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「はい。安静解除ね。だけど無理はしないようにね」
「はい」

 盆明け翌週の診察で、体調の回復が確認された。

 薬を飲むのを忘れないこと、負荷のかかる運動を避けること、バランスのいい食事に規則的な生活パターンと充分な睡眠。いつもの約束を医師と再確認しあう。

「そうそう、今日は翼君の誕生日だったな。十六歳、おめでとう」
「わ、ありがとうございます!」

 パソコンの患者情報欄を確認した医師が祝ってくれて、翼は笑顔で礼を言った。
 「入院中じゃない誕生日」は手術を受けるまでは稀なことだった。

「それにしても翼君、ぐっと明るくなったね。高校生になったことだし、さては彼女か好きな子でもできたんじゃないか?」

 医師が含み笑いをして、室内にいた看護師は「先生、セクハラですよ」とたしなめながらも興味津々に翼を見てくる。

「彼女なんていませんよ! でも、僕、好きな人ができたんです!」

 ちょうどいい。医師が言う対象は女の子だろうが、翼は三澤がとても好きなので、長年世話になっている医師に親友ができたと伝えたかった。

「お? どんな女子どんな女子?」
「先生ったら。……どんな子? 翼君が恋する相手だったら、優しくて笑顔のかわいい子かしら」
「もう、そういう好きじゃないです」

 優しくて笑顔が素敵なことに違いはないし、「好き」は「好き」なんだけれど。

「親友です。僕ね、親友ができたんです」
「ああ! なるほどそういうことか。それは毎日楽しいよね。大事にしなさいよ。あ、でも無理はしないように」
「わかってます。じゃあさようなら」
「また三か月後な」
「はーい、失礼します」

 よかった。医師に親友ができたと報告できて満足だ。

 それなのにどうしてか途中から胸がざわついて、さっさと出てきてしまった。

 好きな人、という言い方がなんだか難しかった。友達を好きな気持ちと、女の子を好きになる気持ち。同じ好きという言い方なのに、どう違うのだろう。
 女の子を好きになったことがないからわからない。同性の親友でさえ初めてなのだ。

 今でも胸がふにゅっとしたり、三澤が眩しく見えたりするのに、異性に恋をするともっとそれが強くなるのだろうか。
 今でも三澤を思うと会いたくなって、実際は走れないのに心は彼の元に駆け出している。恋をするとこの気持ちは恋した相手に向かっていくのだろうか。

 それならまだしばらく恋はいい。翼は三澤と一緒にいたいと思うから。

 そう思いながらスマートフォンを取り出し、翼は「明日はレオニーランドに行くね」と三澤にメッセージを送信した。
 本当は今から行きたいが、母親が家で翼の診察結果を待っている。今日は翼の誕生日会だと張り切って準備をしているから、ひとりで診察に来たのだ。


 けれどその夜、三澤が大塚家を訪れた。
 十七時頃にメッセージがあり、「明日、午前のショーが休みなんだ。俺の家、狭くて古いけど、今日泊まりに来ないか」とあったのだ。

 翼は、治療して肥大を抑えた心臓が大きく膨らんで、口から出そうなほど興奮した。

「お母さん! 三澤君が泊まりに来ないかって。ねえ、行きたい。いいでしょ? いいよね?」

 短い距離だが、つい部屋から駆け出してしまう。母親にしかめっ面をされて、びしっと背筋を伸ばして深呼吸。少し動悸がしていたから胸に手を当てながら返事を待った。

「今日は翼の誕生日会なんだけど。お父さんも楽しみにしていると思うけど?」
「三澤君が迎えに来るのは八時だから、誕生日会は充分終わるでしょ? 料理もケーキもしっかり食べるから!」

 母親はうーん、と言いながら翼をジッと見る。

「はしゃぐから駄目って言いたいけど」
「はしゃぎません! 大丈夫!」
「もうはしゃぐ片鱗が見えてる気がするけど……でももう十六歳だものね。自分で自分のペースを守ってお友達付き合いを学ぶ時期ね。自宅安静も守れたし……三澤君なら安心だから許可しましょう」
「やった!」

 胸の前でふたつの拳を握った。

「でも絶対に約束よ。体調が悪くなったらすぐに連絡をすること。頓服のお薬も忘れずに持って行くこと。翼の調子が悪くなると、三澤君のお宅にも迷惑がかかるんだからね。それから、ええと」
「先生とも約束したから大丈夫! 泊まる用意をしないとだから、もういいでしょ?」
「あ、こらっ」

 母親の言うことを最後まで聞かずに背を向けるなんて、初めてだ。引っ込み思案の翼は病気になる前からそうだったが、病気になってからは両親だけが頼りだから、逐一ふたりに相談と確認をしてから行動に移すのが常だった。

 だから親友ができるってすごいことだと思う。今までの自分が変わっていく。三澤がいれば自分の意志と力でなんだってできるような、強い気持ちになれる。

 そうして、約束の時間の五分前。できるだけ体の負担を避けるため、入浴も家で済ませた翼を三澤が迎えに訪れた。妹や弟たちも一緒だ。
 駅から走って来たのだろう。子供たちは全員息をはずませて、汗をびっしょりとかいている。

「翼君、お迎え来たよ!」

 その中でも三澤と同じライオンヘアの緋王が、翼の腰に腕を回して抱きついた。玉の汗が浮いた額をシャツの腹部分にこすりつけてくる。

「駄目! 翼君が汚れるでしょ」

 凜音がすぐに三男を引っ剥がしたが、もう翼のお腹の部分は濡れていた。

「あー! ワリィ……大塚、風呂入ったんだよな」

 すん、と三澤が鼻をすすりつつ謝る。ボディソープかシャンプーの匂いがしたのだろう。

「だ、大丈夫! 服だし、すぐに乾くよ」

 いつもなら、こっそりと鼻から息を吸い込んで、隣りにいる三澤のおひさまの匂いをかいでいるのは翼なのに、逆にかがれると恥ずかしくなる。

「じゃあ、俺が責任を持って大塚……翼君を守りますんで、安心してください!」

 翼が肩をすぼめて恥じらっていると、三澤が今回も勢いよく頭を下げて挨拶をした。

 翼は下の名前で呼ばれたことも照れくさくて、肩をすぼめたままになってしまうが、両親は顔を見合わせて吹き出した。

「まるで結婚の挨拶みたいね、頼もしいわ」
「け、結婚って、お母さん!」
「え! 日本語おかしかったですか?」

 翼も三澤も、それぞれで焦ってしまう。弟ふたりが「翼君とにぃにぃ、結婚するの~?」なんて無邪気に聞いてくるのと、翼の父が「誰であろうとまだ翼はやらん」と冗談に付き合うのが、追い打ちをかけて恥ずかしかった。

 そんなこんなで、居たたまれない三澤家への道中、ふたりの弟を先頭に凜音が背後を守り、その後ろを翼と大塚が続く。

「おーい、車が来るから白線の内側に入っとけよ」

 三澤が言えば凜音も注意して弟たちを白線の中に入れ、自分が白線のきわを歩いた。

「大塚もこっちな」
「あ」

 肘を持たれて、三澤と位置が変わった。手はすぐに離れたが、翼と違って大きな手は少し湿って熱かった。それに狭い道に入ると、時折三澤の腕や手の甲が翼のそれに当たる。

 夜風が微かに拭くと、汗をかいた三澤の肌の匂いも感じられた。
 懐かしい風景を見たときに泣きたくなるような、そんな不思議な気持ちになる。
 親友の気配とは、こんなにも琴線に触れるものなのだろうか。

「手、繋ご!」

 凜音が言って、前を歩く三人が手を繋いだ。

 僕も三澤君と繋ぎたい……。

 翼は不意にそう思ったが、それは高校生の男友達では普通しないだろう。

 翼は三澤の手がコツンと当たった自分の左手だけを、ぎゅっと握ることにした。