2024年9月。校庭のトラックに沿って、2年3組の数名が等間隔に走っている。その中に一人、ぽつんと上を見上げる男子がいた。
「おい、豆塚(まめつか)ァ!」
 体育教師で担任の小野田だ。
「また空ばっか見て、気抜いてんじゃないだろうな!」
 豆塚はフルフルと首を振り、走り出した。
 4時間目は水泳だった。見学者はランニングを強いられるのだが、小野田はこうして監視に来るので女子からは嫌われている。
 豆塚友弥(まめつか ともや)は都内の私立高校に通う2年生だ。身長165cm。猫目、丸顔。得意な教科は国語で水泳は苦手。好物はカレーで、趣味は————。
「豆塚、なに書いてんの?」
「ん。ファンレター」
「……ああ、昨日のファンサでやられちゃったのね」と哀れみの目を向ける彼女は、前の席の北野恵(きたの めぐみ)である。弁当そっちのけで机にかじりつく豆塚を眺めながら、「男をも落とすソラ、恐るべし」とメロンパンの袋を開封している。
 二人は高校生アイドルデュオ・SKY(スカイ)のファン、つまり推し活仲間だ。クラス替え初日、恵の落としたアクリルスタンドを豆塚が拾ってやったのが始まりだった。
 推しの名前はソラ。透き通った声が売りのクール系男子で、俳優業にも力を入れている。一方、恵の推しは相方のアカネだ。彼は犬系男子で、話が上手いのでバラエティー担当だ。初めは恵もソラ推しだったが、ラジオで名前を読み上げられて以来、アカネの虜となった。
「ほんと、昨日のは絶対、豆塚を見てたね」
「どうだろ?」
「だって指差してたじゃん。男子は珍しいから目についたんだな」
 豆塚は昨日、初めてのコンサートに行った。恵が激戦の東京公演を当ててくれたのだ。席は左スタンドの前から5列目だった。
 そして外周のとき、ソラと一瞬目が合った。と、豆塚は信じている。彼はお手振り程度しかファンサービスをしないが、こちらに向かって指差しをしたのだ。しかも笑っていた。当然、周辺のファンは発狂し、ネットでも話題になった。けれどあれは、自分に向けられたものだ。と、豆塚は信じている。
 それが嬉しくて、こうして筆を取ったのだ。あのとき豆塚は救われた。もう二度と恋をしないと決めた鉄の心を、ソラはいとも簡単に溶かした。
 けれど、もう恋をしないという意味では変わらない。この心は推しに捧げるのであり、彼氏という存在は自分には不要である。
 その日の帰り道、豆塚は人生初のファンレターを投函した。

 翌週の金曜。放課後にコンビニへ寄った。宴の準備だ。今夜はソラ主演のドラマ『空に翔ける』の放送がある。
 豆塚は大学生の姉と住んでいて、金曜の夜は大抵、友達と呑みに出かけるので一人だ。今日は手抜きにしてしまおうと、スナックやアイスなどを買って家路を急いだ。
 しかしアパート近くまで着き、足が止まった。全身黒ずくめの人物が建物の前をうろついている。昨日、ストーカーによる傷害事件の報道を見たばかりだった。豆塚は足がすくんだ。
 ドラマの放送まであと10分。ええい! と豆塚は早足で部屋まで向かった。
 後ろは見ずに、階段の途中からは走った。部屋は3階だが、水泳のランニングのおかげか案外余裕だった。
 鍵を閉め、テレビをつける。息をついた。
 アイスを買っていたことを思い出し、冷凍庫にしまっているとインターホンが鳴った。そういえば宅配が来ると姉に言われていた。
 立ち上がり、玄関に向かう。
「はーい」と扉を開け、ハッと身を固めた。
 さっきの黒ずくめだ。うつむいているが、たしかにヤツだった。
 声が出ない。閉めなきゃ、と思うけれど、思うだけで動けなかった。
 すると黒ずくめが言った。
「久しぶり。まさか、また会えるとは思ってなかった……」
 扉を持つ手に汗が滲んだ。
「しかも応援してくれてるなんて」
「……は?」と豆塚が発したと同時に、ヤツが顔を上げた。
「豆ちゃん」
 そう呼ぶのは、この世でたった一人。けれど目の前にいるのは違った。
「ソ、ソ、ソ」
 SKYのソラ————大好きな【推し】だった。

 しょげた顔で正座する男の背後で、同じ男のキメ顔がテレビに映っている。
 この異様な光景を、豆塚はまだ受け入れられなかった。
 あのあと男は、ソラと名乗った。豆塚は驚いて、顔を隠し、指の隙間から彼を見た。信じられなかった。
 しかし次の一言で事態は変わった。
「俺だよ。空咲太郎(そら さくたろう)。覚えてる?」
「……え」
「ほら、幼稚園のとき一緒だった」と微笑む彼は、どう見てもソラだ。
「豆ちゃんは変わんないな。俺、すぐわかったよ。この間のコンサートで見つけたとき、豆ちゃんだ! って思って、信じられなかったけど。でも————」
「ちょっと待てよ」
 豆塚はソラを睨んだ。
「さっきからなんなんだよ? 豆ちゃん豆ちゃんって、そう呼んでいいのは空だけだ」
「え、いや、だから俺が」
「嘘つくな! 違う。空はこんなんじゃない。もっと可愛くて泣き虫で、アイドルなんかやるような子じゃないんだ」
 いくら推しでも許せなかった。いや、むしろ本来の推しは空咲太郎だ。初めて心を奪われたのは空だった。しかし親友として友情を貫き、子どもながらに泣きながら卒園式を迎えたのだ。それを勝手に「俺が空だ」と言い出すのは、人の大切な宝物を汚す行為だ。
「帰ってください」と扉を閉めかけた豆塚に、ソラが慌てた。だったらこれを見てくれと、いきなり服を脱ぎ出したのだ。
「変態!」と叫びかけ、豆塚はアッと息を飲んだ。胸の中心にある、大きなハート型のホクロが、空咲太郎にあったものと同じだったのだ。水遊びの時間、震えていた自分の手を取って「大丈夫」と言った彼の胸にも、ハートがついていた。
 そうして、しぶしぶ部屋にあげたのだが……。
 テレビと本物とを見比べていると、しばらく正座をしていた空が「あのう」と口を開いた。
「まだ信じてない?」
「……信じたけど。でも納得はしてない」
「ええっ」と彼は眉を垂らした。こんな情けないソラは見たことがない。
 ただ、長いまつ毛に、やや垂れ目、ツンとした鼻と薄い唇は同じなので混乱する。やはりSKYのソラと空咲太郎は、同一人物か。
「まあ、信じられないよね。俺、泣き虫だったし、弱っちかったし」
 空は自嘲の笑みを浮かべた。
「でも今は違う。人前に出るようになって、自信もついたんだ。俺はずっと豆ちゃんに会いたかった。今の俺を見てほしくって」
「信じて」と言う彼の眼差しは、かつての親友のそれと、少しも変わっていないと思えた。
「……わかったよ、空」と十数年ぶりに口にしてみて、恥ずかしくなった。同じ音なのに全く違う。推しへの気持ちと恋心は、別のところにあるのだ。まあ、昔の恋だけれど————。
 空はファンレターのお返しにと、手紙を置いて帰った。投函すればいいものを、住所を辿って手渡しにくるとは……知り合いでなかったら捕まると思う。
 中身はごく普通の、ファンに宛てた手紙だった。しかし最後の一文が、とても個人的なもので困った。
【今度、二人で遊びに行こう。連絡待ってる】
 たしかに別れ際、連絡先を交換した。昔のように仲良く、という意味でないことは「またね」と笑った空の表情でわかった。卒園の日から今日という日まで、それなりに恋はしてきたのだ。きっと友情だけを求めているのではないと豆塚は察した。
 うれしかった。けれど遅かった。
 豆塚は手紙を封筒に戻し、推し活スペースとは別の引き出しにしまった。