駅前に着くと、黒ずくめが柱の影から手を振っていた。
走り寄り、腕を引いて足早に駅を離れる。
「どこ行くの?」
「人がいないところ。バレたらまずいでしょ」
「おうち?」サングラス越しの目が輝いた。
そうだ、今日は金曜日だ。姉はいない。
「……何時まで空いてるんだよ」と豆塚が問う。
「何時でも大丈夫、空けてきたから。え、もしかして泊めてくれる?」
「と、泊めるとは言ってない。夕飯くらいならと思っただけ」
「夕飯! 食べるっ!」
悪いことをした、という罪悪感からだった。きっと自分は何かを忘れていて、空を傷つけた。それが何かわからないから、代わりに機嫌を取るようなことを言った。浮気男の心理だ。
空は「今日の豆ちゃんはやさしいな」と言って、大喜びで家までついてきた。勘のいい女なら疑うところだが。
一応姉に連絡を入れ、了承をもらう。ペンの子だと言うと、きっと警戒するのでクラスの友達にしておいた。思いついた名前を言ったら、本間ということになってしまった。
「豆ちゃん、料理できるんだ」
背後から空が覗き込む。
「うん。姉ちゃんと住んでるんだけど、俺はバイトできないから家事担当」
「そっか、えらいね」
何も言及してこない空に、またやさしさを感じた。だから自然と口が開いた。
「母さんが去年、病死したんだ」
味噌を溶く豆塚の手元を眺めながら、空は黙って聞いている。
「父親がいなかったからショックでさ。姉ちゃんまでいなくなったら、ひとりなんだって思って」
けれど、つらいのは姉のほうで、姉は甘えられる人がいなくなった。誰かに支えてほしいと思うのは当然だ。姉には彼氏が出来て、毎週金曜は家を空けるようになった。友達と呑みだと言うが、半分は違うだろう。
「前に電話でさ、ソラのどこが好きなのって訊いたよね」
「あ、うん」空はバツが悪そうにした。
「僕はいつも側にいる。さみしくなったら空を見上げて」
豆塚がわざとらしく言い、笑ってみせた。
「それ、俺のセリフ……」
「そう。このセリフに救われたんだ。昔、母さんがよく言ってた言葉に似てるから。もちろん歌も演技も好きだけど、一番はその言葉を言える、ソラの心に惹かれたんだよ」
返事はなかった。
しまった。喋りすぎたのだ。
「よし、食べよう」と味噌汁を手に振り向き、豆塚はどきりとした。
ぽろぽろと空が泣いている。
「え。なに」
意味がわからず混乱した。また無意識に傷つけたのだろうか。
「ごめんっ」
わからないのに、謝ることはないと思っていた。しかし考える前に言葉が溢れた。それでも空は、地蔵のように突っ立ったまま静かに泣き続ける。
その姿が、昔の空にそっくりだった。幼児のようだと思い、ふと母を思い出した。こんなとき、母は黙って抱きしめてくれた。
豆塚は味噌汁を置いた。両手を広げてみせたけれど、空は躊躇した。
————俺、臆病なんだよ。
————ずっと豆ちゃんから来てくれるのを待ってたんだ。
豆塚は歩み寄り、そっと空を抱き寄せた。両手は震えていた。
しかし背中に回された手も震えていて、次にぎゅっと抱きしめられた。
あたたかい。人と抱き合ったのは、1年ぶりだった。
姉の言う『一緒に泣いてくれる人』というのは、同じくらい泣けという意味ではなかったのだと知った。
しばらくして空がつぶやいた。
「豆ちゃんって記憶力、マジで乏しいね」
空は豆塚のエプロンを握ったまま続けた。
「あのセリフは、豆ちゃんが俺に言ったんだよ」
「えっ?」
「卒園式のとき、遠くに行くんだって伝えたら、豆ちゃんが泣きながらそう言ったんだ。すごく悲しかったのに、俺びっくりして。なにも言えなかった。豆ちゃんも泣くんだって思って」
きっと母の言葉を真似したのだろう。正直、覚えていなかった。引っ越しがショックで、告白もできずに終わったことが記憶にあるだけだった。
「でも、アレを覚えてないのはひどいよ」
空は離れて、豆塚を睨んだ。空のほうが背が少し高いので、やや圧迫感がある。
「わかんない……ごめん」
約束がどうのこうの、という話だろうが、記憶にないので謝るしかない。
さっきまで泣き虫だったのに、空は夫を糾弾する妻のような面持ちだった。
「手紙あげただろう。別れ際に」
「ファンレターのお返し?」
「違うよ。卒園式のあと、手紙を書いて送ったんだ」
「え……来てないけど?」
むしろ引っ越しの後に連絡手段がなくなり、手紙も年賀状も来ないので忘れられたのだと諦めていた。
しかし考えて、あ、と豆塚は思う。当時は祖父母と一緒に暮らしていて、その家が老朽化で取り壊しになったのだった。一時期、叔父の家に住んでいた記憶がある。
空は「絶対に送ったんだ」と言って怪訝な顔をしている。
「空……ごめん。多分その手紙どっかいった」
「ええっ! 捨てたの?」
「いや、あの後、引っ越したの忘れてた……卒園のときには知らなかったんだ」
取り壊しの際に郵便物がどういう扱いになるのかは不明だ。祖父母が選別したかもしれないが、誤って捨てられていてもおかしくない。
「でも、覚えてるんだろう? なんて書いたの?」
不服そうにしていた空だったが、それを聞くと急によそよそしくなった。「だったらいいや」と言い、味噌汁を持ってキッチンを離れていく。
「え、教えてよ」
「忘れた」と声が飛んでくるが、嘘だ。
豆塚はキッチンから顔を出して言った。
「チャーハンあげないから」
空がむすっとした。
「じゃあ、ドラマもう観ないって約束してくれたらいいよ」
「え、まだそれ言ってんの?」
呆れた。そんな約束をしたって、隠れて観られるのに。
「嫌なんだよ」
それは本気で嫌だと言っている目だった。
実は豆塚のほうも、本当は毎週金曜が憂鬱だ。楽しみだったのに、回を追うごとに気分が下がっている。
けれど観てしまうのがファンなのだ。自分でもどうにかしたい。
「豆ちゃんはどんな気持ちで観てるの? おもしろい?」
「……おもしろくはない」
すると空が小さな声で言った。
「キスシーンとかそういうの、演技だから仕方ないけど……俺は豆ちゃんには観てほしくなかった」
ちくりと胸が痛んだ。
「手紙。初めては全部、豆ちゃんとがいいって書いたんだ。大人になって、かっこよくなったら迎えに行くからって」
夢のようだった。
好きだった子がアイドルになっていて、それがたまたま推しで、自分のことを覚えていて、家にまで来て————。
正直、昔の好きだった空ではなくなっていた。背も高くなって、顔つきもクールになって、ましてや人前で歌を歌い、演技だからとキスができるような、知らない人になってしまった。けれどさっきのように、たまに臆病になるところは変わっていない。
「でも気にしないで。約束って言ったけど、考えてみれば俺が一方的に送ったものだから。そもそも届いてなかったんだし」
空は、けろっとしていた。
「ほら。言ったんだからチャーハンちょうだい」
両手を差し出し、にこりと笑う。
豆塚はむかついた。そんな簡単なものなのか。
「なんかやだ」
「えっ」
「なんかむかつく」
「ええ……」
さっきは泣いて抱きついてきたくせに。聞き分けのいい子みたいに振る舞う空が嫌だった。しかし自分のせいだとも思うから、余計に腹が立つのだ。
でも、もう恋はしたくない————。
「空はさ……演技だから断られることもないだろ。まあ、かっこいいから、そもそも断る人なんていないだろうし」
言葉に棘がつくのを、豆塚は抑えられなかった。
「だから、好きな人にがっかりされちゃう気持ち、知らないでしょ?」
空が眉をひそめた。
「大地くん、あの学園祭で会った人。姉ちゃんの先輩なんだ。母さんが死んで、姉ちゃんは彼氏に取られて、さみしかったせいだって今は思う。でも好きだったのは本当だから。だから、いいよって言ったんだ」
あのときはどうかしていた。ただ、抱きしめてほしくて頷いていた。
「……したの?」
空は首を振った。
「ビビって逃げたんだ。気持ち悪くなって、トイレで吐いた」
大地が怒るのは当然だった。けれど、それまでやさしかった大地が急にそっけなくなった。
「人は変わるんだ。好きなんていつまでも続く保証はない。いつか終わるってわかってるのに、もう恋をする勇気はないよ」
ずっと好きでいるなんて、家族でもない限り無理だ。それに結局のところ、無性の愛をくれる母の代わりを、求め続けているだけなのだと思う。
「ね。わかった? だから前みたいに、友達がちょうどいいんだ」
「勝手に決めるなよ」
その声は静かだが、怒っていた。
「俺が豆ちゃんを好きな気持ちに限度なんてない。演技だから傷つかないって言うけどさ、じゃあ豆ちゃんは俺の気持ちがわかるの?」
「わかんないよ。芸能人じゃないんだから……」
「演者にだって心はある」
空は声を震わせて言った。
「好きな人が観てるって思いながらするんだ。でも観ないでって言っても観るんだ。どう思う? 嫌だろ?」
「わかったよ! もう観ないったら」
泣きたくなった。しかし空のほうも泣きそうになっていて、これ以上続けると友達でさえいられなくなる気がした。
「豆ちゃんは俺が好き?」
「な、なんだよそれ。急に意味わかんないよ」
「俺は好きだ」
さっきから会話がおかしい。喧嘩をしているのに、時折、告白のような言葉が挟まっている。
「……もう恋はしない」
「そんなことは聞いてない。俺のこと、好きか嫌いかどっちなの?」
「好きだよ。でも————」
「じゃあ毎週金曜の21時に電話するから」
脈絡のない話に、豆塚は頭が追いつかなくなった。いらいら成分が頭から蒸発していく。
「ドラマ観ないで、俺と1時間電話して。友達なら電話くらいするでしょ」
「やだよ」
「じゃあ友達やめる」
豆塚はまたいらいらした。聞き分けのいい子、というのは撤回だ。
「……空の頑固ジジイ」
「頑固なのはそっちだろ。もう恋なんてしないとか、どっかの歌手かよ」
「それは逆だろう? あれは次の恋に進むんだよ」
チャーハンを取り分けていると、空と目が合った。
「……なに」
「豆ちゃんのファーストキス、あの先輩にあげた?」
「してない。したかったけど」
すると空がムッとして「あんなヤツにやるな」と言った。
「冗談だよ」
豆塚はふっと笑って「いただきます」と手を合わせた。
隣からの視線がうるさいが、知らない。もう今日はいっぱいいっぱいだ。
また恋をするのか、しないのか。
まだわからないけれど、たしかにソラは、ずっと僕だけを見ていた。
走り寄り、腕を引いて足早に駅を離れる。
「どこ行くの?」
「人がいないところ。バレたらまずいでしょ」
「おうち?」サングラス越しの目が輝いた。
そうだ、今日は金曜日だ。姉はいない。
「……何時まで空いてるんだよ」と豆塚が問う。
「何時でも大丈夫、空けてきたから。え、もしかして泊めてくれる?」
「と、泊めるとは言ってない。夕飯くらいならと思っただけ」
「夕飯! 食べるっ!」
悪いことをした、という罪悪感からだった。きっと自分は何かを忘れていて、空を傷つけた。それが何かわからないから、代わりに機嫌を取るようなことを言った。浮気男の心理だ。
空は「今日の豆ちゃんはやさしいな」と言って、大喜びで家までついてきた。勘のいい女なら疑うところだが。
一応姉に連絡を入れ、了承をもらう。ペンの子だと言うと、きっと警戒するのでクラスの友達にしておいた。思いついた名前を言ったら、本間ということになってしまった。
「豆ちゃん、料理できるんだ」
背後から空が覗き込む。
「うん。姉ちゃんと住んでるんだけど、俺はバイトできないから家事担当」
「そっか、えらいね」
何も言及してこない空に、またやさしさを感じた。だから自然と口が開いた。
「母さんが去年、病死したんだ」
味噌を溶く豆塚の手元を眺めながら、空は黙って聞いている。
「父親がいなかったからショックでさ。姉ちゃんまでいなくなったら、ひとりなんだって思って」
けれど、つらいのは姉のほうで、姉は甘えられる人がいなくなった。誰かに支えてほしいと思うのは当然だ。姉には彼氏が出来て、毎週金曜は家を空けるようになった。友達と呑みだと言うが、半分は違うだろう。
「前に電話でさ、ソラのどこが好きなのって訊いたよね」
「あ、うん」空はバツが悪そうにした。
「僕はいつも側にいる。さみしくなったら空を見上げて」
豆塚がわざとらしく言い、笑ってみせた。
「それ、俺のセリフ……」
「そう。このセリフに救われたんだ。昔、母さんがよく言ってた言葉に似てるから。もちろん歌も演技も好きだけど、一番はその言葉を言える、ソラの心に惹かれたんだよ」
返事はなかった。
しまった。喋りすぎたのだ。
「よし、食べよう」と味噌汁を手に振り向き、豆塚はどきりとした。
ぽろぽろと空が泣いている。
「え。なに」
意味がわからず混乱した。また無意識に傷つけたのだろうか。
「ごめんっ」
わからないのに、謝ることはないと思っていた。しかし考える前に言葉が溢れた。それでも空は、地蔵のように突っ立ったまま静かに泣き続ける。
その姿が、昔の空にそっくりだった。幼児のようだと思い、ふと母を思い出した。こんなとき、母は黙って抱きしめてくれた。
豆塚は味噌汁を置いた。両手を広げてみせたけれど、空は躊躇した。
————俺、臆病なんだよ。
————ずっと豆ちゃんから来てくれるのを待ってたんだ。
豆塚は歩み寄り、そっと空を抱き寄せた。両手は震えていた。
しかし背中に回された手も震えていて、次にぎゅっと抱きしめられた。
あたたかい。人と抱き合ったのは、1年ぶりだった。
姉の言う『一緒に泣いてくれる人』というのは、同じくらい泣けという意味ではなかったのだと知った。
しばらくして空がつぶやいた。
「豆ちゃんって記憶力、マジで乏しいね」
空は豆塚のエプロンを握ったまま続けた。
「あのセリフは、豆ちゃんが俺に言ったんだよ」
「えっ?」
「卒園式のとき、遠くに行くんだって伝えたら、豆ちゃんが泣きながらそう言ったんだ。すごく悲しかったのに、俺びっくりして。なにも言えなかった。豆ちゃんも泣くんだって思って」
きっと母の言葉を真似したのだろう。正直、覚えていなかった。引っ越しがショックで、告白もできずに終わったことが記憶にあるだけだった。
「でも、アレを覚えてないのはひどいよ」
空は離れて、豆塚を睨んだ。空のほうが背が少し高いので、やや圧迫感がある。
「わかんない……ごめん」
約束がどうのこうの、という話だろうが、記憶にないので謝るしかない。
さっきまで泣き虫だったのに、空は夫を糾弾する妻のような面持ちだった。
「手紙あげただろう。別れ際に」
「ファンレターのお返し?」
「違うよ。卒園式のあと、手紙を書いて送ったんだ」
「え……来てないけど?」
むしろ引っ越しの後に連絡手段がなくなり、手紙も年賀状も来ないので忘れられたのだと諦めていた。
しかし考えて、あ、と豆塚は思う。当時は祖父母と一緒に暮らしていて、その家が老朽化で取り壊しになったのだった。一時期、叔父の家に住んでいた記憶がある。
空は「絶対に送ったんだ」と言って怪訝な顔をしている。
「空……ごめん。多分その手紙どっかいった」
「ええっ! 捨てたの?」
「いや、あの後、引っ越したの忘れてた……卒園のときには知らなかったんだ」
取り壊しの際に郵便物がどういう扱いになるのかは不明だ。祖父母が選別したかもしれないが、誤って捨てられていてもおかしくない。
「でも、覚えてるんだろう? なんて書いたの?」
不服そうにしていた空だったが、それを聞くと急によそよそしくなった。「だったらいいや」と言い、味噌汁を持ってキッチンを離れていく。
「え、教えてよ」
「忘れた」と声が飛んでくるが、嘘だ。
豆塚はキッチンから顔を出して言った。
「チャーハンあげないから」
空がむすっとした。
「じゃあ、ドラマもう観ないって約束してくれたらいいよ」
「え、まだそれ言ってんの?」
呆れた。そんな約束をしたって、隠れて観られるのに。
「嫌なんだよ」
それは本気で嫌だと言っている目だった。
実は豆塚のほうも、本当は毎週金曜が憂鬱だ。楽しみだったのに、回を追うごとに気分が下がっている。
けれど観てしまうのがファンなのだ。自分でもどうにかしたい。
「豆ちゃんはどんな気持ちで観てるの? おもしろい?」
「……おもしろくはない」
すると空が小さな声で言った。
「キスシーンとかそういうの、演技だから仕方ないけど……俺は豆ちゃんには観てほしくなかった」
ちくりと胸が痛んだ。
「手紙。初めては全部、豆ちゃんとがいいって書いたんだ。大人になって、かっこよくなったら迎えに行くからって」
夢のようだった。
好きだった子がアイドルになっていて、それがたまたま推しで、自分のことを覚えていて、家にまで来て————。
正直、昔の好きだった空ではなくなっていた。背も高くなって、顔つきもクールになって、ましてや人前で歌を歌い、演技だからとキスができるような、知らない人になってしまった。けれどさっきのように、たまに臆病になるところは変わっていない。
「でも気にしないで。約束って言ったけど、考えてみれば俺が一方的に送ったものだから。そもそも届いてなかったんだし」
空は、けろっとしていた。
「ほら。言ったんだからチャーハンちょうだい」
両手を差し出し、にこりと笑う。
豆塚はむかついた。そんな簡単なものなのか。
「なんかやだ」
「えっ」
「なんかむかつく」
「ええ……」
さっきは泣いて抱きついてきたくせに。聞き分けのいい子みたいに振る舞う空が嫌だった。しかし自分のせいだとも思うから、余計に腹が立つのだ。
でも、もう恋はしたくない————。
「空はさ……演技だから断られることもないだろ。まあ、かっこいいから、そもそも断る人なんていないだろうし」
言葉に棘がつくのを、豆塚は抑えられなかった。
「だから、好きな人にがっかりされちゃう気持ち、知らないでしょ?」
空が眉をひそめた。
「大地くん、あの学園祭で会った人。姉ちゃんの先輩なんだ。母さんが死んで、姉ちゃんは彼氏に取られて、さみしかったせいだって今は思う。でも好きだったのは本当だから。だから、いいよって言ったんだ」
あのときはどうかしていた。ただ、抱きしめてほしくて頷いていた。
「……したの?」
空は首を振った。
「ビビって逃げたんだ。気持ち悪くなって、トイレで吐いた」
大地が怒るのは当然だった。けれど、それまでやさしかった大地が急にそっけなくなった。
「人は変わるんだ。好きなんていつまでも続く保証はない。いつか終わるってわかってるのに、もう恋をする勇気はないよ」
ずっと好きでいるなんて、家族でもない限り無理だ。それに結局のところ、無性の愛をくれる母の代わりを、求め続けているだけなのだと思う。
「ね。わかった? だから前みたいに、友達がちょうどいいんだ」
「勝手に決めるなよ」
その声は静かだが、怒っていた。
「俺が豆ちゃんを好きな気持ちに限度なんてない。演技だから傷つかないって言うけどさ、じゃあ豆ちゃんは俺の気持ちがわかるの?」
「わかんないよ。芸能人じゃないんだから……」
「演者にだって心はある」
空は声を震わせて言った。
「好きな人が観てるって思いながらするんだ。でも観ないでって言っても観るんだ。どう思う? 嫌だろ?」
「わかったよ! もう観ないったら」
泣きたくなった。しかし空のほうも泣きそうになっていて、これ以上続けると友達でさえいられなくなる気がした。
「豆ちゃんは俺が好き?」
「な、なんだよそれ。急に意味わかんないよ」
「俺は好きだ」
さっきから会話がおかしい。喧嘩をしているのに、時折、告白のような言葉が挟まっている。
「……もう恋はしない」
「そんなことは聞いてない。俺のこと、好きか嫌いかどっちなの?」
「好きだよ。でも————」
「じゃあ毎週金曜の21時に電話するから」
脈絡のない話に、豆塚は頭が追いつかなくなった。いらいら成分が頭から蒸発していく。
「ドラマ観ないで、俺と1時間電話して。友達なら電話くらいするでしょ」
「やだよ」
「じゃあ友達やめる」
豆塚はまたいらいらした。聞き分けのいい子、というのは撤回だ。
「……空の頑固ジジイ」
「頑固なのはそっちだろ。もう恋なんてしないとか、どっかの歌手かよ」
「それは逆だろう? あれは次の恋に進むんだよ」
チャーハンを取り分けていると、空と目が合った。
「……なに」
「豆ちゃんのファーストキス、あの先輩にあげた?」
「してない。したかったけど」
すると空がムッとして「あんなヤツにやるな」と言った。
「冗談だよ」
豆塚はふっと笑って「いただきます」と手を合わせた。
隣からの視線がうるさいが、知らない。もう今日はいっぱいいっぱいだ。
また恋をするのか、しないのか。
まだわからないけれど、たしかにソラは、ずっと僕だけを見ていた。