おじさんから受け取ったお弁当を両腕で抱えながら教室に向かい歩きます。
朝のSHR前に間に合うよう職員室に担任の先生に退院のご挨拶によったりしていたので、時間ギリギリではないですが、これが浦島太郎さん現象なんでしょうか。
自分のクラス前まで来たのに、浦島太郎さんです。もしくはゆーれいさん。一定の距離を置かれつつ、露骨にヒソヒソとお話されています。そして、よくわからない視線も未だに追いかけてきます。いざ、ドキドキしながら1ヶ月ぶりの教室に足を踏み入れます。
お友達同士で親しげに挨拶をかわしたり、教科書を開きながら予習をしていたり朝の準備でざわめく教室が一瞬でしんと静まり返った気がします。
これもいつものことなのですが、何度経験しても心臓が縮み上がりそうです。慣れ親しんだクラスの中に僕という異分子が入ると、空気が冷えて固まる。そう。いきなり『ゆーれい』などをみてしまったときのように。
うろ覚えの自分の席をさがし、教室を見渡すと数人から素早く目をそらされました。
『ゆーれいさん』である僕がクラスメイトさんには見えているということがわかりました。
まず存在を知覚されただけでも中等部時代よりは進歩なのでは、とむりくりポジティブに変換し、名簿順に割り振られた僕の席に腰掛けます。
窓際の一番うしろの席。僕は、名簿の「あ」行のしんがりを中等部時代から頑なに務め続けているんですよ。久しぶりの自分の席ですが、2日しか通っていないので特になんの感慨もないのが少し寂しいです。机にカバンを置き、椅子に腰掛けます。教科書やノート、筆記用具を中に入れていきます。
「あの……綾瀬さま、くん」
前の席から声が聞こえて来ました。まさかの僕の名字を言っていた気がします。
ゆーれいさんの僕に話しかけているはずが無いとは思いますが、一応知覚された前歴があるので、そっと顔を前に向ければ、声の主は身体ごとひねりこちらを向いていました。
「えっと。俺、天宮なんだけど。中等部から前の席で一緒なんだけど……」
天宮くん。……知っています。プリント回してもらった時くらいしか会話したことないです。
いきなり自己紹介しだしてどうしたんでしょうか。驚きで固まり、じっと見つめ返すことしかできないでいたら、天宮くんは不安そうに視線をさまよわせはじめた。わざわざ身体ごと向けてまで自己紹介をしてもらえたのに、無視するわけにはいきません。
「あ、えと覚えています。天宮くん」
「あの退院おめでとうございます。困ったりしたら、気軽に声かけてねっ!」
ゆーれいさんの僕が入院していたことを知っていてくれていたなんて嬉しいです。優しい気にかけてもらう言葉をもらうと申し訳無さでいっぱいになってしまいます。でも、お兄さんは教えてくれました。卑屈にならず、そのまま優しさを受け取ればいい、と。
「はい。ありがとうございます。これからよろしくお願いします」
天宮くんの優しさに自然と笑顔がこぼれます。すると、天宮くんはなぜか真っ赤なお顔でお口をポカンと開けて固まりました。そして、周りの視線が痛いです。僕はゆーれいさんですけど、見たものを凍らせる雪女さんではありません。
異常にシーンと静まり返る教室内の空気。
「あのっ! 僕は出席番号12番。関です!中等部から続けて今年も押し付け……ではなくクラス委員長なんです! 席が隣なので教科書忘れたときやそれ以外でも声をかけてもらえたらな……と」
お顔を真っ赤にして手をパタパタ動かししどろもどろに言うクラス委員長さんの関くんです。
またまたクラスメイトに知覚され、優しく話しかけられました。中等部のときではありえないですよ。
いつも遠巻きに視線を投げつけられるか、このクラス委員長さんの関くんに挨拶してもらうくらいだったんです。
もしや高校生になった僕はゆーれいさんとして進化して、ついに浮遊霊から地縛霊になったのでは?
ふよふよどこにいるのかわからない浮遊霊では無く、決まった場所に出没するゆーれいさんとクラスメイトに認知されたんですね。
「今年も関くんと一緒のクラスで安心です。これからもお隣さんとしてよろしくお願いします」
「ひぇっ?! まさかの過去から認知されていた?! あ、ありがとうございますっ!」
感激したように口元を押さえた関くんは、何度も頭を下げ僕にお礼を言います。
心なしか先程よりも周りからの視線が痛くなってきましたよ。あからさまに怪訝なお顔で廊下から教室を覗き込む生徒さんもちらほらといます。
完全に良い意味でない注目を集めてしまいました。
困り果てた僕。特別なことではないですが、授業をただ真面目に準備するだけで何故かみんなが僕に話しかけて来なくなるので、いそいそと準備をします。
そうこうしているうちに予鈴がなり、担任の先生が教室に入ってきました。同時に、僕へまとわりつく視線もなくなり一安心です。
「じゃあ今日は教科書22ページ開いて」
現国担当教師の1言で、みんなが一斉に教科書を開きます。
ぱらぱらと紙をまくる音が何重にも重なり、大きく教室内に響きます。教師が黒板に打ち付けるようにチョークで書く音。カリカリとノートへ板書を書き写す音。たくさんの音が僕の周りでします。
ふいに開け放たれた窓からの風に煽られ、目の前でクリーム色のカーテンが膨らみます。バラララ、とすごい勢いで教科書が早くまくれ上がり、どこからともなく小さく声が上がり出しました。頬をなでつける風はもう新緑の瑞々しい若葉が薫ります。教科書がぱたり、とゆっくり風に閉じられてしまいました。
「……ふふっ」
授業中に強い風が吹いて教科書が閉じただけ。たったそれだけのことなんです。でも、嬉しかったんです。この現国授業は入院中もタブレットで録画したものを病室で1人見ることで受けられていたんです。
ですが、窓が開けられない病室では風が入り込んできてこんなこと起こりません。
それに、タブレット画面越しにはわからない授業中の取り巻く空気や音が新鮮で、頬が勝手に緩んでしまいます。
僕は、今、『普通』になれています。