その夜。私は駅の構内にあるケーキ屋に寄って、苺のショートケーキをふたつ買った。美月の分と私の分だ。
 誕生日のことは知らせていないけど、美月なら私のプチバースデー祝いに付き合ってくれるだろう。
 そんなことを考えながら帰宅すると、思いもよらない人がマンションの部屋の前で待っていた。
「おかえり、奈月」
 笑顔で私に手を振ってきたのは、一ヶ月以上も前に別れた元カレ。健一だ。
「ここで何してるの?」
「ちょっと用事があって大阪来たから、寄ってみた。元気かなーって」
 警戒して固まる私のほうに、健一が歩み寄ってくる。大阪に来たのは仕事だろうか。健一はスーツ姿で、仕事用のカバンを持っていた。
 だがそれにしても、別れて一ヶ月以上も経つ元カノのところに平然とやってくる彼の神経が理解できない。しかも、彼は他の女と結婚するために私を捨てた男だ。
「寄ってみた、って……。勝手に来られても困るんですけど……」
「いちおう、連絡は入れたよ。だけど、メッセージ送っても既読になんないから」
 自分に非はないとでも言いたげな彼の反応に、少しイラつく。送ったメッセージが既読にならないのは、別れた翌日に健一に関する連絡先をすべてブロックして削除をしているからだ。
 私はため息を吐くと、健一を交わしてドアの前に立つ。
「仮に連絡をくれていたとしても、私が許可してもいないのに勝手に来るのは困ります。中条さん、最近体調があまりよくなくてお休みしてるんでしょう。早く帰ってあげたほうがいいんじゃないの」
 健一が結婚した中条さんは、部署は違うが同じ会社の同僚だ。社内のウワサで、彼女が最近休みがちだと聞いている。体調がすぐれず、産休を早めにとるかもしれないという話だった。
 すでに子育て経験のある同僚は「悪阻がひどいのかもね」なんて心配していた。
 奥さんがそういう状況なら、なるべくそばにいてあげるべきなんじゃないか。そもそも、健一が自分以外に私や美月と付き合っていたことを中条さんは知っているんだろうか。もしも何も知らないのなら、気の毒すぎる。
 冷たいまなざしを向けると、健一が「ああ」と少し面倒くさそうに前髪をかきあげた。
「体調よくないって言っても、たいしたことじゃないよ。初期のつわり? 症状的にはそこまで重くないらしいんだけど、いろいろと思い通りにいかないことが増えて、毎日ピリピリしてんだよ。仕事休んでる日は一日中ごろごろしてるから、俺が帰ったら家ん中、ぐちゃぐちゃだしさあ。夕飯も、ここ最近は買って帰るか外で食って帰るかっていう状況が続いてて、家に帰っても落ち着けないんだよな」
「だったら、健一が掃除してあげたり、少し早く帰ってごはん作ってあげたりすればいいんじゃないの?」
「でも、俺、料理は苦手なんだよな。奈月も知ってるだろ。温めて皿に出すくらいならできるけど、一から作るのはムリだって。それに、最近はあれが食べたい、これは食べたくないって注文も多いしさあ」
 不満そうに愚痴をこぼす健一に、私は少し引いてしまった。
 私は妊娠した経験がないからよくわからないけど、友人の話だと、つわりの時期はにおいにとても敏感になっていて、ごはんを作るのも、スーパーに買い物に行くのもつらいらしい。通常時よりも体が疲れやすくて、寝転んでいることが多かったと言っていた友人もいた。
 体調が悪いときにどれくらいつらいと感じるかは人によっても違うから、中条さんの状況を健一が「たいしたことじゃない」とか「そこまで重くない」とか勝手な判断をくだすのは違うと思う。
「だったら、なおのこと早く帰ってあげなよ。今だって、家でひとりで不安に思ってるんじゃない?」
「どうかな。ひとりのほうが気楽でいいって思ってんじゃない? それより、俺、腹減っててさ。今から一緒に何か食いに行かない?」
「は?」
「帰ってもどうせ食うもんないしさ。せっかくこっちにでてきたから、奈月とよく行ってた店に行きたいなあと思って会いに来た。まあ、ほんとうは、奈月が作ってくれた料理が一番食べたいんだけどな。奈月、料理うまかったし」
 にこにこしながらそんな発言をする健一の気が知れない。
 突然現れたかと思えば、何を考えているんだろう。私のことをさそって、中条さんに知られたらどうするつもりなんだろう。
 健一はなにもわかっていないし、ひさしぶりに会ってもなにも変わっていない。彼は、自分の居心地さえよければそれでいいのだ。
「バカなこと言わないでよ。行くわけないでしょ。早く帰って」
 追い払おうと健一を睨むと、ふと私の手元に視線を落とした彼がケーキの箱に気付く。
「あれ、ケーキ買ってんだ。今日ってなんかあったっけ? それとも、たまの贅沢デイ?」
 健一が、不思議そうに首を傾げながら聞いてくる。
 その瞬間、ふっと鼻で笑ってしまった。
 十年近く付き合っていたのに、健一は今日が私の誕生日だということも忘れている。べつに覚えていてほしかったわけでもないけれど、私に興味もないくせに、今さら平然と目の前に現れた彼に腹が立つ。
 今も昔も、私は健一にとって、居心地の悪さや暇つぶしを埋めるための都合の良い道具でしかない。
 無表情になる私を、健一がきょとんと見つめてくる。なんと言って追い返そうかと冷静に思考を巡らせていたそのとき。