「おい風磨。お前、高校で狂犬とか言われてるらしいな。目が合った奴は片っ端から半死半生にするってよ」

 我が姉からの一言である。うちに来たレイと一緒にせっせとスナップえんどうの筋取りに精を出していたとき、定時で帰って来れたらしき姉が着席するなりそう言い放ち、いつの間にか持ってきていたビール缶のタブをプシュッと開けて飲んでいた。グビグビと旨そうに喉を鳴らしながら。

 本人の俺が知らぬ間に、番犬から狂犬へと進化してるじゃないか。誰だ、勝手に経験値を積んでくれた奴は。

 「あたしの友達の弟がお前と一緒の高校らしいぞ。さすが我が弟。姉さんは嬉しいぞ。今夜は祝いだ」
 「酒飲みてえだけじゃん。好きに飲めよ……」

 「レイ。お前も婚約者が強いと嬉しいよな。なあ?」
 「うん! めっちゃ嬉しい!」

 ぐっ、と喉が勝手に上下し、咽そうになったがなんとか耐えた。こっちもいつの間にか彼氏から婚約者へと進化してるじゃないか。誰だ、勝手に……姉だ。姉しかいない。

 俺たちが下処理をしたスナップえんどうは母の手によって手早く茹でられ、たっぷりとマヨネーズを絞った小皿と共にテーブルの上へ帰ってきた。帰るなりに空きっ腹のままですぐ酒を飲み出す姉のために母が作った、食前酒のお供である。

 俺たちは酒を飲んだりしないし、正直早く二人きりになりたい。ついでにムシャムシャ食べているレイを俺の部屋へ誘おうとしたそのとき『ま、どうせ噂がひとり歩きしたんだろ。あたしの話はノンフィクションだけどな』と、姉がレイの気を引く話題を出してしまった。

 ちらりと横目で様子を伺うと案の定、目をパッチリ開いて姉の話を聞く態勢へと入っている。少し聞かせてから誘うしかない。しばらくは俺との愛の確認より、姉の話で興奮しているだろうが。

 しかし姉烈伝は数が多い。漫画にすると軽く10巻は超えてしまうだろう。何巻目の何ページのエピソードを出すのだ、やはり掴みの良い1巻からの引用か、などと肘枕をつきながら予想で暇を潰していると『あたしが小4のときにさ。たまたまコンビニでアメリカンドック買おうとしててな』と姉は遠くを見ながら話し始めた。

 なんだと、それはエピソード0のネタじゃないか。読者様のご愛顧に感謝して、完結後とかに出すやつだ。話のピークを過ぎた後でも楽しめるように工夫された、強烈なネタが採用されているやつ。……これは長くなりそうだ。

 案の定話は長くなり『その辺にある酒瓶とか使っても良かったけどな』『器械武術もできるんだ、すごー』などと、まだゴチャゴチャと話している。そして『ごはんだよー!』の声がかかった。タイムリミットだ。ちくしょう、姉の話はレイにとって魅力的すぎる。



 夕食を食べ、また酔った姉が繰り出す酔拳に翻弄されるレイを横目に風呂へ行き、今は宿題に勤しんでいる。姉の鼾が壁越しに小さくガーガーと響いているのをBGMに。

 「ただいまー。ねーちゃんのイビキすげーな。階段上がる前から聞こえてたし……」
 「おかえり。あのさ…………うっ!!」

 さっそく始めても良いかとレイに聞くつもりだった。だのに俺は気付いたら、天井についた丸い明かりを見上げていた。

 まず、俺はレイに後ろからぎゅっと抱きついた。次にレイは俺の手首を掴み、下から身体をすり抜けさせて、というところまではちゃんと覚えている。少々嫌な予感はしたのだが、そのあとすぐにベッドの上へと投げ出されていたのだ。

 抱きついてきた俺の右手首を掴む。それとほぼ同時に右脚を下に沈ませる。ガクンと片膝を折る格好だ。肩も同じ方向へと沈んだため、上から覆い被さっていた俺の身体は右上から斜め左下へ、ぐるりと半回転させられることになった。

 こうなれば身長の利など関係ない。なんなら体重が重い分、バランスを崩すとより不利である。意図せぬ方向に動かされてしまった自重を後から制御するというのは、いくら鍛えた筋力をもってしても対処がしにくいものなのだ。俺ができたことといえば、壁に脚をぶつけて怪我、もしくは穴を開けてしまわないよう気を配る程度のことだけだった。たったそれだけのこと。

 「んははは!! 一本!!」
 「ちょ……ええ……!? 酷くない……!?」

 「風磨もなんかやってみてー! よしこーい!」
 「えー……? えーっと……」

 合気道の使い手が先手を取るようなことはあまりない。相手の力を利用するためだ。その作用点を崩し、力点を相手に浴びせ、自業自得由来の攻撃を相手にかける技。

 だから手っ取り早く転がすため、とりあえず前から抱きしめようとした。レイは素早く両手を前へ突き出して、接近自体を防ごうとする。己の腕を封じられてしまえば、あとは力の強い者が勝つシナリオへ進んで行くからだ。しかし遊びであるとはわかっていても拒否されてしまったようで、ちょっとだけだが傷ついた。

 次にレイが見せたのは合気道の基本である、斜め方向に回転するような動き。俺が真っ直ぐ伸ばした右腕の手首を持ちながら、その下を潜り抜けるように移動して、俺の真横に立とうという腹積もりらしい。

 だが俺の方だって経験者。加減をしながらだが、そもそも潜り抜けられないようにガードした。顔面に衝突だけはさせぬよう注意して右脚を使い、軽く上方へ掬う形の蹴りを入れる。レイは俺の脚に身体を掬われ、下半身のバランスを崩す。

 「わっ…………あー、くっそー!! 重い重い重い!!」
 「あっこら、暴れるな。諦めろ」

 いま何をしているか。すかさず接近し、とにかくぴったり密着し、のしかかっているだけである。達人相手ならきっと今頃は上手いこと空中へ飛ばされているのだろうが、おそらくレイはここまで大きな奴と組んだ経験がないと見た。

 そして俺の方も鍛えている。様々な人殺し技を組み合わせた術を。蹴りを入れることができた時点で、本来なら喉元を潰してかかれたのだ。

 他に派手な技も使えるが、基本的にすり足が使えないほど高低差のついた山中のような地面や、武器を身につけ動きに制限のある状態を想定してある技も多い。

 大して広さのないこの部屋で外や道場のように動いてしまうと、あちこちぶつかったり割れたりするのでわりと気を遣ってこうなった。しかし当然だがトドメとして関節や急所をキメることはできない。こんな小さい奴に。怖すぎる。

 レイはレイで鍛えているので、いい塩梅はどこだと躊躇している俺の下で猫のようにふにゃふにゃ動いてすり抜けようと頑張っている。そのたび手を変え品を変え制圧する。拘束からぬるんとすり抜けようと頑張るレイ。制圧する俺。トドメを刺せないための繰り返し。泥仕合の名に相応しい。

 どうしたものかと迷っていたが、ふいに目に入った耳にかぶりついてみた。ビクッと身体が痙攣し、俺の関節を掴んでいた手が緩んだ。『やだっ……』と色っぽい声を漏らしている。してやったり。よし、今度こそ、このまま——

 「コラァ!! お前らうっせーぞ…………合意か?」
 「ごっ……合意だよ!」
 「合意でーす……」

 さっきまで寝ていました、といわんばかりの逆立った頭髪のままで現れた姉は、さっきと同じくバン! と豪快に扉を閉めた。廊下をドスドス歩きながら『チッ、んだよ人が気持ちよく寝てっときによー』とボヤいている。続いてトイレのドアを雑に開ける音が遠くに響いた。

 姉は酒が入っているのでトイレは近いが、多分またすぐに眠ってくれるだろう。ホッと一息ついていると、首筋に生暖かいものがひたりと触れた。ゾクッとひと筋の電流が体内を走り、思わず決めたはずの手の位置と、体幹の軸がブレてしまった。

 気分的には降参だ。こいつからの精神攻撃は防御ができない。当たりの範囲が広すぎる。全身が急所と言って差し支えがない。それを察したのか、レイは俺を見つめて笑っている。マウントを取られながらも勝ち誇っている。

 ぐしゃぐしゃになって床へ広がる栗色の髪。頬は化粧を施したような桃色に染まり、汗をかいたせいでしっとりと濡れ、まるで真夜中の遊びの最中を連想させる。息を乱してうっすら開いた唇から、白く小さな歯がチラリと覗く。

 「……続きしないの?」

 ——するに決まっている。ベッドの上で。



 ——————



 「はいっ。というわけでー、玲くんが風磨の法律上の親になりましたー。おめでと〜〜!」
 「わーい! ありがとーございまーす!」

 「おめでとう! 風磨、ちゃんと養ってやれよ!」
 「もし食うに困ったらあたしと結婚しろよ。ちゃんと腹いっぱい食わせてやるからよ」
 「なんでそこだけ価値観古いんだよ……共働きだよ当たり前に。ていうか姉ちゃん結婚してんだろ」

 レイは俺と武術ができれば他のことはなんでも良い。俺なんかはもっとなんでも良かった。レイと暮らせるなら。そんな2人なので、大学なんか出てもどうするというところで意見が合致し、すんなり就職組へと進んでいった。

 うちの高校はそこそこ成績優秀者揃いなので、地元や都市部が本社であるでかい企業からのオファーが多い。その流れに乗っかったのだ。土日祝は当然休み、有給取得率100%、目指せ残業ゼロ。今の所はゼロではないが、何時間も拘束されるようなことは全くない。

 夕方以降の道場を手伝える。レイもいる。この毎日に不満はなかった。卒業後、普通にうちへレイが引っ越してきたのがでかい。別に豪邸とまではいかないが、部屋数の多い家で良かった。これは今日に至るまで県内外からたくさんの門下生を引き込んできた、我が先祖たちのおかげであろう。

 そんな楽しい毎日を過ごしていたある日、母が言った。『手続きはいつにする? 今度の大安は土曜日だけど、戸籍の移動関係だから夜間窓口に提出できるよ。あんたたちは成人してるから親の出番は特にないね』。

 手続き? とレイと顔を見合わせていたら、読むのも面倒くさそうな書類を母が色々とテーブルの上に並べてきたのだ。その中にあった『養子縁組届』。

 母がキッカケを作ったこの話。本当に大丈夫なのかと不安になるほどトントン拍子で進んで行った。格闘技マニアであるため、元々乗り気なレイの父を押しのけるようにして話に入ってきたレイの母は宝くじをよく買う人らしく『ねえねえ、この日はどう? 一粒万倍日(いちりゅうまんばいび)! あっこの日だと大安と重なってるし母倉日(ぼそうにち)だよ! ここにしな!』などと、すごい勢いでアドバイスしてくれた。

 その日は普通に平日だったので、やはり夜間受付を利用することになる。もし提出した書類に不備が見つかると、後日市役所から電話がかかってきて再提出するようにと求められるのだ。当然その日には受理されていないことになる。

 そのため書類の作成はレイの母が絶対間違いのないようにと二重、三重のチェックをしてくれた。吉日に対する熱量がすごい。非常に有り難いことなので、平日の夜にわざわざ行くのは気が進まない、そんなの迷信だろ、という本音はなかったことにしておいた。

 言われるがままに手を動かし、ぼーっとしている間に俺はレイの親となっていた。法律上の。一粒万倍日であり母倉日とやらに。全然実感がない。ちなみにレイの母はその日に合わせてしっかりナンバーズを購入し、見事に当てた約3万円をそのままご祝儀の一部として俺らにくれた。

 今は祝杯で酔ったレイが横に寝転び、ウトウトと微睡んでいる。長い睫毛がゆっくりと僅かに上下して、酒のせいで全身がほんのり桃色だ。ため息混じりの喋り方といい
 、色っぽいなとソワソワしてしまうが、無理はさせられないので手出しは控えている。

 階下ではまだ家族が飲んで騒いでいる。テレビで何か面白い番組でもやっているのか、姉のでかい笑い声が一番よく聞こえてくる。明日は土曜。いつもは開けている道場も休みにしてあるので、みんな休みだ。俺たちのお祝いにかこつけた、束の間の開放感を楽しんでいる。

 「……なんかさあ。門出とかいうやつだってのに、親に頼りっきりだった気がするな」
 「んー……、いーんじゃなーい……」

 「でもさ、もう俺ら仕事もしてんのに。ほんとはさ、2人暮らしとかしてさ、苦労しながら2人の時間を過ごしたほうがいいんじゃないかとか、そういう……」
 「ふふ、めっちゃ真面目。んふふふふ……」

 「えー……、だってさ……」
 「立ってるもんは親でも使えって言うじゃんか……相手の力を利用するのが……あいきどー……」

 俺にそう言い残して目を閉じたレイは、先に夢の世界へと飛んで行った。明かりを完全に落とした部屋からは星がよく見える。その黒い空で何かがキラリと動いた。流れ星だ。レイに声をかけようと振り向いたが、よく眠っているので起こさずに置いた。

 しまった、一生一緒に居られますように、と願うのを忘れてしまった。俺はその日、吉日を迷信だと軽く見ていたこともサッパリ忘れ、二度目の流星が来るそのときを今か今かと子供のように待っていた。

 しかしレイの身体に触れたところから体温が少しずつ移ってきて、手足がポカポカ温められ、すぐに寝かしつけられてしまった。