2025年12月。夕暮れの街中で、豆塚がぼうっと上を向いている。前を歩いていた恵に手招きされ、気づいた豆塚が走り寄る。東京には雪が降っていた。
「春のコンサート、全滅で萎えてたけど、やっぱ神様は見てんのねえ。きっと受験がんばったご褒美よ」
「まあ、最近ファン増えてるし。今回は奇跡だよ」
3年生になった今でも、豆塚の趣味は健在だ。今日の推し活は映画。SKYの二人が吹き替え版の声優を務めた海外映画が春に公開されるのだが、その完成披露試写会のチケットを豆塚が当てたのだ。それが『オズの魔法使い』のリメイク版と知ったとき、豆塚はとてもうれしかった。それに、空は昔やりたがっていたライオン役だった。
しかし春のコンサートは当選しなくてホッとしたところがあった。顔を見れば、胸が苦しくなってつらい。最近ようやくテレビや雑誌を見れるようになったくらいだった。
会場に着き、二人は恐る恐る中へ入った。試写会は初めてなので緊張する。やはり観客は女性が多く、水色や茜色の服装をした人々はおそらくSKYのファンだろう。
席は上手寄りだったが、前から6列目と悪くはない。時間になると軽い挨拶があり、暗転した。
映画は豆塚の忘れかけていた記憶を呼び覚ますものだった。
『オズの魔法使い』とは、自分の家に戻る方法を探す少女ドロシーが、頭脳の無いかかし・心の無いブリキのきこり・臆病なライオンとともに冒険をする話である。それぞれには脳や心、勇気といった自分に欠けたものを求めて旅をする目的があった。豆塚が当時、お遊戯会で演じたのはブリキのきこりだ。彼は心を求めていた。子どものころは、ただドロシー演じる空の天使っぷりに見惚れていただけだった。実際、油をさされ、ドロシーの仲間になった瞬間の映像しか頭には残っていない。
しかし、豆塚は今になって思う。母が亡くなってから、ブリキのきこりのようにギシギシと音を立てる心を癒してくれたのは、いつだって空だった。それは時にソラでもあった。
豆塚は後悔した。彼に言うべきだったのは決して「嫌いだ」などという言葉ではなかった。
会場が明るくなり、アナウンスが聞こえた。映画は終わっていた。
豆塚を見た恵がぎょっとする。
「えっ……泣くような話だった?」
「涙もろいんだよ」
目尻を擦っていると、司会の女性が突然明るい声で言った。
「実は本日、サプライズゲストが来てくださっています。高校生アイドルデュオ・SKYのお二人です。どうぞ!」
会場がざわついた。恵が短く発狂し、豆塚の肩をバンバンと叩く。
ああ、だからサプライズなんて、いらないんだって————。
「こんばんは。ライオン役のソラです」
「かかし役を務めさせていただきました、アカネです」
ジャケットを着た彼は、また以前よりも大人になったように見えた。この一年でSKYの人気は上がっている。仕事も増え、きっと色んな経験をしたのだろう。本当に手の届かない人になったのだなと思った。
しばらく司会と二人の会話が繰り広げられたあと、再び明るい声が響いた。
「ここで、お二人への質問を受け付けたいと思います」
恵が豆塚のほうを向いた。「男は目立つから有利よ」とささやく。
こんなとき恵は意外とおとなしい。それに豆塚が一時期、元気がなかったのを心配していた。推しと話すチャンスだと言いたいのだろう。
「ご希望の方は挙手をお願いします」
質問などない。けれど、豆塚は気づけば手を挙げていた。
「あ、それでは、そちらの男性の方」
空が、自分を見た。表情は変わらない。
マイクを渡され、手が震えた。
今さらなんなんだと、思われているかもしれない。でも。
「えっと……僕はブリキのきこりが一番好きです。僕も彼のように、心が空っぽのときがありました。でもそんなとき、油をさしてくれたのがソラくんなんです。だから————」
足元に力を入れる。これが最後かもしれない、と思いながら。
「ありがとう。僕にもう一度、恋をさせてくれて」
多分、ちゃんと目を見て言えた気がする。潤んであまりよく見えないけれど、伝わったと思う。
やり切ったと胸を撫で下ろしていると、司会の女性が苦笑いをした。
「男性ファンからも熱い支持があるようですね。次はぜひ質問でお願いいたします」
会場がくすくすと笑いに包まれた。恵は顔を覆っている。
マイクを奪うように回収され、豆塚は真っ赤になって席に座った。
それからはよく覚えていない。恵に引っ張られて会場を出たときには、外はもう暗くなっていた。雪も本降りだ。
「まさか告白するとは思ってなかったわ。うん、見直した」
言いながら、恵は笑っている。豆塚がじろりと睨んだ。
「いいじゃん。きっと、ソラもうれしいって」
「……うん」
「よし! 感想会するよ!」
声を張った恵が豆塚の肩を抱き、近くのファミレスへと足を向けた。感想会という名の慰め会である。恵の言うとおり、豆塚はガチ恋だったのだ。
アパートに帰り着いたのは22時だった。傘から手を出して、落ちてくる雪を捕まえながら歩いていると、ふとエントランス前に人影があるのを認めた。
————デジャヴだ。
けれど、一瞬にしてその考えは消えた。そんなわけがない。
人影はカッパのようなものを着ているが、うつむいて、じっとしている。姉に電話しようかと思ったが、今日は彼氏の家に泊まると言っていたのでダメだった。
ここはダッシュしかない。傘を閉じ、ふうと息を吐いて、駆け出した。人影が振り返る。豆塚は無我夢中で走った。
しかし階段の途中で、呼ばれた気がした。
いや、そんなわけ————。
「豆ちゃん!」
今度ははっきりと聞こえた。足が止まった。
もう、二度と呼ばれないと思っていた。
その名前を使うのは、昔からずっと一人しかいない。だってそれは、彼だけに許したあだ名だから。
「空っ」
振り向いたと同時に、互いが互いを抱き寄せた。顔など見なくてもわかる。痛いくらいに抱きしめた。その間、言葉にならない言葉が、涙とともにぐしゃぐしゃになって漏れた。ごめん。大好き。ごめんね。そんなような単語が次々と溢れ、繰り返された。
「豆ちゃん、わかった。わかったから、顔見せて?」
涙と鼻水だらけの顔を、空が両手で包む。空も目が赤くなっていた。
「俺ね、会場に入ったとき、すぐ見つけたんだよ。豆ちゃんは下を向いて気づいてないみたいだったけど、俺はずっと豆ちゃんだけを見てた」
目が合ったとき表情が変わらなかったのは、初めから豆塚の存在に気づいていたからだった。
「ありがとうも、ごめんねも、俺のほうが言わなきゃいけない」
豆塚は首を振った。
「だって言わせたのは俺だから。嫌いだって言ったのは、俺のためなんだろう?」
「でも空を見捨てたんだ……傷つけたのには変わりない」
「うん。痛かった、いっぱい痛かったよ」
豆塚の涙を親指で拭い、空が続ける。
「だから、これからは相手のための嘘はなしだ。こわくても、自分の本当の気持ちを言おう」
「……臆病のライオンみたいに?」
豆塚がふっと笑った。
その瞬間、空の瞳が揺らいだ。眉間にしわを寄せ、唇を噛む。
「キスしたい」
豆塚は両頬に当てられた空の手が、力んだのを感じた。じわじわと熱い。
「え、えっと、鼻水拭かせて」
「やだ」
まって。と言おうとして、唇を塞がれた。
人のあたたかさを知ったのは、これが2回目だった。2回とも空だ。
ゆっくりと離れていった唇を、豆塚が捕まえた。
始まりには、必ず終わりがついてくる。だから、いつか空を失う日が来ると思うと胸が張り裂けそうだった。けれど空のいない日常は、もっともっとつらい。もう離したくはなかった。
「————ま、豆ちゃんっ、苦しいよ」
無理やり引き剥がされ、豆塚はハッとした。
眉を垂らし、頬を赤くした空がぽつりと言う。
「ほんとにファーストキス……?」
瞬間、豆塚はドンと空を突き放した。耳が急激に熱くなる。
「なんだよ! 疑うのかよ!」
「だ、だってさ、だいぶ情熱的だから」と言いながら、空は自分の唇に触れて「へへ」と笑った。
「うわあっ、ヘラヘラするな! なんかキモい」
「それはひどいよ!」
外階段で騒いでいた二人は出てきた住人に怒鳴られ、豆塚の部屋に避難した。
ココアを沸かす豆塚の真後ろに、空がひっつき虫のように立っている。
「空、鼻がトナカイみたいだよ」
「あっためてよ。豆ちゃんがこうしたんだから」
痛々しく赤に染まった鼻の先を、豆塚がチョンと押した。
「そんなこと言ったって、待ってるなんて知らないもん。いつから居たの?」
「終わってすぐ。2時間くらいかな」
豆塚は困った顔をして「バカだよ」と言った。
その豆塚を包み込むように、空が後ろからやさしく抱きしめる。
「そうだよ。豆ちゃんのことになると、俺はバカになるんだ」
胸の奥深くがきゅっと痛んだ。人を愛おしいと思うときも、ここは痛むのだ。それは豆塚にとって、始めての感情だった。
「あのさ」と豆塚がつぶやく。
「うん?」
豆塚は火を止め、お腹に回された空の両手を握った。
「空が泣きたいときは、一緒に泣いてあげる。だから喧嘩中でも、絶対呼んでよね」
それが彼のためにできる、豆塚の最大の愛だった。
言わなくても二人はわかっている。通じ合えていれば、それだけで十分なのだ。
潰れるくらいに抱きしめられたかと思うと、身体がぐるりと反転した。空と目が合う。
「一つだけ確認。あのデッカいヤンキーくんのことだけど」
空が言い、豆塚はブッと吹き出した。
「ちょっと、笑い事じゃないから! あいつには気をつけるんだ。本当だったら学校まで行って監視したいくらいだけど……あ、一緒に帰るとかもナシだから。わかった?」
「大丈夫だよ。本間はソラが気に食わないだけなんだ。そんなんじゃないよ」
「ああ、わかってない!」
頭を抱える空を、豆塚が呆れ顔で眺める。ココアを注ぎながら、豆塚は母を想った。
さみしくなったら上を見上げる。
空がある限り、ひとりぼっちにはならないのよ。
母の言葉は、離れ離れになった二人を繋いだ、魔法の言葉だった————。
<了>
「春のコンサート、全滅で萎えてたけど、やっぱ神様は見てんのねえ。きっと受験がんばったご褒美よ」
「まあ、最近ファン増えてるし。今回は奇跡だよ」
3年生になった今でも、豆塚の趣味は健在だ。今日の推し活は映画。SKYの二人が吹き替え版の声優を務めた海外映画が春に公開されるのだが、その完成披露試写会のチケットを豆塚が当てたのだ。それが『オズの魔法使い』のリメイク版と知ったとき、豆塚はとてもうれしかった。それに、空は昔やりたがっていたライオン役だった。
しかし春のコンサートは当選しなくてホッとしたところがあった。顔を見れば、胸が苦しくなってつらい。最近ようやくテレビや雑誌を見れるようになったくらいだった。
会場に着き、二人は恐る恐る中へ入った。試写会は初めてなので緊張する。やはり観客は女性が多く、水色や茜色の服装をした人々はおそらくSKYのファンだろう。
席は上手寄りだったが、前から6列目と悪くはない。時間になると軽い挨拶があり、暗転した。
映画は豆塚の忘れかけていた記憶を呼び覚ますものだった。
『オズの魔法使い』とは、自分の家に戻る方法を探す少女ドロシーが、頭脳の無いかかし・心の無いブリキのきこり・臆病なライオンとともに冒険をする話である。それぞれには脳や心、勇気といった自分に欠けたものを求めて旅をする目的があった。豆塚が当時、お遊戯会で演じたのはブリキのきこりだ。彼は心を求めていた。子どものころは、ただドロシー演じる空の天使っぷりに見惚れていただけだった。実際、油をさされ、ドロシーの仲間になった瞬間の映像しか頭には残っていない。
しかし、豆塚は今になって思う。母が亡くなってから、ブリキのきこりのようにギシギシと音を立てる心を癒してくれたのは、いつだって空だった。それは時にソラでもあった。
豆塚は後悔した。彼に言うべきだったのは決して「嫌いだ」などという言葉ではなかった。
会場が明るくなり、アナウンスが聞こえた。映画は終わっていた。
豆塚を見た恵がぎょっとする。
「えっ……泣くような話だった?」
「涙もろいんだよ」
目尻を擦っていると、司会の女性が突然明るい声で言った。
「実は本日、サプライズゲストが来てくださっています。高校生アイドルデュオ・SKYのお二人です。どうぞ!」
会場がざわついた。恵が短く発狂し、豆塚の肩をバンバンと叩く。
ああ、だからサプライズなんて、いらないんだって————。
「こんばんは。ライオン役のソラです」
「かかし役を務めさせていただきました、アカネです」
ジャケットを着た彼は、また以前よりも大人になったように見えた。この一年でSKYの人気は上がっている。仕事も増え、きっと色んな経験をしたのだろう。本当に手の届かない人になったのだなと思った。
しばらく司会と二人の会話が繰り広げられたあと、再び明るい声が響いた。
「ここで、お二人への質問を受け付けたいと思います」
恵が豆塚のほうを向いた。「男は目立つから有利よ」とささやく。
こんなとき恵は意外とおとなしい。それに豆塚が一時期、元気がなかったのを心配していた。推しと話すチャンスだと言いたいのだろう。
「ご希望の方は挙手をお願いします」
質問などない。けれど、豆塚は気づけば手を挙げていた。
「あ、それでは、そちらの男性の方」
空が、自分を見た。表情は変わらない。
マイクを渡され、手が震えた。
今さらなんなんだと、思われているかもしれない。でも。
「えっと……僕はブリキのきこりが一番好きです。僕も彼のように、心が空っぽのときがありました。でもそんなとき、油をさしてくれたのがソラくんなんです。だから————」
足元に力を入れる。これが最後かもしれない、と思いながら。
「ありがとう。僕にもう一度、恋をさせてくれて」
多分、ちゃんと目を見て言えた気がする。潤んであまりよく見えないけれど、伝わったと思う。
やり切ったと胸を撫で下ろしていると、司会の女性が苦笑いをした。
「男性ファンからも熱い支持があるようですね。次はぜひ質問でお願いいたします」
会場がくすくすと笑いに包まれた。恵は顔を覆っている。
マイクを奪うように回収され、豆塚は真っ赤になって席に座った。
それからはよく覚えていない。恵に引っ張られて会場を出たときには、外はもう暗くなっていた。雪も本降りだ。
「まさか告白するとは思ってなかったわ。うん、見直した」
言いながら、恵は笑っている。豆塚がじろりと睨んだ。
「いいじゃん。きっと、ソラもうれしいって」
「……うん」
「よし! 感想会するよ!」
声を張った恵が豆塚の肩を抱き、近くのファミレスへと足を向けた。感想会という名の慰め会である。恵の言うとおり、豆塚はガチ恋だったのだ。
アパートに帰り着いたのは22時だった。傘から手を出して、落ちてくる雪を捕まえながら歩いていると、ふとエントランス前に人影があるのを認めた。
————デジャヴだ。
けれど、一瞬にしてその考えは消えた。そんなわけがない。
人影はカッパのようなものを着ているが、うつむいて、じっとしている。姉に電話しようかと思ったが、今日は彼氏の家に泊まると言っていたのでダメだった。
ここはダッシュしかない。傘を閉じ、ふうと息を吐いて、駆け出した。人影が振り返る。豆塚は無我夢中で走った。
しかし階段の途中で、呼ばれた気がした。
いや、そんなわけ————。
「豆ちゃん!」
今度ははっきりと聞こえた。足が止まった。
もう、二度と呼ばれないと思っていた。
その名前を使うのは、昔からずっと一人しかいない。だってそれは、彼だけに許したあだ名だから。
「空っ」
振り向いたと同時に、互いが互いを抱き寄せた。顔など見なくてもわかる。痛いくらいに抱きしめた。その間、言葉にならない言葉が、涙とともにぐしゃぐしゃになって漏れた。ごめん。大好き。ごめんね。そんなような単語が次々と溢れ、繰り返された。
「豆ちゃん、わかった。わかったから、顔見せて?」
涙と鼻水だらけの顔を、空が両手で包む。空も目が赤くなっていた。
「俺ね、会場に入ったとき、すぐ見つけたんだよ。豆ちゃんは下を向いて気づいてないみたいだったけど、俺はずっと豆ちゃんだけを見てた」
目が合ったとき表情が変わらなかったのは、初めから豆塚の存在に気づいていたからだった。
「ありがとうも、ごめんねも、俺のほうが言わなきゃいけない」
豆塚は首を振った。
「だって言わせたのは俺だから。嫌いだって言ったのは、俺のためなんだろう?」
「でも空を見捨てたんだ……傷つけたのには変わりない」
「うん。痛かった、いっぱい痛かったよ」
豆塚の涙を親指で拭い、空が続ける。
「だから、これからは相手のための嘘はなしだ。こわくても、自分の本当の気持ちを言おう」
「……臆病のライオンみたいに?」
豆塚がふっと笑った。
その瞬間、空の瞳が揺らいだ。眉間にしわを寄せ、唇を噛む。
「キスしたい」
豆塚は両頬に当てられた空の手が、力んだのを感じた。じわじわと熱い。
「え、えっと、鼻水拭かせて」
「やだ」
まって。と言おうとして、唇を塞がれた。
人のあたたかさを知ったのは、これが2回目だった。2回とも空だ。
ゆっくりと離れていった唇を、豆塚が捕まえた。
始まりには、必ず終わりがついてくる。だから、いつか空を失う日が来ると思うと胸が張り裂けそうだった。けれど空のいない日常は、もっともっとつらい。もう離したくはなかった。
「————ま、豆ちゃんっ、苦しいよ」
無理やり引き剥がされ、豆塚はハッとした。
眉を垂らし、頬を赤くした空がぽつりと言う。
「ほんとにファーストキス……?」
瞬間、豆塚はドンと空を突き放した。耳が急激に熱くなる。
「なんだよ! 疑うのかよ!」
「だ、だってさ、だいぶ情熱的だから」と言いながら、空は自分の唇に触れて「へへ」と笑った。
「うわあっ、ヘラヘラするな! なんかキモい」
「それはひどいよ!」
外階段で騒いでいた二人は出てきた住人に怒鳴られ、豆塚の部屋に避難した。
ココアを沸かす豆塚の真後ろに、空がひっつき虫のように立っている。
「空、鼻がトナカイみたいだよ」
「あっためてよ。豆ちゃんがこうしたんだから」
痛々しく赤に染まった鼻の先を、豆塚がチョンと押した。
「そんなこと言ったって、待ってるなんて知らないもん。いつから居たの?」
「終わってすぐ。2時間くらいかな」
豆塚は困った顔をして「バカだよ」と言った。
その豆塚を包み込むように、空が後ろからやさしく抱きしめる。
「そうだよ。豆ちゃんのことになると、俺はバカになるんだ」
胸の奥深くがきゅっと痛んだ。人を愛おしいと思うときも、ここは痛むのだ。それは豆塚にとって、始めての感情だった。
「あのさ」と豆塚がつぶやく。
「うん?」
豆塚は火を止め、お腹に回された空の両手を握った。
「空が泣きたいときは、一緒に泣いてあげる。だから喧嘩中でも、絶対呼んでよね」
それが彼のためにできる、豆塚の最大の愛だった。
言わなくても二人はわかっている。通じ合えていれば、それだけで十分なのだ。
潰れるくらいに抱きしめられたかと思うと、身体がぐるりと反転した。空と目が合う。
「一つだけ確認。あのデッカいヤンキーくんのことだけど」
空が言い、豆塚はブッと吹き出した。
「ちょっと、笑い事じゃないから! あいつには気をつけるんだ。本当だったら学校まで行って監視したいくらいだけど……あ、一緒に帰るとかもナシだから。わかった?」
「大丈夫だよ。本間はソラが気に食わないだけなんだ。そんなんじゃないよ」
「ああ、わかってない!」
頭を抱える空を、豆塚が呆れ顔で眺める。ココアを注ぎながら、豆塚は母を想った。
さみしくなったら上を見上げる。
空がある限り、ひとりぼっちにはならないのよ。
母の言葉は、離れ離れになった二人を繋いだ、魔法の言葉だった————。
<了>