「ありがとう、美月ちゃん」
「ごめんなさい、奈月さんっ!」
 健一が立ち去ったあと、私たちは向かい合ってほとんど同時に頭を下げた。だけどすぐにお互いに「え?」と顔をあげる。
「なんで美月ちゃんが謝るの?」
「だって、あたし、ムカついたからって家の前で大声出したりして……。あやうく通報されるところじゃった……」
 二つ隣の家の人の反応を気にしてるんだろう。美月がしょぼんとうなだれる。
「ああ、大丈夫だよ。それよりも、私は嬉しかった」
「え?」
「健一に言われたことあったでしょ。あれがあいつの本音だったんだって思ったら、思ってたよりダメージ受けちゃって何も言い返せなかった。だから、美月ちゃんが怒ってくれて嬉しかったよ。ありがとう」
 そう言って笑いかけると、美月がぱっと頬を朱に染めた。
「やめてよ。そんな、あらたまってお礼なんか言われると照れるけえ。ほんとはあれでも全然言い足りんくらいよ」
 胸の前で腕を組んだ美月が、照れ顔のまま、フンッと鼻を鳴らす。全然隠せていない照れ隠しがちょっと可愛い。
 私はふふっと笑うと、玄関の鍵を開けた。
「だけど、今日は記憶に残る誕生日になったわ」
 そう言いながら部屋に入ろうとすると、「え?」と美月が声をあげる。
「奈月さん、今日誕生日なん? なんでもっと早くに言わんのん」
「言わないよ。この年になって人に誕生日なんて」
「教えとってくれたら、お祝いの準備できたのに……」
「ケーキなら買ってきた。二つ買ったら、あとで付き合ってよ」
「でもそれ、奈月さんが自分で()うたんじゃろ」
 ケーキの箱を持ち上げると、奈月がむっと不服そうな顔をする。けれどすぐに何か思いついたのか「あ!」と手を叩いた。
「奈月さん、今からなんか食べに行こう。あたしがなんでも好きなもんごちそうするけえ」
「いいよ。そんな気を遣わなくても」
「遠慮せんでええよ。ちょうどさっき、アルバイト代入ったとこじゃけえ」
 ニヤッと笑うと、美月が私の手を引っ張る。
「え、ちょっと待って。ケーキ冷蔵庫に入れないと」
 いったん部屋に入って冷蔵庫にケーキを入れると、私はスマホだけポケットに入れて玄関を出た。
 マンションのエレベーターを降りて外に出ると、晴れた空に真ん丸な黄色い月が出ていた。そういえば、通勤途中に今日が十五夜だという記事をネットニュースで読んだ気がする。
 ビルや住宅の灯りが眩しい街中でも今夜の月は明るい黄金色に輝いている。
「こんなん言うのも今さらじゃけど……ケンちゃん、今日は奈月さんの誕生日じゃけえ来たんかね」
 美しい月をぼんやり見上げていると、美月が訊いてきた。
「まさか〜。私、ここ数年はあいつに誕生日祝われてないもん」
「ウソじゃろ。十年も付き合ってたのに?」
「そうだよ」
「あいつ、マジクソ男じゃね」
 眉をひそめた美月の声には、軽蔑の感情がこもりまくっている。健一が好きで追いかけてきたはずの美月の感情が、たった一週間でひっくり返っていることに笑ってしまった。
「言うね、美月ちゃん」
「だって、ひさしぶりに顔見ても嫌悪しか湧かんかったよ。あたし、ケンちゃんの何を見よったんかね」
「恋は盲目だからね」
「ほんま、それ。けどさ、奈月さんはもうほんまにケンちゃんに未練ないん?」
 美月に聞かれて、「ないよ」と即答した私の心は妙にすっきりとしていた。
「そっかあ。でもたぶん、ケンちゃんのほうは奈月さんに未練あると思うよ」
「えー、ないよ」
「いや、あれは未練ありまくりよ」
 顔をしかめる私を見て、美月がクスリと笑う。
「あたしが『奈月さんに未練あるんじゃろ』って聞いたときのケンちゃん、あきらかに図星さされて動揺しよったもん。なんだかんだで、ケンちゃんはほんまは奈月さんのことが好きやったんじゃと思うよ。そうじゃないと、十年も付き合わんじゃろ」
「だったら、なんで浮気したの」
「わからんけど……、奈月さんがそばにいることに甘えて安心しとったんじゃない? たぶん今ごろ、後悔しとるよ」
「どうかな……」
 苦笑いしながら、月を見上げる。そんな私につられるように、美月も隣で空を仰いだ。
「そういやあ、今夜は満月じゃね。奈月さん、満月の光にはパワーがあるらしいけえ、いっぱい浴びとこ。これからいいことたくさんあるように」
 美月がそう言って、胸をそらして両腕を開く。
 いいことたくさん、かあ。
 楽観的な美月の真似をして少し両腕を広げながら、私は幼いときのことを思い起こした。
「私は小さい頃、こんな大きな満月の日は世界が滅亡するんじゃないかと思って怖かったわ」
 子どもの頃の私には煌々と輝く満月が、今にも地上にころげ落ちてきそうに見えたのだ。私の考えを聞いた美月が、ふふっとおかしそうに笑う。
「奈月さんが考えそうなことじゃねえ。子どものくせに考え方がネガティヴ」
「悪かったですね」
「悪くないよ。奈月さんぽくていいって。でもあたしは、月見て怖いなんて思ったこと一度もないわ。月って車とか乗ってるとずっとついてくるじゃろ。だから小さいときは、月があたしのことが大好きじゃけえ一緒に家まで来たいんかなって思いよったよ。それなのに、いつも家の中には入ってこんけえ、あたしのこと好きなくせに、なんで家までは入って来んのかねっていつも不思議やったわ」
「……ポジティブで羨ましい」
 美月らしい解釈を笑うと、彼女も「ほうじゃろ」と楽しそうに笑う。
「そういえば、あたしと奈月さん、どっちも名前に月が入っとるね。おそろい」
 振り向いた美月が、にこっと嬉しそうに笑う。「そうだね」と、私もつられて少し微笑む。