浦島太郎さんみたいです。車窓に流れる鮮やかな新緑の緑を見ながら、ふと思ってしまいます。
覚えている景色がいつの間にか進んでいて、自分だけが過ぎていく季節や時間からおいて行かれてしまう。それに、自分は時間が経った実感が全くなく変わりないのに、景色や風の匂いや気温が変わっている寂しさと少しの不安。いなくなった自分を覚えていてくれるひとはいるのだろうか、という不安です。
僕が浦島太郎さんと同じ不安持ちながら眺めていても、初夏の日差しは新緑を透かし柔らかいです。太陽さえ初夏に季節はすっかり変わっている。
この前同じ道を通った時は、入学式の前日。桜がまだ咲き始めという頃だったんですよ。おじさまの所有する車の後部座席に座っているのは同じでも、今は5月のGW明け。つまり1ヶ月ほど時間が経過している。
入学3日目にお兄さんに助けられた僕はあのままちゃんと寝ることができたまではよかったんです。でも、その後校医さんに入院を告げられ、病院へ。そこからは検査の数値がなかなか安定いないだとかいろいろありまして、やっと昨日退院できました。
そう、とっても時間が経っているんです。 僕は入院中もお兄さんの風鈴のようなきらきらピアスを覚えていたんですが……お兄さん僕を覚えていてくれてますかね……。
ぼんやり車窓を眺めていると、隣に座るおじさんが口を開きます。
「ねえ、可愛い翠のお願いだけどまた寮に戻るのは心配だよ。1人部屋に変更したのはせめてもの譲歩なんだからな。わかった?」
「っう。……はい」
「ストレスが発作の大きな原因なのに翠が他人と暮らすってかなり危なかったよ。本当に今回は1ヶ月くらいの入院で済んでよかった。あ、昨日央兄さんに連絡したら安心してたよ」
「お父さんが?」
おじさんの口から珍しくお父さんの名前が出て、胸がわずかに冷たくなります。
入院中もお父さんから連絡来なかったので、入院のことお父さんは知らないと思いこんでいました。そうですよね。お父さんはおじさんのお兄さんだから、預かっている甥っ子が入院したら連絡しますよね。
僕の『家族』はたった一人だけ。もうお父さんだけなんですから。胸がさらに冷たいだけじゃなくて、ほんの少し重くなったような気がしました。無意識に胸に手をあて、温めるように擦ってしまいます。
「そうだよ。こんな可愛い翠を1人置いてったくせにね」
おじさまは舌打ちまでしそうなほど大層不機嫌な声で言い終わります。あからさまにここまで荒れているおじさまも珍しいですよ。もともと感情表現が陽に振り切ったひとだからこそ、ここまで不快感を表情にだすのはそうとう納得が言っていないんです。
「あのね、おじさま、ありがとうございます。大丈夫ですよ。ほら、伊織くんもいますから」
僕はなんともいえない気まずさから、曖昧に微笑み返すことしかできません。おじさまが僕のことを心配して怒ってくれているからこそ、お父さんに歯がゆいさというのか複雑な感情を抱いているんですから。自分よりも感情を乱しているおじさんをみたら、重く冷えた胸が少し楽になりました。
おじさまは眉を下げ微笑みながら僕の頭を撫でます。ですが、いつもはもっと泣きそうなお顔なのでお兄さんの『ありがとう』の効果がでました。今度は胸がじんわり温まります。
「困ったことがあったら、佐倉伊織かおじさんに言いなさい。あ! そうだ」
「はい」とおじさんはポケットから何かを手のひらに載せて差し出します。それは、大きさは消しゴムより一回り大きいくらいの車のキーに酷似した寮部屋の鍵でした。おずおずと手を差し出すと、おじさんは新しい寮部屋の鍵をそっと載せてくれました。
「新しい寮の部屋の鍵だよ。引っ越しは佐倉伊織が入院中しておいたから今日の夜からもう部屋は使えるよ」
「あ、ありがとうございます。なにからなにまで」
「いいよ。それより、佐倉伊織も合鍵持っているから気をつけなさいね」
おじさんはまたたく間に笑みを消し、真剣な表情で意味深に僕へ言います。よく意味がわからず瞬きを繰り返す僕に、おじさんは涼やかな瞳を細めながら続けます。
「発作や翠がなにか困ったときに佐倉伊織が側にいたほうが良いけど、あいつから嫌なことや怖いことをされそうになったら構わず殴りなさい。私が許す。理事長としても翠の親代わりとしてもね」
「あ、う、い、伊織くんは優しいからそんなことしないですっ!」
伊織くんに失礼すぎる言い草に慌てて両手を振り否定します。
「もしも……だよ」
念押しするように、とてもきれいな笑みを浮かべるおじさんですが、背筋が寒くなるような笑顔です。
うう。目が笑っていません。コクコク頷き返し、部屋のキーをカバンにしまうと、寒気のもとは去りました。
「もう少しで学校に到着するから、間に合いそうだな」
きらきら宝石のついた高級腕時計へ視線を落とすおじさんは僕に微笑みます。
怖くないほんものの笑顔なので、上質なスーツを身にまとうかっこいいお仕事デキル社長さんって姿です。学校の理事長の他にも会社経営もしている本物の社長さんなので、やっと本来のおじさん登場です。
おじさんがここまで言うのには少し事情があるんです。
僕がこのおじさんが理事長をしている全寮制男子高校入学のタイミングで実父が海外単身赴任が決定。
お母さんはもう亡くなっているので、家で体の弱い僕がひとりになる。それは危ないといつ発作が出て倒れてしまう僕を心配し、ひとり暮らしを渋るおじさんたち。そんなおじさんを説得し、中等部からの持ち上がりであり、高校からは全寮制になるこの学校に入ることになったんです。
かなり過保護なおじさんを説得できたのは、2つ年上の伊織くんも同じ高校かつ寮内で暮らして、僕になにかあってもすぐに駆けつけられるから。自宅に引き取る気満々だったおじさんは、先程言ったように理事長の他に会社も経営されていて、とっても多忙。
仕事が忙しく毎日深夜帰宅なのに出張もあるあなたが、急変時にすぐに駆けつけられるんですか?と秘書さん、伊織くん2人がかりで諭されていました。そして、とても嫌々頷いたんですよ。
あのときのあんな表情のおじさん初めて見ましたね。
車窓を流れる新録の木の葉の美しさ、朝日の眩しさに退院した事実を実感します。重なり合った木の葉の隙間から注ぐ朝日は手のひらや足元をじゃれつくように網目模様に照らす。エメラルドグリーンの海の中をとぷんとぷん、と遊泳しているみたいです。あ、これも浦島太郎さんみたいですね。亀さんにではなく車に乗っていますが。
ぽやぽや景色に見とれていたら、車はもう学校へ到着しました。
目立たないように学校の裏門前に駐車してもらった車から降りると、おじさんの秘書さんからお弁当を手渡されます。
「こちら社長の綾瀬から退院祝いのお弁当です」
「ありがとうございます。向井さん。入院中はお世話になりました」
照れくさいですが、向井さんの目を見てちゃんとお礼と感謝を伝えます。
「いいえ。翠さんも学校楽しんでくださいね」
向井さんは、一瞬だけ眼鏡の奥の目を見張ると目元を緩ませました。ちゃんと感謝を伝えられた安堵と喜びで僕も同じように目元が緩みます。
お兄さん。『ありがとう』の効果がまたありましたよ!
『よくできました』
あのときのお兄さんの優しい声が風に混じり耳をくすぐったような気がしました。
覚えている景色がいつの間にか進んでいて、自分だけが過ぎていく季節や時間からおいて行かれてしまう。それに、自分は時間が経った実感が全くなく変わりないのに、景色や風の匂いや気温が変わっている寂しさと少しの不安。いなくなった自分を覚えていてくれるひとはいるのだろうか、という不安です。
僕が浦島太郎さんと同じ不安持ちながら眺めていても、初夏の日差しは新緑を透かし柔らかいです。太陽さえ初夏に季節はすっかり変わっている。
この前同じ道を通った時は、入学式の前日。桜がまだ咲き始めという頃だったんですよ。おじさまの所有する車の後部座席に座っているのは同じでも、今は5月のGW明け。つまり1ヶ月ほど時間が経過している。
入学3日目にお兄さんに助けられた僕はあのままちゃんと寝ることができたまではよかったんです。でも、その後校医さんに入院を告げられ、病院へ。そこからは検査の数値がなかなか安定いないだとかいろいろありまして、やっと昨日退院できました。
そう、とっても時間が経っているんです。 僕は入院中もお兄さんの風鈴のようなきらきらピアスを覚えていたんですが……お兄さん僕を覚えていてくれてますかね……。
ぼんやり車窓を眺めていると、隣に座るおじさんが口を開きます。
「ねえ、可愛い翠のお願いだけどまた寮に戻るのは心配だよ。1人部屋に変更したのはせめてもの譲歩なんだからな。わかった?」
「っう。……はい」
「ストレスが発作の大きな原因なのに翠が他人と暮らすってかなり危なかったよ。本当に今回は1ヶ月くらいの入院で済んでよかった。あ、昨日央兄さんに連絡したら安心してたよ」
「お父さんが?」
おじさんの口から珍しくお父さんの名前が出て、胸がわずかに冷たくなります。
入院中もお父さんから連絡来なかったので、入院のことお父さんは知らないと思いこんでいました。そうですよね。お父さんはおじさんのお兄さんだから、預かっている甥っ子が入院したら連絡しますよね。
僕の『家族』はたった一人だけ。もうお父さんだけなんですから。胸がさらに冷たいだけじゃなくて、ほんの少し重くなったような気がしました。無意識に胸に手をあて、温めるように擦ってしまいます。
「そうだよ。こんな可愛い翠を1人置いてったくせにね」
おじさまは舌打ちまでしそうなほど大層不機嫌な声で言い終わります。あからさまにここまで荒れているおじさまも珍しいですよ。もともと感情表現が陽に振り切ったひとだからこそ、ここまで不快感を表情にだすのはそうとう納得が言っていないんです。
「あのね、おじさま、ありがとうございます。大丈夫ですよ。ほら、伊織くんもいますから」
僕はなんともいえない気まずさから、曖昧に微笑み返すことしかできません。おじさまが僕のことを心配して怒ってくれているからこそ、お父さんに歯がゆいさというのか複雑な感情を抱いているんですから。自分よりも感情を乱しているおじさんをみたら、重く冷えた胸が少し楽になりました。
おじさまは眉を下げ微笑みながら僕の頭を撫でます。ですが、いつもはもっと泣きそうなお顔なのでお兄さんの『ありがとう』の効果がでました。今度は胸がじんわり温まります。
「困ったことがあったら、佐倉伊織かおじさんに言いなさい。あ! そうだ」
「はい」とおじさんはポケットから何かを手のひらに載せて差し出します。それは、大きさは消しゴムより一回り大きいくらいの車のキーに酷似した寮部屋の鍵でした。おずおずと手を差し出すと、おじさんは新しい寮部屋の鍵をそっと載せてくれました。
「新しい寮の部屋の鍵だよ。引っ越しは佐倉伊織が入院中しておいたから今日の夜からもう部屋は使えるよ」
「あ、ありがとうございます。なにからなにまで」
「いいよ。それより、佐倉伊織も合鍵持っているから気をつけなさいね」
おじさんはまたたく間に笑みを消し、真剣な表情で意味深に僕へ言います。よく意味がわからず瞬きを繰り返す僕に、おじさんは涼やかな瞳を細めながら続けます。
「発作や翠がなにか困ったときに佐倉伊織が側にいたほうが良いけど、あいつから嫌なことや怖いことをされそうになったら構わず殴りなさい。私が許す。理事長としても翠の親代わりとしてもね」
「あ、う、い、伊織くんは優しいからそんなことしないですっ!」
伊織くんに失礼すぎる言い草に慌てて両手を振り否定します。
「もしも……だよ」
念押しするように、とてもきれいな笑みを浮かべるおじさんですが、背筋が寒くなるような笑顔です。
うう。目が笑っていません。コクコク頷き返し、部屋のキーをカバンにしまうと、寒気のもとは去りました。
「もう少しで学校に到着するから、間に合いそうだな」
きらきら宝石のついた高級腕時計へ視線を落とすおじさんは僕に微笑みます。
怖くないほんものの笑顔なので、上質なスーツを身にまとうかっこいいお仕事デキル社長さんって姿です。学校の理事長の他にも会社経営もしている本物の社長さんなので、やっと本来のおじさん登場です。
おじさんがここまで言うのには少し事情があるんです。
僕がこのおじさんが理事長をしている全寮制男子高校入学のタイミングで実父が海外単身赴任が決定。
お母さんはもう亡くなっているので、家で体の弱い僕がひとりになる。それは危ないといつ発作が出て倒れてしまう僕を心配し、ひとり暮らしを渋るおじさんたち。そんなおじさんを説得し、中等部からの持ち上がりであり、高校からは全寮制になるこの学校に入ることになったんです。
かなり過保護なおじさんを説得できたのは、2つ年上の伊織くんも同じ高校かつ寮内で暮らして、僕になにかあってもすぐに駆けつけられるから。自宅に引き取る気満々だったおじさんは、先程言ったように理事長の他に会社も経営されていて、とっても多忙。
仕事が忙しく毎日深夜帰宅なのに出張もあるあなたが、急変時にすぐに駆けつけられるんですか?と秘書さん、伊織くん2人がかりで諭されていました。そして、とても嫌々頷いたんですよ。
あのときのあんな表情のおじさん初めて見ましたね。
車窓を流れる新録の木の葉の美しさ、朝日の眩しさに退院した事実を実感します。重なり合った木の葉の隙間から注ぐ朝日は手のひらや足元をじゃれつくように網目模様に照らす。エメラルドグリーンの海の中をとぷんとぷん、と遊泳しているみたいです。あ、これも浦島太郎さんみたいですね。亀さんにではなく車に乗っていますが。
ぽやぽや景色に見とれていたら、車はもう学校へ到着しました。
目立たないように学校の裏門前に駐車してもらった車から降りると、おじさんの秘書さんからお弁当を手渡されます。
「こちら社長の綾瀬から退院祝いのお弁当です」
「ありがとうございます。向井さん。入院中はお世話になりました」
照れくさいですが、向井さんの目を見てちゃんとお礼と感謝を伝えます。
「いいえ。翠さんも学校楽しんでくださいね」
向井さんは、一瞬だけ眼鏡の奥の目を見張ると目元を緩ませました。ちゃんと感謝を伝えられた安堵と喜びで僕も同じように目元が緩みます。
お兄さん。『ありがとう』の効果がまたありましたよ!
『よくできました』
あのときのお兄さんの優しい声が風に混じり耳をくすぐったような気がしました。