入寮日、お前は俺を見るなり辛そうな顔をしたんだ。泣きたいのはこっちだと、お前にそんな顔をする資格はないと思ってしまった。お前が悪いわけじゃないとわかっていたのに、母さんを悪く言うお前の母親と混同してあの日の衝動をずっと引きずってた。俺が被害者なんだと、だからお前に何をしたっていいと思った。もっと辛くなればいいと。もう終わってたことだったのに。
 隣に座った真司は前を向いたままそう話し始めた。
 いつまでも胸につかえていた僕の気持ちが真司の嗜虐心を煽ったのかもしれない。でも僕が謝りたかったのは本当で、過ぎた時間なんて関係なくて。
「すぐに音を上げて許してくださいと土下座すると思ってた。そして俺はその情けない姿に興味を失って波瑠を捨てるのだと思ってた。なのに」
 僕が何も言わなかったから、抗わなかったから、余計苛立ったのかもしれない。
「波瑠の苦しげな顔や一途な奉仕や従順な姿にいつの間にか溺れてた。俺の言うことに絶対逆らわないお前を、俺だけのものにしたかった」
 それはやっぱり真司にとって気持ちの良いことだったのかもしれない。真司を傷付けた僕を足蹴にすれば溜飲も下がったのだろう。正常な心の回復過程ではなかったかもしれないけど、僕はそれでいいと思った。それがいつしか馬鹿馬鹿しくなって僕を踏み越えていけばいいと思ってた。真司の傷はとても深いものなのだとわかったから。もう元には戻れないのだとわかったから。
「この気持ちはなんなのだろうと考える余裕もなくてただお前を離したくないと思うばかりで、もう嫌がらせや復讐じゃなかった。償いという言葉で波瑠を縛り付けて、憤れば、足りないと言えば離れずに俺の足元で這いつくばっていてくれるはずだと」
 やっぱり僕は真司と再会しない方がよかったのかもしれないと思う。そんな負の感情を持っていれば真司の心がひきつれるばかりだから。
「守矢さんと会ってるお前に無性に怒りを感じた。勝手なことをするなと。あの時は勝手なことを言ってるのは俺なんだとわからなかった。そしてこの休みに一人で部屋に残るお前がどうしても気になって帰ってきたらまたお前は守矢さんと一緒にいた。俺から離れていかないためにはもっと強く縛り付けないといけないんだとお前を踏みにじるようなことをした」
 そこまで言わせてしまった僕に非はあっても、さすがに奴隷は素直に聞けなかった。
 真司の口からそんな言葉が出てくることが悲しかったし、それを受け入れてしまえば本当に二度と僕は真司の隣にいることはできないと思ったから。
「それでもお前は守矢さんに連れていかれて、そして目の前で嫌だと言いながらも守矢さんに心を許してるお前を見せつけられて」
 守矢さんは悪くない。悪いのは、狡いのは僕で。
 真司にいい顔をして、僕のことを好きだと言ってくれる守矢さんを自分の気持ちを落ち着かせるために利用した。
 さっきのあれは何なのだろうと考えればわざととしか思えない。真司の口を開かせたかったのだと。そして真司は守矢さんの策略にまんまと嵌ったということなのだろう。つまり守矢さんは真司の気持ちがわかってたってことなのだろうか。
「触れていいのは俺だけなのにって思った。俺はずっと波瑠を見てきて誰よりも波瑠を知っていて、守矢さんにも、誰にも触れさせたくないと思った。そして俺はあんなふうに波瑠に触れたいんだって気付いたんだ……」
 心の奥の堅くなっていた何かが熱をもってどろりと溶けたような気がした。
「これはお前のことが好きってことなんだろうか」
 不意に真司が僕を見て。僕の中の熱が身体中に広がっていく。
「僕に答えは出せないよ……でも真司が触れたいと思うなら、そうして」
「それは……」
「ううん。償いとか言われたからとかじゃなくて、僕も……触れてほしいと思ってるから」
「波瑠……」
 そんな驚いた顔をしないで。
「僕は、真司のことが誰よりも好きだよ。真司の気持ちが好きという感情なのかは今は別に僕は知らなくていい」
 言ってしまった。どさくさに紛れて。訊かれもしてないのに。でも真司に知ってほしくて、もう距離を置かれたくなくて。届かないどころか言葉にすらできないと思ってたけど今なら。
 真司が達く時に髪に触れてくれるあの瞬間が唯一の僕の救いで、支えだった。もっと触れてほしいと何度も願ったけどそれは絶対叶わないことだと思っていた。あれは真司の無意識の行動で、これまで付き合ってきただろう女の子にもそうしていたかもしれないことで。
「僕は真司のを咥えて興奮して勃起する変態で、守矢さんに、男に触れられることも嫌じゃない。そんな僕に触れたいと言ってくれるのは奇跡だと思ってる」
「そんな言い方をするな。好きな人になら興奮もするし触れてほしいと思う、当たり前のことだろ。男も女も関係ない。俺はお前と同じ気持ち、だと思う」
「真司は……僕を許してくれるの?」
 それでもやっぱりあの時の真司を傷付けたのは間違いなくて。僕は許しを乞わなくてはいけないと思う。
「許すも何も、お前は何も悪いことをしてない。悪いのは俺だ。許してほしい、波瑠。酷いことを沢山した。お前の心を踏みにじってきた」
「ううん。真司の悔しさや怒りに比べれば大したことない」
 僕の母が直接心無い言葉を投げつけたけど、止められなかった僕も同罪だ。
「本当はとうに終わっていたことだ。あの後しばらくしてお前の父さんから、お金が出てきたこと、ばあちゃんが認知症を患っていたこと、そして謝罪が書かれた手紙が届いてたんだよ。母さんももう終わったことだねって笑ってた。だから、俺だけがいつまでも囚われていた」
 知らなかった。父が手紙を書いてたなんて。僕は真司のお母さんにも謝らなければならない。謝りたい。
「でもその手紙には波瑠のことは一切なかった。また仲良くしてほしいだとか、遊びに来てほしいだとか、そういうことは一切。多分書き忘れなんかじゃない。波瑠の父さんも俺のことを素行の悪い人間だと思ってたってことだろ。波瑠の友達にふさわしくないと思ってたってことだ」
 いや、書き忘れに近いのだろう。父は僕のことなんてどうでもよかったんだと思う。その頃にはすでに母ではないパートナーがいたのかもしれない。
「ごめん、真司。気分が悪かったよね」
「その時はそう思った。でももういい。今、お前が目の前にいる。散々傷付けておいて虫がいいかもしれないが、お前を抱きしめたい」
「……うん」
 こくんと頷いて。
 真司が両腕を伸ばして僕を抱きしめた。
 真司の体温が僕を包んでくらくらする。僕がいるのは真司の腕の中なんて、こんなに近くにいるなんて夢のようで。
「俺は間違ってない。波瑠に触れることを望んでた。もっと触れたい」
 真司の腕は少し緩められ、背中から離れた片方の指先は俯いていた僕の頬を撫でた。
「波瑠、顔を上げて。キスしたい」
 こつんとおでこに真司のそれが当たる。
 夢はどこまで続くのだろうと思いながらゆっくり顔を上げるとそっと真司の唇が僕の唇に触れて離れた。
「二度目、だよな……?」
「え?」
「波瑠とキス。キスはどんな味がするのかって」
 覚えてたんだ。
「うん」
「今ならわかる。心が震えるほど甘くて」
 ちゅ、ともう一度触れて。
「一度じゃ足りなくて、何度でもいつまでも」
「ん……」
 角度を変えて真司は僕の唇にキスを降らせる。その度に身体の奥が震えて。唇に乗せて向けられる感情は憎しみでもなく悲しみでもなく、少し乱暴だけど甘くて情熱的で。求めてくれているのだと感じた瞬間、目に涙が浮かんで零れた。
 すると真司の親指が涙を拭って。
「波瑠、お前が好きだ」
 まっすぐ僕を見つめて真司は静かに言った。
 ひそかに願った言葉。無理だとわかりながらもこの世で一番欲した言葉。
 一瞬にして体の中から僕のすべてが変わっていく感覚。
「僕も、僕も真司が好き」
 誰にも知られることがないだろうと思っていた言葉。でも一番口にしたかった言葉。聞いてほしかった言葉。
 今、心を込めて言える。
 今度は僕から真司の唇にキスをして、僕のありったけの好きが真司に伝わるように真司の背中に両腕を回して抱きしめた。言葉だけでは足りないと思ったから。
「波瑠、抱いてもいい?」
 どくんと心臓が跳ねて。守矢さんに抱きしめてもらってもう何も知らないわけじゃない。だけどそれを真司と、という頭は今の今までなかった。
「嫌?」
「ううん……嬉しいって思って……あ」
 でも。
「シャワー、浴びたい」
 新しい僕で真司の前に立ちたい。何もない、僕で。これまでの自分を捨てるというわけではないのだけど、その……守矢さんの匂いとか触れた感触とかを落として。ごめんなさい、守矢さん。
「……そうだな。俺も一緒に」
 その時、真司の腹が鳴った。
 一瞬にして濃密な甘い空気が解けて、抱きあっていた腕も緩く解けて。真司が苦虫を噛みつぶしたような顔をする。お腹空いてたんだ。
 格好つけたかったかな。でも昔はそれを大笑いしてた。僕の腹が鳴っても、真司のが鳴っても。子供の頃はそんな些細なことでも、さして面白くも、何でもないことでも楽しかったのだ。
「カッコ悪……」
「そんなことないよ。真司は面白くて格好良かった。今も変わらない」
 面白くて頼りになる。同い年なのに敵わないと思ってた。でもそれを悔しいだとか憎らしいだとか思わなくて、楽しくていつまでも一緒にいたいと思っていた。
「お昼食べてないもんね。何か買ってくるよ」
 ベッドから立ち上がって財布を掴んで。
「待て、波瑠。それなら一緒に」
 という真司の言葉を背中に聞きながらドアを開けてみれば、その横に菓子パンが入った半透明のビニール袋が置いてあった。
「どうした?」
 真司がドア口で立ち止まる僕の背に追いついた。……数歩のことだけど。
「守矢さん、かな」
 散歩堂のロゴが入っているビニール袋を持ち上げて真司に見せる。
「……だろうな」