「あ、アカリです、まぁ本名じゃないんですけど」
「えっ」

 本名じゃないけど。
 私の今の名前だ。

「ルナと本名じゃないんですよ、聞いてないんですか」
「いえ、えっと」
「田畑様も名乗りたい名前で、何がいいですか? あ、もちろん、本名でもいいですよ」

 ルナらしい、というか、変わっているというか。
 ここは、非日常を提供する場らしい。
 疲れた現実から逃避するための、星空の下に開かれた場所。
 だからこそ、本名も要らないとのこと。
 さすがに、宿泊者名簿とかは本名で書いてもらうけどね。

「ルナさんと、アカリさんの由来は?」
「ルナはラテン語で月の女神です。まぁ、夜空荘なので」
「アカリさんは、星空とか、月の明かりですか?」

 大正解。
 ルナが月なら、私は、ルナから発せられた明かりということでアカリだ。
 どちらかというと、月の光を受けてる側だから、地球とかでも良かったかもしれない。

 田畑様は、ふうっと小さく息を吐き出して肩をすくめた。
 そして、ブルーベリーミルクを一口飲み込んで小さく、本当に小さく名前を答えてくれた。

空峰(たかね)で、お願いします」
「空峰さん」
「空の峰で、空峰です」

 どこかで聞いた名前だなと思いながら、脳内をぐるぐる探してみる。
 最近読んだ小説の作家、じゃなかっただろうか。
 星空がキレイな表紙の小説だった。

 好きなのかもしれない。
 好きなんですか? とは聞かないけど。

「空峰さんは、ハンドメイドしたいんですか?」
「えっ?」
「いや、結構興味津々という感じです聞かれてたので」
「あぁ、何かを創ることが好きなんです。落ち着くというか、安心するというか」

 気持ちはわかる。
 私も、熱中して物を作ってる時が一番、生きてる感覚がする。
 そして、嫌なことも忘れて息ができるから。
 そんなことに気づいたのは、ルナのおかげだけど。

「ありますねぇ、集中してるとついつい時間経ってるんですけどね」
「作ってて、辛いことないですか?」

 ピンっと頭の中が、鳴った。
 ルナがわざわざ私に、空峰さんの相手を任せた理由。
 これが、きっと、ここに来た理由なんだろう。

 私はそういうの得意じゃないと、言ってるのに。

 出汁に野菜やタコを入れながら、ちらりとこちらを窺うルナを睨みつける。
 舌をぺろりと出した仕草に、もうっと頬を膨らませて返せば手をごめんごめんと動かしてた。

「辛いこと、ですか」
「やめたくなる、こと。結局やめられないのはわかってるんですけどね」
「やめたくなる、はまぁないですかねぇ。だって、やってないと生きていけないですし」

 あっけらかんと答えれば、空峰さんの表情に羨望が浮かんだ。
 あー、もう人と関わるの得意じゃないのに。
 誰かを慰めるのとかも。

「羨ましいですね」
「スランプですか?」
「わかります?」

 ふふっと唇を緩めた姿に、見惚れてしまう。
 髪の毛でよく見えていなかったけど、妖艶な雰囲気で美しい人だ。

「疲れちゃったんですよね、何かをつくり続けることに。自分を削って、削って、形作ってたなぁって」

 だらんっとイスにもたれ掛かって、上を見上げる仕草を私も真似してみた。
 いつもと変わらない、白い天井が目に入る。

 自分を削って、形作る。
 私にはわからないな、と思ってしまった。
 そして、同時に口から勝手に言葉が出ていく。

「私にはわかんないですねぇ」

 命削って創るのが、クリエイターとしては正しいのだろうか。
 ただの夢物語な気がする。
 私は食い扶持を全てハンドメイド作品で稼いでるわけではないけど。
 作家の矜持として、そうなってみたい気はしなくもない。

 でも、まぁ、私は雑な人間だから無理だ。

「わからないんですね」

 じっと見つめる黒い瞳に、笑顔を浮かべて頷く。
 楽しくて楽しくて、ご飯を忘れたり、こうしたいと考えて気づけば夜を明かしたことはある。
 それでも、私は私の命が一番大事だから、クリエイターではないのかもしれない。

「そっかぁ」

 ぐたーっと机に寝転がって、空峰さんは肩を揺らす。
 私また間違えたかもしれない。
 心配になりながら、覗き込めば、くっくっと笑う声が耳に届いた。

 肩をばしんっと叩かれて痛みに、耐える。

「ルナ、力強すぎるんだから手加減してよ!」

 声を荒げても、ルナはニヤニヤと肩で私の肩を突く。
 何が言いたいのか、なんとなくわかって、顔を逸らした。

「そっかぁ、自分を削ってなくても、作れるのかぁ」

 ぽつり、と空峰さんがつぶやいて、瞳の横の涙を拭い取った。

「まぁ、まぁ、そこらへんで、ケーキでも食べましょ」

 出してきたパウンドケーキは、青い。
 これも、私のブルーベリー勝手に使ったな。
 じとと見つめれば、また手をごめんごめんと上下させる。