あれから二週間、もしかして夢だったのでは、と思うほどに、空からはなんの音沙汰もなかった。けれどそれでいい。推し活に対して、少女漫画のような展開は求めていない。ただ、かつての親友として、少し寂しい気持ちは否めない。
「じゃ、3組はクレープに決定っつーことで。なんか他、意見あるヤツいる?」
「はいはい! 衣装もほしいです」と言う恵の後ろでは、豆塚が机に突っ伏しながらソラのアクスタを眺めている。「おい豆、聞いてんのかよ」と教壇から飛ばされる本間剛(ほんま ごう)の声は宙に浮き、豆塚の耳には入っていない。
「お前、当日になって文句言うなよ」
 本間は不服だった。見た目はヤンキーだが、学園祭や体育祭などの行事は本気を出すタイプだ。サボっているヤツを見ると許せない。同時に、ソラなどという男も許せない。
 チャイムが鳴った。
「北野、衣装は言い出しっぺのお前が仕切れ。あと、後でちょっと」

 9月中旬、学園祭まであと3日。放課後、豆塚は買い出しに100円ショップに行っていた。途中で電話がかかってきて、見ると空咲太郎だった。
「……はい」
『豆ちゃん! よかった、出てくれないかと思った』
 ズキンと胸が痛む。やはり空は、こちらから連絡するのを待っていたのだろうか。
『もう学校終わった?』
「うん。でも明後日に学園祭あるから、その買い出し中」
『えっ、学園祭? 行きたい!』
 交差点の信号が赤になり、立ち止まった。
『明後日、ちょうど空いてるんだ。行ってもいい?』
「ダメ。人が集まる」
『変装するよ。あ、でも豆ちゃんが嫌なら……』
 豆塚は足元をぐっと踏ん張った。
 君が嫌ならしない。という言葉は、ずるい。半分は脅しだ。
 実際、嫌われたくないからと相手を受け入れ、豆塚は幻滅されたことがある。けれど嫌だと言っても、じゃあ好きじゃないんだね、と冷められただろう。いずれにせよ、傷つくのは自分だ。君が嫌ならしないなんていうのは、本当のところ、相手の気持ちを一切考えていない人間の言う言葉だ。
『おーい。聞こえてる?』
「……」
『……あ、買い出し中だったね。ごめん、切るよ』
 信号が青に変わった。
『声、聞けてよかった。それじゃ』
「待って!」
 周りにいた通行人がぎょっとする。すぐ前にいたサラリーマンが耳を抑え、舌打ちをした。
『……豆ちゃん?』
「明後日……ちゃんと黒ずくめで来てよ」
 一瞬の沈黙のあと、小さな笑いがあった。『わかった』というやさしい声は、豆塚の奥深いところまで届き、こだました。

 学園祭の当日。2年3組の教室には行列ができていた。
「400円です。豆塚! これ一番端のお姉さんに渡して」
「……お待たせしました。シュガークレープです、にゃん」
 女性はクレープを受け取りながら、豆塚に釘付けだった。「どの子よりも可愛いわ」とつぶやいて列を外れていく。
「似合ってんじゃん」と横で生地を焼く本間は制服だ。
「いじめだ。一人だけメイドなんて」
「他のヤツも着てるだろう」
「女子だけな」と本間を睨みつける豆塚は、水色と白のメイド服を着て猫耳をつけている。
 今朝、本間に言われたのだ。お前はなんでもいいと話し合いに参加しなかったので、メイドになってもらうと。担任の小野田は「お前が悪い。本間は何度も注意した。しかしお前は妙な板を見るばかりで聞かなかった。そもそもなんだ、あの板は。教室じゃあ板ばっかり眺め、外に出ちゃあ空ばっかり見上げ、お前は————」と説教を始めたので諦めた。
 そろそろ交代の時間になり、豆塚はスマートフォンを見た。空は体育館の入り口で待っているというが、一人で大丈夫だろうか。
「お前、このあと誰かとまわんの?」と本間が問う。
「ああ、うん。他校の友達と」
「中学時代のダチか?」
「まあ……そんなところ」
 じゃあ交代するからと立ち去ろうとしたとき、ぐっと腕を掴まれた。
「えっ、なに」
「あのさ————」
 そのとき、聞き覚えのある声がした。
「チョコバナナクレープ。早く、そこのデッカいきみ」
 キャップを被ったサングラスの男が、本間の顔にぐいと近づく。
「後ろ詰まってるよ」と指差す先を見ると、廊下まで列ができていた。
「あ……すんませんっ」
 本間は慌ててホットプレートに生地を流し、ぐるぐるとまわし始めた。
 サングラスの男がこちらを見ている。何も言わないが、きっとそうだ。
「豆、これ最後に頼む」と横からクレープを渡され、絶望する。
 最悪だ。来てくれるなよ。
「……お待たせしました。チョコバナナクレープです、にゃん」
 廊下を並んで歩く二人は対照的だった。ご機嫌でクレープを頬張る空に対し、豆塚はげっそりとした様子で彼を睨みつける。
「欲しいの?」
「違うわ。ていうか、体育館前って言ったよね」
「待ってたよ。でも隣に居た子たちの話、聞こえちゃってさ。2年3組に可愛いメイドさんがいるって」
「それで釣られたの?」
「まあ。豆ちゃん映ってたから」と見せられたスマホには、メイド服を着て接客する豆塚の写真があった。「その子からもらった」と簡単に言うが、立派な盗撮である。
「でも、なんで豆ちゃんだけ?」
「嫌がらせだよ、あの生地焼いてたヤツの」
「へえ」とつぶやいた空は、一瞬、声が低まった気がした。
 体育館に着き、二人は後方の席に座った。ステージではすでに演劇部の公演が始まっている。演目は『オズの魔法使い』だった。
 サングラスを外しながら「懐かしいね」とささやく空に、豆塚は首を傾げた。
「昔、お遊戯会でやっただろう。豆ちゃんはブリキのきこりだった。俺が油をさしてあげて、豆ちゃんを助けるんだ」
「ああ」豆塚は思い出した。「あれ、オズの魔法使いっていうのか」
 忘れていたわけではない。というより、それが初恋の瞬間だった。
「空は主演だったね。女の子だけど」
「それは言わないで」と苦笑いする空は、先ほどの写真をもう一度見せて「でも今じゃ豆ちゃんのほうがドロシーだな」と舞台に立つ主演の女子生徒と見比べた。
「ほら、そっくり」
 水色と白の衣装が、まさに主演のドロシーだった。既視感があったのはそういうことかと合点がいく。
「豆ちゃんは俺の師匠だった。いつまでも泣いてる俺に、メソメソするな、セリフのない木だっているんだぞ、って叱るんだ」
「そうだっけ」と言いつつ、豆塚は覚えている。空は可愛らしい顔つきで、女の子によく遊ばれていた。普通は主演を取り合うのだろうが、みんな空がいいと言ってドロシー役を譲ったのだ。しかし本人はライオン役をやりたかったそうで、敷地の裏で泣いているところを豆塚が見つけ、励ました。それが仲良くなったきっかけだ。
「俺が豆ちゃんといると、ライオン役の子がよくソラマメって言ってきただろう。あれ、すっごい嫌だった」
「空、ピーピー泣いてたね」
「うん。でも豆ちゃんは平気な顔して、じゃあお笑いコンビ組む? って言うんだ」
「あ、それ覚えてるぞ。断っただろ」
 空は夢があるからと言って、豆塚の誘いを断った。冗談だったのに笑ってもくれず、不本意な形で振られてしまって傷ついた。
「ごめん」と空は笑う。「でも夢があったんだ。いつか絶対、可愛いじゃなくて、かっこいいって言われるような男になるって」
 空はステージではなく、こちらを見ていた。
 身体の中心から大きな鼓動が聞こえる。豆塚は動揺した。
 あのころの、守ってやりたいと思った少年はもういない。彼はいつの間にか、自分より幾分も大人の、自立した男になっていた。
 幕が降り、明かりがついた。空にサングラスをかけるよう急かす。
「面白かったね」
「うん」と返事をしながら、一つも観ていなかったくせに、と豆塚は思う。
「そろそろ帰るね。豆ちゃんのメイド服まで見れてよかった」
「写真消しといてよ」
「はは、どうかな」と、空が豆塚の耳に触れた。
「赤くなるの、昔からだね」
「うっさい」と手を払い、豆塚は出口に向かった。その後ろを空が追う。
「油さすときも赤くなってたよ。あれ、俺たまに夢に見るんだ」
 サングラス越しの瞳と目が合った。
 そのとき、背後から肩を叩かれた。手の圧力に、ヒュッと心臓が浮く。
 振り返り、確信した。
「よお。元気そうだな、友弥」
「……大地くん」 
「それ、新しい彼氏?」と訊く彼は、中島大地(なかじま だいち)。大学生で、姉の先輩だ。
「違う」豆塚の声は小さい。
「あ、そう。耳なんか触ってたから彼氏かと」
 大地は「じゃ」と言い、すれ違いざまの空の耳元でささやいた。
「コイツつまんないよ」
 空は黙っていた。聞こえていたが、大地が去るのを待った。
 ああ、何か告げ口をされたのだ。と、豆塚は察した。
 下駄箱まで二人は無言だった。別れ際に空が「じゃあ、また」と言う。
 踵を返すと、二度目の「またね」が背中を刺した。
 歩き出し、教室のほうに足を向けた。
 すると目の前に回り込んできた空が、大きめに言った。
「また連絡するから」
 豆塚は咄嗟にうつむいた。その瞳を見れば、きっと甘えてしまう。
 手を使って引き留めなかったのは彼のやさしさだ。それがわかるから、つらかった。
 けれど恋は始まれば終わりが来る。傷つくとわかっているのに、始める理由はなかった。
 
 翌日の夜、風呂に入ろうとしていると、空から電話があった。
「はい」
『あ、豆ちゃん。その……大丈夫?』
「なにが?」
『ああ、いや。今電話しても大丈夫かなって』
 豆塚は聞こえないよう、短く息をついた。ため息とは違うけれど、憂鬱だ。
「大丈夫。なんか用?」
『うん、声が聞きたくて。もうちょっと我慢しようと思ったんだけど、一晩で無理だった』
『へへ』という、その変わらない照れ笑いで、昔の空が蘇る。
 しかし微かに車の音が聞こえ、現実を意識した。
「空、あんまり外で電話しないほうがいいよ」
『なんで? 今、駐車場だけど』
「俺と話すとき、すごくだらしないから。ソラの名が廃る」
『えー、そんなファンみたいなこと言わないでよ』
 豆塚はムッとした。
「俺もファンなんですけど」
『ふうん。じゃあさ、どこが好き?』
「えっ」
『豆ちゃんはSKYのソラの、どこが一番好きなの?』
 わざとだ。空は自分で遊んでいる。
『ファンなら答えられるよね』
「……なにそれ」
『うん?』
「空なんかっ————」と言いかけ、豆塚は電話を切った。
 ひどい。最低だ。でも嫌いだとは、どうしても言えなかった。
 風呂から上がると案の定、着信が溜まっていた。メッセージも数件ある。ずるかった、二度と言わないという謝罪の言葉が並んでいた。豆塚はもう怒ってはいなかった。
 けれど鏡に映る自分は、笑ってもいなかった。

 月曜の昼休み。ちまちまと弁当を食べていると、購買から帰ってきた恵がドンと前に座った。
「ね、先週の4話観た⁉︎」
「ああ、うん」という豆塚の気のない返事は、恵には聞こえていない。
「もうヤバかったね。推しのキスシーンとか一生見れないと思ってたけど、相方ならもう全然見れちゃう。むしろ大歓迎だわ」
 ソラ演じる翔太は、先週のドラマ『空に翔ける』でSKYのアカネ、つまり相方とのハプニングチューを致した。完全にファンの視聴率を狙った演出だが、観てしまうのがオタクの性である。もちろん豆塚も例外ではない。
「あれ、もしかしてショック受けてる? え、豆塚ガチ恋?」
「バカ言うな!」と箸を掲げたとき、背後で「うおっ」と声がした。
 振り返ると、本間が立っていた。
「あ、悪い」
「危ねえな。……そういやお前、今日ずっと上の空だぞ。大丈夫か?」
「それダメ!」と恵が指でバッテンを作る。
「え?」
「豆塚は今、乙女だから。上のナントカってのは、禁句よ」
「なに言ってんだよ。いいよ、別に」
 しかし本間は真面目だった。ヤンキーだが、素直なのだ。
 その本間の驚愕顔が恵を脅かした。沈んだ様子で教室を出ていく本間を見送り、恵はしばらくしてハッとした。
「メイド服……嫌がらせじゃなかったのね」
 涙を拭く真似をする恵に、豆塚は首をかしげた。