まだ肌寒い春のある日のこと。天井に近い窓の向こうには澄んだ水色の空が広がっていて、桜がこんもりと頭を覗かせていた。その真下の壁一面には紅白幕が垂らされている。くっきり分かれた赤と白のコントラストが目に眩しい。

 今日のために磨いたのであろう床は透明なワックスで神経質に塗り固められ、その上にはまだ真新しい上履きと、学ランに身を包んだ生徒たちがオセロの黒勝ち盤面のごとく等間隔に整列していた。

 黒山の人だかりであるその空間は、少々耳障りなほどにざわついていた。壁際で一列に並び立つ、何事かを言いたげな先生方の視線をまるで気にもせず。

 ざわめき声の大半は『うわ、可愛い』『めっちゃ美人』『あの子誰?』。低く野太くザラついた、可愛げのカケラもない男の声で占められている。

 今から入学式が執り行われる、ここは男子校の体育館。甘い香りなど一切しない、なんなら悪臭漂う野郎共が集められた場所である。そこでは背が低かったり、幼顔な奴を女子の代わりに愛でる者がいる、とは聞いていたがもうなのか。気が早くないかと呆れてしまう。あくびが出る。帰りたい。

 立ちながらウトウトと小船を漕ぎはじめていたその瞬間、ゴトリ、という重い雑音が響き渡り『静粛に!』とマイクを通した先生の声が空気を辛く震わせて、皆がやっと前を向いた。

 人と人との隙間から少しばかり姿が見えたそいつはやはり、小柄で線が細かった。しかも色白だ。髪も肌も色素が薄い。顔が見えなくとも可愛い、と評される容姿であることが伺える。

 これからあいつ、大変だろうなあ。でも案外チヤホヤされまくり、楽な学校生活が送れるかも。いいご身分になれるじゃないか。何度か目のあくびを噛み殺しながら、他人事として捉えるだけで終わるはずだった。

 初めて足を踏み入れた教室内。あいつ早速取り囲まれて質問責めに遭ってやがる、先生まだかなあ早く帰りてえ、などと考えながら、ぼんやりとその光景を眺めていたときだ。話題の中心である小さい奴がパッと突然こちらを向き、しかも二度見してきたなと思ったら、ズカズカと人を掻き分けて俺に近づいてきた。

 「あ? 風磨(ふうま)? 風磨じゃね? (レイ)なんだけど覚えてる?」
 「レイ…………あっ」

 「えー! めっちゃ久しぶりー! 4年のときに引っ越してってそれきりじゃね? オレの記憶力やばくない? めっちゃでっかく育ったじゃん。いいなー。でも顔だけ全然変わってねー!」

 かつての同級生の名を出してきたそいつは確かに面影は少しあるものの、恐ろしいほどに仕上がっていた。そこだけライトを当てたかのように発光している白い肌と、漫画から抜け出してきた風である虹彩の綺麗な瞳を俺に向け、赤い花弁に例えられそうな唇をキュッと持ち上げ、可憐なのにそこはかとない迫力を感じる笑みを浮かべている。

 なにが面白いのかきゃらきゃらと笑うレイに相反して周りの男どもは俺を真っ直ぐ睨んでいる。入学早々これ。マジか。まさに前途多難。俺をくびり殺すための算段を立てる気配を感じる魔物の群れを背景に従えながら、レイはいかにも嬉しそうな聖女の微笑みを俺ひとりだけに向けていた。



 担任の紹介やプリント配布、注意事項の伝達などを終えてやっと帰る準備をしていたとき。レイはあちこちから話しかけられていたがそれらをいなし、そそくさと俺のそばに寄ってきた。

 今どこに住んでいるのだ、通いなのか、とポンポン質問されたので父の実家に戻ったのだと言ったらレイは『あーなるほどー』と適当に言い、『じゃあ方向一緒じゃん。一緒に帰ろー』と微笑んだ。周りの男の視線がチクチクと顔に突き刺さる。……これ以上友達が増えることはなさそうだ、と瞬時に悟りを開いた。

 レイはとにかく俺についてきた。朝は必ず俺を迎えに来てくれて、さっさと出て行かねばならないはずの母と談笑したあと並んで一緒に登校する。昼食は俺の前の奴の席に座って食べる。

 体育の時間はペアを組もうと誘ってくる。身長差がかなりあるけど良いかと一応聞いたが、良いそうだ。背中合わせになって柔軟体操をするときなんかは、子供のように高い高いとはしゃぎ喜ぶのでどうしても目立ってしまう。

 『やっぱ身長かなあ』と、ボソボソ呟いている奴がいた。別にそれで友達を決めているわけじゃないだろう。元々知り合いだったから。ただそれだけ。他に知り合いが居なさそうだったし。


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 「ねーねー風磨。今日さあ、学校終わったら裏庭の方に来てって手紙が机ん中に入ってた。隣のクラスの奴から。果たし状かなあ」

 そんなわけない。時代錯誤な。違うだろ、と突っ込みながらも他に心当たりはないかと話していたら、周りの男共がワラワラと寄ってきた。思案、焦り、好奇心など、さまざまな表情を見せるモブ達の内心をじっくり推理していたところ、その中の一人が『告白じゃね?』と発言したことで場が湧いた。

 結局みんなで見に行くことになってしまった。本当に告白だったら相手が可哀想だと言う奴も居そうなものではあるが、その場の誰ひとりとして相手を慮る者はいなかった。『オレ稽古の時間あんだけどー』と、この件の主人公は不満を露わにしている。レイは前から合気道の道場に通っていたが、あれからずっと続けていたらしい。

 裏庭はこの校舎の角を曲がった奥にあり、その手前には何故かカーブミラーが立ててある。昔々、この陽当たりの悪い裏庭への通り道を喫煙所として利用していた生徒をとっちめるために設置したのだ、と誰かが言った。

 野次馬のひとりがシッ、とみんなに合図を送った。カーブミラーに人影が映り込んでいたのだ。ここから先は静かにしないと気付かれる。やがて、ひとりがレイに目配せをした。ひとりで来たフリをして行ってこい、という意がこもった目線。それを渋々受け取り、いかにもめんどくさそうな顔をしたレイがとぼとぼと歩いて現場に向かった。

 カーブミラーに人影が増えたのだが、さすがにこの距離では会話がまったく聞き取れない。相手がこっちに向かってきたときのことを考慮して、あまり近くまでへは寄れないからだ。ほんとは会話を聞き取りたい。でも出来ない。少しだけでも確認したい、という気持ちは全員同じ。

 思わずひとりが歩を進めると、つられてまたひとり前進する。おいおいこれは大丈夫か、相手が厄介な奴だったらどうする気なのだという距離まで来たその時である。

 「だから付き合う気ねえっつってんだろ。あ? オレになんのメリットあんだよ。さっきからずっとしつけえんだよ!!」
 「…………だけ、…………ら、おねがい!!」

 「おい!! やめろ!!」

 ヤバい、トラブったか。音に気を取られてミラーを見ていなかった俺が出ていこうとしたその瞬間、明らかに壁に何かが当たった鈍い音と、『ぐっ』というくぐもった声が聞こえてきた。

 ザッ、ザッ、と人が歩いてくる音がして身構えたのだが、現れたのは告白の相手ではなく、レイだった。キレた猫のように据わった大きな目を釣り上げて、肩を揺らしながら泰然と登場したのだ。

 ひとりがそっと角に近づいて、相手の有り様を確認したあと『行こ』と小声で指示を送ってきた。なんだか微妙な空気を感じながらもそこで解散となり、各々は部活だなんだと散らばっていった。

 「マジでキモい。せいせいした」
 「ミラー見てなかったから、レイが襲われたのかと思った。なんかされた?」

 「ほんっっとキモかった。あいつ、これで諦めるからーとか言ってキスしてこようとしやがった!!」

 鳥肌が立った。レイがきっちり断ろうとしていたことは会話で察していたのだが、まさか手前勝手な感情で接触を試みようとするような奴だったとは。断られたらこうしよう、と最初からそれが目的だった可能性もある。

 「マジでキモいな。大丈夫だった?」
 「うん。肩掴んで壁に押し付けてきやがったから、こっちであいつの肘掴んで、こっちで手首掴んで壁の方に激突させた。真正面からはイッてなかったから歯は無事じゃねえ? 多分なー!」

 鍛えていない一般人に向かって、なんと恐ろしい技を使うのだ。稽古では受け身や回避する術も教わるが、なにもしていない者にはなす術がない。ダイレクトに衝撃を受けてしまうだろう。校舎の壁はどう見てもコンクリートである。ほんとに歯がイッてなければ良いのだが。良くて謹慎、悪くて退学。その辺のことは考えているのか、と思わず確認を取ってしまった。

 「オレがどんなことされたか暴露してやりゃいいし、この見た目の奴にやられたなんて口が裂けても言えないだろ。バーカ! ざまーみろ!」

 夏へと真っ直ぐ向かいつつある、まだ昼間のように明るい夕方。車はあまり通らない川沿いの道の真ん中で、ケラケラと美しい悪魔が笑っていた。舞うように歩を進めながら。

 その後もこういうことは何度もあった。断られても紳士に引き下がる奴、泣いて縋ってもさすがに接触まではしない奴が大半だが、華奢でか弱く見えるレイと二人きりになることで気が大きくなってしまうのか、制圧件数はぽつりぽつりと増加していった。

 手首を掴まれたときは、空いている片手で相手の手首を逆側に折り曲げてやる。めちゃくちゃ痛がって膝を折り始めるので、その隙に背後へ回って腕をギリギリと後頭部へ近づける。相手はもう立っていられない。地面と仲良くするしかない。これは警官が犯人の制圧時によくやるやつだ。

 後ろから抱き付かれてしまったとき。断られているのによくそんなことが出来るなとドン引きしたが、それは抵抗せず脱力して下からするりと抜け出し、相手の手首を掴む。それからはもう、おなじみである関節逆ギメで引き倒す。

 レイが見た目に反した強さを持つことは神速で学校中に伝わっているはずだ。一週間も経たないうちにレイの存在を知らぬ者はいない状態だったのだ。なのに果敢にチャレンジする奴は一体なにを考えているのか。もはや逮捕ごっこ希望者と変わりない。変態か。マゾヒストなのか。そこそこ勉強しないと入れない学校だったはずだが。


 【玲】

 だんだん体格の良い奴が挑んでくるようになったな、とは気づいていた。縦に大きい奴、横に太い奴。体型は様々だが、とにかくどんどん対戦者がでかくなってゆく。

 最初は『付き合ってください!』とか、顔を赤らめて手を差し出してきたりする。当然オレは断るわけだ。だって、友達ですらない奴が相手である。ましてや女子ですらないわけだ。オレとどういう付き合いをしようというのだ、お前ら男が。

 どうせやりたいことはひとつだろう。ヤリたい。とにかくヤリたい。オレの身体を組み敷いて腰を振りたい。たったそれだけだ。オレも男だから、そこはとってもよくわかる。

 だからといって大人しく組み伏せられるほどオレは弱くない。でも中学のときまでは平和だったのに。そう思う。オレちょっと子供っぽいかなあ、と思いつつガキらしく友達と家でゲームとかして遊んだり、マンガを読んだり、少ない小遣いを握りしめて外へ出かけたり。

 そんな日々の中、今のように告白どころか襲ってくる奴なんてひとりもいなかった。小学校からの付き合いである奴らばかりだったからなのか。

 でも今考えればの話だが、オレの人気は性格でも喋りでもなくて、ただの顔人気だった気がする。しかもあいつら、みんなオレと同じ高校を希望していた。えっ、進路のことなんだからもっと真面目に考えろよ、と何度も思い直すことを提案したのだが、彼女が欲しい欲しいと言っていた奴らがみんな頑なに、この男子校への進路を希望したのだ。

 結構勉強しないと無理なのに。案の定、何人かは落ちて滑り止め校へと進んでいった。お別れ会と称した食事会でマジ泣きしたその数人を見て、かなり引いたのを覚えている。

 生き残った奴らもいたが、1学年だけで8クラスあるこの高校。あっさりクラスは別れてしまい、知人は風磨だけしかいなかった。そいつらは時々連絡を寄越してくれたりするが、なぜか個別で会いたがる。絶対に。中学のときまではみんな一緒に遊んでいたにも関わらず。

 この辺でやっと、あいつらがオレと一緒に、しかも二人きりになろうとする理由はなんだ、と考え始めたのだ。アホみたいに付き合って、付き合って、と声をかけてくる謎の男共。こいつらとあいつらの動機はほぼ一緒なんじゃないかと疑い出した。あまり核心に触れたくはないのだが、そんなことより先んじて我が身の心配をせねばならないだろう。

 このまま無事に卒業できるのか。舐めた真似をしようとは思えなくなるほどに、オレの背が高くなるその日は来るのか。……悲しいが、一生来ない気がしている。せっかく大きめに仕立ててもらった制服は、ちょっとブカブカのままで卒業になるかもしれない。悔しい。風磨が羨ましい。

 「……玲くん。ごめん、放課後さあ、ちょっと来てほしいって頼まれてんだけど……」
 「また? だるいなー。どこにだよ」

 「川沿いに鉄橋あるっしょ? そこの下。学校から一番近いとこ」
 「あー。あそこね。わざわざ? 学校でいいじゃんね。わりーけど、それ断っといてくんない? オレ普通に帰りたい」

 「……せ、先輩に頼まれてて。マジで断れないやつ。頼むよ、なんかあっても玲くんなら強いから、大丈夫っしょ?」

 ——強いから、と言われると自動的に悪くない気分にはなってしまう。しかし。

 「風磨にもついてきてもらうけど、その辺オッケー?」
 「うん……まあ。大丈夫だと思う。話すときはタイマン希望してくるとは思うけど……休み時間に確認取るわ」

 結果はオッケー、だそうだが、感じの悪さがうっすら臭ってきていた。先輩。二人きり。鉄橋下。わざわざ学校から離れたところで、というのは他の生徒に気づかれたくないからだというのは理解できるが、助けを呼べない状況でもあるということだ。

 なにか怪しい。なにか企んでいるのでは。でも長身の風磨が居るだけで、ある程度は相手も怯むだろう。虎の威を借るようでプライドが傷つくが、相手の力を利用して勝つのが合気道だ。ボクシングやK-1のように、自分の身を前に出して戦う流派じゃない。

 冷静になれ。無駄な意識や力を込めると負けてしまう。小学生のときから師匠は、いつも前に出たがるオレにそれを教えてくれていたのだから。

 オレは風磨に守ってもらうようでいて、守ってやらねばならない立場だ。あいつは武術の類はなにもやっていない。実家は中国拳法の道場をやっているのにだ。

 それを知ったときはクラス中が湧いた。しかしすぐに収まった。『俺はなんもしてないから』と風磨がすぐさま否認したからだ。そのあと誰かが、風磨の姉ちゃんがとにかく強いらしいと発言したので皆そちらの方へ意識が向いた。いつも通りに大人しくしていた風磨は、姉ちゃん怖いエピソードを少しずつ語ってくれた。そのひとつひとつが強烈で、みんな夢中になって聞いたものだ。



 「……玲ちゃん、マジでごめんねー。俺も先輩に言われてやってるだけでー」
 「おい、これガチの犯罪じゃねえか。あんたもう18歳なんだろ。成人じゃん。少年院には入れてもらえねーぞ!!」

 「いやー、それは内容によるかなー。とりま殺人じゃなければ刑務所には行かないっしょ。初犯なら特にさあ」

 一目見たときから胡散臭い奴だ、とは思っていた。軽率の文字を擬人化したかのようなその『先輩』は、自分から近づかずオレにこっちこっちと手招きして呼び寄せてきた。風磨も一緒に来てくれようとしたのだが、『あーダメダメ! 君はそこにいて!』と指示を飛ばしてきやがった。一応相手は先輩である。風磨は立ち止まり、絵に描いたような不安まみれの表情でオレを見ていたが、大丈夫だと手で制した。

 くだらねえことをするようだったら、遠慮なくこの足元の砂利を食わせてやろうじゃないか。そう決めて近づいた。その時だ。葦の長い草むらの中から謎の塊がオレに向かって飛んできた。それはひとつじゃなく、複数の黒い弾丸。その正体は生きた人間たちだったのだ。

 複数人を同時に相手取るには、熟練した技が必要になる。まず後ろから抱きつかれたら、抜け出して掴んで回して倒す。これはひとりを相手にするならスムーズにできる。しかし4人。それが同時襲撃。前後左右から身体を捕獲され、さらに布か何かを巻かれて視界を奪われてしまった。このパターンは経験がなかったのだ。オレの師匠じゃないと土台無理だ。

 パニックに陥りながらもまだ冷静さを失っていない頭の角で、勢いで首に引っかからなくて良かった、と思う余裕は残されていた。捕獲されたオレを見てニヤニヤ笑いを浮かべているであろう『先輩』に犯罪だろと叫び、あとはとにかく抵抗しながら風磨の身を心配した。同じように襲われたのではないかと。オレは別に良いとして、風磨が危ない。

 「おい、早く乗せろ!」
 「ちょっと待っ……イデデデ!! この!!」

 手探りで相手の手首などの関節を掴み、勘で逆に捻ること数回。奴らの拘束が緩み、視界が半分戻ってきた。先ほどチラッと視界に捉えただけではあるが、土手の上に黒いバンが停まっていた。あれに乗せられたら本当に終わりだ。とにかく抵抗せねば明日はない。拉致監禁されてしまえば。様々な道具を使われれば、オレでもどうにも出来ないかもしれない。

 頑張れ玲、男だろ、と気合いを入れて抵抗している間にドサッ、ドサッ、となにか重いものが倒されてゆく音がした。『えっ!?』とそばにいた男が突然大きな声を発した。つられてそっちを見た瞬間。

 突然なにもなかった空中から、黒いジャガーが襲いかかるようなドロップキック。

 奴は俺の側にいた男を水平方向へと吹き飛ばし、身体をブレさせることなく着地したとほぼ同時に立ち上がった。その長い脚を目にも留まらぬ速さで回転させ、2人目の男は冗談のような格好でブッ倒された。勢いをつけて側頭部を打った上に、反対側の側頭部を砂利に思いっきり打ちつけている。受け身ナシ。これは、大怪我をしていなくとも小一時間は動けない悲惨なダメージだ。

 慌てて3人目の男が飛びかかる。しかし気絶するようにフッとその場に倒れ込んだ。胸を押さえてゲッ、ゲッ、と胃の中身を全部ぶち撒けている。汚ねえ。最悪。こっちは風下なんですが。

 奴は身体の全てを肘の方に向けて突き出したようだ。そう見えた。人体で一番硬い部位を、その大きな体躯の全体重をかけて、心臓に向けての一突きである。大ダメージに決まっている。もし自分にそれを向けられたら。想像するだけで恐ろしい。

 後ろから4人目が果敢に飛びかかっていたが、勇気があるとはお世辞にも言えない。アホが確定だ。状況をよく見ろよ。これだからテンションの上がった男はいけない。案の定、首をペッと手刀で打たれ、スマートにブチ倒されている。

 あれ、これってマジでキマると頸椎骨折で即あの世行きの技じゃなかったか? あ、あぶなー。気絶しただけだよな? 生きてるか? 川とお花畑見てるんじゃない? 白目剥いていらっしゃるけど??

 奴は獲物を狙う野生動物よろしく土手の上へ全速力で駆けていった。上では『ヤベェ!! 早く出せ!! 出せって!!』と男たちが叫んでいる。その判断は非常に正しい。誰しもジャガーに狙われればそうなるだろう。人間の抵抗など児戯に等しいからだ。

 間一髪のところで黒いバンは車体をふらつかせながら走っていった。焦りすぎて土手から転げ落ちそうになっているそのバンを奴は黙って見送っているようで、手にはしっかりスマートフォン。何枚か写真を撮っている。……あっ、そうか、ナンバーか。冷静だなあ。オレはめっちゃパニック起こしてたのに。

 「風磨ー。もういいよ。帰ろーぜ」
 「いや……でも、通報とか……」

 「これどう説明すんだよ。絶対面倒くせーから。帰ろ!」
 「うん……」

 「あーあ。なんで今までずっと黙ってたし。教えろし。友達なんだから」
 「だって……できるって知られたらあいつらさ、型やってみろよ、とか絶対言い出すし。技かけてみろとかなったら危ないし。そもそも目立ちたくないし。俺がやった、っていうか、仕込まれた流派ってさ…………」
 「…………えっ!? マジで!? かっけえええ!! そんなんあるん!?」

 「……うん」
 「マジか〜〜!! かっこいー!!」

 オレは急激に大興奮して、かっこいいかっこいいと叫びはしゃぎながら風磨の家までついていった。言えば言うほど風磨の頬が赤く染まり、耳まで染まってゆくのが面白かった。風磨のうちの離れにある道場からは、夕方の稽古の掛け声が漏れ聞こえている。生徒さんが沢山来ているようだ。

 広い玄関から家に上がらせてもらおうとして、はたと気づいた。全身砂だらけであることに。ここで脱いでしまおうかと風磨に言ったら、奴はそっぽを向きながら風呂場のほうを指差していた。風呂に入れと。え、別にいいなら今から遠慮ナシで入るけど。