似てない2人


吉川小百合は今日40才の誕生日を迎えていた。
夕食の時間になりテーブルに着く。
父と母も何事もないように席に座っていた。
そして去年結婚して家を出ていったはずの妹がちゃっかり座っている。
年の離れた妹は新婚のくせに、こうして度々家に来てはご飯を食べにきているのだ。
次女は楽なもんだと小百合は常々思うが、うっかりそれを口に出そうものなら口が達者な妹にやり込められるだろう。
プレゼントはおろかケーキなども当然のようになかった。別に欲しいわけでもないが、最後に誕生日を祝ってもらったのはいつだろうと小百合は考えた。
「お姉ちゃんどうしたの」
目ざとい妹が小百合に声をかけてきた。心配してではない。
「いやあ別に。どうもしないよ」
「でもお姉ちゃんも楽でいいよね。その年でもこうやって家でお母さんのご飯食べて。私は主婦だから毎日大変なのよ」
主婦と言いながら自分もこうしてご飯食べに来てるじゃない。小百合は心の中で毒づいたが、胸の内にしまった。
両親も慣れたものなのか、二人のやり取りには無言だった。
昔からそうだ。妹はすぐ突っかかってくる。しかしそれに反論して喧嘩になると、決まって親は小百合をたしなめるのだ。
お姉ちゃんなんだから。年が離れてるんだから。
お姫様気質の妹はそれでなおさら増長していった。
「ごちそうさま」
小百合は急いでご飯を食べ、部屋に戻った。

40かあ。小百合は心の中で呟いた。
気付けばあっという間だった。昔は両親も結婚はまだかと急かしていたが、最近ではその話題に触れることすらなくなった。
だいたい名前が小百合なのも嫌だった。平凡を絵に描いたような私に小百合とは分不相応もいいところだ。
名字が吉川で名前が小百合って。
これも主に年配の人達にからかわれてきた。
小百合は自分の心がどんどんネガティブになっているのを感じた。
そういう時はこれだ。
机の引き出しから原稿用紙を取り出す。
小百合は昔から少女小説が好きだった。今は下火になったが、小百合が中学生くらいの時は、クラスのみんなでよく読んだものだ。
いつからか小百合も自分で書いてみたくなり、誰に見せるでもない小説をこっそり書くようになった。
小説の登場人物は、皆一生懸命に恋をして、自分の人生を謳歌している。
それは架空の世界ではなく、そこに人がいて、それぞれの人生があって、確かに生きているのだ。
小百合にとって小説を書くと言うことが、いつしか心の拠りどころとなっていた。

朝の通勤電車に揺られながら、もうすでに小百合は疲れていた。
最近物件探しで休みも潰れ、体力の無い小百合はなかなか疲れが抜けないのだ。
妹が実家暮らしを散々バカにしてくるので、ついに独り暮らしをすることにしたのだが、思ったより大変だ。
電車の窓に自分の姿が映っている。やつれていた。ささやかな抵抗で、老けているとは思いたくない小百合だった。
会社での立場も微妙だった。地味な事務のおばさん・・と言うのが会社での小百合の評判なのは自分でもわかっていた。
男性社員や、若い女性社員などはあからさまに邪険にしてくるのも実感していた。ただ一人を除いて。
駅を出て会社に向かう。歩いていると男が話しかけてきた。
「やあ吉川さんおはよう」
「あっ金子さんおはようございます」
「なんだかお疲れ気味ですね。元気出してくださいよ」
唯一小百合に気安く接してくれるのが、この金子と言う男性社員だった。
年は34才だかで小百合より年下である。少し気になる存在ではあったが、自分では何も出来なかった。
彼はきっと優しいから。だから私みたいなのに気軽に話しかけてくれるんだ。勘違いしちゃダメ。
小百合はそう考えるのだが、やはりどうしても気になるのだった。

小百合はせっかくの独り暮らしを、早くも後悔していた。
独り暮らしを始めるに当たって、今まで我慢してきた分を取り戻そうと小百合は考えた。
小百合は可愛いもの、ピンク色のもの、そしてフリルやレースが好きだった。しかしそんなものを好きと公言すれば、きっとみんな私をバカにしてくるに決まっている。
こうして今まで我慢してたが、もうそんな気を使わなくていいんだ。今ならネットで何でも買えるし。
そして自分の夢の空間と言うべき部屋が完成した。
しかし・・小百合が頭を抱える問題が発生した。
隣の部屋の騒音がかなり酷かったのである。
時間も関係なくドタバタと音をさせ、酔っているのか夜中でも大声で歌声が響いてきた。
もっと内見の時に気をつけるべきだった。しかし、もう悔やんでも後の祭りだった。
今も夜の11時を過ぎているのに、何をしてるのか知らないが、隣から大きな音が聞こえる。何か壊したのかガシャーンと音がした時、小百合の我慢は限界に達していた。
声で隣に住むのが女性だと言うのはわかっている。いっそ文句を言いにいこうか?しかし小心者の小百合にはそんな事は怖くて出来なかった。
文句じゃなくて穏便に言えばわかってくれないかな?
そう思ったが、やはり足がすくんで出来そうもなかった。

12時を超えて、ついに歌声が響き出した。正直あまり上手くもない歌声が、小百合の神経をすり減らしにかかってきた。
もう言おう。さすがに言う権利はあるはずだ。
ついに意を決して玄関を出た小百合は、隣の部屋のチャイムを鳴らした。
「はい」
ぶっきらぼうな声で中の住人がドアを開けた。
「なに?誰?」
なんだか機嫌が悪そうな声だった。少しハスキーでかすれていた。
住人を見て小百合は驚いた。とんでもない美人だ。そしてまだ若かった。
気だるそうな雰囲気がまたその美しさを引き立たせていた。
小百合はこのタイプが一番苦手だった。住む世界が違う、そう感じるのだ。
「あの・・ええと・・あの・・」
「なに?なんか用?」
小百合はしどろもどろになって、あのしか言えなくなっていた。
怖い。怖い。小百合は自分の情けなさ
が憎かった。
「あの・・ちょっと・・音が大きくてですね・・」
女は無言で小百合を見つめていた。
怖い!怒られる!助けて!
心臓が強く脈うつのがわかった。
「ああ・・ごめん。私そういうの疎くてさ。うるさくしちゃってたらごめんね」
女は意外にも素直に謝ってきた。
「あの・・いや・・ごめんなさい失礼します」
小百合はそれだけ言うと、逃げるように自分の部屋に戻った。
部屋の中に入っても、まだ動悸がおさまらなかった。しかし言えた。ちゃんと言えた。
私だってやれば出来るのよ。
小百合が自分を褒めている時、ピンポンとチャイムがなった。
おさまりかけた動悸がまた速くなる。
ゆっくりドアのスコープを覗いたら、隣の女が立っていた。

スコープ越しに女を見たとき、小百合は心臓が止まるかと思った。
なんだろう?お礼参りかも。
小百合はこのまま寝たふりをしようか悩んだ。しかしまだ女はチャイムを鳴らしてくる。
小心ゆえに無視をする勇気もなく、小百合は恐る恐るドアを開けた。
「ああごめんね。私ってさ、いつも迷惑かけるみたいで、もう一度ちゃんと謝っとこうと思って。またうるさかったら言ってね」
女はそう言って手に持ったビニール袋を差し出した。
「これお詫び。飲んでよ」
見ればビニール袋の中身は缶ビールが何本か入っていた。
「あの・・」
「私ビール飲めません」
小百合がそう言うと女は眼光鋭く睨んできた。ように見えた。
しまった。本当のことを言わないで黙って受け取っておけばよかった。
小百合は自分のこういうところが嫌だった。
「じゃあ酒は何がいけるん?」
「甘いのならちょっぴり・・」
「ふーん。ちょっと待っとき」
そう言って女は出ていった。なんだろう、やっぱりなにか武器でも持ってくるのだろうか。
小百合がビクビクしていると女が戻ってきた。手にはコンビニの袋を持っていた。
「これ。そこのコンビニで買ってきたから。飲めるのある?」
見れば甘く度数の少ないチューハイやカクテル系のお酒が何本か入っている。これなら飲めそうだ。
「ありがとう。また後日飲ませて・・」
小百合がお礼を言いかけている最中、女は最初に持ってきた缶ビールを開けて飲み出していた。
人の家の玄関先でなにをしてるんだと小百合は思ったが、女は気にする風でもなかった。
「飲まないの?」
一本まるまる飲んで二本目に手をのばしながら女は言った。
「あの・・また後日・・」
「飲まないの?」
女が圧をかけてくる。
小百合がたじろいでいると、女はなにかに気付いたようにビールの入っている袋をガサゴソとしだした。
「じゃーん。おつまみいるよね。ほらちゃんとあるよ」
女は飲むと変わるのか、笑顔で柿ピーを見せてきた。
呆気にとられながらも、案外笑うと人懐っこいなと小百合は思った。

「いやホント私、めちゃくちゃダメ人間でさ。部屋なんて汚いのなんのって」
女は陽気にしゃべりながら、ビールを飲み続けている。
この玄関先の奇妙な飲み会に、小百合はなんで私がこんな目にと考えていた。
「あの・・そろそろ平日だし・・」
「あっごめん。私やっぱりダメだな」
わかってくれたようだ。
「名前聞いてなかったよね。名前なんて言うの?」
どうやら人の話は聞いてないようだ。
「ええと・・吉川です」
「違う違う、下よ下。私は麦子。麦子でいいよ」
女は見た目と違って、意外と古風な名前だった。どっちかと言うとジュリアとかマリアみたいな風貌だと小百合は思ったが、それは心の中に留めた。
なにより人の名前にどうこう思うのが失礼な話だ。それに散々苦労してきた小百合だった。
「下の名前は小百合です」
彼女もまた私の名前を似合わないと言うのだろうか?小百合は身構えたが
「へえ。いい名前じゃん。似合ってるよすごく」
思いがけない肯定だった。例えお世辞だとしても、似合ってると言われたのは初めてだった。
「じゃあ小百合よろしく。ハイ乾杯」
麦子が満面の笑みで缶ビールを差し出してきた。
どうもこの笑顔がいけない。黙っていると怖さを感じる美人だが、笑うとまるで無邪気な子供のようだ。
この人モテるだろうな。小百合はあまりに自分と違う麦子に、軽い嫉妬心を覚えた。
と同時に、私なんかがこんな若くて綺麗な子に嫉妬するとは、なんて身の程知らずでおこがましいんだと、小百合は反省するのであった。
「あれビール無くなっちゃった。仕方ないなあ。私のとこからまた持ってくるよ」
持ってきたビールをすべて飲み干した麦子が恐ろしいことを言ってきた。
「もう!さすがに!遅いから!帰って!」
さすがの小百合も大声で麦子に言った。
「そう?それは残念。じゃあまた飲もうね」
そう言って麦子はやっと帰っていった。
さすがにあの子とは価値観が違いすぎる。もうかかわることもないはずだ。
小百合はぼんやりと玄関を見つめながら思った。

小百合は数少ない友達との飲み会が終わり、気分よく帰途についていた。
最近は隣の麦子もあまり騒音をたてなくなり、同僚の金子との仲も、なんだか良くなっているような気がしていた。
足どりも軽く、小百合の住むマンションまで帰ってきた。
なんの気なしにマンション前のゴミ捨て場に目をやったとき、あるものを発見した。
ゴミ捨て場の、網の引戸が開いていて、そこから二本の足がニョッキリとのびていたのだ。
ギャー!死体!小百合の心臓が鐘を鳴らすがごとく高鳴った。
しかし・・なんとなく小百合はいやな予感がした。このまま気付かないふりしてマンションの中に入ろうか。
だがそれが出来ない小百合だった。
おそるおそる二本の足に近付いていく。予感はあたった。
二本の足の主は、ゴミ捨て場でゴミに埋もれて眠る麦子だった。
「麦子さん!麦子さん!ちょっとどうしたの」
麦子は酔いつぶれて寝ていた。
小百合がどんなに話しかけても麦子は起きなかった。
どうしよう?さすがに若い女の子を外に放置しておくわけにはいかない。
お金を取られるかもしれないし、悪い男に見つかったらなにをされるか。
しかし飲むのはいいがこんなゴミの中に埋もれて眠るほど泥酔するのは、小百合の倫理観からすると信じられないことだった。
とりあえず部屋に戻ろう。小百合は麦子の肩に腕を回して、麦子の物らしいバッグを持って中に入ろうとした。
それにしても意識のない人間とはこんなにも重いのか。小百合は持てる力をふりしぼって麦子をひきずるようにして歩いた。
やっとの思いで自分の部屋に麦子を連れて帰ってこれた。
後々考えれば、部屋は隣なので麦子のバッグから鍵を取り出し、そこに麦子を押しやればよかったのだが、その時はそこまで知恵がまわらなかった。
小百合自身もお酒が入っていたのと、麦子をここまで連れてくるのに力を使い果たしていた。
部屋の中まで連れてきて、小百合はそのまま倒れるように眠った。

「小百合。小百合さん。小百合ちゃーん」
誰かが私を呼んでいる。もう少し寝させて。
「小百合ちゃーん。小百合ちゃーん。あっ起きた」
小百合は目を覚まし体を起こすと目の前に正座をした麦子がいた。
どうやら声の主は麦子だったみたいだ。
「ちょっと記憶が怪しいんだけど・・もしかして私やらかしちゃった?」
麦子が頭をかきながら聞いてきた。
小百合は昨日の出来事を思い出し、なんだか無性に腹がたってきた。
「麦子さんあなたねえ。昨日どこで寝てたのかわかってるの?」
「うっ、わかんない。家の近くまで来てたはずだけど」
「ゴミ捨て場よゴミ捨て場。なんでそんなとこで寝てるの」
小百合は昨日のあらましを麦子に説明した。
「麦子さんあのね」
「麦子でいいよ」
「じゃあ麦子。あなたわかってるの?若い女の子が外で寝て。なにかあってからじゃ遅いの」
「いいよ別に。なにかあってもそんときゃそんときだから」
「よくない!」
麦子は小百合の思いがけない迫力にたじろいだ。
小百合はとっくの昔になくなったと思っていた、お姉ちゃん気質が知らず知らず甦っていた。
「ダメよそんなの。もっと自分を大事にして。傷付くのはあなたなんだからね」
「そんな大げさな。よくあることだから気にしすぎだって」
「なんでよくあるのよ。今までが大丈夫だったからって、次も大丈夫かわからないじゃない。お願いだから話聞いて」
何故か小百合の両目から涙がこぼれてきた。
あれ?なんで私泣いてるんだろう?
説教してるほうが泣き出すなんて格好悪いな。
それに麦子のような若い子にとって、私みたいなのに説教されていい気はしないだろう。ウザいとか思われてるんだろうな。
小百合は熱くなった自分が、急に恥ずかしくなってきた。
「ごめんなさい・・気をつけます。あのさ・・」
麦子は頭を下げた。
「私あんまり人から心配されたり、こうやって怒られたりしたことなくてさ。なんか嬉しいよ。ありがとね本気で叱ってくれて」
麦子にこう言われて小百合は驚いた。
私は彼女を誤解してたのかもしれない。
「そりゃあ心配するよ。私もそんな風に言ってくれるの初めて」
「へーそうなんだ。でも小百合ってさ・・いい奴だね」
麦子はニコッと笑って言った。
まぶしい!小百合はその笑顔は反則だよと、心の中で思ったのだった。

麦子はきっと自分の感情に素直なんだろう。私をいい人だと思ったら、こうやって素直に口に出す。
自分とまるで正反対だと小百合は思った。
そんな麦子は部屋の中をキョロキョロと見渡していた。
小百合は思わず声をあげそうになった。部屋の中はピンク色のクマのぬいぐるみや、レースのカーテン、白で統一された家具などが並んでいる。
この部屋はいわば小百合の城なのだった。
誰にも見せることのない、自分だけの空間。それを不測の事態だったとはいえ、麦子に見られてしまったのだ。
小百合は恥ずかしさで穴があったら頭から飛び込みたいと思った。
小百合の視線を感じた麦子は
「あっごめん、見すぎ?でもこの部屋カッコいいね!めっちゃいいやん!」
と、またとびきりの笑顔で言うのだった。
カッコいい?麦子のカッコよさの基準がよくわからなかったが、とりあえずは褒めてくれているみたいだ。
「いやホントすごいよ。なんかちゃんとしてるよね小百合って。ちゃんと部屋キレイだし」
逆にこの子は部屋の中はどうなっているのだろうと小百合は思った。
それにしても、麦子の称賛に戸惑いを感じはするが、決して悪い気はしなかった。むしろここまで純粋に褒めてくれることは、小百合の人生には一度もなかった気がする。
小百合は長年胸の内にあった、硬い氷が溶けていくような気持ちになった。
なんだかまた涙が出てきそうだ。
気分もよくなって、少しお腹が減ってきた。小百合は朝ごはんをしっかり食べたい派なのだった。
「お腹すいたでしょ?朝ごはん作るから食べてってね」
そう言って小百合はキッチンに向かった。

小百合は白米を食べたい人なので、時間があるときに冷凍していたご飯をチンして、目玉焼きを作った。ウインナーを焼き、味噌汁は今日はインスタントにしておいた。
妹の言葉を思い出す。私だってちゃんとご飯作れるんだと言ってやりたかった。
麦子を呼ぼうと思い、部屋に戻った。
さっきから、やけに静かだと思っていたら、麦子は原稿用紙を手に持って、一心不乱に読んでいた。
私の小説!人が来ることなどまったく想定していなかった小百合は、原稿用紙を出しっぱなしにしていたのだ。
「出来た?」
麦子は原稿用紙に目を落としたまま聞いてきた。
小百合にとって自分の小説は、心の根っことでも言うべきものであり、まさか他人が読むなどとは思ってもいなかった。
ましてや自分の目の前で小説を読まれるなど、まるで辱しめを受けているかのようだった。
「あの・・あの・・」
小百合はまたあのしか言えなくなっていた。
「いいとこなんだけどな。とりあえずご飯食べよう」
麦子はそんな小百合を気にもとめず、キッチンに向かった。
「すげー!ちゃんとご飯だ!朝からちゃんとご飯だ!」
朝ごはんを見た麦子は興奮していた。
「朝からこんなちゃんとしたの食べるってめっちゃ久しぶり!小百合すごいね!」
子供のようにはしゃぐ麦子を尻目に、小百合は魂が抜けたようになっていた。
見られた。見られた。見られた。
小百合の頭の中で見られたがグルグルと駆けめぐっていた。

「ごちそうさま。美味しかったー」
麦子は満足そうにお腹をさすっていた。
「よーしつづき読も」
食べ終わった麦子は部屋に戻っていこうとした。
「え、待って。まだ読むの?」
「なんで?今いいとこだもん」
そう言うと部屋に戻っていった。
魂が抜けたまま洗い物をして、小百合も部屋に戻った。
まだ読んでいる。
小百合は恥ずかしさで顔が熱くなるのを感じていたが、ふと感想を聞きたくなった。
誰にも見せるつもりはなかったが、いざ見られると物を書く人間の習性なのか、麦子がなんて言うか気になったのだ。
どうしよう。聞いてみようかな。
「これさ」
ふいに麦子が声をかけてきた。
「小百合が書いたん?」
「あの・・うん。私が書いたの」
麦子の顔がパッと明るくなった。
「すごいじゃん!面白いねこれ!」
それを聞いた瞬間、小百合は味わったことのない満足感を感じていた。
どうしてこの子は、こうも私を喜ばせてくれるのだろう。
「続きは?まだ途中じゃん」
「あっまだ書けてなくてね。ちょっとずつやってるから」
「そうなんだ。続き書いたら一番に見せてよ」
「一番もなにも、人に見せたの初めてだから。麦子にだけしか見せてないよ」
麦子は意外そうな顔をした。
「えっそうなん?せっかく書いてるのにもったいないじゃん。ネットにあげるとかしたら人気出るかもよ」
麦子の提案は一般的な感覚では普通なのだろう。しかし小百合は、もし自分が書いたものが衆人の目に晒されたとしたら、とても正常でいられる自信がなかった。
「いやいやいやいや!ムリムリムリムリ!そんなことしたら生きてけないよ」
小百合の強い否定に、麦子は少し不満げな顔を見せた。
「まあ小百合がいやだったらしょうがないよね。残念だなあ」
「うんごめんね」
「ううんいいよ全然。いつごろから書いてんの?」
「高一くらいから書いてるかな。完全に自己満足だけどね」
小百合が照れ笑いをしながら言うと、麦子の目がキラリと光った。
「そんだけ長く書いてるともっとあるんでしょ。見せて」
「うっ・・いやあるにはあるけど・・」
「見せて」
こうなると小百合は弱かった。今まで書いてきた原稿用紙を見せると、麦子はずっと小百合の小説を読みふけった。

小百合は目の前で小説を読んでいる麦子をチラと見た。
かれこれ何時間いるだろう。読むたびに感想を言ってくる麦子の言葉に、小百合は恥ずかしさと、そして嬉しさを感じた。。
麦子は普段小説などは読まないらしい。だからなのか感想はすげーと面白いしか言わなかったが、その無邪気で真っ直ぐな感想がむしろ、本音で語っているように小百合には思えた。
そうだ。私は誰かに認めてもらいたかったんだ。
小百合は小鼻の奥がツーンとする感覚に襲われ、目頭が熱くなってくるのを感じた。
やだ・・また泣いちゃう・・
年上なのにまた泣いて、と思われるのが恥ずかしいので我慢しようとしたが・・やはりまた涙が出てきた。
「えっ?小百合どしたん」
麦子にも気付かれたようだ。
「ち、ちがうの・・嬉しくて・・私・・だって・・こんな・・人から・・」
自分でもなにを言っているのかわからなくなっていた。
そんな小百合を見て麦子は、持っていた原稿用紙を置いて、小百合をそっと抱きしめた。
「泣き虫小百合。また泣いちゃって。小百合のことは私が認めてんだよ。それでいいじゃん。私が認めてるって・・すげーことなんだよ」
すごい自信だが、麦子が言うと不思議と嫌味に聞こえない。むしろそれが麦子の魅力だと小百合は思った。
「うん・・ありがと」
「ホントに世話が焼けるね。私一人っ子だけど、妹いたらこんな感じかもね」
麦子は小百合の頭をポンポンと撫でながら、優しく微笑んだ。
「私のほうがだいぶ年上じゃない。私のほうがお姉ちゃんなの」
小百合も泣きながら笑顔になった。
「へへへ。元気出てきた?よーし、じゃあアレしかないな!」
麦子は部屋を飛び出した。しばらくして戻ってきた麦子は、コンビニの袋を手に持って満面の笑みを浮かべた。
「よっしやるぞ!」
小百合に甘いお酒を渡し、麦子は缶ビールを豪快に飲みだした。

「そういえばさ、小百合はリアルな話はなんかないの?」
スウェット姿で寝転びながら、麦子が聞いてきた。
「リアルってなにが?」
あれから麦子は度々小百合の部屋を訪れては、2人で他愛のない話をするようになった。
麦子はすでに人の家にいるという感覚もなくなっているように見える。
「ほらあんだけ恋愛小説書いてるけど、実際の恋愛ってどうなん?なんかあるん?」
「そう言う麦子はどうなの?」
「私はもういいや。めんどくさい」
めんどくさいと言うくらいモテたんだろうなと思うと、小百合はやはり麦子に軽い嫉妬心を覚えるのだった。
「私のはいいじゃん。小百合はどうなのさ」
「いや・・あの・・ちょっと気になる人ならいるけど・・」
「おっ!いいじゃんいいじゃん。それは詳しく聞かせてよ」
もういいやと言いながら、人の話は気になるのか麦子は身を乗り出してきた。
小百合はしどろもどろになりながら、金子の話をしてみた。
「へえいいね。ぐっと距離縮めちゃおうぜー」
麦子はそう言うが、それが出来れば苦労はしないと小百合は心の中で思った。
しかし麦子とかかわるにつれ、小百合も明るい気持ちで毎日過ごすようになり、ずいぶんと前向きになってきたように思う。
これならもっと積極的にふるまってもいいかもしれない。
いやむしろ、今まで受け身だった自分から脱却するいいチャンスなのかもしれない。
小百合の気持ちにも変化が出てきた。
そんなある日、さっそくその機会が訪れた。
仕事を終えた小百合は、駅に向かって歩いていた。その時、目の前に同じように駅に向かう金子を見つけた。
声をかけるチャンスかもしれない。
勇気を・・私にほんのちょっとの勇気を・・
小百合は金子に追い付くように、駆け寄っていった。

「金子さんお疲れさまです」
声をかけられて振り向いた金子は、小百合に笑顔を見せた。
「ああ吉川さん。奇遇ですね」
小百合は勇気を出した自分を褒めてあげたいと思ったが、後が続かなかった。
声をかけたはいいが喋らない小百合に、金子の方から話しかけてきた。
「確か電車同じ方向でしたね。途中まで一緒に帰りましょう」
やった!嬉しい!小百合は心に羽がはえたような気持ちになった。
気を使ってか、金子は積極的に話しかけてくれる。
「吉川さんは休みの日とかどうしてます?僕は飲んでばかりでハハハ」
小百合は浮かれていた。今なら自分の心の内を言ってもいいかもしれない。
「あの・・お休みは・・あの・・小説書いたりしてます」
「へえすごい文化的ですね。どういった話を書いてるんです?」
「あの・・恋愛ものを・・いや私なんかがなんですけどね」
「そんな事ないですよ。似合ってますよ吉川さん」
金子にこう言われて小百合は天にも昇るような気持ちになった。
やっぱり勇気を出してよかった。
小百合の降りる駅に着くと、金子は手をふって小百合が電車から降りるのを見送った。
頭を下げてから小百合は出口に向かって歩いた。電車から背を向けた小百合には見えなかったが、後ろを振り向いた瞬間金子は真顔になり、そして軽く舌打ちをした。

いつもと違う行動をすると、得てして思いもよらない結果になることがある。
その日小百合は、喉の調子が悪かった。仕事が終わり、いつもは駅に向かって真っ直ぐ帰るのだが、のど飴を買おうと会社の裏手にあるコンビニに向かった。
会社の裏手に喫煙所があるのだが、タバコを吸わない小百合にとって、こちら側はあまり縁のない所だった。
「なあ昨日吉川さんだっけ?一緒に帰ってたやろ」
喫煙所のついたての向こうから、声が聞こえてきた。
自分の名前が出たので小百合は驚いた。
「ああアレ?向こうから声かけてきてさ。仕方なくだよ仕方なく」
返事をした声は、金子の声だった。
コンビニに行くには喫煙所の前を通らなければいけないのだが、小百合はその場から動けなくなっていた。
「なんであんなお局に優しくしてんだよ。なんか地味だし」
「バカだなお前。あんなのに優しくしてたら他の女どもから、キャー金子さん優しいてなるんだよ。俺の好感度あがるだろ」
「相変わらず悪い男やなあ」
「バーカ。それにあの女も俺以外どうせ男と喋る機会もないだろ。これはボランティアよボランティア」
小百合は目の前が真っ暗になる感覚に襲われた。膝が震えている。
「それにあいつさ。あんなんで恋愛小説なんか書いてんだとよ。キモいってマジで」
「マジ?ヤバいなそりゃ。どうせ自分が主人公で相手お前だぜ」
「いや勘弁してくれよ。ホンマに書いてそうだろ。ヤバいしキモいわそりゃ」
小百合は全身の力が抜けたようになった。血の気が引いていくのを感じる。
そこにいるのがバレないよう静かにその場から離れ、駅に向かってヨロヨロと歩きだした。
「そうだ・・私キモいんだった・・」
小百合は声にならない声で呟いた。

やっぱり私みたいなのが、調子に乗ったのが悪かったんだ。私なんかが夢見ちゃってバカみたい。
私・・私・・
そんなことをグルグルと頭の中で考えていたら、気付けば家に着いていた。
せめて人目のあるところでは泣かないように我慢していたが、部屋の中に入ると涙が止めどなく溢れてきた。
小百合は金子のひどさよりも、自分が小説を書くことを、他人に話したことを恥じた。
小百合は原稿用紙を取り出した。
私はキモいんだ。こんな小説なんか書いて、やっぱり人から見たらキモいんだ。
こんなもの。こんなもの。泣きながら原稿用紙を破り、そのままゴミ箱に捨てた。
嗚咽が止まらない。小百合はベッドに潜りこみ、布団を頭からかぶった。
悲しくて、恥ずかしくて、情けなくて、涙が止まらなかった。
このまま泡になって消えてしまいたい。小百合の泣き声は、ほとんど唸り声のようになっていた。
その時ピンポンとチャイムがなった。多分麦子だろう。しかし今は誰とも会いたくなかった。
「おーい小百合いるー?鍵開いてたよ。危ないって鍵閉めないと」
ドタドタと足音がして、ドアを開ける音が聞こえた。
「げっ!なにこれ?」
麦子の声が聞こえて、小百合はかぶっている布団をギュッと握りしめた。

麦子は布団ごしに小百合をユサユサと揺さぶった。
「おーいどしたん?なんか原稿用紙ゴミ箱に捨ててあるし。なになに?どしたんよ」
布団の山と化した小百合を麦子はひっぺがそうとした。しかし小百合は抵抗し、ますます布団を握りしめる手の力が強くなった。
「さーゆーりー。私に力でかなうと思ってんの」
そう言うと麦子は思いきり布団を引っ張った。ものすごい力だった。
抵抗むなしく布団は剥ぎ取られ、そこにはスーツ姿のまま、涙で化粧もはがれ真っ赤な目をした小百合がいた。
「小百合・・どうしたのこれは」
いつもとは違う泣き方の小百合の姿に、麦子も戸惑いの表情を見せた。
小百合は両手で顔を覆い、体を丸めうずくまっている。
それを見た麦子は無言で座り、そのままずっと黙りこんでいた。
「ほっといて」
「私のことはほっといて」
手で顔を隠したまま小百合はかすれた声で言った。
もう何もかも嫌だった。何よりも、こんな自分が一番嫌だった。
麦子は軽いため息をついて、剥ぎ取った布団を小百合に投げるようにかぶせた。
麦子もさすがに愛想をつかせたんだろう。
さすがにこんな私なんか嫌いになっただろう。
でももういいや。私なんか誰からも好かれなくていいや。
もう疲れちゃった。
小百合は知らず知らずのうちに、泣き疲れて眠ってしまっていた。

小百合が目を覚ました時、一瞬どんな状況だったか、思い出せずにいた。
あっそうだ。麦子にほっといてと言ってそのまま寝てしまっていたのだ。
麦子は心配してくれていただろうに、そんなことを言われて怒ったに違いない。小百合は麦子との友情を、自ら壊したことに後悔した。
でもいくら悔やんでももう遅いんだ。
暗い気持ちでかぶっていた布団から顔を出した。
いた。そこにはテーブルに突っ伏して寝ている麦子がいた。
そしてテーブルの上には、小百合がビリビリに破いた原稿用紙が、テープで修復されてそこにあった。
「なんで・・なんで」
小百合の声で麦子も目を覚ましたようだ。
「ああ小百合・・起きたの」
麦子は目をこすりながら、大きなあくびをした。そして小百合の視線が原稿用紙に向いてるのを見て照れたように笑った。
「ああこれ?とりあえず直しといたよ。あんまりキレイじゃないけどさ、読めなくはないから」
「なんで・・直してくれたの?」
「なんでって。そりゃ小百合が大事にしてるもんだからじゃん。何があったかわかんないけど、これは小百合の宝物でしょ」
「でも・・そんなの書く私って・・キモいから」
小百合の言葉に麦子の顔色がサッと変わった。
「誰かに言われたのそれは?」
「いやそれは・・」
「言われたんだろ。誰がそんなこと言ったんよ」
「えっと・・その・・だから」
麦子が無言で見つめてくる。怒気を帯びた目で小百合を見据えていた。
小百合は観念して喫煙所で漏れ聞いた話を麦子にした。
話していると、思い出して涙がまた出てきた。詰まりながら、途切れながら、最後の方ではまた子供のように嗚咽をもらしていた。
「・・だから・・私なんかが・・こんなの・・書いて・・バカみたい・・」
いかに自分が勘違いをしていたか、身の程知らずだったかを涙ながら小百合は話した。
それを黙って聞いていた麦子は、小百合が話し終えると、唇を震わせながら、口を開いた。
「うんほんとバカ。あんたほんとバカだよ」

もう嫌われた。麦子にバカと言われて小百合はそう思った。
「ちょっとベッドから降りてきて」
震える声でうつむきながら麦子は言うと、ベッドから降りて麦子の前に正座した小百合の両肩を、手が食い込むくらいの力で掴んできた。
その手は震えていた。
「い・・痛い」
そのあまりの力に小百合はたじろいだ。
「あんたさ。それ本気で言ってんの?自分はキモいとか。私なんかがとかさ。前言ったじゃん。小百合はすげーって。小説も面白いって私言ったじゃん」
麦子は真剣な眼差しで小百合を見つめた。
「小百合は私にないものいっぱい持ってんじゃん。ちゃんとしてるし、部屋キレイだし、料理も出来るし、ちゃんと私のこと叱ってくれたじゃん。前も言ったけど私嬉しかった。私にそうやって言ってくれるの小百合だけなんだよ」
「麦子・・」
「バカ小百合。そんなしょうもない男の言うことと、私の言うことどっち信じるのさ。そんなに私のこと信用ないのか?ほっといてって、ほっとける訳ないじゃん。だって私らダチだろ。私は小百合のこと親友だって思ってるよ。私だけなんそう思ってるの?」
「違う・・違う・・私も思ってるよ」
「だったら。だったらもう2度とそんなこと言うな。なんかあったら私に言え。1人でもう抱え込むな」
「麦子・・ごめん・・本当にごめんね・・」
小百合は涙と鼻水で顔がグシャグシャになりながら謝った。
「あと小説もこんなんしちゃって。自分が本当に大切にしてるもんは、誰がなに言おうが関係ないから。笑いたい奴は笑わせときゃいいんよ」
「ごめんなさい・・ごめんなさい・・麦子ごめんなさい・・」
「もう謝んなって。顔めちゃくちゃじゃん。もう世話が焼けるなあ」
小百合の頭をなでながら、麦子はやっと笑顔を見せた。
「やっぱり小百合は妹みたいだな。ほらいっぱい甘えなよ」
「私がお姉ちゃんなの・・私の方が年上だから」
「こんな年上いないって。ほら小百合もう元気出して。笑顔笑顔」
そう言うと麦子は小百合の頬っぺたをつまみ、上下に動かした。
「ハハハ変な顔」
麦子が無邪気に笑うと、小百合もつられて段々と気分が落ち着いてきた。
私本当にバカだった。あんな連中に陰口を叩かれて、自暴自棄になって麦子にも八つ当たりして。
小百合は修復された原稿用紙を見た。何より麦子が自分の小説をきちんと理解して大事に思ってることが嬉しかった。
笑いたい奴は笑わせときゃいいか。
うんそうだ。人にこう言われたとかもうどうでもいいや。
そう思うと小百合はすっきりとした気持ちになった。
「麦子。ありがとう。私麦子と親友になれて本当に嬉しい」
「そう?私も嬉しいよ。ヘヘヘ照れるな。あっそうだ」
笑っていた麦子が急に目付きが鋭くなった。
「金子とか言う奴・・シバきまわす」
そう言った麦子を小百合は必死になだめた。
麦子なら本当にやりかねない。小百合は怒る麦子をお願いだからやめてと、ずっとなだめ続けたのだった。

麦子は真剣な表情で手に持った原稿用紙を読んでいる。
書きかけの小説を書き終えた小百合は、真っ先に麦子に見せた。
あれから会社では、何回か金子が話しかけてきたが、小百合はすべて素っ気ない対応をした。
仕返しをしてやろうとかの気持ちもなく、ただ単純にどうでもよい存在になっていた。
腹も立たないし、ただの道端に落ちている石ころくらいにしか思えなくなった。どう思われようとも、心底どうでもよかった。
そんな小百合に、徐々に金子も話しかけることもなくなっていった。
それすらも小百合にはどうでもよいことになっていた。
麦子が小説を読み終える。
「いやあいいね!最後こうなるかあ。あー面白かった!」
「ふふよかった。ラストどうしようか色々考えたけど、うまくいったかな」
「うんうんいい感じ。お腹すいたね!」
「じゃあご飯にしようか」
「わーい。やったね」
麦子はこんなときだけ、子供に帰ったようになる。それもまた麦子らしいなと小百合は思った。
「そう言えば・・部家の掃除した?」
麦子の動きがピタッと止まった。
麦子があまりにも小百合の部屋に入り浸るので、たまにはそっち行かせてよと小百合は言ってみた。
麦子はそう言われるたび慌てて部屋が汚いと言ってかたくなに断っていたのだ。
「部屋の掃除早くしないと、もうご飯作ってあげないよ」
「もう意地悪しないでよ小百合お姉ちゃん」
「こんなときだけお姉ちゃんにしないでよ。掃除するの約束だからね」

こうして麦子はビールを飲み、小百合は甘いお酒を飲みながら、2人で楽しい食事をしながらいつまでも他愛ない話で盛り上がった。


終わり