これは、バチがあたったのでしょうか。
「ごほっ、はぁ、……っ」
そう思った瞬間、止めきれない咳を身体は勝手に繰り返しだします。咳を止めようとお腹に力を入れ耐えてみるも、息苦しさで身体はくの字に折れてしまいます。
これではいつもと変わらないです。なるべく誰にも迷惑をかけないように、人気のない場所まで避難してきた意味がありません。
情けないです。せめてもの救いは昨日のように誰かに直接迷惑かけていないこと。
昨晩、高校入学と同時に入寮した2日目の夜。春にしては気温が下がった冷え込みで刺激された喉が重く乾き、一晩中咳が止まりませんでした。それは持病の喘息に近い呼吸器疾患の発作の始まりに似ています。僕はいつものようにベッドへ移動し布団を頭からすっぽりかぶります。出続ける咳を止めるため、薬を吸入し、息苦しさを真っ暗な布団の中でじっと耐えました。体を丸め、口元を両手でしっかりと塞ぎ、咳で苦しんでいる姿を誰にも見せません、と。
入寮初っ端からやらかしてしまった僕は、やっとのことで朝を迎えます。
この寮のお部屋は2人部屋が基本で、特別な事情がある生徒や特待生、留学生だけが1人部屋。つまり、僕は、寝室以外は共用な2人部屋なんです。ちなみに中等部から高校へ持ち上がり組の僕だけれど、学校より病院にいることが多く、クラスメイトでもない同室者の子とは面識はありません。クラスメイトの子でも、僕の少し珍しい名前『綾瀬翠』は知っていても、この配色だけは目立つ顔と一致しているかも怪しいですから。『ゆーれいさん』みたいにいても気にされない、気付かれない存在なのです。
共用のリビングに朝食をとるため起きてきた、長身な同室者の彼になんとか謝罪を口にします。謝った僕に同室者の彼は「気にしないで」と、目の下に隈を作りながら快活な雰囲気の彼には、とてもそぐわないぎこちない笑みを浮かべました。壁1枚隔てたほぼ初対面の同室者の睡眠を著しく妨害してしまった自分のふがいなさに胸が苦しくなってしまいました。何度も謝罪を繰り返す僕に彼は、眉を下げ悲しそうな顔をされます。それから彼は僕へ「大丈夫だから」というとそそくさと朝食も食べずに学校へ行ってしまいました。
それが、今日の朝の出来事です。
いつもいつも発作が起きると僕は、周りの皆を悲しいお顔にしてしまいます。発作を起こすと皆は悲しいお顔をして、どうしたらよいのかわからないと困ってしまうことが多いんです。時には女の子なんて泣きだしてしまったり、小さく悲鳴をあげてふらりと距離をとり、遠巻きに観察されます。喘息のようにヒューヒュー喉を鳴らし、咳き込む僕の姿が怖いのかもです。発作に慣れた僕ですら、吸入機を使い喘鳴が治まり薬の効き目が自覚できるまで、時間がとても長く感じ、……少し怖いんですから。
僕がそんな皆の不安や恐怖を和らげられるようなうまい言葉をかけられないのもあるんでしょうか。
発作で苦しい中、見ただけで悲鳴を上げられてしまうと、勝手に心が竦んでしまいます。一瞬にしてその場を凍りつかせる緊張や、衝撃を受けたように歪む皆さんの表情に、僕がどれだけ痛々しい存在なのか、と勝手に感じてしまうんです。いちいち傷つく自分も情けなくて、嫌で嫌で仕方がなくて、うんざりします。だから、僕は発作中の自分を誰かに見られたくないんです。
まず発作を起こさないようにしたいですが、発作はいつ訪れるのかわからないんです。1時間おきの頻回のときもあれば1週間以上間が空くこともあり、全く予想がつかない。いつ来るかわからない発作に僕も小さいときは怯えていました。今は喉の調子や胸の苦しさで発作の前兆らしき症状を経験則で予想でき、わかるようになりました。ですので、僕も発作がでてくる前に人気のない場所へ逃げ、吸入し落ち着かせていました。なのに、上手く行きません。
それに、胸が苦しくなるほど激しい発作が出てしまえば、絶対に強制的に入院させられてしまいます。高校生になったからには、中等部よりもたくさん学校に通いたかったんです。絵本や小説でみる『普通の学校生活』が送りたいんです。普通にクラスメイトと一緒に授業を受けて、仲良くなりたい。あとは、友達をつくっていろいろお話したり、お昼寝ご飯を一緒に食べたり、遊びに行ったりもしたいです。家族や周りのみんなに悲しいお顔をさせてしまうことしかできない僕のささやかな『わがまま』なんです。そのためにもこれ以上発作をひどくしてはいけないです。
午前中、何度も喉から掠れた音がして嫌な予感がしましたから、昼休みはお昼寝できる場所探しがてら、吸入をしようとしたんです。わざわざ靴まで履いて中庭の奥まで進んだのが、よろしくなかったんでしょうか。
これは、バチがあたったのかもしれないです。
やっぱり僕が『わがまま』を言うと、ろくなことが起きない。いつもそうだったんです。
「きゅ、うにゅ、……っごほ」
出続ける咳に身体は頽れ、地面に膝をついてしまいます。これ以上悪化しては自力で吸入や手助けを呼ぶことなんてできなくなってしまう。今の自分にできることは、吸入をすることです。いつもひとりで耐えてきたんだからできるはず、と自分を奮い立たせます。手探りでブレザーのポケットに今朝入れておいた吸入機を必死にさがしました。冷たくこわばった指先にプラスチックの硬い感触があたり、なんとかぎゅっと手の平で掴んで取り出します。
「……っあ」
ちょうど咳き込んでしまいました。身体が咳で大きく揺さぶられた拍子に、地面にぽとり、と吸入機が落ちる。なぜか吸入機が地面に落ちる瞬間の光景がスローモーションに見えました。
なんで僕はこんな簡単なことさえ、自分の発作を治すために吸入をするだけのこともできないんでしょう。いつも。咳を引きずる呼吸は浅く、乱れ、短い。さらに息苦しさを増し、吸入機が落ちた地面に反射する陽光がチクチク目に刺さってくるようです。酸欠からか、視界が狭まり暗くなってきました。
⸺あぶないかもしれないです
そう思った途端、酸素が回らない頭と身体ごと地面に突っ伏すように倒れ込みます。
でも! ひとりでなんとかしないと……。必死に呼吸をしようとしますが、呼吸ができない苦しさから、頬に涙がぽろぽろ落ちてきます。もう目が暗くて見えなくても、吸入機さえあればなんとかなりますと手を闇雲に伸ばした時。
「は? 女? なあ、お前喘息もちか?」
不機嫌のような気だるげな声が近づき、背中に手を添えて僕を抱きかかえるように抱き起こしました。
身体を起こされ圧迫された胸が楽になると、呼吸が少しだけ長くなっていきました。
「あー、まあコレ持ってんなら確実だろ」と気だるげだけど、なぜか力強い声と手をしたひとは呟きます。
そして、カチリ、と軽い音が続きました。
「ん。息吐けるか? 、ほら吸え」
吸入機を口元に寄せられた気配がします。朦朧とする意識の中で、誘導するよう言われたそのままに、浅いながらも息を吐きます。
タイミング良く目の前に差し出された吸入機を咥え、吸います。薬をなじませるように口を閉じ、再び息を大きく吐きました。小さい頃から何回も繰り返した動作だからか、反射のようにすべていつもどおりにできました。
「吸えたな。あとは、ゆっくり息をしろ。……楽になるから」
薬の味が口にするのがわかり、ほっとしました。この味がすれば苦しいのが軽くなると脳が記憶しているからか、それとも薬がじわじわと効いてきたのか、ぜいぜい鳴る喉の音が落ち着いてきます。
少しだけ、呼吸以外にも気を配る余裕が出てきました。息をするのに合わせ背中を擦る大きな手があります。上下にゆっくりと行ったり来たり。背中から伝わる温もりは、冷たくこわばっていた僕の身体も温めていくようです。
「落ち着いたな?」
温かい声は確認するように聞きます。なんとかこくこくと頷くと、背中を擦る手が止まり、膝下に腕がさしこまれました。
「保健室。いくぞ」
頼もしい声のひとはそう言うと、ふわり、と軽々僕を抱き上げます。驚きで目を見張るしかできない僕の後頭部を手でおさえ、僕の額を自身の肩へ引き寄せる。
「身体起こしておいたほうが楽だろ? 首に掴まれ」
やっぱり頼もしい声のひとは、膝下に差し込んが片手だけで僕の身体を支えながら、ひょい、と僕の腕を自分の首に回します。まだ息苦しさが残る僕は、もう限界でいっぱいいっぱいだったんです
誰かに助けてほしくて、さっきから優しくて温かい声に抵抗することなんかできません。耳元で響くようになった声の言う通りに、腕に力をいれ大きな身体にすがりつくようにしがみつきました。
「す、すみま」
「ちがう」
「……っあ」
せめてもやっと声が出そうになったから、いろいろご迷惑をかけた謝罪をしたかったのに。怒った声で遮られ、やっぱり僕はお荷物でみんなを不快にさせてしまうと気付き、ショックで何もいえなくなります。
あんな見るに耐えない姿をしていた僕なんかを躊躇いもなく助けてくれるとっても優しい人にすら、怒られる自分が情けない。惨めで悔しいです。
「あー、悪い。俺がやりたくてやったんだから、お前が謝るのは違うだろ」
バツが悪そうに少し言いよどみながら、また優しい声が耳元に戻ってきます。
「う、……え?」
「『ありがとう』でいいんだよ。お前が病気なのはお前が悪いわけじゃねーんだし、謝んな。一番しんどい思いして、頑張ってるお前が謝るのはおかしい。困ってるやつ助けるなんて当たり前だろ」
なにか自分の中でぐちゃぐちゃにこんがらがったものが穏やかな声にゆっくりとほどけていきます。
自分が病気の発作で助けてもらうのを、いつもみんないやいやしてくれて面倒くさいくらいに思われていると思っていたんです。
でもこのひとは違うって言います。自分がやりたいから、自分のためにやったから、当たり前だ。面倒くさいと思っていない、と。だから、病気をもつ自分を責めるように謝罪をするなってことですよね。優しいです。今まで誰にもそんなふうに優しい言葉をもらったことありません。
しかも、いつもいつも誰かに助けて貰わないと毎日を送れないような僕を、『頑張ってる』と優しくいたわりながら紡がれた言葉。心の奥にしまわなければならない『甘え』をすくい上げられたのは初めてだったんです。誰にも言うことができない辛さを、いたわってくれたさりげない思いやりがとっても胸に響く。
ムキになってこのまま謝り続けるのは違いますよね。誰もが目を背けたくなるくらい痛々しい僕を飾らない善意で助けてくれたこの人が正しいです。
「えと、あの、ありがとうございます」
だからか、するりと自然とその言葉を口にできました。
「ん。よくできました」
ずっと背中を上から下にずっと撫で続けていた大きな手が笑います。そして、大きな手は頭に載るとよしよしと小さい子どもを褒めるように撫でました。その手つきはやっぱり優しくて温かくて。とても気持ちいいです。不思議と撫でられている頭だけでなく、心の奥までぽかぽか温まります。
そうなんですね、『ありがとう』って言えばいいんですね、とすんなり頭に入ってきます。これからはたくさん『ありがとう』って言っていきたいです。教えてくれた目の前の優しいひとに、心からの感謝と知れた喜びが届けばいいなっと思えたんです。
「ありがとうございます」とぽそぽそ呟くと、また頭をゆっくり撫でられます。
「これからそう言っとけ。こっちも気分いいしな」
「は、はい……」
ふっと笑う温かい声。
謝るよりは感謝されたい。当たり前のことだけど、今まで気づけませんでした。痛々しくてお荷物みたいな僕をわざわざ親切に助けてくれた優しいひとに気分良くなってもらいたいです。それに、僕も誰かに親切にしたら、やっぱり謝られるよりも感謝されたいです。こんなあたりまえのことに気づかせてくれたお兄さんはすごいです。みんなから向けられた優しさに、卑屈にならず素直の感謝を伝えていけたら、これからみんなを悲しいお顔にさせなくてすみます。あやすような手に安心したのか、呼吸も落ち着いて、深く長くできるようになります。ぼうっとしていた頭も少しずつモヤが晴れるようにだんだんとはっきりとしてきました。ほとんど視界も元どうりです。
すごいです。このひと背が高いし力持ちさんです。どれくらい歩いたのかわかりませんが、未だに僕を片手で持ち上げています。片手で僕の背中を撫ででいようが、頭を撫でようがまったくぐらつくことなくです。僕の視点は高く、見晴らし良好で、中庭に咲き誇る桜の木がもう本当に目の前です。手を出したら触れちゃいそう。桜の花びらの1枚が、風によって花から離れる瞬間がちょうど見えちゃいました。ひらひら、ふわふわ花びらは飛ばされ、どこかへいってしまいます。春ですねぇ。いやいや、今気にするのはそこじゃないです。
えっと、身体も手も大きいから年上さんでしょうか。従兄の伊織くんに抱っこされたときくらい高いので、そのくらいの高身長さんなんですかね。伊織くんは百八十センチ以上身長があるので、この方もそのくらいですか?
「眠くなったか? 保健室には連れてってやるから寝てもいいけど……」
「……?」
じっと黙って考えていたら、また優しい声が降って来ました。でもその内容が不可思議な内容です。
あれ?僕のこと本当に小さい子どもと思っているんじゃないですか? このお兄さん。自分自身では決して認めたくない事実が僕にのしかかった気がします。そういえば、心当たりしかないです。まず抱っこの仕方が子どもというかむしろ赤ちゃん仕様です。先程のやり取りでのお兄さんの「よくできました」という言動と、褒めるために頭をなでたりした仕草もです。
そして、自分のひ弱な容姿ですよ。低い身長に、やせ細った身体をしています。しかも、四分の一しか海外の血を引いていないのになぜか緑色がかった大きな瞳と髪色は薄くほとんど真っ白です。童顔とこの貧弱な体つきから病院でも女の子かよくて中学生、最悪小学生に間違われてしまうんです。覆りようがない悲しい事実を頭に並べながら、思わず黙り込んでしまいます。
「あー、俺なんか怖くて信用できねーから寝てらんねーか」
僕の沈黙を、拒否をしたいがいいあぐねていると誤解したお兄さんが言います。
その声がさっきまでの頼もしくて温かいお兄さんの声じゃないです。
少し低くて、諦めたような悲しいお声です。
「違いますっ! あの、お兄さんは……」
そんなお声をしてほしくないです。こんなに温かくて優しいお兄さんが『俺なんか』っていうのも聞きたくない。僕が今まで知らなかった『ありがとう』の持つ意味を教えてくれたお兄さんは本当にかっこいいんです。卑屈な考えで、いつも謝ることしかできない僕を変えてくれました。
それに、僕を『頑張ってる』と言い切ったお兄さんは、いつも助けられる側でしかいられない僕の心を軽くしてくれた優しさあふれる人です。
とってもかっこよくて優しいお兄さんに笑ってほしい。その一心でお兄さんの肩から顔を上げます。お兄さんの両肩に手を置いて、しっかり捕まりながら身体を離し、彼のお顔を見ます。急激の動きに驚いたお兄さんは足を止め、僕を抱く太ももを支える腕に力を入れて抱き直しました。出会って初めて捉えたお兄さんの姿に僕も驚く。僕とは正反対の男らしいけど驚くほど整ったお顔でした。長いまつげに囲まれる切れ長の漆黒の瞳は大きく見開かれ、左目下には小さなほくろが縦に2つ並ぶ。
通った鼻筋、少し厚めの唇。どこをとっても『かっこいい』という感想しか浮かばない、気だるげな雰囲気を漂わせるイケメンさんです。
⸺キラキラ風鈴みたいなピアスがきれい。
お兄さんの美貌よりも耳元に揺れる細長いピアスがとてもきれいで目を奪われ、一瞬言おうとした言葉を失います。
「えっと。動けなくて困っていた僕をさっそうと助けてくれてかっこいいですし、僕に『ありがとう』を教えてくれて優しいですっ! あとは風鈴みたいにきらきらしているピアスがキレイっ」
ハッとすぐに我に返り、昂る感情のまま、つっかえながら必死に言葉を紡ぎます。未だに喉からか細い音が漏れ、声がかすれ、途中で咳き込んでしまいました。治まらない咳をお兄さんにかけたらいけないので、咄嗟にお兄さんの肩に顔を埋めて回避です。
「うん。ありがとな。」
すっきりとした穏やかな声。
「風鈴って、お前っ。ふは」
柔らかな笑い声が背中越しに届きます。同時に頭を撫でる大きな手が、ワシワシ少し雑だけれど、その粗雑さがお兄さんが本当に喜んでいるって伝わってきます。僕でもお兄さんを助けることができた達成感で、胸がそわそわしてくすぐったいです。
お兄さんになにかしてあげたいっていう気持ちがまっすぐ届いた。そう思えたとっても嬉しい瞬間です。
初めて誰かになにかしてあげたいと思ったんです。それに誰かに手を差し伸べるのは勇気がいるって初めて知りました。せっかく勇気をだして差し出してもらった優しい気持ちに対し、謝ってしまうなんて、蔑ろにしていましたね。だから僕がすみません、と謝罪を重ねるたびに、気持ちが伝わらない悔しさや悲しさで、悲しいお顔をするのかもしれないです。違う理由もあるかもしれないけれど、優しい気持ちを差し出されたのなら、僕も少しでもお返ししていきたいんです。
この間違いに気づけたのはお兄さんのおかげです。僕にもお兄さんにまだ優しさを返せるでしょうか。こんな心臓に悪いことを『当たり前』と言ってのける、優しくて強いお兄さんに。
お兄さんは数回ワシワシ頭を撫でると、今度は僕の背中を優しくぽんぽん規則的に叩きだします。そして、歩き出します。なんだかさっきよりも歩調がゆっくりで、僕を抱きこむみたいにぎゅうと腕に力を入れるので、さらにお兄さんの身体に密着する体勢になりました。
きっとこれは「寝ていいよ」というお兄さんからの無言のサインでしょうか。ぎゅうと抱っこしたのも、寝ちゃうとお兄さんに掴まっていられないから、落ちちゃわないようにしてくれたのかもです。やっぱりお兄さんは優しいひとです。
ふむ。僕が寝ないとお兄さんを怖がっていると思われてしまうかもしれないので、怖がっていないと証明するためにも寝たほうが良いのではないでしょうか。
優しいお兄さんに抱っこされ、身動きもままならない僕が唯一できる恩返しですよね。僕が寝ることでさらにお兄さんが喜ぶってことなら、絶対に今から寝てみせますよ!正直そんなに意気込まなくても僕はすでにまどろみに沈みそうです。昨晩の発作で睡眠不足もあるのかもしれません。お兄さんが歩くたびに伝わる振動で一定のリズムで身体を揺すり心地よい。発作で苦しかった胸はお兄さんの身体から伝わるぬくもりに包まれ、ぽかぽか温かい。ダメ押しとばかりにあやすように背中を叩かれたら、まぶたが自然に重くなってきます。うっとりしながらぼんやり目を閉じかけた視界に、銀色のピアスが揺蕩うようにゆったり揺れ、きらきら輝く。閉じた視界にはお兄さんからする甘くやわらかな香りがふんわり満ちる。
しばらくして、お兄さんのすべてに導かれ僕はことりと夢の中へ旅立ちました。
「ごほっ、はぁ、……っ」
そう思った瞬間、止めきれない咳を身体は勝手に繰り返しだします。咳を止めようとお腹に力を入れ耐えてみるも、息苦しさで身体はくの字に折れてしまいます。
これではいつもと変わらないです。なるべく誰にも迷惑をかけないように、人気のない場所まで避難してきた意味がありません。
情けないです。せめてもの救いは昨日のように誰かに直接迷惑かけていないこと。
昨晩、高校入学と同時に入寮した2日目の夜。春にしては気温が下がった冷え込みで刺激された喉が重く乾き、一晩中咳が止まりませんでした。それは持病の喘息に近い呼吸器疾患の発作の始まりに似ています。僕はいつものようにベッドへ移動し布団を頭からすっぽりかぶります。出続ける咳を止めるため、薬を吸入し、息苦しさを真っ暗な布団の中でじっと耐えました。体を丸め、口元を両手でしっかりと塞ぎ、咳で苦しんでいる姿を誰にも見せません、と。
入寮初っ端からやらかしてしまった僕は、やっとのことで朝を迎えます。
この寮のお部屋は2人部屋が基本で、特別な事情がある生徒や特待生、留学生だけが1人部屋。つまり、僕は、寝室以外は共用な2人部屋なんです。ちなみに中等部から高校へ持ち上がり組の僕だけれど、学校より病院にいることが多く、クラスメイトでもない同室者の子とは面識はありません。クラスメイトの子でも、僕の少し珍しい名前『綾瀬翠』は知っていても、この配色だけは目立つ顔と一致しているかも怪しいですから。『ゆーれいさん』みたいにいても気にされない、気付かれない存在なのです。
共用のリビングに朝食をとるため起きてきた、長身な同室者の彼になんとか謝罪を口にします。謝った僕に同室者の彼は「気にしないで」と、目の下に隈を作りながら快活な雰囲気の彼には、とてもそぐわないぎこちない笑みを浮かべました。壁1枚隔てたほぼ初対面の同室者の睡眠を著しく妨害してしまった自分のふがいなさに胸が苦しくなってしまいました。何度も謝罪を繰り返す僕に彼は、眉を下げ悲しそうな顔をされます。それから彼は僕へ「大丈夫だから」というとそそくさと朝食も食べずに学校へ行ってしまいました。
それが、今日の朝の出来事です。
いつもいつも発作が起きると僕は、周りの皆を悲しいお顔にしてしまいます。発作を起こすと皆は悲しいお顔をして、どうしたらよいのかわからないと困ってしまうことが多いんです。時には女の子なんて泣きだしてしまったり、小さく悲鳴をあげてふらりと距離をとり、遠巻きに観察されます。喘息のようにヒューヒュー喉を鳴らし、咳き込む僕の姿が怖いのかもです。発作に慣れた僕ですら、吸入機を使い喘鳴が治まり薬の効き目が自覚できるまで、時間がとても長く感じ、……少し怖いんですから。
僕がそんな皆の不安や恐怖を和らげられるようなうまい言葉をかけられないのもあるんでしょうか。
発作で苦しい中、見ただけで悲鳴を上げられてしまうと、勝手に心が竦んでしまいます。一瞬にしてその場を凍りつかせる緊張や、衝撃を受けたように歪む皆さんの表情に、僕がどれだけ痛々しい存在なのか、と勝手に感じてしまうんです。いちいち傷つく自分も情けなくて、嫌で嫌で仕方がなくて、うんざりします。だから、僕は発作中の自分を誰かに見られたくないんです。
まず発作を起こさないようにしたいですが、発作はいつ訪れるのかわからないんです。1時間おきの頻回のときもあれば1週間以上間が空くこともあり、全く予想がつかない。いつ来るかわからない発作に僕も小さいときは怯えていました。今は喉の調子や胸の苦しさで発作の前兆らしき症状を経験則で予想でき、わかるようになりました。ですので、僕も発作がでてくる前に人気のない場所へ逃げ、吸入し落ち着かせていました。なのに、上手く行きません。
それに、胸が苦しくなるほど激しい発作が出てしまえば、絶対に強制的に入院させられてしまいます。高校生になったからには、中等部よりもたくさん学校に通いたかったんです。絵本や小説でみる『普通の学校生活』が送りたいんです。普通にクラスメイトと一緒に授業を受けて、仲良くなりたい。あとは、友達をつくっていろいろお話したり、お昼寝ご飯を一緒に食べたり、遊びに行ったりもしたいです。家族や周りのみんなに悲しいお顔をさせてしまうことしかできない僕のささやかな『わがまま』なんです。そのためにもこれ以上発作をひどくしてはいけないです。
午前中、何度も喉から掠れた音がして嫌な予感がしましたから、昼休みはお昼寝できる場所探しがてら、吸入をしようとしたんです。わざわざ靴まで履いて中庭の奥まで進んだのが、よろしくなかったんでしょうか。
これは、バチがあたったのかもしれないです。
やっぱり僕が『わがまま』を言うと、ろくなことが起きない。いつもそうだったんです。
「きゅ、うにゅ、……っごほ」
出続ける咳に身体は頽れ、地面に膝をついてしまいます。これ以上悪化しては自力で吸入や手助けを呼ぶことなんてできなくなってしまう。今の自分にできることは、吸入をすることです。いつもひとりで耐えてきたんだからできるはず、と自分を奮い立たせます。手探りでブレザーのポケットに今朝入れておいた吸入機を必死にさがしました。冷たくこわばった指先にプラスチックの硬い感触があたり、なんとかぎゅっと手の平で掴んで取り出します。
「……っあ」
ちょうど咳き込んでしまいました。身体が咳で大きく揺さぶられた拍子に、地面にぽとり、と吸入機が落ちる。なぜか吸入機が地面に落ちる瞬間の光景がスローモーションに見えました。
なんで僕はこんな簡単なことさえ、自分の発作を治すために吸入をするだけのこともできないんでしょう。いつも。咳を引きずる呼吸は浅く、乱れ、短い。さらに息苦しさを増し、吸入機が落ちた地面に反射する陽光がチクチク目に刺さってくるようです。酸欠からか、視界が狭まり暗くなってきました。
⸺あぶないかもしれないです
そう思った途端、酸素が回らない頭と身体ごと地面に突っ伏すように倒れ込みます。
でも! ひとりでなんとかしないと……。必死に呼吸をしようとしますが、呼吸ができない苦しさから、頬に涙がぽろぽろ落ちてきます。もう目が暗くて見えなくても、吸入機さえあればなんとかなりますと手を闇雲に伸ばした時。
「は? 女? なあ、お前喘息もちか?」
不機嫌のような気だるげな声が近づき、背中に手を添えて僕を抱きかかえるように抱き起こしました。
身体を起こされ圧迫された胸が楽になると、呼吸が少しだけ長くなっていきました。
「あー、まあコレ持ってんなら確実だろ」と気だるげだけど、なぜか力強い声と手をしたひとは呟きます。
そして、カチリ、と軽い音が続きました。
「ん。息吐けるか? 、ほら吸え」
吸入機を口元に寄せられた気配がします。朦朧とする意識の中で、誘導するよう言われたそのままに、浅いながらも息を吐きます。
タイミング良く目の前に差し出された吸入機を咥え、吸います。薬をなじませるように口を閉じ、再び息を大きく吐きました。小さい頃から何回も繰り返した動作だからか、反射のようにすべていつもどおりにできました。
「吸えたな。あとは、ゆっくり息をしろ。……楽になるから」
薬の味が口にするのがわかり、ほっとしました。この味がすれば苦しいのが軽くなると脳が記憶しているからか、それとも薬がじわじわと効いてきたのか、ぜいぜい鳴る喉の音が落ち着いてきます。
少しだけ、呼吸以外にも気を配る余裕が出てきました。息をするのに合わせ背中を擦る大きな手があります。上下にゆっくりと行ったり来たり。背中から伝わる温もりは、冷たくこわばっていた僕の身体も温めていくようです。
「落ち着いたな?」
温かい声は確認するように聞きます。なんとかこくこくと頷くと、背中を擦る手が止まり、膝下に腕がさしこまれました。
「保健室。いくぞ」
頼もしい声のひとはそう言うと、ふわり、と軽々僕を抱き上げます。驚きで目を見張るしかできない僕の後頭部を手でおさえ、僕の額を自身の肩へ引き寄せる。
「身体起こしておいたほうが楽だろ? 首に掴まれ」
やっぱり頼もしい声のひとは、膝下に差し込んが片手だけで僕の身体を支えながら、ひょい、と僕の腕を自分の首に回します。まだ息苦しさが残る僕は、もう限界でいっぱいいっぱいだったんです
誰かに助けてほしくて、さっきから優しくて温かい声に抵抗することなんかできません。耳元で響くようになった声の言う通りに、腕に力をいれ大きな身体にすがりつくようにしがみつきました。
「す、すみま」
「ちがう」
「……っあ」
せめてもやっと声が出そうになったから、いろいろご迷惑をかけた謝罪をしたかったのに。怒った声で遮られ、やっぱり僕はお荷物でみんなを不快にさせてしまうと気付き、ショックで何もいえなくなります。
あんな見るに耐えない姿をしていた僕なんかを躊躇いもなく助けてくれるとっても優しい人にすら、怒られる自分が情けない。惨めで悔しいです。
「あー、悪い。俺がやりたくてやったんだから、お前が謝るのは違うだろ」
バツが悪そうに少し言いよどみながら、また優しい声が耳元に戻ってきます。
「う、……え?」
「『ありがとう』でいいんだよ。お前が病気なのはお前が悪いわけじゃねーんだし、謝んな。一番しんどい思いして、頑張ってるお前が謝るのはおかしい。困ってるやつ助けるなんて当たり前だろ」
なにか自分の中でぐちゃぐちゃにこんがらがったものが穏やかな声にゆっくりとほどけていきます。
自分が病気の発作で助けてもらうのを、いつもみんないやいやしてくれて面倒くさいくらいに思われていると思っていたんです。
でもこのひとは違うって言います。自分がやりたいから、自分のためにやったから、当たり前だ。面倒くさいと思っていない、と。だから、病気をもつ自分を責めるように謝罪をするなってことですよね。優しいです。今まで誰にもそんなふうに優しい言葉をもらったことありません。
しかも、いつもいつも誰かに助けて貰わないと毎日を送れないような僕を、『頑張ってる』と優しくいたわりながら紡がれた言葉。心の奥にしまわなければならない『甘え』をすくい上げられたのは初めてだったんです。誰にも言うことができない辛さを、いたわってくれたさりげない思いやりがとっても胸に響く。
ムキになってこのまま謝り続けるのは違いますよね。誰もが目を背けたくなるくらい痛々しい僕を飾らない善意で助けてくれたこの人が正しいです。
「えと、あの、ありがとうございます」
だからか、するりと自然とその言葉を口にできました。
「ん。よくできました」
ずっと背中を上から下にずっと撫で続けていた大きな手が笑います。そして、大きな手は頭に載るとよしよしと小さい子どもを褒めるように撫でました。その手つきはやっぱり優しくて温かくて。とても気持ちいいです。不思議と撫でられている頭だけでなく、心の奥までぽかぽか温まります。
そうなんですね、『ありがとう』って言えばいいんですね、とすんなり頭に入ってきます。これからはたくさん『ありがとう』って言っていきたいです。教えてくれた目の前の優しいひとに、心からの感謝と知れた喜びが届けばいいなっと思えたんです。
「ありがとうございます」とぽそぽそ呟くと、また頭をゆっくり撫でられます。
「これからそう言っとけ。こっちも気分いいしな」
「は、はい……」
ふっと笑う温かい声。
謝るよりは感謝されたい。当たり前のことだけど、今まで気づけませんでした。痛々しくてお荷物みたいな僕をわざわざ親切に助けてくれた優しいひとに気分良くなってもらいたいです。それに、僕も誰かに親切にしたら、やっぱり謝られるよりも感謝されたいです。こんなあたりまえのことに気づかせてくれたお兄さんはすごいです。みんなから向けられた優しさに、卑屈にならず素直の感謝を伝えていけたら、これからみんなを悲しいお顔にさせなくてすみます。あやすような手に安心したのか、呼吸も落ち着いて、深く長くできるようになります。ぼうっとしていた頭も少しずつモヤが晴れるようにだんだんとはっきりとしてきました。ほとんど視界も元どうりです。
すごいです。このひと背が高いし力持ちさんです。どれくらい歩いたのかわかりませんが、未だに僕を片手で持ち上げています。片手で僕の背中を撫ででいようが、頭を撫でようがまったくぐらつくことなくです。僕の視点は高く、見晴らし良好で、中庭に咲き誇る桜の木がもう本当に目の前です。手を出したら触れちゃいそう。桜の花びらの1枚が、風によって花から離れる瞬間がちょうど見えちゃいました。ひらひら、ふわふわ花びらは飛ばされ、どこかへいってしまいます。春ですねぇ。いやいや、今気にするのはそこじゃないです。
えっと、身体も手も大きいから年上さんでしょうか。従兄の伊織くんに抱っこされたときくらい高いので、そのくらいの高身長さんなんですかね。伊織くんは百八十センチ以上身長があるので、この方もそのくらいですか?
「眠くなったか? 保健室には連れてってやるから寝てもいいけど……」
「……?」
じっと黙って考えていたら、また優しい声が降って来ました。でもその内容が不可思議な内容です。
あれ?僕のこと本当に小さい子どもと思っているんじゃないですか? このお兄さん。自分自身では決して認めたくない事実が僕にのしかかった気がします。そういえば、心当たりしかないです。まず抱っこの仕方が子どもというかむしろ赤ちゃん仕様です。先程のやり取りでのお兄さんの「よくできました」という言動と、褒めるために頭をなでたりした仕草もです。
そして、自分のひ弱な容姿ですよ。低い身長に、やせ細った身体をしています。しかも、四分の一しか海外の血を引いていないのになぜか緑色がかった大きな瞳と髪色は薄くほとんど真っ白です。童顔とこの貧弱な体つきから病院でも女の子かよくて中学生、最悪小学生に間違われてしまうんです。覆りようがない悲しい事実を頭に並べながら、思わず黙り込んでしまいます。
「あー、俺なんか怖くて信用できねーから寝てらんねーか」
僕の沈黙を、拒否をしたいがいいあぐねていると誤解したお兄さんが言います。
その声がさっきまでの頼もしくて温かいお兄さんの声じゃないです。
少し低くて、諦めたような悲しいお声です。
「違いますっ! あの、お兄さんは……」
そんなお声をしてほしくないです。こんなに温かくて優しいお兄さんが『俺なんか』っていうのも聞きたくない。僕が今まで知らなかった『ありがとう』の持つ意味を教えてくれたお兄さんは本当にかっこいいんです。卑屈な考えで、いつも謝ることしかできない僕を変えてくれました。
それに、僕を『頑張ってる』と言い切ったお兄さんは、いつも助けられる側でしかいられない僕の心を軽くしてくれた優しさあふれる人です。
とってもかっこよくて優しいお兄さんに笑ってほしい。その一心でお兄さんの肩から顔を上げます。お兄さんの両肩に手を置いて、しっかり捕まりながら身体を離し、彼のお顔を見ます。急激の動きに驚いたお兄さんは足を止め、僕を抱く太ももを支える腕に力を入れて抱き直しました。出会って初めて捉えたお兄さんの姿に僕も驚く。僕とは正反対の男らしいけど驚くほど整ったお顔でした。長いまつげに囲まれる切れ長の漆黒の瞳は大きく見開かれ、左目下には小さなほくろが縦に2つ並ぶ。
通った鼻筋、少し厚めの唇。どこをとっても『かっこいい』という感想しか浮かばない、気だるげな雰囲気を漂わせるイケメンさんです。
⸺キラキラ風鈴みたいなピアスがきれい。
お兄さんの美貌よりも耳元に揺れる細長いピアスがとてもきれいで目を奪われ、一瞬言おうとした言葉を失います。
「えっと。動けなくて困っていた僕をさっそうと助けてくれてかっこいいですし、僕に『ありがとう』を教えてくれて優しいですっ! あとは風鈴みたいにきらきらしているピアスがキレイっ」
ハッとすぐに我に返り、昂る感情のまま、つっかえながら必死に言葉を紡ぎます。未だに喉からか細い音が漏れ、声がかすれ、途中で咳き込んでしまいました。治まらない咳をお兄さんにかけたらいけないので、咄嗟にお兄さんの肩に顔を埋めて回避です。
「うん。ありがとな。」
すっきりとした穏やかな声。
「風鈴って、お前っ。ふは」
柔らかな笑い声が背中越しに届きます。同時に頭を撫でる大きな手が、ワシワシ少し雑だけれど、その粗雑さがお兄さんが本当に喜んでいるって伝わってきます。僕でもお兄さんを助けることができた達成感で、胸がそわそわしてくすぐったいです。
お兄さんになにかしてあげたいっていう気持ちがまっすぐ届いた。そう思えたとっても嬉しい瞬間です。
初めて誰かになにかしてあげたいと思ったんです。それに誰かに手を差し伸べるのは勇気がいるって初めて知りました。せっかく勇気をだして差し出してもらった優しい気持ちに対し、謝ってしまうなんて、蔑ろにしていましたね。だから僕がすみません、と謝罪を重ねるたびに、気持ちが伝わらない悔しさや悲しさで、悲しいお顔をするのかもしれないです。違う理由もあるかもしれないけれど、優しい気持ちを差し出されたのなら、僕も少しでもお返ししていきたいんです。
この間違いに気づけたのはお兄さんのおかげです。僕にもお兄さんにまだ優しさを返せるでしょうか。こんな心臓に悪いことを『当たり前』と言ってのける、優しくて強いお兄さんに。
お兄さんは数回ワシワシ頭を撫でると、今度は僕の背中を優しくぽんぽん規則的に叩きだします。そして、歩き出します。なんだかさっきよりも歩調がゆっくりで、僕を抱きこむみたいにぎゅうと腕に力を入れるので、さらにお兄さんの身体に密着する体勢になりました。
きっとこれは「寝ていいよ」というお兄さんからの無言のサインでしょうか。ぎゅうと抱っこしたのも、寝ちゃうとお兄さんに掴まっていられないから、落ちちゃわないようにしてくれたのかもです。やっぱりお兄さんは優しいひとです。
ふむ。僕が寝ないとお兄さんを怖がっていると思われてしまうかもしれないので、怖がっていないと証明するためにも寝たほうが良いのではないでしょうか。
優しいお兄さんに抱っこされ、身動きもままならない僕が唯一できる恩返しですよね。僕が寝ることでさらにお兄さんが喜ぶってことなら、絶対に今から寝てみせますよ!正直そんなに意気込まなくても僕はすでにまどろみに沈みそうです。昨晩の発作で睡眠不足もあるのかもしれません。お兄さんが歩くたびに伝わる振動で一定のリズムで身体を揺すり心地よい。発作で苦しかった胸はお兄さんの身体から伝わるぬくもりに包まれ、ぽかぽか温かい。ダメ押しとばかりにあやすように背中を叩かれたら、まぶたが自然に重くなってきます。うっとりしながらぼんやり目を閉じかけた視界に、銀色のピアスが揺蕩うようにゆったり揺れ、きらきら輝く。閉じた視界にはお兄さんからする甘くやわらかな香りがふんわり満ちる。
しばらくして、お兄さんのすべてに導かれ僕はことりと夢の中へ旅立ちました。