11月初旬。6時間目の生物教室ではビデオ教材が流れていた。薄暗い中、豆塚がノートにソラマメのイラストを描いている。
隣の恵が覗き込んだ。
「なによ、その緑のハゲ」
「知ってる? ソラマメにも花言葉があるんだ」
「それソラマメだったのか」と苦笑いした恵は「ううん。知らない」と首を振った。
「『永遠の楽しみ』っていうんだ。推し活にピッタリだろう?」
豆塚が無邪気な笑みを見せる。その様子を、斜め後ろに座っていた本間がいぶかしそうに見つめていた。
チャイムが鳴り、生徒たちがぞろぞろと教室へ戻る。恵が早く早くと豆塚の手を引っ張った。今日は放課後に駅前の本屋へ行く。SKYが表紙を飾る雑誌の発売日なのだ。
予約はしてあるが、一刻も早く手にしたい。その気持ちは豆塚にもわかった。しかし複雑だった。ソラと電話をするような仲であることを、恵は知らない。
「うっわ、このビジュ完璧じゃない?」
本屋のレジで受け取って早々、恵が雑誌に映る二人を愛でた。
豆塚も表紙のソラに見惚れるが、やや格好が気になる。11月だというのに半裸なのだ。
「こんなに筋肉ついてたっけ……」
「鍛えてんじゃない?」と適当に返事をした恵だったが、突然「え、まって。ソラの胸のホクロ、ハート型じゃん」と指差した。
その瞬間、自分の秘めた部分に触れられたような気がした————。
本屋を出ると世界が茜色に染まっていた。
恵が目を輝かせ、雑誌を掲げて写真を撮っている。アカネ推しのファンからすれば貴重な風景だ。豆塚は常に青色の空を見られることを幸せに思った。
数十秒前まではモヤついていたのに、今は穏やかな自分を奇妙に思う。最近、感情が忙しい。空とは毎週金曜に約束通り電話をしている。だからドラマは観ておらず、恵の会話についていけなくなった。相変わらずガチ恋だと思われているが、もう否定するのもめんどうくさい。それよりも、この状況を誰にも言えないことが苦しかった。
恵と別れ、家路を辿っていると【ソラマメ】から着信があった。空だ。以前、本間にバレそうになったので登録名を変えた。
「今日は木曜日だぞ」
『知ってる。あのさ、明日の電話キャンセルにしてくれない?』
「え……いいけど。用事?」
『うん。放課後デートなんだ』
豆塚は耳を疑った。しかしすぐに『豆ちゃんとね』と言い足され、ゆるゆると緊張が解ける。
「そういうのやめて。嫌いになりそう」
『へへ、ごめん。好きな子には意地悪したくなっちゃうんだ。で、どうかな?』
「……あんまり外で会うの良くないと思う」
『前みたいに変装するよ。俺、学校終わりに買い食いとかしてみたいんだ。ちょこっとでいいから、お願い』
結局、押しに負けてしまった。青春を味わったことがないという空に同情したのだ。
翌日の放課後、駅前のコンビニで集合した。おでんが食べたいと言われたときは思わず笑ったが、空にとってはそれが憧れだったらしい。イートインスペースの端っこで、おでんをつつく姿は、なんだか可笑しかった。
「うんま! 豆ちゃんもほら」と割った大根が差し出される。
「いいよ、こっちにもあるから。自分で食べな」
しかし空は無視して、豆塚の口元まで運ぶ。仕方ないので食べてやると、満足そうに笑った。サングラスをしているが、誰かに見られていやしないかという不安は消えない。
「今月の雑誌、見たよ。ちょっとはだけ過ぎだったけど」
「恥ずかしいな。お腹出てなかった?」
「うん」
空が豆塚をちらりと見る。
「どうかした?」
「……別に」
あのハート型のホクロを見つけたときの、恵の様子が脳裏に浮かんだ。自分だけの特別な思い出だったのに、そういうものまで全て、世の中に曝け出されてしまうのかと思った。同時に、そんな独占欲を燃やしている自分にも嫌気がさす。
「豆ちゃん、卵ちょうだい」
「え、やだよ。一個しかないもん」
「だから半分」
さっき注文するときには、卵はいらないと言っていたのに。気まぐれだなと呆れつつ、卵を割り箸で割る。
「あ」と口を開けて待っている空を見て、豆塚はため息をついた。
「あのさあ、ヒナじゃないんだから。甘えないでよ」
「いいじゃん。さっき大根食べたくせに」
「くせにって……」
自分がそうしたんだろう。
早くと急かす空にしぶしぶ卵を与えていると、隣に誰かが座った。
「ねえ」
その声に、豆塚は咄嗟に振り向いた。
フードを被ったパーカーの男が、頬杖をついている。
「君、そいつとなにしてんの?」
「アッ、アカ!」と言ったところで彼に口を塞がれ、豆塚は頭が真っ白になった。
————こわい。
目をつぶったとき、立ち上がった空が男の手を払った。
「おい、やめろよ」
「ごめんごめん、つい。でもあんまり大きい声で名前言わないでね」
両手を合わせ、申し訳なさそうに謝る彼は、SKYのアカネ————ソラの相方だった。
オロオロする豆塚をよそに、二人の口論が始まる。
「はあ。どこに行くかと思えば、コンビニでおでんって」
「つけてきたのかよ?」
「そうだよ。最近お前、様子がおかしいからな。でもまさか、こんなことだとは思ってなかった」
アカネは豆塚を見下げ、呆れた声で言う。
「俺が記者だったらどうすんだよ」と、スマホの画面を見せた。
コンビニの外から撮られた写真だった。空が豆塚に大根を食べさせている。
「変装してるからわかんないとか、そういう問題じゃないから。そんなこと続けてると、いつか本当にすっぱ抜かれる」
アカネは去り際に豆塚のほうを向いて言った。
「じゃあね、豆ちゃん」
「えっ」
「知ってるんだ。あいつには、豆ちゃんのこと全部言ってある」
空はおでんに蓋をすると、名残惜しそうな顔でこちらを見た。
「今日は帰る。こわい思いさせてごめん」
「……いや、いいよ」
空はおでんを手に、コンビニを出ていった。残された豆塚は一人、半欠けの卵を見つめる。自分を責めないではいられなかった。彼はアイドルなのだ。
21時。ベッドでうずくまっているとスマホが鳴った。今日はキャンセルだと言ったのに、空からの電話だった。出ると、ゆっくり話せなかったからと言って、いつものように『へへ』と笑った。
「もう会うのやめよう」
『……なんで?』
「金曜の電話もしないから。ああ、ドラマは観ないから安心して」
『急にどうしたの? もしかして今日のこと気にしてる?』
「するだろ。君はアイドルで、僕は一般人だ」
いや、それならまだ良かったかもしれない。でも自分はソラのファンなのだ。自覚が足りなかった。恵に対して罪悪感を抱いた時点で、やめるべきだった。
『アイドルとか関係ないよ。俺は今日、空咲太郎として会ったつもりだ』
「違うって……空の都合なんてどうだっていいんだ。重要なのは————」
『なんだよそれ』空の声が低まった。
豆塚は項垂れた。電話に出たときから、わかっていた。どうせこうなると。そもそも、立場の違う者同士が話し合ったところで分かり合えない。
「終わりにしよう」
『なにを?』
「全部だよ。……でも、ずっと応援はしてるから。だから頑張って」
重い沈黙が流れた。
お願いだから、これで理解してほしかった。けれど。
『わかったよ。でも最後に聞かせて。豆ちゃんは俺のこと好き?』
視界が歪んだ。唇を噛み、堪えようと目をつむった。
スマホを持つ手に力を込める。
「嫌いだ」
空との通話は、それが最後だった。連絡先も消して、何もかも捨てた。引き出しにしまった手紙も、学園祭で観た演劇の半券も。
豆塚がもう一度好きになったのは、恋をしてはいけない人だった。そして、一緒に泣いてくれる人をまた、失ってしまった。
隣の恵が覗き込んだ。
「なによ、その緑のハゲ」
「知ってる? ソラマメにも花言葉があるんだ」
「それソラマメだったのか」と苦笑いした恵は「ううん。知らない」と首を振った。
「『永遠の楽しみ』っていうんだ。推し活にピッタリだろう?」
豆塚が無邪気な笑みを見せる。その様子を、斜め後ろに座っていた本間がいぶかしそうに見つめていた。
チャイムが鳴り、生徒たちがぞろぞろと教室へ戻る。恵が早く早くと豆塚の手を引っ張った。今日は放課後に駅前の本屋へ行く。SKYが表紙を飾る雑誌の発売日なのだ。
予約はしてあるが、一刻も早く手にしたい。その気持ちは豆塚にもわかった。しかし複雑だった。ソラと電話をするような仲であることを、恵は知らない。
「うっわ、このビジュ完璧じゃない?」
本屋のレジで受け取って早々、恵が雑誌に映る二人を愛でた。
豆塚も表紙のソラに見惚れるが、やや格好が気になる。11月だというのに半裸なのだ。
「こんなに筋肉ついてたっけ……」
「鍛えてんじゃない?」と適当に返事をした恵だったが、突然「え、まって。ソラの胸のホクロ、ハート型じゃん」と指差した。
その瞬間、自分の秘めた部分に触れられたような気がした————。
本屋を出ると世界が茜色に染まっていた。
恵が目を輝かせ、雑誌を掲げて写真を撮っている。アカネ推しのファンからすれば貴重な風景だ。豆塚は常に青色の空を見られることを幸せに思った。
数十秒前まではモヤついていたのに、今は穏やかな自分を奇妙に思う。最近、感情が忙しい。空とは毎週金曜に約束通り電話をしている。だからドラマは観ておらず、恵の会話についていけなくなった。相変わらずガチ恋だと思われているが、もう否定するのもめんどうくさい。それよりも、この状況を誰にも言えないことが苦しかった。
恵と別れ、家路を辿っていると【ソラマメ】から着信があった。空だ。以前、本間にバレそうになったので登録名を変えた。
「今日は木曜日だぞ」
『知ってる。あのさ、明日の電話キャンセルにしてくれない?』
「え……いいけど。用事?」
『うん。放課後デートなんだ』
豆塚は耳を疑った。しかしすぐに『豆ちゃんとね』と言い足され、ゆるゆると緊張が解ける。
「そういうのやめて。嫌いになりそう」
『へへ、ごめん。好きな子には意地悪したくなっちゃうんだ。で、どうかな?』
「……あんまり外で会うの良くないと思う」
『前みたいに変装するよ。俺、学校終わりに買い食いとかしてみたいんだ。ちょこっとでいいから、お願い』
結局、押しに負けてしまった。青春を味わったことがないという空に同情したのだ。
翌日の放課後、駅前のコンビニで集合した。おでんが食べたいと言われたときは思わず笑ったが、空にとってはそれが憧れだったらしい。イートインスペースの端っこで、おでんをつつく姿は、なんだか可笑しかった。
「うんま! 豆ちゃんもほら」と割った大根が差し出される。
「いいよ、こっちにもあるから。自分で食べな」
しかし空は無視して、豆塚の口元まで運ぶ。仕方ないので食べてやると、満足そうに笑った。サングラスをしているが、誰かに見られていやしないかという不安は消えない。
「今月の雑誌、見たよ。ちょっとはだけ過ぎだったけど」
「恥ずかしいな。お腹出てなかった?」
「うん」
空が豆塚をちらりと見る。
「どうかした?」
「……別に」
あのハート型のホクロを見つけたときの、恵の様子が脳裏に浮かんだ。自分だけの特別な思い出だったのに、そういうものまで全て、世の中に曝け出されてしまうのかと思った。同時に、そんな独占欲を燃やしている自分にも嫌気がさす。
「豆ちゃん、卵ちょうだい」
「え、やだよ。一個しかないもん」
「だから半分」
さっき注文するときには、卵はいらないと言っていたのに。気まぐれだなと呆れつつ、卵を割り箸で割る。
「あ」と口を開けて待っている空を見て、豆塚はため息をついた。
「あのさあ、ヒナじゃないんだから。甘えないでよ」
「いいじゃん。さっき大根食べたくせに」
「くせにって……」
自分がそうしたんだろう。
早くと急かす空にしぶしぶ卵を与えていると、隣に誰かが座った。
「ねえ」
その声に、豆塚は咄嗟に振り向いた。
フードを被ったパーカーの男が、頬杖をついている。
「君、そいつとなにしてんの?」
「アッ、アカ!」と言ったところで彼に口を塞がれ、豆塚は頭が真っ白になった。
————こわい。
目をつぶったとき、立ち上がった空が男の手を払った。
「おい、やめろよ」
「ごめんごめん、つい。でもあんまり大きい声で名前言わないでね」
両手を合わせ、申し訳なさそうに謝る彼は、SKYのアカネ————ソラの相方だった。
オロオロする豆塚をよそに、二人の口論が始まる。
「はあ。どこに行くかと思えば、コンビニでおでんって」
「つけてきたのかよ?」
「そうだよ。最近お前、様子がおかしいからな。でもまさか、こんなことだとは思ってなかった」
アカネは豆塚を見下げ、呆れた声で言う。
「俺が記者だったらどうすんだよ」と、スマホの画面を見せた。
コンビニの外から撮られた写真だった。空が豆塚に大根を食べさせている。
「変装してるからわかんないとか、そういう問題じゃないから。そんなこと続けてると、いつか本当にすっぱ抜かれる」
アカネは去り際に豆塚のほうを向いて言った。
「じゃあね、豆ちゃん」
「えっ」
「知ってるんだ。あいつには、豆ちゃんのこと全部言ってある」
空はおでんに蓋をすると、名残惜しそうな顔でこちらを見た。
「今日は帰る。こわい思いさせてごめん」
「……いや、いいよ」
空はおでんを手に、コンビニを出ていった。残された豆塚は一人、半欠けの卵を見つめる。自分を責めないではいられなかった。彼はアイドルなのだ。
21時。ベッドでうずくまっているとスマホが鳴った。今日はキャンセルだと言ったのに、空からの電話だった。出ると、ゆっくり話せなかったからと言って、いつものように『へへ』と笑った。
「もう会うのやめよう」
『……なんで?』
「金曜の電話もしないから。ああ、ドラマは観ないから安心して」
『急にどうしたの? もしかして今日のこと気にしてる?』
「するだろ。君はアイドルで、僕は一般人だ」
いや、それならまだ良かったかもしれない。でも自分はソラのファンなのだ。自覚が足りなかった。恵に対して罪悪感を抱いた時点で、やめるべきだった。
『アイドルとか関係ないよ。俺は今日、空咲太郎として会ったつもりだ』
「違うって……空の都合なんてどうだっていいんだ。重要なのは————」
『なんだよそれ』空の声が低まった。
豆塚は項垂れた。電話に出たときから、わかっていた。どうせこうなると。そもそも、立場の違う者同士が話し合ったところで分かり合えない。
「終わりにしよう」
『なにを?』
「全部だよ。……でも、ずっと応援はしてるから。だから頑張って」
重い沈黙が流れた。
お願いだから、これで理解してほしかった。けれど。
『わかったよ。でも最後に聞かせて。豆ちゃんは俺のこと好き?』
視界が歪んだ。唇を噛み、堪えようと目をつむった。
スマホを持つ手に力を込める。
「嫌いだ」
空との通話は、それが最後だった。連絡先も消して、何もかも捨てた。引き出しにしまった手紙も、学園祭で観た演劇の半券も。
豆塚がもう一度好きになったのは、恋をしてはいけない人だった。そして、一緒に泣いてくれる人をまた、失ってしまった。