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 がちゃがちゃ、コトコト、ゴン、ガタン。「じゃあ行ってくるから、後は頼んだよ玲王」「おう、気を付けてな」バン!「にぃにぃ、ごはんおかわり」「釜ん中にまだあんだろ。自分で入れろ」「やだちょっと、それ私のおかず」ガチャン。「あ~こぼれたぁ」「うぉ。早く拭け」

 さまざまな音とさまざまな会話に、遠くにあった意識が呼び覚まされる。

 閉じていた瞼を開くと、見慣れない壁掛け時計が見えた。
 しばしぼうっとして、瞼をこすろうと腕を上げると、絆創膏が貼ってある。

「……あ!」

 ガバリと上半身を起こした。ここは三澤の家だ。
 時計を見直して時間を見る。針は七時四十分を指していた。

 翼は髪を手ぐしで整え、ルームウェアの乱れを直すと、扉を開けてリビングルームへと向かった。

「あー、翼君だ、おはよう!」

 獅央が真っ先に翼に気付いた。

「おはよう、翼君」
「おはよ~」

 凜音も緋王も、翼を振り返って手を振る。朝から元気いっぱいだ。

「おはようございます……遅くなってごめんね」
「はよ。まだ寝ててもよかったのに。ほら、白湯飲んで」

 電子レンジがチン! と鳴ったと思うと、三澤がマグカップを片手にやってきた。翼の母からいつの間に聞いていたのだろう。寝覚めの白湯は医師と母、翼との間の約束で習慣だ。

「ありがとう」

 翼は麻紀の席に座らせてもらい、マグカップに口を付けた。ちゃんといつもと同じ温度だった。

「俺、もう少ししたらこいつらを学童と保育園に送ってくるから、家で待っててな」
「僕も行くよ」
「いいって。人んちに泊まるだけでもいつもと勝手が違うだろ。昨日は怪我もしたし、もう少し部屋で寝てな。すぐ帰ってくるから」

 な? と言われながら髪をくしゃっとされて、胸がドキドキッとした。

 なぜこうなるのだろう。やはりいつもと勝手が違うから負荷がかかるのだろうか。最近は強めの動作時以外に動悸らしい動悸はなかったから少し心配だ。

「わかった。ごめんね」

 だから素直に頷いた。
 ただ、待っている間、翼は三澤の部屋には戻らず、ダイニングスペースの片付けをしたくなった。今は夏休みだからゆったりしていても、普段の三澤の朝は闘いのようだから戦力になりたい。

 テーブルの上には下げられていない食器。床にはこぼれた水分や食べかす。ひとりっ子で専業主婦の母親がいる翼の家庭では見ないことだった。それに、病気のことで過保護にされていたから、あったとしても家事手伝いをすることもなかった。
 だがこれがごく普通の家族の多い家庭で、三澤にしても、これまでは父親が担っていた役割だったのだろう。
 それを今は彼が担っているのだ。

「よぉーし、ピッカピカにしよ!」

 絆創膏を貼った腕を伸ばし、食器を引き下げる。テーブルを磨き上げ、床も綺麗に拭いて、食器を洗い始めた。
 納豆のぬめりが付いたお箸を洗うと、スポンジの泡が粘ついて驚く。干からびた米粒が付いている茶碗は、ちゃんと磨いたと思ったのに泡を流すとまだ引っかかりがある。

 お弁当を作っている翼とはいえ、それに使った調理器具も食べ終えたお弁当箱も、母親がいつの間にか片付けをしてくれているから、初めて知ることばかりだ。

 夢中になってすべて終えると達成感に包まれ、家でももっと家事を進んで手伝おうと決めた。
 と、同時にガチャリ、バタンと玄関扉が開く音がする。三澤だ。

「おかえりなさい!」 

 翼はリビングルームから玄関へ繋がる通路まで出て、三澤を迎えた。

 靴を脱ぎかけていた三澤の動きがピタリと止まる。翼を凝視しているがなにも言わない。

 その瞳を見ていると、昨夜赤いライオンの夢を見たことを思い出した。三澤の瞳はあのライオンのように熱く揺れている。

「三澤君、どうしたの?」
「あっ……寝てると思ったから、びっくりした。……ただいま」

 前髪をクシャッと潰してかき混ぜて、瞳を隠すように下を向いてしまう。

「三澤君、風邪ひいた?」

 リビングに戻りながらようやく言った「ただいま」が鼻声に聞こえたので問うと、三澤が入り口で立ち止まった。

「片付け……終わってる」
「あ、うん! やってみた。恥ずかしながら洗い物ってほぼしたことなかったから、完璧じゃないかもしれないけど……三澤君?」

 三澤の背中に向けて言っていると、彼は不意にくるりと向きを変え、首を曲げて翼の肩に額を預けた。左手は翼の右腰にそっと触れてくる。

「俺、情けねえ」
「えっ? なんの話?」
「俺がちゃんとやらなきゃいけねぇのに、できてねぇ」

 片付けのことだろうか。余計なことをして気を悪くさせたのだろうか。
 ごめんなさい、と謝ろうとすると、それより早く三澤が続ける。

「大塚にめちゃくちゃ救われてるから、もっと頑張らねぇとと思うのに、うまくできねぇ」
「三澤君」

 表現ひとつだが、「助けられている」ではなく「救われている」と三澤が言ったことで、彼がどれだけ自身に責務を課していたかがわかる気がした。

 彼は父親が亡くなった後、心ゆくまで泣けたのだろうか。
 寂しい気持ちを誰かにぶつけられたのだろうか。

 できなかったと思う。
 きっと三澤は太陽みたいに笑って、家族を励ましたはずだ。変わるはずがないと思っていた日常が変わってしまった戸惑いも辛さも、笑顔に変えて踏ん張ったはずだ。でもうまくできないことに強い苛立ちを感じていたんだろう。

 多分昨日もそう。

「大塚と知り合って、いつも俺のそばにいてくれて、体や勉強や家のこと、気遣ってくれて。だから俺、もっとちゃんとできるようになって、ちゃんと大塚を守りたかった」
「うん」

 ほら。何度謝ろうとも、昨夜翼に怪我を追わせたことをひと晩中悔いていたんだろう。

「でもね、三澤君。昨日と同じこと言うけど、僕がそうできているとしたら、三澤君のおかげだよ。三澤君がいるから、今までみんなには当たり前でも諦めていたこと、やろうともしなかったことができるんだ。そうするとさ、僕自身も楽しくて、毎日がキラキラする。……あ、朝日が、空に昇って光を差してくれてるみたいに……」

 ちょっと、いや、ずいぶんと恥ずかしいことを言っている自覚はある。笑われるかもしれない。
 けれど三澤は笑わなかった。それどころか、翼の肩が温かいもので濡れた。

 泣いているのだろうか。

 翼は小さく震える三澤の背に両手で触れた。

「俺の親父、光輝って言うじゃん」
「う、うん」
「太陽みたいな人でさ。ほんとに自慢の親父だったんだ」
「……うん」
「だから、三澤にそう言ってもらえて嬉しい」
「そっか」
「あと、さっきおかえりって言ってくれたのが、グッときた」

 三澤がズズッと鼻をすすった。

「そうなの? あんな当たり前の言葉が?」
「ああ。親父が死んでからバタバタしてて、ここんとこ、あんなにちゃんと出迎えてもらったのも、自分が家族を出迎えたこともなかった気がする。でも親父はさ、家にいるときはいっつも、ちゃんと見送りと出迎えをしてくれてたなぁって、思い出した。……ありがとな、大塚」

 翼の肩から顔を上げると、大塚は手の甲でぐいっと涙を拭いた。そうしてすぐに微笑みを見せる。

 けれど翼は思う。

「泣きたいときは泣いたっていいんだからね?」

 言葉にすると、三澤は一瞬面食らった表情をしてから、輝かんばかりの笑顔を見せた。

 泣いていいよって言ったのに笑った……そう思ったが、眩しい笑顔は翼の心臓をドクドクと跳ねさせ、翼はそれを収めることに集中しなければならなくなった。