10月になり、一つ憂鬱なことが消えた。水泳の授業が終わったのだ。けれど10月はさみしいので好きではない。
 手を合わせ、豆塚は姉と夕食を取った。ちゃぶ台にはもう一皿、カレーがよそってある。母の分だ。1年前の今日、母は病死した。
「うーん。やっぱ母さんの味は再現できないや」
「そう? あんた腕上げたわよ。あたしなんか作れても野菜炒めなんだから」
 父がいない二人は、田舎の祖父母や叔父からの援助を頼りに生きている。姉はアルバイトをしているので、家事は豆塚の担当だ。
 姉弟の同居というと驚かれるが、二人は兄弟、あるいは姉妹のような関係だった。母も姉も、男が好きだという豆塚を否定したことがない。
「ね、男ってのはさ、サプライズは嬉しくないもんかね?」
「さあ。人によると思うけど」
「ショートにしようか迷ってんだけどさあ。もしロングのままが良かったのにー、とか思われたら萎えるじゃない」
 たしかに。全員が必ず喜ぶというサプライズは存在しない。むしろそれで喜ぶと思ったのかという怒りさえ覚えるときがある。あのドラマの演出がいい例だ。
「姉ちゃんはショートでも可愛いよ」と豆塚が無心で言う。姉を持つ男は、女の甘やかし方を知っている。
「そういえば」と姉が言い出し、ボールペンを差し出す。
「これ、あたしのかと思ってペンケースに入れてたんだけど、違ったのよ。誰のか知らない?」
 姉はそこに落ちていたと言って、テレビの前を指差した。ポールペンには【S.S】というイニシャルが彫ってある。
「……あ、友達のだ。ごめん」とポケットに入れる豆塚を、姉がじっと見つめる。
「あんた、その子には気をつけなよ」
「え?」
「わざとでしょ、ペン置いてったの」
 姉はカレーを口にしながら「姑息なヤツねえ」と言った。
「勘ぐりすぎだよ。ていうかドラマの見過ぎ」
「あっ! ちょっと先週の録画、観たわよ。アカネくんだっけ? ちょい役かと思ったら、なんか三角関係になってんじゃない。あんたの推し、どうなってんのよ」
 どうなってんのよ、と言われても。プロデューサーでもないのに知るわけがない。
「あたしはヒロインの子を応援するわ。あんたはアカネくんでしょ」
「……どっちもヤダ」
 ぽかんとした姉は口を押さえると「キャッ」と言って身体をくねらせた。
 けれどしばらくして真面目に言う。
「推しもいいけどさ、あんたも一緒に泣いてくれる人、見つけなさいよ」
「お母さんもきっと心配してるから」と言い足し、姉は食器を持って立ち上がった。
 豆塚はボールペンに彫られたイニシャルをなぞった。一緒に泣いてくれる人————。
 姉が風呂に入ったのを確認し、豆塚は電話をかけた。
 3コールほどあとに『はい』という低まった声が聞こえた。
「……あ、空? 僕だけど」
 ハイテンションな空を予想していた豆塚は戸惑った。自惚れだが、てっきり喜ぶと思ったのだ。
『うん、わかってる』という淡白な返事がこわい。
 そういえば最近、連絡もしてこないので妙だなと思っていた。ドラマの撮影で忙しいのだろうと納得していたが、違うのだろうか。
「なんか……怒ってる?」
『ああ、いや。怒ってはないよ』
「じゃあ何だよ」
『……え、豆ちゃんのほうが怒ってるみたいだけど』
 豆塚はたしかに、いらついた。なぜだろう。わからない。
「別になんともないよ。それよりペン、家に忘れてる。【S.S】って書いた水色のやつ」
『あ、ほんとっ? じゃあ今度会おう!』
 急な軽快さに、豆塚は違和感を覚えた。さっきまでの陰気な雰囲気が嘘のようだ。
「もしかして、わざと?」
 沈黙があった。豆塚が溜息をつき「なんでそんなこと」と言う。
 すると電話の向こうで、小さな笑いが聞こえた。
『ダメだなあ。変われたと思ったのに、豆ちゃんの前では昔のまんまだ』
「……どういう意味?」
『俺、臆病なんだよ。断られたら怖いから、自分では誘えない。連絡待ってるって手紙に書いたのも、ペンを置いてったのも、ずっと豆ちゃんから来てくれるのを待ってたんだ』
 ————もし豆ちゃんが嫌じゃなかったら。
 あれは、単純な自己防衛だったのだ。互いが互いを恐れていたことに気づく。
『学園祭の日、一緒に過ごせたのがうれしかったんだ。それが忘れられなくて……でも学校も仕事もあるし、毎晩電話しようとして辞める。会いに行きたいけど我慢する』
「……だけど、今日は僕から連絡したよ。なんでテンション低いの?」
『それは……』と言い淀んだ後、空が思い付いたように言った。
『そうだ! 俺のドラマ観るの辞めてよ』
「————は?」
『どうせ観てるんだろう? どこまで観た? あ、まって。やっぱ言わないで。とりあえずもう観ないでくれ』
「な、なんでだよ。そんなの空に決められる筋合いはない」
『あるよ。だって約束したじゃんっ』
「……なにを?」と豆塚が言った途端、弾丸のように喋っていた空が黙った。
 そうして一言、『豆ちゃんのバカ』と言った。
 通話終了の画面を見て、豆塚は眉をひそめる。それから翌朝までメッセージには既読もつかなかった。

 金曜の掃除時間。豆塚は生徒玄関で箒を手に、窓の外を眺めていた。淀んだ雲に阻まれ、太陽すら見えない。昼までは晴れていたのに。
 ペンを返すからと、今日は放課後に空と会うことになっている。あれから大したやり取りはしていないが、これは喧嘩中なのだろうか。
「おい」と同じ掃除エリアの本間が言った。
「そこ拭くから、退け」
 雑巾を手にした本間が、床を拭き上げながら豆塚の立っていた側を通り、また折り返してきた。ヤンキーのくせに真面目だな、と豆塚は感心する。
「本間はさ、わかんないのに謝るタイプ?」
「……あ?」
「あれだよ。たとえば彼女が怒ってて、なんかわかんないけど、とりあえず謝るみたいな。理由訊いちゃうと、もっと不機嫌になるだろう」
 本間が眉をひそめた。
「豆、彼女いんの?」
「いないけど」
 というか、そこは今どうでもよい。話題は謝罪するか否かだ。
「俺は意味もなく頭下げたりはしねえ。信用なくなるからな」
「じゃあ怒られるの?」
「まあ、怒られるようなことやったんなら仕方ない」
「男らしいな」とつぶやくと、本間がポッと赤くなった。
 しかし豆塚は釈然としない。怒られるようなことをした覚えがないのだ。ゆえに謝るという選択肢は消える。ただ、理由を訊いて泣かせてしまったらどうしよう、と思う。空は泣き虫だ。豆ちゃんのバカと言ったときも、ひどく悲しそうだった。自分は一体なにをしたのだろう。考えても、わからなかった。
 放課後、校門を出て駅前に向かっていると後ろから本間が声をかけてきた。
「お前、こっちなの?」
「今日は駅前で友達と待ち合わせだから」
「ふうん。じゃあ駅まで一緒だな」
「ああ、うん」
 最近、本間がやけに馴れ馴れしい。なんというか、マイルドになった気がする。前はツンケンしていたのに学園祭のあたりから大人しくなった。
「俺もあれ、ちょっと観たぞ。『空に翔ける』だっけ? 母ちゃんが毎週キャーキャーうるせえんだよな」
「そうなんだ」豆塚はスマホをいじりながら返す。
「お前がいっつも言ってるあのソラってヤツ、いけすかねーな。女にも男にもいい顔してよお、先週なんか両方に告られてたじゃん」
「ソラじゃなくて翔太ね。そういう役、脚本だから」
 それは本間に言うようで、自分にも言い聞かせているところがあった。
「今日は7話か。俺はどっちにも嫌われちまえばいいと思ってんだけどなー。そんな結末ありえねえか」
 適当に聞いていた豆塚が顔を上げた。
「俺もそっち派」
「え」と本間がのけぞる。「……お前、案外こえーのな」
 言われて、豆塚は「ふん」とそっぽを向く。そんなことは自覚している。自分はおそらく嫉妬深い。相方とはいえ、アカネとくっつくのはヒロインの女優より嫌だった。雑誌でどれだけ距離の近い写真を見てもなんとも思わなかったのに、4話でのキスシーンを観てから変わってしまった。なぜだろうと考え、豆塚は立ち止まった。
 本間が振り返る。
「どうした?」
「あ、いや」
 ————空は、男が好きなのだろうか。
 勝手にそうだと思っていたが、確信はない。もしかして、どちらもいける? いや、そもそも女が好きだけれど、ファンである自分をからかっている可能性もある。
 空に限ってそんなことはない、と思いたかった。けれど彼はアイドル。もう子どもではない。豆塚は、簡単には人を信じられなくなっていた。
 着信が来て、びくりと肩が震えた。持っていたスマホが地面に落ちる。
 本間が拾い上げ、画面の表示名を見た。
「……空?」
「あっ」豆塚は咄嗟にスマホを取り上げた。
 本間が顔を上げる。
「あ、ありがと。じゃ」
「……おう」
 豆塚はその場を走り去った。電話に出た後、登録名を変えた。
 きっと大丈夫だ。空なんて名前の人はたくさんいるし、ソラという芸名を苗字から取っているなんて公表もしていない。ましてや本間はアイドルに疎い。ドラマだってたまたま観たくらいなのだ。気づくはずがない。