真夜中の五分前。
「あんた、誰?」
突然鳴ったインターホンに玄関のドアを開けると、若い女が私を睨んでそう言った。
明るい茶髪に、グレー系のカラコンを入れた大きな目、黒のアイラインと睫毛で盛られたアイメイク。デコルテのざっくり開いたトップスを着て、小さなピンクのスーツケースを持った彼女は、推定年齢二十四歳。圧倒的目力でガンを飛ばしてくる彼女をひとことで表すならば——。
ギャルだ……!
もちろん、私の知り合いではない。
そのギャルが、大きな瞳で私を睨みながらもう一度言った。
「あんた、誰?」
夜中にいきなり訪ねてきて、不躾な女だ。酔っぱらって帰る部屋を間違えたのかもしれないが、それにしても初対面の相手への態度が失礼すぎる。
もちろん、きちんと相手を確認せずにドアを開けてしまった私も悪い。真夜中のインターホンに、「もしかしたら」と淡い期待を抱いてしまった。もうとっくに吹っ切っているつもりだったのに、まだ私はあの男に少しの未練があったのか。そんな自分が嫌になる。
「たぶん、間違えてますよ」
唇に微苦笑をのせつつドアを閉じようとすると、ギャルが外側からぐっとドアノブを引っぱってくる。
は? なに?
わすかに頬をひきつらせる私を、ギャルがカラコン入りの大きな目で品定めるようにジロリと見てきた。
「あんた、ケンちゃんの新しい女? あんたみたいなおばさん、あたしは絶対認めんけえ。いるんじゃろ。ケンちゃん、出して」
方言の混ざった、ケンカ腰の話し方。ギャルの言葉にはいろいろと引っかかるところがあるが、彼女の言う「ケンちゃん」は、私の元恋人の健一。そういう認識で、おおむね間違いないだろう。
まさか会社の後輩だけでなく、こんな素性のしれないギャルにまで手を出していたなんて。ほんとうに頭が痛い。
元彼の健一は金融機関で働く私の同期だ。頭が良くて仕事の飲み込みが早く、社交的。ついでに顔の良かった彼は、新人の頃から先輩や上司からの評価が高かった。
入社してすぐに健一と同じ部署に配属された私は、第一印象で彼のことが少し苦手だと感じた。健一はあきらかに陽キャだったし、真面目な私とは絶対に気が合わない。そう思っていたのに、健一は社内でいつもフレンドリーに私に話しかけてきた。
入社して半年が経った頃、成り行きで仕事後にふたりで飲んで帰ることになり、それをきっかけに健一によく食事に誘われるようになって、彼から告白されて付き合った。意外なことに、同じ部署に配属されたときから、彼は私のことが気になっていたらしい。
第一印象は苦手なタイプだと思ったが、健一とは意外に話が合った。フットワークが軽くて、週末は私の趣味の寺社巡りに一緒についてきてくれたし、出かけた先での美味しいものをいつもリサーチしてくれた。
ちょっと適当で無神経なところがあるけれど、見た目はかっこいいほうの部類に入るし服装がオシャレ。話がうまいから、一緒にいて飽きることがない。健一に対する私の「苦手」が「好意」に変化するまであまり時間はかからなかった。
だけど、彼には大きな欠点もあった。それは、女癖が悪いところ。
付き合う前は私に一途に見えていたのに、付き合ってからは私に内緒で合コンに参加していたり、そこで知り合った女の子とメッセージのやりとりをしてふたりで食事に行ったり、そういう小さな浮気を平気な顔で頻繁にしていた。
その度にケンカになったけれど、口の上手い健一に情で訴えられて、最後は私が言いくるめられる。そういうことを繰り返しながら、私と健一はなかなか離れられずにずるずると付き合ってきた。
全国転勤があるうちの会社で、健一が広島に行くことになったのは二十八歳のとき。
「二年でまた大阪に戻って来れる予定だから、戻って来たらそのときに結婚も考えよう」
健一からそんなふうに言われて、嬉しいけれど少し不安な気持ちで始まった遠距離恋愛。約束どおりに二年で戻ってきた健一と大阪市内にマンションを借りて同棲を始めて一年半。そろそろ本気で結婚の話も考えなければなと思っていたその矢先、健一が私に告げた。
「奈月。俺、京都支店に移動決まった」
「ふーん、いつから?」
そう訊ねながら、頭の中でいろいろ思考を巡らせた。
京都なら今の家からなんとか通えなくもないけど、健一は朝が弱いからなるべく職場に近いところに住みたいかな。
でも、私も職場が遠くなるのはいやだから、もう少し京都よりの大阪に引っ越すことになるかな。そのタイミングで結婚——、とか。
だけど、健一から返ってきたのは予想外の答えだった。
「正式な異動は二ヶ月後。だけど、この家は早めに出て行くわ」
そう言われて、「え?」と思考が停止する。
「ちょっと待って。そんなことひとりで勝手に決めないでよ。私だって仕事があるのに、急に引っ越しなんて困る」
「だよな。だから、奈月はこのままここに住めばいいよ」
「え、でも……」
どうせすぐに一緒に暮らすことになるのに、健一の新居と今の部屋で二重に家賃を払うのはもったいない。少し大変かもしれないけど、いい引っ越し先が決まるまでは健一が今の家から頑張って通えばいいのに。
わずかに眉をしかめた私に、健一がへらりと笑いかけてくる。それから、さらに予想外のことを言ってきた。
「悪い、奈月。俺、総務の中条さんと結婚することになった。実は彼女に子どもできちゃってさ」
「ごめん」と両手を合わせて悪びれなく笑う健一に呆れて、怒るのも忘れた。戻ってきたら結婚を考えようと約束していた男は、同じ会社の総務の後輩と二股をかけていたのだ。
そんな経緯で三十二歳になるまで十年近くずるずると付き合ってきたクソ男と別れたのが、ちょうど一ヶ月前。もう関わることはないと思っていたのに、まさかこんなカタチであいつと関わることになるなんて。しかも、二股じゃなくて三股だったとは……!
「ねえ、ケンちゃんは?」
顔を引きつらせる私に、ギャルが不満顔で訊ねてくる。
「そんな男はいません。ここは私の家なので」
実際に、今はもうこの部屋の契約者名義は私だ。
「ウソじゃあ。だって半年前遊びにきたとき、ここに連れてきてもらったのに」
淡々と話す私に、ギャルが疑いの目を向けてくる。そんな彼女の言葉に、頬がヒクリと痙攣した。
半年前ということは、ちょうど私が出張に行っていた頃だ。あのクソ男、私がいないときに勝手にこの子を部屋に入れたのか……!
ふたりで暮らしていた部屋に、無断で知らない女を入れていたことが許せない。もちろん、悪いのは健一のほう。だけど、責めるべきクソ男が不在な今、私の怒りの矛先は、何も知らずにやってきたギャルへと向けられた。
「たしかに、健一はここに住んでましたよ。彼女の私と。だけど、一ヶ月前に出て行きました。あいつには、私とあなた以外にも女がいたんです。その女に子どもができたから結婚するって。そう言ってたけど、聞いてない?」
意地悪く訊ねると、「え?」とつぶやいて、ギャルが口をハクハクと動かした。少しずつ顔色を失っていく彼女を見れば、何も聞かされていなかったのだということはすぐにわかる。
「聞いてない。子どもって……、結婚するって何? ケンちゃん、あたしと結婚したいって言ってくれてたのに……」
「ふーん。それ、私にも言ってたよ。日本は一夫一妻制だっていうのに、なに考えてんだろうね」
ふっと鼻で笑うと、ギャルが脱力するようにスーツケースの横にしゃがみ込んだ。
「そっか。それで最近、ケンちゃん音信不通だったんだ……」
ギャルが、ため息を吐いて両手で顔を覆う。ずずっと鼻を鳴らして泣いている彼女の長い爪には、ラメやストーンをのせたブルー系のネイル。その色が綺麗で、なんとなくそこに目がいってしまう。大きめのパールがついた右手の中指のオープンリングも、彼女の細い指に似合っていて可愛かった。
爪には割れないように保護するためにベースしか塗らず、メイクも最低限のことしかしない私と違って、足元にしゃがむギャルは髪の毛からもメイクからも爪の先からも彼女らしさがあふれ出ている。健一と付き合っていたという彼女は、私とは完全に違うタイプだ。
子どもができて健一と結婚することになった会社の後輩の中条さんも、私とは全然違うタイプ。彼女は清楚系のお嬢様という雰囲気で、実際に実家が太いらしい。中条さんは、目の前のギャルともまた全然タイプが違う。
三股かけていろんなタイプをちょっとずつ味見して、最終的に健一は守ってあげたい雰囲気のお嬢様タイプの女を結婚相手に選んだ。考えれば考えるほど、最低だ。
「バカじゃねえ、あたし。音信不通になった時点で、ケンちゃんに捨てられたんかもしれんって予想はついてたのに。ひとりでこんなとこまで来て、なんしょーるんじゃろ」
健一のことを思い出して顔を引きつらせる私の足元で、ギャルがずびびーっと、いっそう激しく鼻を啜る。
いや、こんなところで泣かれてもな。夜中に近所迷惑。苦情がきたらどうしよう……。
すすり泣く彼女を冷めた目で見つめる。しばらくそうしてから、私は「はあーっ」と深いため息をついた。
「とりあえず、中入る?」
ギャルの明るい頭髪を見下ろして声をかけると、彼女がゆっくりと顔をあげる。驚いたように見上げてくる彼女からは、最初の毒気が抜けていた。
「……いいんですか?」
初対面で人のことを「おばさん」呼ばわりしてきたギャルが、しおらしく訊ねてくる。
「いいも悪いも……。夜中に家の前で泣かれるのも迷惑だし。それに、こんな遅い時間に、どこか行くあてあるの?」
呆れ顔で訊ねると、彼女が無言でうつむいた。
彼女のことはよく知らないけど、きっと後先考えずにスーツケースひとつで家から飛び出してきたんだろう。なんとなく、そんな気がする。
突然連絡がとれなくなった健一のことが気になって、不安で、ここまでやってきたのだとしたらかなり不憫だ。
夜中に押しかけてきて非常識極まりないけど、この子も私と同じ、健一の被害者。裏切られたことがわかった彼女をこのまま夜中の街にほったらかしにして、万が一にも何かあったら後味が悪い。
「どうぞ、入って」
あーあ、なんてお人好しなんだろう。心の中で自嘲しながら、私は元カレの彼女を部屋の中に招きいれた。
ギャル——、もとい健一の浮気相手の名前は、杉浦美月というらしい。
広島に住む二十五歳。専門学校を出て飲食系の仕事についたが、体調を崩して退職。そこからはずっと実家暮らしで、派遣のバイトをつなぎながら生活していた。
健一と知り合ったのは一年くらい前のこと。そこから、健一が転勤で大阪に戻ってくるまでずっと付き合っていた。というより、美月的には健一が大阪に帰ったあとも遠距離で付き合っているつもりだったらしい。
私が住んでいるこの部屋にも、半年前に健一に連れられてきた。そのときに、洗面所に女性用の化粧水が置かれているのを見て健一の浮気を疑ったとか。
「ケンちゃんと付き合ってて、正直、ちぃーとおかしいなって思うこともなくはなかったんよ。この人、あたし以外にも女いるんかもしれんって。それでもふたりで会ってるときは優しいけえ、おかしなことには気付かんフリしてた。だけどあたしは、初めからケンちゃんの浮気相手でしかなかったんよね」
私が健一との今までの関係やこの家を出て行った経緯を話すと、美月がへへっと泣き笑いする。悲しそうにそう語った彼女は、たぶん本当に健一のことが好きだったのだと思う。
清楚系の中条さんとはタイプが違うけど、美月だってわりと整った顔立ちをしている。わざわざ遠くから追いかけてきてくれるような子をだまして泣かせるなんて、健一はひどい男だ。
下を向いて目元を拭う美月に同情していると、彼女が突然、ぐぅーっとお腹を鳴らした。
「あ、ご、ごめんなさい……」
シリアスな空気の中で響いた間抜けな音に、美月が顔を真っ赤にしてさらにうつむく。
「私が作った夜ごはんの残りで良ければ食べる? オムライスとポテサラなんだけど」
ポテサラは明日の朝ごはんにも回せるように。チキンライスは冷凍しておいてまた使おうと思って多めに作ってある。
同情ついでにそう言うと、美月が遠慮がちに視線をあげた。
「いいんですか?」
「いいよ。もうなんでも。もう、ついでに泊まっていったら?」
半分ヤケクソ、半分同情でそう言うと、膝に手をついて前のめりになった美月が、私を見あげて目を輝かせた。
「うわ、ありがとう! 奈月さん、めっちゃいい人!」
いい人……、か。私は別に、そんなにいい人じゃない。どちらかというと、ひとの良い人。
最初は敬語混じりで話していた彼女の言葉遣いは、今はもう完全に崩れている。人懐っこい性格なのか、厚かましいのか。たぶん、その両方だ。
「準備するから待ってて」
ふっと苦笑いして、私は席をたった。
小分けにして冷凍庫に入れたチキンライスを温めると、卵を焼いて包む。大きめの丸皿にオムライスを載せ、ポテトサラダを添えて出すと、美月がなんとも言えない表情になった。
もしかして、思っていたオムライスとイメージが違ったかな。
チキンライスを薄焼き卵で包み込むタイプのものを出してたが、美月はカフェで出てくるようなふわふわオムライスを期待していたのかもしれない。
想像と違って微妙な気持ちになることってあるよね。
作り直そうかな……。
無言でお皿を引こうとすると、
「このポテサラ作ったの、奈月さん?」
美月が私に訊いてきた。
「うん、残り物でごめんね」
申し訳ない気持ちでそう言うと、美月が慌てて首を横に振る。
「いや、そういうつもりで聞いたんじゃなくて……。なんていうか、その……このポテサラ、そっくりなんよ」
「……そっくりって?」
「あたしが前にここに来たとき、ケンちゃんが作ったって言って出してくれたのとそっくり。ポテサラってジャガイモ潰してあるものが多いけえ、潰さないポテサラってめずらしくない? これ、奈月さんがケンちゃんに作り方教えたん?」
美月がちょっと悲しそうに訊いてきた。
美月の言うとおり、私が作るポテトサラダはジャガイモをマッシュ状にはせずに、カットして茹でて、形を残したままにする。少し面倒くさがりな実家の母がポテトサラダのジャガイモをいつも潰さずに作っていたのもあって、私にはこっちのほうが馴染み深い。
付き合い始めてすぐの頃に健一に出したら気に入ってくれて、それ以来、ときどき作っていた。
「レシピを直接教えたことはないよ。健一、あんまり料理作ることに興味なかったから。でも、あなたには作ってたんだ?」
意外な一面もあったんだな。そう思っていたら、美月の表情が曇る。
「作ってたっていうか……、作ってるところを直接見たことはないんよ。広島におるとき、ケンちゃん家に行ったらたまに『ごはん食べてく?』って冷蔵庫から作り置きのおかずを出してくれることがあって。それをあたしはケンちゃんの手作りと勝手に思いよったんじゃけど……」
美月が上目遣いに私をじっと見てくる。それで、口を閉ざした彼女が何を言いたいのか察してしまった。
「たぶんそれ、私が作っておいといたやつ。健一、ほっといたら家の中ぐちゃぐちゃだから。広島で働いてるときも月一で部屋掃除しに行ってたよ、私。このポテサラは、健一が好きでよく作ってたメニュー。半年前にあなたが来たとき、私は出張だったから、カレーと一緒に作り置きして出かけたと思う」
「うわー、やっぱり」
私の話に、美月がガックリと肩を落とす。落ち込む彼女を見て、せっかくの健一との綺麗な思い出を壊して悪かったかなと思う。
「ごめん、私余計なこと言ったね」
「いや、なんか、現実知って目え覚めた」
「健一のことはもういいの?」
「いいっていうか……。もうどうもならんじゃろ」
美月がそう言って、諦めたように笑う。それから、「これじゃあ、ほんまに帰られんわ」と額を押さえてつぶやいた。
「え、帰るところないの?」
微妙な顔で訊ねた私に美月が「ちがう、ちがう」と苦笑いで首を振る。
「帰られんのは、気まずくてってこと。実はあたし、親とケンカして出てきたんよ。あたしもあたしなりに将来とかいろいろ考えよるのに、お父さんてば『家の手伝いもせんと、いつまでフラフラしとんのじゃ』て人の話も聞かんと怒るからさ。こっちも頭に来て、今付き合うとる人と駆け落ちするけえって家飛び出したん。そしたら、このザマ」
ははっと笑って、美月が長い横髪を耳にかける。彼女の左耳で、指輪とお揃いのデザインのピアスがキラリと揺れた。
「それで、明日からはどうすんの?」
美月の耳に光るピアスを視界の端でとらえながら訊ねると、彼女が「うーん」としばらく頭を悩ませた。
「学生のときの友達に大阪出てきてる子がおるけえ、とりあえずしばらく泊めてもらえんか聞いてみるよ」
「家には帰らないの?」
「駆け落ちする言うて出てきたんよ? さすがに一日じゃ帰れんじゃろ」
「そうかな。帰ったらいいじゃない」
「ムリよ。あたし、そんな神経図太くないけん」
そうかな。夜中に押しかけてきて、彼氏の浮気相手かもしれない女に啖呵切れるくらいには図太いと思うけど。
顔の前で手を振る美月に微苦笑する。
「もしよかったら、私から親御さんに電話してあげようか?」
保護者的な気持ちで提案したら、美月が「ええーっ」と顔をしかめた。
「そんなん、していらんよ。奈月さんが怒られるわ。うちのお父さん、怒るとめっちゃ怖いんよ。あたしが家出るときも、『二度と戻って来んでええけえの!』って、ものすごかったんじゃけえ」
「愛情と心配の裏返しなんじゃないの?」
「どうじゃろ。あたしは兄妹の中でも一番出来が悪いけえ、家におっても怒鳴られてばっかりよ。じゃけえ、今やってる仕事を早く軌道にのせて独立したいんよね」
「仕事って、派遣の?」
「違う違う、それは副業のほう。あたしの本職はこれ」
にこっと笑って、美月が自分のピアスに触れる。意味がわからず、「……?」な表情を浮かべると、美月が耳元で揺れるピアスを指差した。
「これ、どう思う?」
白いパールや青系ののストーンがじゃらじゃらっとぶら下がっているピアス。美月がはめている指輪と同じデザインで、彼女によく似合っている。
「うん、かわいい」
「ほうじゃろ」
私の褒め言葉に、美月が嬉しそうに口角を引き上げた。
「これ、あたしが作ったピアス。こういうハンドメイドのアクセサリーをSNSにアップして販売しとるんよ」
スマホを取り出した美月が、SNSを開いて私に見せてくる。
「売ってるのは、今つけてるみたいなピアスとかリングとか。あと子どもにも使ってもらえるようなレジンで作ったヘアゴムとか。最近は固定のお客さんも増えてきて、希望のイメージを聞いてオーダーメイドのアクセサリーを作ったりもしとるんよ」
スマホの画面をスクロールしながら話す美月は、目を輝かせていて楽しそうだ。
「へえー、かわいい」
「ありがとう! そういえば、ケンちゃんと知り合ったきっかけもアクセサリーなんよね。あたし、たまに地元のショッピングモールとかで期間限定のブース出しとるんやけど、そこにケンちゃんが立ち寄ってくれたんよ。妹の誕生日にプレゼントするピアスがほしいとかで、オーダーメイドの注文受けて、そこから連絡取り合うようになったんじゃけど……」
そこまでまでペラペラとしゃべって、美月がハッとしたようにトーンダウンした。
「へえ……」とつぶやいた私のテンションが低かったからだと思う。
「ごめんなさい。もうどうもならんて言うたのに、こんなん未練あるみたいじゃね」
「健一のこと、本気で忘れたいって思う?」
複雑そうな美月の表情をしばらく見つめてから、私は意地悪覚悟で聞いた。
「思うよ」
「ほんとにほんと?」
「奈月さん、なんでそんなしつこく聞くん?」
「本気で忘れるつもりなら、あいつのクズ情報ひとつ教えてあげようと思ったから」
「……なに?」
一拍おいてから、美月が覚悟を決めた目をする。
「健一、妹はいないよ。あいつにいるのは、弟だけ」
静かな声で事実を伝えると、美月の顔がひきつった。
「ガチ?」
「ガチ」
「ええー。じゃあ、あたしが作ったオーダーメイドのピアスはどうなったん。奈月さんへのプレゼント?」
「私はもらってないよ。だから、健一と結婚するあの子がもらったのかもね」
美月に苦笑いを返すと、彼女が眦をつりあげた。
「奈月さん、なんでそんな冷めた顔でそんなこと言うん? ケンちゃんと先に同棲しとったんは奈月さんじゃろ。それを横取りされたのに、ムカつかんの?」
「ムカつくよ。私の十年返せって思う。でも、子どもできたって言われたらどうしようもないし」
悔しくても悲しくても、私が身を引くしかなかった。
「そうかもしれんけど……。奈月さんは、もっと怒っていいじゃろ。ていうか、もっと怒りんさい! あたしは今の話聞いて、めっちゃ腹たったわ」
荒ぶった声で美月に言われて、ハッとした。
そうか。私、もっと怒ってもよかったのか。でも、やっぱりもう今さらだ。
「あー、腹立てたら喉乾いた。奈月さん、ビールないん?」
「冷蔵庫に二、三本あるけど……」
「一本ちょうだいよ。奈月さんも、飲も!」
勢いよく立ち上がった美月が、冷蔵庫からビールを二缶とってくる。
いいとは言ってないけどな……。
キッチンに向かう美月の背中を苦笑いで見送る。
随分とあけすけな性格だけど、たぶん美月は悪い子ではない。
無遠慮な美月の行動に呆れつつも、彼女のおかげで健一へのわずかな未練が吹き飛んだような気がした。
翌朝、私は美月を置いて家を出た。
「玄関に鍵置いとくから、下のポストに入れて出てね」
「……はーい」
ソファーに寝転んだまま手をあげる美月は、まだ眠そうだ。昨夜は午前三時頃まで飲んで、美月の話を聞かされた。そのうちの半分くらいは、健一への愚痴だった。
美月は私に散々愚痴を吐いて、かなりすっきりしたらしい。
私も美月ほどではないけれど、健一に対してモヤモヤしていた気持ちを吐き出せた。健一が同じ会社の中条さんと結婚を決めた手前、会社の同僚や共通の知り合いには話し辛かったことも、知り合ったばかりの美月だから話せた。
おかげで私も眠いけど、仕事を休むわけにはいかない。
施錠は美月にまかせて、仕事に出かける。
「いってきます」
「……いってらっしゃーい」
寝ぼけてふにゃふにゃの美月の声を聞きながら、このまま彼女とはお別れかと思うと少し淋しいような気もする。
美月は私が仕事に行っている間に、しばらく泊めてもらえそうな友人に会いに行くそうだ。
家を出て駅に向かって歩きながら、連絡先だけでも交換しておけばよかったかな、と。ふとそんな考えが頭をよぎる。
七つ年下で、私とはまったく性格の違う美月。彼女のような子と知り合うことは、あとにも先にもないだろう。
だが、会社について業務を始めると、美月とのことは一瞬にして忙殺された。
いつもどおりに仕事をこなして、帰宅したのは19時過ぎ。
夜ごはん、何食べよう。作り置きのおかずは何があったかな。
疲れた頭でぼんやり考えながら玄関のドアを開けると、甘辛いすき焼きのような匂いがふわっと漂ってきた。
一瞬、家を間違えたかと思ったけれど、玄関周りの風景はうちで間違いない。足元に視線を落とすと、自分の靴に混ざって、一足見慣れない靴がある。昨日招き入れた美月のものだ。
「え、まさか……」
バタバタと廊下を歩いてリビングに向かうと、キッチンに立っていた美月が顔をあげる。
「あ、奈月さん、おかえり〜」
まるでそこにいるのがあたりまえかのような笑顔をみせる美月に、私は言葉を失った。
なんでまだいるの……?
無言で立ちつくす私を見て、美月が気まずそうに眉を下げる。
「ごめんなさい。なんでまだおるんかって感じよね。実は、今日会う予定だった友達には泊めるのはムリって断られてしまって。じゃけえ、他をあたりよるんやけど……」
「まだ泊めてもらうアテが見つからない?」
私の問いかけに、美月がバツの悪そうな顔で頷く。
「気付いたら夕方になってしもうたけえ、昨日のお礼も兼ねて奈月さんにごはん作ろうと思って……、勝手にキッチン借りました。食材は近くのスーパー行って買ってきたよ。ごめんなさい。勝手なことばっかするけえ、怒っとる……?」
美月が私の顔色を窺うように見てくる。
勝手なことばっかりしてるって自覚はあるのか。
はあーっとため息をつくと、私はキッチンに近付いた。
「で? 何作ってくれたの?」
カウンター越しに手元を覗くと、私に許されたと思ったのか、美月がパァーッと目を輝かせる。
「えっとねえ、肉豆腐」
玄関を入ったときのすき焼きのような匂いは、これだったらしい。ガスコンロの上で、肉と豆腐と野菜を煮込んだ鍋が湯気を立てながらグツグツ鳴っていた。
いいにおい。美味しそう……。
「料理できるんだ?」
綺麗なネイルをした美月の手が料理をするところをあまり想像できない。私のつぶやきを聞くと、美月が誇らしげに胸を張った。
「うちの実家、和定食の店やってんの。店は兄夫婦がつぐんじゃけど、あたしもたまーに注文取ったり配膳手伝いよんよ。じゃけえ、簡単な和食なら作れるよ」
「そうなんだ」
「奈月さん、よかったら食べてくれる?」
美月がそう言って、かわいく首を横に傾ける。
「もちろん。私、お腹ぺこぺこ」
「よかったあ」
ほっとしたように笑う美月は、ちょっと可愛い。
私は荷物を置いて部屋着に着替えると、美月と一緒に食事の準備をした。
美月は肉豆腐のほかに、冷蔵庫に残していたじゃがいもと玉ねぎでお味噌汁も作ってくれていた。
健一と暮らしていたときに使っていたペアの食器が、ひさしぶりに揃って食卓に並べられる。最近は誰かと一緒に家で食事をすることはなかったけど、二人分の食事がのったテーブルは賑やかだ。
「いただきまーす!」
手を合わせて元気に言う美月の声も賑やか。
「いただきます」
私も静かに手を合わせて、食事をいただく。
美月の作ってくれたごはんは、ちょっぴり味が濃い目。だけどとてもおいしかった。
外食以外で、誰かに作ってもらった料理を食べるのもひさしぶりだったから、美月の料理がなおさら温かくおいしく感じる。
「美月ちゃんの料理、すごくおいしい。こんなおいしいごはん、ひさしぶりに食べたかも」
じわっと胸が熱くなるのを感じながらそう言うと、美月がケラケラッと笑った。
「もう、奈月さんてば大げさじゃねえ。あたしの作るもんなんて、ふつうよ。うちのお父さんの店で出してる料理とは比べものにならんけえ」
「美月ちゃん、お父さんの料理好きなんだね」
私がそう言うと、美月がしまったというように手のひらで口を塞いだ。
「いや、べつに。そういう意味で言ったんじゃないんよ。いちおう、身内の店じゃけ、営業……、的な?」
あわてて誤魔化す美月に、私はちょっと笑ってしまう。
ケンカして家を出てきたと言っていたけど、美月はきっとお父さんや家族に愛情をたくさんもらって育ってきた子で。ほんとうは、お父さんのこともお父さんの料理も大好きなのだろう。
「ほら、奈月さん。冷めるけえ、早く食べんさい」
ついにっこりしてしまう私を、美月が急かす。
美月がたくさん作ってくれた料理を、私はおかわりもして食べた。食べ終えたあとは、美月とふたりで食器を下げて協力して洗い物をする。
そうしながら、美月の話を聞いた。
私が仕事に出かけているあいだ会う予定だった友達は、美月を泊められない事情があるらしい。
「なんか聞いたら、結婚が決まって彼氏と同棲しよるんじゃと。羨ましいわ」
泡立てたスポンジをぎゅーぎゅー握りながら、美月が悔しげに言う。
「もうひとりの友達も連絡ないけえ、泊めてもらうのは厳しいんかも。奈月さん、厚かましいお願いってわかってるけど迷惑ついでに今日の夜まで泊めてくれん? 明日はビジネスホテルかマン喫探して泊まるけえ」
泡のついた両手を合わせてお願いされて、私は小さく苦笑いした。
そんなことだろうとは思ったけれど、二日目に突入して
美月との付き合いに慣れたのか、お腹が満たされて心に余裕があるからか、彼女のお願いを不快には思わない。
「いいよ。明日でも明後日まででも、とりあえずしばらくは泊めてあげる」
「え? ほんまに?」
「うん、ほんまに」
「うわー、ありがとう! 奈月さん、めっちゃいい人! あたし、奈月さんに出会えてほんまによかったわ」
にこにこしながらそう言うと、美月が張り切って食器を洗っていく。単純で、裏表がなくて。美月の性格は子どもみたいだ。
食器を洗い終わったあと、食後にコーヒーを淹れていると、美月のスマホが鳴り出した。
「もしかして、昼間連絡してた友達かな」
その言葉に、私はなぜか少しドキッとしてしまった。
友達と連絡がつけば、美月はきっとうちを出て友達のところに行くだろう。そのことを心のどこかで寂しいと思ってしまったのだ。
美月はまだ、出会って二日のほとんど他人なのに。
コーヒーを淹れながら美月を眺めていると、スマホを手に取った彼女が微妙そうに顔をしかめる。
「うわ、違う。お兄ちゃんじゃ……」
低い声でつぶやくと、美月がスマホをテーブルに置く。着信は鳴り続けていたが、美月は電話に出ようとしない。
「いいの?」
私がスマホを指差すと「いいの、いいの」と美月が笑う。
着信が鳴り止んでからコーヒーをテーブルに運ぶと、スマホを手に取った美月が少し渋い顔をした。
「えー、ウソじゃろ」
「どうかしたの?」
気になって聞くと、美月がちょっと躊躇ってから私にスマホを見せてくる。それは彼女のお兄さんらしき人とのラインのトーク画面だった。
【美月、今どこにおるん? 親父が倒れたけえ、すぐ帰ってこい】
お兄さんからはそんなメッセージが届いている。
「え、倒れたって大変じゃない。すぐ連絡したほうがいいよ」
心配する私をよそに、「えー、でもなあ」と美月が渋る。事情を聞けば、美月は家を出るときにお父さんから「二度と帰ってこなくていい」と言われたことを気にしているらしい。
「とりあえず、お父さんがどんな状況なのかちゃんと確認したほうがいいよ。電話で話したくないなら、ラインでも」
私がしつこく言うと、美月は渋々お兄さんにメッセージを入れた。
【今、大阪。お父さん、どんな感じ? 緊急じゃないならラインで教えて】
すぐに帰ってきたお兄さんからのメッセージには、お父さんが過労で倒れたこと。命に別状はないが、二〜三日入院することになったこと。「美月には連絡するな」と言っているが意地を張ってるだけだと思うと言うようなことが書かれてあった。
「これならそんなに心配せんでも良さそうじゃね」
美月はほっとしたように言ったけれど、私はそうは思えなかった。
「そうかな。お互いに意地の張り合いしてるだけなら、美月ちゃんが素直に謝って仲直りしたほうがいいよ。時間が経つほど関係を戻すのって難しくなっちゃうよ」
「んー、そうかねえ……」
私の家にはかなり不躾に乗り込んできたくせに、父親とのことになると美月が渋る。
よほど父親のことが怖いのか、それとも身内だからこそ素直になれないのか。でもきっと、後者だと思う。私も同じだったから。
不幸話ってわけではないけれど、私は十五年前に母を、三年前に父を病気で亡くしている。
父は仕事の忙しい人で、私が小さい頃は家庭のことは母に任せっきりだった。
パートで働きながら、家事も子育てもしてくれていた母が倒れたとき、私はまだ高校生で。その日、出張に出ていた父が救急車で運ばれた母の病院に来たのは夜も更けてからだった。
病院のベッドで眠ったまま目を覚さない母のそばで、私は不安で仕方なくて。連絡を聞いてすぐに駆けつけてくれなかった父のことを厳しく責めた。
『なんでもっと早く来れへんかったん!?』
父と私の関係はもともと希薄だったけれど、母が倒れたことで私たちの間には完全に亀裂が入った。
父のことは嫌いではなかった。でも、恨めしく思う気持ちがどうしても拭えない。家族だから。家族なのに……。
しばらくして母が亡くなり、葬儀のあとで私は父に恨み言をぶつけた。
『お母さんが死んだんは、お父さんが負担ばっかりかけてきたからや』
「ごめんな」と哀しそうに謝る父の顔を今も覚えている。それから大学を卒業するまでは実家にいたけれど、父とは必要以上の会話をしなかった。就職して一人暮らしを始めると、母の法事のときしか実家に帰らなくなった。父と連絡をとることもなかった。
だけど本気で憎んでいたわけではなくて、今思えば、母が倒れて不安なときにすぐそばにいてくれなかったことに拗ねていたのかもしれない。私は父に、普段は仕事で忙しくしていても、本当に大切なのは母と自分だと態度で示してほしくて。父がその期待に応えてくれなかったことにがっかりしたのだ。
距離を置こうとする私に、父は必要以上に話しかけてこなかった。それが、私に気を遣っていたからなのか、私と母への罪悪感からだったのかはわからない。
おとなになった頃には、父との間の亀裂は広がり過ぎていて、お互いに距離の取り方もわからなくなっていた。
三年前、そんな父が体調を壊して入院した。知らせをくれたのは、大阪で暮らす父方の叔母だった。
「奈月ちゃんには迷惑かけたくないから教えるなって言われたけど……。何も知らないままはあかんと思うから」
父は身体に癌が見つかって入院。余命半年ほどということだった。
そのときになって初めて、父との関係の希薄さに危機感を持った。叔母が気を利かせて知らせてくれなければ、私は父の訃報が届くまで何も知らずにいたかもしれない。
そこでようやく後悔した。娘の私に病気のことを打ち明けられないくらいに父を拒絶したことを。
これじゃあ、私も母が倒れたときにすぐに駆けつけてくれなかった父と同じじゃないか。
叔母からの連絡を受けた数日後、父の入院する病院に行った。
ずっとまともに口を聞いていない父に会いにいくのは怖くて気まずかったけど……。
そういえばあのとき、健一が病院まで付き添ってくれたな。三股していたクソ男だけど、そういうところは頼りになった。
「僕がそばにいるので安心してください」なんて、調子いいことを言って他の女を選んだことは腹立つけど。
私が父と亡くなる前に少し交流ができたのは、叔母と健一のおかげだったのかもしれない。
私はギリギリ運が良かった。
だから、ああいう後悔はできるだけ誰にもしてほしくないと思う。美月にも。
「奈月さん。あたし、今日は用事があるけえ出かけるね」
朝の出勤前。朝食を食べてコーヒーを飲んでいると、私よりも遅く起きてきた美月が言った。
「そうなんだ。もしかして日帰りで実家……とか?」
美月がうちに居候を始めてそろそろ一週間。私が仕事に出かけているときは、アクセサリーを作ったり、部屋を掃除してくれたり、近所に買い物に行ってたまに夕飯を作っておいてくれたり。美月は基本的に私の家にいた。
話を聞く限り、こっちに出てきているという学生時代の友達とも連絡はついていないらしい。だからもしかして日帰りで広島に……と思ったのだけど。
「まさかあ、帰らんよ」
そんなはずはなかった。
美月が顔の前で手を振りながら、あっけらかんと笑う。
あれから何度も、お父さんに会いに行ったほうがいいと勧めているが美月はまったく聞く耳をもたない。
他の話は素直に聞くのに、実家のお父さんのことになると頑なになるのだ。
「じゃあ、今日はどこ行くの?」
「あたし、今日から単発バイトするんよ」
「バイト?」
「そう。今日いくのは、こっから三十分くらいのところにある大型スーパーの試食販売。このままずっと奈月さんとこにお世話になり続けるわけにもいけんじゃろ。じゃけえ、アクセサリー作りながら働ける単発バイト始めようと思って」
美月が慣れた様子で食器棚からマグを取り出して、作り置いてあるコーヒーを淹れる。
「バイトはいいけど……お父さんのことは? 一度顔見せに行かなくていいの?」
「いいよ。べつにあたしがおらんでも平気じゃろ。あっちにはお兄ちゃん家族も妹もおるんじゃけえ」
「そんなことないって。お兄さんはお兄さん、妹さんは妹さん、美月ちゃんは美月ちゃんでしょ。あれからちゃんと家族と連絡とってる?」
余計なお世話だとはわかっているけど気になる。
「ああ、なんか毎日お兄ちゃんから連絡くるよ」
「なんて?」
「お父さんに顔見せに来い。駆け落ち相手と住むにしても、いったん帰ってきて紹介しろって」
「ほら、やっぱり……」
私が顔をしかめると、美月が「だって」と不貞腐れたように口を尖らせた。
「紹介できる恋人なんてもうおらんもん。それに、帰ったらもう広島から出て来られんかもしれんじゃろ。奈月さんは迷惑かもしれんけど、あたし、この街での生活が結構気に入ってるんよ。じゃけえ、帰らん」
「気に入ってるならなおさら、ちゃんと親御さんと話してからこっちに出てきたら?」
「奈月さん、あたしもう二十五。おとななんじゃけえ、どこで何するにも親の許可なんていらんのよ」
「そうかもしれないけど、きっと心配してるよ」
「知らんよ、そんなん。帰ってくるなって言うたんは向こうなんじゃけえ」
「気持ちはわからなくもないけど……、どっちかが折れないとケンカは終わんないよ」
「だったら、お父さんが謝ればいいじゃろ」
そう言って、美月がプイッとそっぽ向く。こんなふうに拗ねてしまうと説得は難しい。
私はため息を吐くと、「バイト頑張ってね」と美月に声をかけて家を出た。
最寄り駅まで速足で歩き、いつも通勤で利用する電車に乗り込む。カバンからスマホを取り出して音楽を聴こうとしたとき、ふとトップ画面に表示された日時が目に止まった。
今日は九月十七日。私の誕生日だ。そういえば、この一週間、美月が家に来てバタバタとして自分の誕生日も忘れていた。
苦笑いで音楽を再生しながら、帰りに自分用にお祝いのケーキでも買おうかなと思った。