シャワーに行く前に、せっかくだから差し入れてくれたパンを食べようということになり。
 僕は部屋へ戻ってくる前に守矢さんと食べたから一つと一緒に入っていたペットボトルのお茶をもらって、真司に残り全部を袋ごと渡した。袋には十個以上パンが入っていて、さすがの真司も全部は食べきれないと五つほど袋から出して頬張った。
 真司の隣に座っていることも、肩を並べてパンを食べることも懐かしさや新鮮さよりも未だに信じられない。昔は当たり前のことだったのに。
 でももう真司は許してくれた。だから心のままに真司の隣にいようと思う。子供の頃とは少し違う新しい関係になってしまったけど。
「やっぱ美味いなここのパン」
 真司がパンを頬張る姿は小学生の頃と変わらない気がする。給食のコッペパンにいちごジャムをつけて美味しそうに食べていた。真司はなんでも美味そうにきれいに食べるから作る方は嬉しいだろうと思う。
「うん、守矢さんって神様だよね」
「へ?」
 真司は怪訝そうな顔で僕を見る。もちろん例えの話で。でも少しホンモノじゃないかと僕は思ってるんだけど、それはまあ今は言わないでおこう。
「あんなに良い人はいないよ。僕は初めて出会った」
「……」
 真司は守矢さんとちゃんと向き合ってないからわからないとは思うけど。
「他人にあんなに心を砕ける人はいないと思う」
「……でもあの人、お前を部屋に連れ込んで」
 あれ、少し怒ってる?
「違うよ、そんなんじゃない。僕を気遣って呼んでくれたんだ。慰めてくれただけだよ」
「……それを手を出すって言うんだろ。お前は守矢教信者か」
 真司は深く溜め息を吐いた。
「守矢さんは僕を好きだと言ってくれたけど僕が真司を好きなことを知ってるし、それでも落ち込んでる僕を慰めてくれた。やっぱり神様なんだよ、だからカウントに入らないし……最後までしてないし」
「体良く騙されてる感はあるが……最後までしなかったっていうんならまあ」
「本当に優しい人なんだよ。真司もその内わかるから」
「……ああ、そうかもな。悪い人じゃないんだろうな」
 なんだか棒読みっぽいのが気になるが、守矢さんは僕と真司を助けてくれた。身動きできなくなっていた僕たちを、絡まっていた糸を解いて結んでくれた。
 いつか守矢さんの役に立ちたいと思う。きっと大したことはできないけど感謝を込めて。
「波瑠」
 とても真面目な顔で真司がこちらを見た。大事な話でもするかのような。
「うん?」
 だから僕も身構えて声が少し硬くなる。
「お前は明るくて元気があって目がキラキラしてたのに、今でも妙に悟った顔つきなのは俺のせいなんだよな?」
 守矢さんと同じように真司も感じていたらしい。
「真司を傷付けたままへの後悔もあったけど、僕は一人ぼっちになってしまったから考えることも多くて」
 今度は僕が話す番なのかもしれない。
「一人ぼっち? どういうことだよ」
「僕は真司に嘘をつきたくないと思ってた。でも一つだけ嘘をついた。帰省しないのは旅行に行って誰も家にいないからって言ったけど、本当は違うんだ。僕には帰る場所がなくて、ここしかない」
 僕は父が野間家へ送った手紙に書かなかったであろうことを話した。両親が離婚しようとしていたこと、母が事故死してしまったこと、その後父が再婚したこと。
「気にしてくれているのなら真司のせいじゃないよ」
 そうだ。幸せすぎて忘れていた。決して忘れてはいけないことだったのに。僕の罪は一生消えない。
 真司に許されても罪は罪で、時間は戻らない。母は死ぬべきだったのか、真司と真司のお母さんを苦しめた母は償うために死ななければならなかったのか。それを断罪すべきは僕であってその業を背負うことが罰なのかと。最後は僕が抱えて生きていくことなのだと。
 帰る場所がなくなってしまったことは真司とは関係のないことだ。僕の家の問題で、それはあの時から始まっていて真司は巻き込まれただけ。
 ……今頃気付いた。罪を抱えた僕は真司の傍にいていいのだろうかと。
 もしかしたら僕は母への罪を塗りつぶしたいがために真司を利用していたのかもしれない。真司の足元に跪いていれば忘れられるし、哀れであり義務であると自分に酔っていられる。
 真司が僕のことを好きだと言ってくれて嬉しかった、でも。
「波瑠、夏休みはうちへくればいい。狭いけど、ここに一人でいるよりはいい。母さんだって歓迎すると思う。お前のことを気にしてたし」
「……ありがとう。でも行けない。僕は母を殺したから」
「は? お前、さっき事故死だって」
「車の運転中にひとり相撲で事故をしたけど、その前に僕が「死ねばいい」って言ったからなんだよ」
 とうとう人に話してしまった、僕のもう一つの罪。
「……」
「そんな酷いことを言われたら誰だって傷付く。母さんが死んだ後、離婚話で心が不安定だったんだと父さんが言ってたから僕の一言が母さんの心を壊したんだと思う。ブレーキの跡がなかったらしいから衝動的な自殺なのかもしれないけどそんなのどっちでも関係ない。僕の一言で母さんが死んだことは間違いないんだ」
「多分」
 黙って聞いていた真司は俯き加減の僕を覗き込むように見る。
「すでにお前の母親の心は壊れてたんだよ。お前のせいで壊れたんじゃない。お前の一言が最終的なトリガーになったって言うが、そうじゃなかったかもしれないだろ。父親、祖母、友人、みんなにその可能性はある。お前一人が負う責じゃない」
 でも、死ねばいい、なんてきっと誰も言わない。あの時僕は本気でそう思ってそう言ったのだ。
「うん、ありがとう」
 僕を庇ってくれる真司は優しい。だからこそそばにいてはいけない。やっぱり夢だった。でもそれで十分だ。
「波瑠、どこへも行くな」
「え? 僕はどこにも行かないよ、行くとこないし」
 真司は何を聞いていたのだろう。さっきそう言ったのに。
「でもこれ以上俺の方へ来る気はないんだろ? 来る資格がないと思ってる」
「……」
「だから俺がお前に罰を与える」
「え……」
「今日から卒業まで、俺と必ず一緒に食事をすること。毎日俺に抱かれること。毎日俺のことが好きだと言うこと。一つでも守れなかった場合、お前は一生俺のそばにいなくてはならない」
「……」
 鼻先がつんと痛くなって目の縁に涙がぶわりと浮かんで。
「結構過酷だぞ。俺の都合ばかりだからな」
「……そう……だ、ね」
 声が震えて上手く出せなくて。鼻をすすったらいいのか涙を拭ったらいいのかわからない。
 でもその罰は僕を甘やかし過ぎだ。
「お前が罪だと思うのなら俺も一緒に抱える。お前は一人ぼっちじゃない、俺がいる」
 再び抱きしめられて頭を撫でられて。
 どんな形でもいいからそばにいたい。ずっとそう思っていた。本当は離れたくない。
 一緒にいたい。
「……ありがとう」
 いつまでも涙が止まらなくて、でもその涙はあたたかくて。真司の腕の中で僕は家族がばらばらになって初めてちゃんと泣けた気がした。悲しいことをちゃんと悲しいと思えた気がした。嬉しいと思うことが悲しいという感情を引き出してくれたのかもしれない。そして居場所まで与えてもらって。
「さて波瑠、いつまでも泣いてる場合じゃない。有言実行だぞ」
 真司はそっと腕を緩めて僕を見る。
 あ……。つまり。罰を。
「真司……好き」
「俺も」
 言った途端速攻返事が来て、ちゅ、と軽く唇に触れた。唇が離れた真司は今となっては遠くなってしまったあの頃の無邪気な笑顔で。
 僕が一番大好きな笑顔に出会えた。胸が締め付けられたけど涙は止まって、自然と笑みが零れて。心の底から笑えた気がした。
「波瑠、一緒にシャワー浴びよう」
「え」
 一緒、に? 優しく甘い空気が霧散して僕は現実に引き戻されて。
「泊まりに来た時一緒に風呂入ってただろ」
 いや、それは小学生の頃の話であって。それにここは寮のシャワー室で、共同で使う場所だ。ブースひとつひとつは広くもないし二人で入るには狭い。もちろんシャワーヘッドも一つしかないわけだから、非効率だ。
「どうせ誰も見てないし、そもそも人がいない」
 僕の驚いた顔に真司は見透かしたのかにやりと笑う。
 いやいやいや、いないわけじゃなくて極端に少ないというだけだ。当然守矢さんだっているし、一年生だって何人かいるはずで真司のクラスの奴だっているかもしれない。二人でシャワーブースに入ってるところを見られたら変に勘繰られそうでそれは困る。僕としては嫌というか何かを言われそうで、できればそういうのは騒がれたくないし。まさか真司は何とも思わないってことなのだろうか。いいじゃん、とか言いそうで。そういえば、そういう交際的なことについての寮のルールってなかったな。禁止もなければもちろん推奨もない。
「シャワー浴びながらやれば何かお得感あるぞ」
 やっぱり。見られる見られないはおいておくとしても嬉しいやら恥ずかしいやらで。でも人目を気にしながらやるようなことじゃ、ないし……。
「何のお得かわからないけど、僕は一人でシャワーを浴びるよ」
「真面目……」
 当たり前だ! そんな残念そうな顔したってダメだから。
「じゃあそれぞれ浴びて、またここに戻ってくるってことで」
「うん」
 真司はベッドから立ち上がって、足取り軽く自分のクローゼットの前に立つと、
「じゃ、俺先に行くわ」
 嬉しそうな背中を見せて真司は風呂道具を手に部屋を出ていった。
 念押しすることもなく一度も振り返ることもなく。
 それは僕を信じてくれているということだ。行き先は同じシャワー室なのにどうして先に行ったのだろうと考えれば……一緒に行けば同じブースに連れ込みそうだとかそのあたりを自重してなのかな。その、一緒にというのはまたそれはいつかの時で、ということでお願いしたい。
 ここでのんびりして真司と時間をずらす理由は特にないので(急ぐ理由もないけど)、僕も風呂の準備をしてシャワーブースへ向かう。
 本来、というか、大体シャワーや風呂の時間なんて夕食前か後。それなのにこの時間、夕方にもなっていない昼下がりな時間にシャワーを使う人間なんてほぼほぼいないだろう。部活でかいた汗を流す、はあるのだろうけど。背徳感があるとまでは言わないにしろ、部活もしていない僕がシャワーを浴びていたら人はどう思うのだろう。もちろん真司にだってそうだろうけど……考えすぎか。使ってはいけないルールがあわるけでもなし、僕のことなんて誰も知らないだろうし。
「羽鳥―!」
 え?
 それでも気持ちこそこそとシャワー室へ入ろうとしていたところへ真正面向こうから元気いっぱいに声を掛けられた。川崎に。無視するような形で中へ入るわけにもいかず、川崎が目の前に来るのを待つ形で足を止める。
「羽鳥もシャワー?」
「え、うん……」
 ということは川崎もシャワーか。いやでも。
「今日帰省するんじゃ……」
「そうそう、なんか母さんが大風邪引いたらしくてさ、うつすと困るし面倒みれんから帰ってくるなって言われたんだよ、だから居残り」
「あ、そうなんだ……残念だったね、家でゆっくりできなくて」
「だけど、こんなに人がいない寮も新鮮だなーって、これはこれで何かラッキーだよなって」
「確かに経験しない人は多いかもね」
 きっとひと月ぶりの実家、帰省したかっただろうに川崎はそんな素振りは見せない。
「羽鳥はさ、何かいいことあった?」
「えっ?」
 急に話が飛んで。思いの外、大きな声が出てしまって少し廊下に響く。……見たところ誰もいないからいいけど。でもなんでそんなこと。
「昨日みたいな楽しそうな……っていうと何か俺が羽鳥を楽しませたようなおこがましい言い方になるけどさ、飯一緒に食ってた時みたいな嬉しそうなっていうか柔らかい表情してるからさ、今日もまた美味いもの食った?」
 ……。
 そんなに僕は今嬉しそうな顔をしてるのかな。昨日は川崎に楽しい気分にしてもらったのは間違いない。楽しかった。それは本当で。
「いや、昨日は確かに川崎と一緒にいて楽しかったよ。今日は特別美味いものは食べてないけど」
「ふうん……じゃあ、野間と何かあった?」
「……え」
 真司?
「羽鳥と会う前、野間ともすれ違ったんだよ。俺別に面識ないからそのまま通り過ぎたけど、あいつもさわやかに口角上がってたぞ」
 いちいち僕が過剰に反応してしまっているのか。真司の名前が出ただけで何もかもバレてしまってるような気に……いや、バレたっていい……のか、いや、それも……ええと、どう反応したら。
「そ、そう……。野間と……話が少し盛り上が、って……」
「へえ、何の話?」
「な、何の……っ、て」
 何でそこを突っ込むんだよ。川崎にとってどうでもいいだろ、話の中身なんて。苦し紛れの言葉に中身はない。
「シャワーを浴びないといけないような白熱した話だったわけ?」
「……っ、シャワー……え、あ……」
 な、なに……? その言い方……。
「事前か事後かわかんないけどさ、羽鳥の表情が明るいのが俺は嬉しいし、よかったなって思うよ」
「えっ、な、何が……っ」
 事前か、事後、って…………。
「タイじゃなくて単独の友達一号になってちょいすっきりしたし」
 え? たい……?
「今は推定でいいよ、あとあと話してくれると嬉しいな」
 推定? あとあと話す? 川崎はとてもそれは嬉しそうににっこり笑うのだけど。
「じゃ、俺部屋に戻るから、羽鳥はごゆっくり」
 そして僕の横を通り過ぎて、視界から消えてしまった。
 これは一体どういうことだろう……。はっきりと会話が理解できずになんかもやもやとした気持ちとやたらにこにこ顔の川崎が心に残って、僕はシャワー室のドアを開けた。