三男坊である吉成の躾をしに来たわけではない。しっかり真実を告げて、この奇妙な関係を終わらせるために来たのだ。
手前勝手な寂しさとは折り合いをつけた。つけたつもりだ。もしぶり返しが来てしまっても、幸いクラスは分かれている。部活も違う。一旦リセットがかかるだけ。
将来はきっと、甘えたで寂しがりなところのある吉成は誰かと結婚するのだろうが、俺は中学のときからその道に諦めをつけておいてある。元からひとりで歩む道に、再度戻って歩くだけ。
「……吉成、待って」
「今日はもうダメ? あと一回だけ。おねがい」
「やだよ、ダメ……ダメって言ってるでしょ、話聞いて。準備してないから」
「準備? なんの。できてるじゃん。いい匂い〜」
「あのな、俺はな、男だから。よく見ろ。目ぇ覚ませよいい加減……、あっ、ちょっ……」
「なんなのその喋り方。違うでしょ……」
「吉成、なあ、お前のカナちゃんは、去年の冬……っ、あ、そこ、噛むなよ……!」
「………………」
「……吉成! 嫌なのはわかるよ、ショック受けたくないのもわかるつもり、でも全部本当のことだから! マジで聞けよ! おい、吉成!」
「うるっせーんだよ奏多!! オレだっておかしいなとは思ってたんだよ!!」
——…………え? 思ってた?
客用布団がないという言葉を間に受けて、二人では少々狭いがベッドを使うかと話した途端、一緒に見ていたそこに向かって俺は強引に押し倒されてしまった。
最後の思い出作りという俺の勝手な名目はすでに終えている。もう寝るだけとなった頃に話をし、もし決裂したらそのまま帰ろうと決めていた。食事も風呂も済ませているので、何があっても互いにあとは眠るだけ。眠れないかもしれないが、一日のノルマとも言える行動を済ませたあとならより気が楽であろう、という家事全般が出来そうにない吉成のため、ちょっとした配慮を込めたつもりの行動だった。
しかしここに来てこの発言である。予想不可能な言い草に、俺の情緒は大きく乱された。いま俺の名前を呼ばなかったか。音が似ているから間違えたとか? いや、友達と彼女は間違えない。いくら似ていてもそれはないだろう。
おかしいなとは思ってた? いつから? 一体どこからだ? やっぱりあれだけ好き放題触っていれば、違いにはちゃんと気付くよな。じゃあなぜあんなに躊躇がなかった? ずっとノリノリだったぞお前。ほんの少しでも勘付いているなんて、俺は夢にも思わなかった。
無意識に口を開けていたのだろう、先ほど拒否したばかりのキスを勝手に再開され、思いっきり舌を入れることを許してしまった。あの病室でのキスと同じように、舌と舌の境目がわからなくなるやり方で。
うるせえ、と俺を罵ったばかりの口で今度は俺を愛撫する。優しく柔らかに舌を這わせて可愛がり、身体を繋げたときの音と感触を連想させて興奮を引き出すための前戯のひとつ。
これをされるのに俺は弱かった。身体が勝手に目蓋を落とし、もっと味わっておくべきだ、と他の情報を遮断するべく働き出す。俺はそんなつもりはないのだ、と理性を総動員して抵抗を試みてみるも、もう腰に力が入らない。周囲の血液は股間の先端へと送り込まれ、すでに四肢は使わぬ判断を下された。
俺が演じる下手な『カナちゃん』にするのと同じように吉成は、衣服を掴んで引き剥がしてくる。俺の両脚を掴んで開き、平らな身体に視線をじっくり這わせている。今は何が見えているのだろう。本当に幻想の世界から帰ってきたのか。
見つめていた時間は数秒だった。あろうことか吉成は、立ち上がって先端から透明な液体を滲ませ続け、根元までもを濡らしていた股間のものを、指の腹で拭うようにそっと撫で始めたのだ。
裏の筋から先端へ。一緒に濡れた指を細かく動かして、不規則に痙攣する竿のくびれを輪にした指をもって捉え、親指で表面だけを優しく擦る。やがて指の全てを添えて包み、やや力を込めて握り、いつも俺が自分でやっているのとは違う感触と強さで粘液の噴出を促す動きをし始めた。
俺は夢中になってしまった。これは念願だったから。拒否の選択肢など選べない。しかし、まさか現実のことになるなんて。俺にも夢を見る権利が回ってきたのか。
脚が勝手に細かく震えるのが止まらない。なぜか踵が上がり、つま先だけで脚を支えてしまうからだ。腹筋が痛い。腰が前後に動いてしまうため、その運動に無理やり腹が付き合わされているからだ。
しかし次から次へと沸いて出てくる脳内麻薬が身体的苦痛を和らげていたらしく、自分が無理な姿勢を取っていることや、ずぶ濡れの指で後ろの孔を触られていることにもろくに気付かず、俺は快楽だけを貪り食わせてもらっていた。熱のこもった脳は頭蓋骨の中に密封されたままで汗みずくになり、それが髪の生え際から押し出されているような心地だった。
ふいに吉成の手が引かれ、夢心地の感触が消えた。うっとりと余韻に浸りながらも、これでおしまいなのかと切なくなった。しかし弾んだ呼吸を整えている間に事は次へと進んでいたようで、少々強引な仕草で腰を持たれて下の方へと引っ張られ、きつく脚の間へ割り込まれた。
「あっ、待っ……いた! 痛いから!」
「あー……そうだった。ごめん、痛いよな。待ってて、ここに良いものが……」
「ちょ、何それ。マジで……? ……なあ、お前わかってんだろ、俺がっ……! 嘘だろ……!」
「ちょっとだけだから。あとで話そ」
「うそ……!! …………!!」
「声出してもいいよ、カナたん」
なにがカナたんだ。変な呼び方しやがって。わざわざそんなもんを使って濡らしてまでヤリたかったのか。入れば誰だっていいのかお前は。変態だな。最悪だ。
そんな思いはまた口の中に突っ込まれた舌と、興奮の意思を示す肉の塊を下からねじ込まれたことで封じられた。出しても良いと言われた声は頭の中だけで反響し、すっかり逃げ場をなくしていた。
本当に夢なんじゃないかと思った。現実の俺たちはさっき眠りについたばかりで、今頃は狭くなったベッドの上で無意識に陣地を奪い合ってうなされているのでは。
でも閉じようとする目蓋を無理やりこじ開けてみれば、真剣な眼差しをした吉成が見える。怒ったような目と目がかち合う。冷えているはずの室内で汗をかいている。いかにも邪魔くさそうに、上に着ていたTシャツを引っ張り上げて脱いでいる。
履いていた部屋着を剥ぎ取られた俺の脚が視界の端で揺れている。そういえば一応毛を剃ってきたのだ。冷房の風が当たるたびにスースーする。今日はさすがに必要なかったかもしれないなんて、余計なことを考えていた。
俺の両脇に手をついて腰を動かしていた吉成が、おもむろに俺の片脚を持ち上げてキスをした。そのまま膝の裏の柔らかいところを舐めしゃぶられ、舌を這わせてきたのでくすぐったく、反射的に引っ込めてしまった。
そのまま高く脚を持ち上げられ、さっきよりも激しく穿たれた。視線は俺の局部に注がれている。全部見られていると気付いた途端、顔だけに熱風を当てられたかのような感覚に襲われて、とてもじゃないが見ていられずに目蓋を強く閉じた。
記憶は定かではないが、吉成は事の最中で俺に『泣くなよ』と言った。そんな自覚はなかったが、少し視界が曇って見えたのは揺れのせいだけではなかったようだ。
「………………カナたん」
「カナたんやめろ」
「えー………………カナきゅん」
「きゅんもやめろ。なんだよ」
「カナちゃんに叱られた」
「え?」
散々ヤリ散らかしたあとの朝である。昼過ぎに親が町内会の旅行から帰ってくることを初めて聞かされた俺は、先にシャワーを浴びておこうかと誘われ汗を流してきた。吉成は、もう限界だからいらんことをするなという俺の言いつけをしっかりと守ってくれた。
しかしその後。階下から微かに聞こえてくる洗濯機の音をなんとなく聞き流しつつ、のんべんだらりと冷房の効いた部屋で涼んでいたら突然『カナちゃん』の名前が出てきたのだ。
まだ俺が彼女に見えるのか、と聞いたらそうではないという。昨日の夜、先に眠った俺の横で微睡んでいたときに見たのだと。何を。『カナちゃん』をだ。
「えっ…………怖い話?」
「いや? 全然怖くはない話。あー本物のカナちゃんだ、って感じだった。なんか見え方が陽炎っぽくて、うっすら透けてた気がする。ちょうどその辺に立っててさ」
「うわ!! マジか!!」
「いやいや、もういないから。ウケる」
……今日からお盆期間である。タイムリーすぎる話が思わぬ角度から飛び込んできて、俺は早くも鳥肌を立ててしまった。全く気づかなかった。吉成のせいで疲れに疲れ、泥のように眠っていたからだ。
「事故ったときに着てたからかな。制服だった。別に怪我とか全然してなくて。前とおんなじ綺麗な顔してた。で、脚上げたなーと思ったら、俺の腹んとこガッ、って思いっきり蹴ってきて——」
——ん? 腹を蹴っ……なんて??
初めて彼女を見かけたのは、部室にひとりでいたときの窓越しだった。テスト期間のために全部活動は休止していたが、俺は混雑しているバス停へ行く気にならず、部室で時間が過ぎるのを待っていた。
どこかでお喋りでもしていたのか、すこしまばらになってきた生徒たちの中に二人がいた。あれが噂の可愛い彼女か、と目で追った。吸い寄せられた。
色白の肌に映える黒髪は、風に靡いてはするりと肩に留まる。その真っ直ぐな髪の素直さは、彼女の性格を表しているように思えた。清楚でいかにも大人しそうで、吉成はああいうわかりやすい女の子が好きなのかなんて思いながら、二人の姿が見えなくなるまで声もかけずに見送った。
人気の少ない校内。時間が溶けてなくなる音が聞こえそうなほどに静かであったが、俺の心の中ではブクブク、グツグツと泡が沸いては弾け去る音がひっきりなしに立っていた。嫉妬と羨望を泥状に混ぜ込んだ、この世で一番汚い音が。
「おい!! お前なにやってんだよコノヤロー!! って」
「え? お前がキレたの?」
「ちげーよ。カナちゃんがだよ。……おいお前、友達にナニやってんだよ。責任取れよ!! わかってんのかコラァ!! ……って。クソほど巻き舌で」
「えー……っと、え? カナちゃんそんなキャラ? ……え? ……マジの話??」
吉成はベッドの上で涅槃ポーズを取りながら『マジマジ』と死んだ目をして呟いた。俺の記憶の中で微笑んでいる清楚で可愛い彼女と、吉成が語る昭和ヤンキーキャラの彼女のイメージがまるで合致しない。バラバラキャラ変事件である。
吉成はこれまでずっと彼女のことを自分からは語らなかった。俺は己の嫉妬と戦うのに忙しくしていたのでうろ覚えだが、他の奴が根掘り葉掘り聞いてもその応対は一貫していたと思う。絶対話さないわけではないが、とにかく詳細は濁していたのだ。
「最初はさー、よそのクラスに可愛い子いるなーって気にしてて。思い切って告白したけど誰あんた、ってすごい妥当な理由で断られて。そりゃそうか、みたいな。中学のノリ引きずってたわ」
「お前……うん、それで?」
「それでー、色々遊びに誘ったり、友達に断られたからーって嘘の理由つけて映画に誘ったりとかして、なんとかかんとか頑張った。ちなみにそのとき一緒に観たのはー」
……頸。時は戦国時代、家臣の謀反にキレた偉い人が、他の家臣たちに褒美をチラつかせながら謀反人を探しに行けとミッションを……みたいな。映倫区分はR18じゃなかったか? R15? まあ、そんなの今はどうでもいいか。
「……やばかったなー。初っ端から首なし死体がごーろごろ。その辺にいたザリガニみたいなやつがその死体ムシャムシャ食ってて、しかも——」
「あっ、内容はいい。気持ち悪くなる。お前、それ知らないで誘ったの?」
「ううん。知ってたけど頑張った。カナちゃんがさあ、観たいっていうから……」
「そっか……」
「カナちゃんさあ、男兄弟ばっかの中に産まれた子らしくて。可愛がってはもらったけど躾とかは男のそれで、特別扱いとかはなかったって。だからあんなに勇ましく……」
「お淑やか清純系なのに……」
「中学のときまでは中身そのまんまのヤンチャな見た目で、高校でイメージ変えようと思ったんだって。最初は俺がリードしよー、とか思ってたときもありました」
概ね悪口になってしまうため言えなかった、という初めて聞く話を遠い目で滔々と語る吉成は、苦笑いを交えた複雑な表情を浮かべていた。こいつはマナー全般がなってない。最後の子だということで、猫可愛がりされた末の子どもである。
彼女は他の男兄弟たちと区別も差別もされず、ときに厳しくときに甘く、口の悪い家族に囲まれ大切に育てられてきた。特に食事のマナーを厳しく躾けられてきたという彼女。一緒に食事をする機会の多い恋人関係を吉成と結んだあとは、口だけでなく時々手や足も飛ばしてきたそうだ。それはお前が悪いと俺も思う。大いに反省するがよい。南無三。
「カナちゃんが交通事故に遭ったときさ。もうとっくに別れてたんだよね。やっぱ合わないって。オレが子どもすぎるって。オレもずっと叱られすぎててさ、全然踏ん張れなかったわ。事故のこと知ったときは落ち込んだけど。元彼なりに」
「そっか……」
「そんで……次はオレが頭打った事故。最初はさ、なぜかみんなのことがわかんなかった。顔の違いはわかるのに。前と同じ記憶がサッと出てきたのはカナちゃんだけ。もういないことは覚えてなかったのに。いつも来てくれてたから、しばらく思い出せなかったわ」
「まあ、それはお前が実際に付き合ってたカナちゃんのことじゃないけどな」
「いや、あれはカナちゃんだった。何回会ってもそう見えた。でも会えば会うほど……なんていうか、視界の端に映ってるのはお前なの。でも焦点を合わせるとカナちゃんがいる。声とか触った感じとか、いないはずなのになーっていうおぼろげな記憶は、違和感として感じてた」
「……そうなん? 不思議だな……」
「でしょ。でもさ、あの気性の激しいカナちゃんじゃなくってさ、付き合う前にオレが思い描いてたカナちゃんだった。優しくて、よく笑ってくれて、つまんない話もうんうんって最後まで聞いてくれる」
「ふーん。そんな風に見えてたのか」
「オレさー。これ言うの恥ずかしいけどさ、お前が彼女だったらいいのにって多分思ってたと思うんだよねー」
「へえー………………ん??」
吉成は目を盛大に泳がせながらも、辿々しい説明と仮説を唱え始めた。見た目の好みは『カナちゃん』であるが、中身の好みは俺らしい。とても。だから一年生の終わり頃に配布されたアンケートに、自分とは別の科目を俺が書いていたと知ったとき、実はかなり怒っていたらしい。そして同時に気に病んでもいたという。
「記憶ってさ。かなり個人差がある曖昧なもんなんだって。同時に同じものを見たはずなのに、あとで聞いたら証言が食い違うとかザラだって。大きさとか、色や形とか。ていうか脳みそってそもそも解明されてないことがほとんどらしい」
「え、でもさ、俺と元カノを間違うなんてさすがに……」
「いやいや。オレらより遥かに頭の良い大人たちが雁首揃えてわかんないって結論付けてんだもん。そういうこともあるかもよ、ってか実際あったんだから仕方なくね?」
「えー……うん……じゃあ百歩譲って……うーん……」
「そんで今回、事故の衝撃によってオレの記憶が引き出しごとガーッと抜き出され、床にバーっとぶちまけられたとする。とりま死なないために身体の回復を先にして、記憶はあとで整理した。あーあー、ってしぶしぶ片付け開始。あっ、好きなもんみっけ。これとこれがオレは好き。ドーン、みたいな」
「お前、そんな……ペンパイナポーアッポーペーン、みたいな……」
妙なはにかみ笑いをしながら視線を彷徨わせていたアホの吉成は、好きなものを見つけてウキウキする少年の顔へと表情を変化させていた。黙っていたことを語り尽くしてスッキリしたのか身体を起こし、なぜかドアの方へと向かっていった。
まあ、本人が楽しかったなら幸いだ。今回のことは二人だけの秘密にして、良いお友達に戻ればいいじゃないか。俺は自分からそう言って、オチをつけるつもりだった。……しかし。
「まあさ、女装しろとかいう話じゃないから。奏多は奏多だし、そのまんまでいいからね」
「え? うん。それは元々趣味じゃない、っていうかやってないし。覚えてないかもだけど、ほんとに……」
「でさあ、ひとつお願いがあんだけど」
「……なんでドアの鍵閉めたし」
「オレと!! お付き合いしてください!!」
「は!? なんで!?」
吉成はごく自然な動作で鍵を閉め、さらにその前へと座り込んで俺を物理的に出られないようにしやがった。さらに目の前で見るのは初めてである低姿勢を俺に見せ、とんでもないことを叫び始めた。
なんでそうなる。お前はまだ現実に帰ってきていないのか。できないだろうが……できたけど。それはそれ、これはこれだろう。そもそも興味本位では困るのだ。
俺は出来る限りの言葉を尽くし、子どもをなだめすかすように諭していった。聞いているのかいないのかも判然としない吉成は、まだ認知が歪んでいる可能性がある。それは医師の判断を仰がねばならず、素人判断などもってのほかであること。思いつき、または性的欲求を満たすための願いなら、破局前提のお付き合いになるということを。
そしたらお前もそうなるが、俺は友達と恋人を同時に失うことになる。何事もなかった関係に今戻っておけば、それは最低限避けられるのだと。
今度は俺の方が目を泳がせる番だった。吉成はじっと視線を合わせてきたのでなんだか妙に喋り辛く、居心地が悪かったからだ。それでも頑張った。食い下がった。目先の欲を優先し、なし崩しに事を進めるリスクのことを考えて。
それに怖かった。何がと言うと、いまにも襲いかかってこられそうな雰囲気も感じていたからだ。例えるなら大型の猫科動物が、獲物をじっと狙っている姿勢と目線によく似ていた。
思ったとおりにジリ、ジリ、と吉成は膝を前に出して近寄ってきた。俺はまだ喋りながらも後ろに下がる。数十センチ単位で近づいてくる吉成。下がる俺。ぽすん、と何かが背中を押し返したので振り返ってみると、ベッドの端っこが目に入った。
あ、もう下がれないと気付いた瞬間、空けたかったパーソナルスペースに勢いよく侵入された。なし崩しだけは避けたい俺は、反射的に横を向いたが見覚えのある手がすでにベッドの端を握っていた。
「じゃあ聞くけどさあ」
「……何を」
「お前はなんで最後までヤらせちゃったわけ? 女じゃないんだからさあ、事前に色々やんないといけないことがあるよなー。よく知らんけど。これから知るけど」
「……きょ、拒否したら傷つくかなって……」
「ほー、そうかあ。優しさかあ。とーっても気持ち良さそうに見えましたが」
「………………」
「いんじゃね。やってみれば。もう一線超えちゃってるのに元通りとか不可能でしょ。じゃない?」
「ふ……不可能じゃない。理論上は……」
吉成は俺の上に乗っているときと同じ顔をして、着地点はこっちが決めるぞと暗に示していた。据わった目をして脇見もせず、そこだけを真っ直ぐに見つめている。あとはお前が諦めてくれれば話は早い、と。
俺は絶対負けたくなかった。隠しに隠すことで保ってきたプライドを今更へし折りたくない。もしここで諦めてしまったら、誰にも見つからないところで散々泣いた、かつての俺に申し訳が立たない。
そうだ、俺はたくさん泣いたじゃないか、と過去の可哀想な自分を思い出し、鼻の奥をツンと痛くしてしまった。こんな近くでベソをかいたらすぐバレるのに、身体の反応が先んじた。
ベッドの端を掴んでいた拳が解け、俺の頬を包み込む。同時に近づいてきた吉成の顔は手のひらで押し返した。いまはそんな気分にはなれないのだと、口には出さず行動だけで示した。もし出せば、無関係なはずの吉成に八つ当たりをしてしまいそうで…………あ、しまった。
「いっ……てえ〜〜」
「あ、えっと、ごめ——」
などと思っていたそばから俺は、ほとんど反射で吉成の顔面をブッ叩いてしまった。土下座されたのも初めてだったが、人をビンタしたのも初めてだ。自分のやったことに自分で怯んでしまい、隙を作ったが最後。服の襟首と顎を強く掴まれて、怒気を孕んだ視線で射抜かれ、ああやり返される、と身構えたのだが。
「………………!!」
「付き合って」
「嫌だ、んっ…………」
「付き合って!」
「やだって! キスすんな、やめ…………!」
「付き合って!!」
この甘やかされ三男坊が。前からずっと思ってたよ。欲しいものは手に入れるまで欲しい欲しいとやかましく、あげたらあげたでまた次を期待してまとわりつく。お前という奴はいつもそうだ。一本くれと何度も言うから何度もあげたポテトとか。合計するといくつになるよ。絶対何個か買える総計になる。返せよたまには。
キスがやたらと上手すぎるのにも腹が立つ。どこで覚えてきやがった。今まで何人と付き合ってきた。別に聞きたくないしどうでもいいが、これをすれば俺は大人しくなる、言う事を聞くと思っているだろう。ふざけるな。
「……やめろ、触んな……」
「勃ってるじゃんか。触ろっか」
「………………いやだ」
「言うの遅いわ。上手くできっかな……」
「え? え!? ちょっ、ちょ待っ……やめろやめろ!!」
「いてててて! 噛んじゃうだろ!」
「噛むな!!」
「じゃあ耳引っ張んないでくれる!?」
「ただーいまー! 湊ー! お友達いるのー? お土産あるから持ってったげてー! ねえ湊ー! いるんでしょー?」
——秒で萎えた。危なかった。
マジか、と見るからに気分を害した吉成のことは放置し俺は服装を、といっても部屋着だが、とにかくマシに見えるよう整えて、ボサボサになっていた髪を手のひらで撫でつけながら慌てて階下へ降りていった。
リビングで荷物の開封をしていた吉成のご両親を前にして、ご不在のときにお邪魔してしまってすみません湊くんと同じ高校の者でして、と極めて平静を装った風のご挨拶をした。
普通のことを言ったはずだが、なんだかいたく感激されてしまい『あなた甘いもの好き? しょっぱい方がいい?』『両方持ってっていいよ!』とお土産をその場に並べまくられ、名前はとか、一緒のクラスなのかとか、どこへ進学する予定なのかとか、質問責めにもされてちょっと困った。
ご両親には満面の笑みで『これからも湊をよろしくね!』と言われ、後からのんびり降りてきた吉成には『そうそう。ずーっとヨロシクネ』と、白々しい台詞をポイっと雑に投げつけられた。お前のよろしくは全然意味が違うだろ。ていうか土産を貰ったなら即食う前に、まずはありがとう、と一言添えろ。
——————
「ねーカナたん。ちょっとご休憩しよーよー」
「しない。まだ終わってない」
「明日やればいいじゃんよ。もう疲れたー」
「なあ湊。お前さあ、この怠け具合でよくうちの高校受かったよな。あー、あれか。やってんなお前」
「あっひどーい。カンニングなんかしたことないし。ちょっと天才なだけですし。ちなみにオレのおとーさまの大学なんて——」
「…………えっ!? 難関じゃん……クッソ、遺伝子か……この世ってほんと不公平……こらっ、やめろ、脱がすなって! コラ!」
「最近全然してないじゃん。ねー。いいじゃんいいじゃん」
誰か俺を馬鹿だ阿呆だと罵ってくれ。あれだけ関係性がーとか、尊厳がーとか、さんざんわかったような口ぶりで賢しらげなことを呟いていたくせに、俺は。
偶然の産物ではあったが、早めに帰宅してくれた吉成のご両親のおかげで脱出できたにも関わらず、結局ここへ戻ってきてしまっている。俺はまた誘われるがまま吉成の家へ行き、学生の本分である勉強を真面目にしていたが、いまは腕を回されついでに釦を外され、肌で愛情表現を受け止めている。恋人として。
「……あのさあ。学校でカナたんカナたん言うのやめろよ」
「なんで? いいじゃん。ていうか集中してよ」
「みんなが……カナちゃんの事情知ってる奴らが、変な顔するときあるから……」
「あー。付き合ってるの知ってるからじゃね?」
「は!?」
「そんなんどうでもいいじゃん。集中してよー、もー」
出来るわけないだろ馬鹿野郎。俺に断りもなく、いや言うなと言った記憶はないが、そんな個人的な情報をこいつは勝手に言いふらしやがったと。なんてことだ。神がお隠れになってしまった。世界は永久に真っ暗だ。
「最悪だ……! 終わった……!」
「どうせもうすぐ進路相談の時期じゃんか。みんなそれどころじゃないってば」
「でもっ……あ〜〜マジか〜〜……」
「みんな大人よなー。誰ひとりとしてしつこく深掘りしてこない。いつもと態度一緒じゃね? だからカナたんも気付かなかったんじゃん」
「深掘りなんか怖くて出来ないだけだろが。お前さあ。カナちゃんはいいよ。可愛い自慢の彼女だし。でも俺のことまでペラペラ喋るのほんと何なんだよ……」
「は? カナたんが可愛くて良い子だからに決まってんじゃん。ほら、床じゃ嫌でしょー。こっちおいでー。カナたーん! 今日もカワイーネー!」
俺は先ほど頭を抱えた手指にすら脱力感を覚え、指の隙間越しに湊を見た。大きく広げた腕と同じように顔一面にも大きな笑いを広げている。その背後にある窓枠は奴のために設えた額縁のようであり、位置を狙ったかのように白く輝く太陽までもがひょっこりと顔を覗かせている。雲ひとつない、本日は晴天なり。
なんて能天気な絵面だろうか。落ち込んだ俺との落差が半端ない。諦めて飛び込んでしまえば楽になれるのだろうが、過去に必死で頑張っていた俺自身が、現在葛藤している俺の情けない姿を横目で見ている気配がする。
行くか行かぬか。乗るか反るか。決定権があるのは現在の俺だけである。迷うなあ、と呟いた。太陽が似合う陽性の権化はきょとんと小首を傾げながら『迷う余地ある?』などと言いのけた。