不幸話ってわけではないけれど、私は十五年前に母を、三年前に父を病気で亡くしている。
父は仕事の忙しい人で、私が小さい頃は家庭のことは母に任せっきりだった。
パートで働きながら、家事も子育てもしてくれていた母が倒れたとき、私はまだ高校生で。その日、出張に出ていた父が救急車で運ばれた母の病院に来たのは夜も更けてからだった。
病院のベッドで眠ったまま目を覚さない母のそばで、私は不安で仕方なくて。連絡を聞いてすぐに駆けつけてくれなかった父のことを厳しく責めた。
『なんでもっと早く来れへんかったん!?』
父と私の関係はもともと希薄だったけれど、母が倒れたことで私たちの間には完全に亀裂が入った。
父のことは嫌いではなかった。でも、恨めしく思う気持ちがどうしても拭えない。家族だから。家族なのに……。
しばらくして母が亡くなり、葬儀のあとで私は父に恨み言をぶつけた。
『お母さんが死んだんは、お父さんが負担ばっかりかけてきたからや』
「ごめんな」と哀しそうに謝る父の顔を今も覚えている。それから大学を卒業するまでは実家にいたけれど、父とは必要以上の会話をしなかった。就職して一人暮らしを始めると、母の法事のときしか実家に帰らなくなった。父と連絡をとることもなかった。
だけど本気で憎んでいたわけではなくて、今思えば、母が倒れて不安なときにすぐそばにいてくれなかったことに拗ねていたのかもしれない。私は父に、普段は仕事で忙しくしていても、本当に大切なのは母と自分だと態度で示してほしくて。父がその期待に応えてくれなかったことにがっかりしたのだ。
距離を置こうとする私に、父は必要以上に話しかけてこなかった。それが、私に気を遣っていたからなのか、私と母への罪悪感からだったのかはわからない。
おとなになった頃には、父との間の亀裂は広がり過ぎていて、お互いに距離の取り方もわからなくなっていた。
三年前、そんな父が体調を壊して入院した。知らせをくれたのは、大阪で暮らす父方の叔母だった。
「奈月ちゃんには迷惑かけたくないから教えるなって言われたけど……。何も知らないままはあかんと思うから」
父は身体に癌が見つかって入院。余命半年ほどということだった。
そのときになって初めて、父との関係の希薄さに危機感を持った。叔母が気を利かせて知らせてくれなければ、私は父の訃報が届くまで何も知らずにいたかもしれない。
そこでようやく後悔した。娘の私に病気のことを打ち明けられないくらいに父を拒絶したことを。
これじゃあ、私も母が倒れたときにすぐに駆けつけてくれなかった父と同じじゃないか。
叔母からの連絡を受けた数日後、父の入院する病院に行った。
ずっとまともに口を聞いていない父に会いにいくのは怖くて気まずかったけど……。
そういえばあのとき、健一が病院まで付き添ってくれたな。三股していたクソ男だけど、そういうところは頼りになった。
「僕がそばにいるので安心してください」なんて、調子いいことを言って他の女を選んだことは腹立つけど。
私が父と亡くなる前に少し交流ができたのは、叔母と健一のおかげだったのかもしれない。
私はギリギリ運が良かった。
だから、ああいう後悔はできるだけ誰にもしてほしくないと思う。美月にも。
「奈月さん。あたし、今日は用事があるけえ出かけるね」
朝の出勤前。朝食を食べてコーヒーを飲んでいると、私よりも遅く起きてきた美月が言った。
「そうなんだ。もしかして日帰りで実家……とか?」
美月がうちに居候を始めてそろそろ一週間。私が仕事に出かけているときは、アクセサリーを作ったり、部屋を掃除してくれたり、近所に買い物に行ってたまに夕飯を作っておいてくれたり。美月は基本的に私の家にいた。
話を聞く限り、こっちに出てきているという学生時代の友達とも連絡はついていないらしい。だからもしかして日帰りで広島に……と思ったのだけど。
「まさかあ、帰らんよ」
そんなはずはなかった。
美月が顔の前で手を振りながら、あっけらかんと笑う。
あれから何度も、お父さんに会いに行ったほうがいいと勧めているが美月はまったく聞く耳をもたない。
他の話は素直に聞くのに、実家のお父さんのことになると頑なになるのだ。
「じゃあ、今日はどこ行くの?」
「あたし、今日から単発バイトするんよ」
「バイト?」
「そう。今日いくのは、こっから三十分くらいのところにある大型スーパーの試食販売。このままずっと奈月さんとこにお世話になり続けるわけにもいけんじゃろ。じゃけえ、アクセサリー作りながら働ける単発バイト始めようと思って」
美月が慣れた様子で食器棚からマグを取り出して、作り置いてあるコーヒーを淹れる。
「バイトはいいけど……お父さんのことは? 一度顔見せに行かなくていいの?」
「いいよ。べつにあたしがおらんでも平気じゃろ。あっちにはお兄ちゃん家族も妹もおるんじゃけえ」
「そんなことないって。お兄さんはお兄さん、妹さんは妹さん、美月ちゃんは美月ちゃんでしょ。あれからちゃんと家族と連絡とってる?」
余計なお世話だとはわかっているけど気になる。
「ああ、なんか毎日お兄ちゃんから連絡くるよ」
「なんて?」
「お父さんに顔見せに来い。駆け落ち相手と住むにしても、いったん帰ってきて紹介しろって」
「ほら、やっぱり……」
私が顔をしかめると、美月が「だって」と不貞腐れたように口を尖らせた。
「紹介できる恋人なんてもうおらんもん。それに、帰ったらもう広島から出て来られんかもしれんじゃろ。奈月さんは迷惑かもしれんけど、あたし、この街での生活が結構気に入ってるんよ。じゃけえ、帰らん」
「気に入ってるならなおさら、ちゃんと親御さんと話してからこっちに出てきたら?」
「奈月さん、あたしもう二十五。おとななんじゃけえ、どこで何するにも親の許可なんていらんのよ」
「そうかもしれないけど、きっと心配してるよ」
「知らんよ、そんなん。帰ってくるなって言うたんは向こうなんじゃけえ」
「気持ちはわからなくもないけど……、どっちかが折れないとケンカは終わんないよ」
「だったら、お父さんが謝ればいいじゃろ」
そう言って、美月がプイッとそっぽ向く。こんなふうに拗ねてしまうと説得は難しい。
私はため息を吐くと、「バイト頑張ってね」と美月に声をかけて家を出た。
最寄り駅まで速足で歩き、いつも通勤で利用する電車に乗り込む。カバンからスマホを取り出して音楽を聴こうとしたとき、ふとトップ画面に表示された日時が目に止まった。
今日は九月十七日。私の誕生日だ。そういえば、この一週間、美月が家に来てバタバタとして自分の誕生日も忘れていた。
苦笑いで音楽を再生しながら、帰りに自分用にお祝いのケーキでも買おうかなと思った。
その夜。私は駅の構内にあるケーキ屋に寄って、苺のショートケーキをふたつ買った。美月の分と私の分だ。
誕生日のことは知らせていないけど、美月なら私のプチバースデー祝いに付き合ってくれるだろう。
そんなことを考えながら帰宅すると、思いもよらない人がマンションの部屋の前で待っていた。
「おかえり、奈月」
笑顔で私に手を振ってきたのは、一ヶ月以上も前に別れた元カレ。健一だ。
「ここで何してるの?」
「ちょっと用事があって大阪来たから、寄ってみた。元気かなーって」
警戒して固まる私のほうに、健一が歩み寄ってくる。大阪に来たのは仕事だろうか。健一はスーツ姿で、仕事用のカバンを持っていた。
だがそれにしても、別れて一ヶ月以上も経つ元カノのところに平然とやってくる彼の神経が理解できない。しかも、彼は他の女と結婚するために私を捨てた男だ。
「寄ってみた、って……。勝手に来られても困るんですけど……」
「いちおう、連絡は入れたよ。だけど、メッセージ送っても既読になんないから」
自分に非はないとでも言いたげな彼の反応に、少しイラつく。送ったメッセージが既読にならないのは、別れた翌日に健一に関する連絡先をすべてブロックして削除をしているからだ。
私はため息を吐くと、健一を交わしてドアの前に立つ。
「仮に連絡をくれていたとしても、私が許可してもいないのに勝手に来るのは困ります。中条さん、最近体調があまりよくなくてお休みしてるんでしょう。早く帰ってあげたほうがいいんじゃないの」
健一が結婚した中条さんは、部署は違うが同じ会社の同僚だ。社内のウワサで、彼女が最近休みがちだと聞いている。体調がすぐれず、産休を早めにとるかもしれないという話だった。
すでに子育て経験のある同僚は「悪阻がひどいのかもね」なんて心配していた。
奥さんがそういう状況なら、なるべくそばにいてあげるべきなんじゃないか。そもそも、健一が自分以外に私や美月と付き合っていたことを中条さんは知っているんだろうか。もしも何も知らないのなら、気の毒すぎる。
冷たいまなざしを向けると、健一が「ああ」と少し面倒くさそうに前髪をかきあげた。
「体調よくないって言っても、たいしたことじゃないよ。初期のつわり? 症状的にはそこまで重くないらしいんだけど、いろいろと思い通りにいかないことが増えて、毎日ピリピリしてんだよ。仕事休んでる日は一日中ごろごろしてるから、俺が帰ったら家ん中、ぐちゃぐちゃだしさあ。夕飯も、ここ最近は買って帰るか外で食って帰るかっていう状況が続いてて、家に帰っても落ち着けないんだよな」
「だったら、健一が掃除してあげたり、少し早く帰ってごはん作ってあげたりすればいいんじゃないの?」
「でも、俺、料理は苦手なんだよな。奈月も知ってるだろ。温めて皿に出すくらいならできるけど、一から作るのはムリだって。それに、最近はあれが食べたい、これは食べたくないって注文も多いしさあ」
不満そうに愚痴をこぼす健一に、私は少し引いてしまった。
私は妊娠した経験がないからよくわからないけど、友人の話だと、つわりの時期はにおいにとても敏感になっていて、ごはんを作るのも、スーパーに買い物に行くのもつらいらしい。通常時よりも体が疲れやすくて、寝転んでいることが多かったと言っていた友人もいた。
体調が悪いときにどれくらいつらいと感じるかは人によっても違うから、中条さんの状況を健一が「たいしたことじゃない」とか「そこまで重くない」とか勝手な判断をくだすのは違うと思う。
「だったら、なおのこと早く帰ってあげなよ。今だって、家でひとりで不安に思ってるんじゃない?」
「どうかな。ひとりのほうが気楽でいいって思ってんじゃない? それより、俺、腹減っててさ。今から一緒に何か食いに行かない?」
「は?」
「帰ってもどうせ食うもんないしさ。せっかくこっちにでてきたから、奈月とよく行ってた店に行きたいなあと思って会いに来た。まあ、ほんとうは、奈月が作ってくれた料理が一番食べたいんだけどな。奈月、料理うまかったし」
にこにこしながらそんな発言をする健一の気が知れない。
突然現れたかと思えば、何を考えているんだろう。私のことをさそって、中条さんに知られたらどうするつもりなんだろう。
健一はなにもわかっていないし、ひさしぶりに会ってもなにも変わっていない。彼は、自分の居心地さえよければそれでいいのだ。
「バカなこと言わないでよ。行くわけないでしょ。早く帰って」
追い払おうと健一を睨むと、ふと私の手元に視線を落とした彼がケーキの箱に気付く。
「あれ、ケーキ買ってんだ。今日ってなんかあったっけ? それとも、たまの贅沢デイ?」
健一が、不思議そうに首を傾げながら聞いてくる。
その瞬間、ふっと鼻で笑ってしまった。
十年近く付き合っていたのに、健一は今日が私の誕生日だということも忘れている。べつに覚えていてほしかったわけでもないけれど、私に興味もないくせに、今さら平然と目の前に現れた彼に腹が立つ。
今も昔も、私は健一にとって、居心地の悪さや暇つぶしを埋めるための都合の良い道具でしかない。
無表情になる私を、健一がきょとんと見つめてくる。なんと言って追い返そうかと冷静に思考を巡らせていたそのとき。
「え、ケンちゃん?」
マンションの共用廊下にコツンと足音が響いた。
「え?」
驚いたように目を見開いた健一の顔を横目に振り向くと、同じく、カラコン入りの目を大きく見開く美月がいた。
「え、なに? なんでケンちゃんがここにいんの? 奈月さん、ほんとうはまだケンちゃんと付き合いよったん?」
美月が私と健一を交互に見て、一瞬傷付いた顔をする。美月の泣きそうな顔を見て、タイミング悪いなと思った。でもそれは、美月に誤解をされたくなかったからだ。
「違うよ、美月ちゃん。私たちは一ヶ月前に別れてる。仕事から帰ってきたら、なぜかこの人がここにいたの」
私の話に、こわばっていた美月の表情から力が抜ける。
「ああ、そう。でもなんで? ケンちゃん、もう他の女と結婚したんじゃろ」
一週間前は私のことを品定めるように睨んできた美月が、恋人だったはずの健一を疑いの目でジロリと睨む。
美月との付き合いの長さで言えば、健一よりも私のほうが浅い。それでも、私のほうが美月の信頼を得ているのだと思うと嬉しくなった。
「いや、ちょっと待て。おまえこそ、なんでこんなところにいるんだよ。奈月と知り合いだったのか?」
美月の大きな瞳で睨まれて、さすがの健一も動揺しているようだった。健一が美月に訊ねながら、ちらっと私を見てくる。
「違うよ。美月ちゃんと知り合ったのは一週間くらい前。音信不通になった健一に会うためにうちを訪ねてきたんだよ」
私の言葉に健一が表情を歪める。私に三股がバレていることに気付いたんだろう。
「全然連絡とれんけえ、心配になったんよ。前に連れて来てもらった家がここじゃったけえ会いにきたら、奈月さんしかおらんくて……。いろいろ聞かせてもらったわ。ケンちゃん、あたしのこと騙しとったんじゃね」
美月の言葉に、健一が「はあ?」と目をむいた。
「はじめから二年で大阪戻るって伝えてたし、俺がおまえに本気じゃないことくらいわかってただろ。だいたい音信不通になった時点で、ふつうは切られたんだって気付くだろ。それなのに空気読めずに家までくるとか、ストーカーかよ」
イラついているのか、健一の言葉はあまりにひどい。
「ちょっと、健一……!」
美月が泣いてしまいのではないかと口を開くと、健一が私の肩をつかんできた。
「奈月、早くこの部屋解約して別のとこ引っ越せよ。いきなり知らないやつが訪ねてくるとかあぶねーよ」
そもそも、健一が美月と不誠実に付き合って切り捨てたからこうなっているのというのに。キレ気味に忠告してくる健一に呆れてしまう。
それとも、こんなふうに怒るということは、美月以外にもこの部屋を教えた女性がいるのだろうか。
健一に疑いの目を向けたとき、ケーキの箱を持っていないほうの手をグイッと横から引っ張られる。
驚いて振り向くと、美月が健一のことをものすごい形相で睨みつけていた。
「ふざけんな! 危ないんもストーカーもそっちじゃろ。結婚して子ども生まれるくせに、奈月さんちまで何しにきたんよ。ケンちゃん、ほんまは奈月さんに未練があるんじゃろ」
美月の言葉に、健一が「はあ?」と眦を尖らせた。
「なんなんだ、おまえ。俺が奈月なんかに未練あるわけねーだろ。見た目は地味だし、真面目でつまんねーし。だけど家事ができて役立つから、一緒にいてやっただけだよ」
低い声で健一が言い放った言葉が、ズンッと私の胸を刺す。
健一と付き合っているあいだ、女癖の悪い彼とケンカしたり仲直りをしたりを繰り返してきたけれど、私は根本のところで彼のことが好きだった。だから、小さな浮気は見逃してきたし、同棲もしたし、十年間も付き合った。
だけど……、「家事ができて役立つから、一緒にいてやっただけ」それが健一の本音だったのだろうか。
もしそうだとしたら、ひどすぎる。
健一のことはもう好きではないけれど、彼と過ごした時間はなんだったのかと虚しくなってしまう。
私にとっては、楽しい思い出もあった大切な十年間だったのに。悲しさと悔しさが込み上げてきて、ぎゅっと唇を噛む。
「もう、帰って……」
健一に向かって震える声でつぶやいたとき、私の隣をすり抜けて、美月が前に飛び出してきた。
「奈月さんがあ……」
低く唸ったかと思うと、美月が健一のスーツのジャケットの胸元をつかむ。
「奈月さんが、つまらんわけなかろーがっ!」
美月の声が共用廊下に響き渡って、私も健一もその剣幕にビクッとする。
「奈月さんはあ、夜中に突然きてわけわからんこと言うとるあたしなんかを泊めてくれとるすごいいい人。料理うまいし、優しいし、あんたみたいな人の気持ちもわからんようなつまらんクソ男に都合よく遊ばれるような女じゃないんよ。あんたなんて、今すぐ帰れ。二度と顔見せんな。これ以上、奈月さんのこと傷つけること言うならあたしが許さんけえ」
美月の細い腕が、健一の襟元をつかんで揺らす。
まさか美月がつかみかかってくるとは思わなかったのだろう。健一は、自分より華奢で小さな美月を放心状態で見下ろしていた。
あたりがシーンとなると、ガチャリと音がしてうちから二つ隣の部屋の住人が顔を出す。たまに挨拶をするだけで名前もよく知らないその人が、不審そうに私たち三人を見てきた。
「あの……、通報とかします?」
ドアの隙間から顔を覗かせた彼に遠慮がちに訊ねられて、健一と美月が青ざめる。
「いえ、大丈夫です」
私が首を横に振ると、パタンとドアが閉まる。しばらく気まずい沈黙が流れたが、美月に無言で睨まれた健一はすごすごと帰っていった。
「ありがとう、美月ちゃん」
「ごめんなさい、奈月さんっ!」
健一が立ち去ったあと、私たちは向かい合ってほとんど同時に頭を下げた。だけどすぐにお互いに「え?」と顔をあげる。
「なんで美月ちゃんが謝るの?」
「だって、あたし、ムカついたからって家の前で大声出したりして……。あやうく通報されるところじゃった……」
二つ隣の家の人の反応を気にしてるんだろう。美月がしょぼんとうなだれる。
「ああ、大丈夫だよ。それよりも、私は嬉しかった」
「え?」
「健一に言われたことあったでしょ。あれがあいつの本音だったんだって思ったら、思ってたよりダメージ受けちゃって何も言い返せなかった。だから、美月ちゃんが怒ってくれて嬉しかったよ。ありがとう」
そう言って笑いかけると、美月がぱっと頬を朱に染めた。
「やめてよ。そんな、あらたまってお礼なんか言われると照れるけえ。ほんとはあれでも全然言い足りんくらいよ」
胸の前で腕を組んだ美月が、照れ顔のまま、フンッと鼻を鳴らす。全然隠せていない照れ隠しがちょっと可愛い。
私はふふっと笑うと、玄関の鍵を開けた。
「だけど、今日は記憶に残る誕生日になったわ」
そう言いながら部屋に入ろうとすると、「え?」と美月が声をあげる。
「奈月さん、今日誕生日なん? なんでもっと早くに言わんのん」
「言わないよ。この年になって人に誕生日なんて」
「教えとってくれたら、お祝いの準備できたのに……」
「ケーキなら買ってきた。二つ買ったら、あとで付き合ってよ」
「でもそれ、奈月さんが自分で買うたんじゃろ」
ケーキの箱を持ち上げると、奈月がむっと不服そうな顔をする。けれどすぐに何か思いついたのか「あ!」と手を叩いた。
「奈月さん、今からなんか食べに行こう。あたしがなんでも好きなもんごちそうするけえ」
「いいよ。そんな気を遣わなくても」
「遠慮せんでええよ。ちょうどさっき、アルバイト代入ったとこじゃけえ」
ニヤッと笑うと、美月が私の手を引っ張る。
「え、ちょっと待って。ケーキ冷蔵庫に入れないと」
いったん部屋に入って冷蔵庫にケーキを入れると、私はスマホだけポケットに入れて玄関を出た。
マンションのエレベーターを降りて外に出ると、晴れた空に真ん丸な黄色い月が出ていた。そういえば、通勤途中に今日が十五夜だという記事をネットニュースで読んだ気がする。
ビルや住宅の灯りが眩しい街中でも今夜の月は明るい黄金色に輝いている。
「こんなん言うのも今さらじゃけど……ケンちゃん、今日は奈月さんの誕生日じゃけえ来たんかね」
美しい月をぼんやり見上げていると、美月が訊いてきた。
「まさか〜。私、ここ数年はあいつに誕生日祝われてないもん」
「ウソじゃろ。十年も付き合ってたのに?」
「そうだよ」
「あいつ、マジクソ男じゃね」
眉をひそめた美月の声には、軽蔑の感情がこもりまくっている。健一が好きで追いかけてきたはずの美月の感情が、たった一週間でひっくり返っていることに笑ってしまった。
「言うね、美月ちゃん」
「だって、ひさしぶりに顔見ても嫌悪しか湧かんかったよ。あたし、ケンちゃんの何を見よったんかね」
「恋は盲目だからね」
「ほんま、それ。けどさ、奈月さんはもうほんまにケンちゃんに未練ないん?」
美月に聞かれて、「ないよ」と即答した私の心は妙にすっきりとしていた。
「そっかあ。でもたぶん、ケンちゃんのほうは奈月さんに未練あると思うよ」
「えー、ないよ」
「いや、あれは未練ありまくりよ」
顔をしかめる私を見て、美月がクスリと笑う。
「あたしが『奈月さんに未練あるんじゃろ』って聞いたときのケンちゃん、あきらかに図星さされて動揺しよったもん。なんだかんだで、ケンちゃんはほんまは奈月さんのことが好きやったんじゃと思うよ。そうじゃないと、十年も付き合わんじゃろ」
「だったら、なんで浮気したの」
「わからんけど……、奈月さんがそばにいることに甘えて安心しとったんじゃない? たぶん今ごろ、後悔しとるよ」
「どうかな……」
苦笑いしながら、月を見上げる。そんな私につられるように、美月も隣で空を仰いだ。
「そういやあ、今夜は満月じゃね。奈月さん、満月の光にはパワーがあるらしいけえ、いっぱい浴びとこ。これからいいことたくさんあるように」
美月がそう言って、胸をそらして両腕を開く。
いいことたくさん、かあ。
楽観的な美月の真似をして少し両腕を広げながら、私は幼いときのことを思い起こした。
「私は小さい頃、こんな大きな満月の日は世界が滅亡するんじゃないかと思って怖かったわ」
子どもの頃の私には煌々と輝く満月が、今にも地上にころげ落ちてきそうに見えたのだ。私の考えを聞いた美月が、ふふっとおかしそうに笑う。
「奈月さんが考えそうなことじゃねえ。子どものくせに考え方がネガティヴ」
「悪かったですね」
「悪くないよ。奈月さんぽくていいって。でもあたしは、月見て怖いなんて思ったこと一度もないわ。月って車とか乗ってるとずっとついてくるじゃろ。だから小さいときは、月があたしのことが大好きじゃけえ一緒に家まで来たいんかなって思いよったよ。それなのに、いつも家の中には入ってこんけえ、あたしのこと好きなくせに、なんで家までは入って来んのかねっていつも不思議やったわ」
「……ポジティブで羨ましい」
美月らしい解釈を笑うと、彼女も「ほうじゃろ」と楽しそうに笑う。
「そういえば、あたしと奈月さん、どっちも名前に月が入っとるね。おそろい」
振り向いた美月が、にこっと嬉しそうに笑う。「そうだね」と、私もつられて少し微笑む。
「さあ、今からどこ行く? 奈月さん、何食べたい? 肉系? 魚系?」
美月が店を調べるためにスマホを取り出す。そうしてすぐに顔をしかめた。
「うわ、またお兄ちゃんからメッセ入っとる……あたしが無視してるから、一日に何度も入れてくるんよ」
「返事しといてあげたら? 心配してるんだよ」
「わかっとるけど、なんて言ったらいいん? 家族はみんな、あたしが今駆け落ち相手のところにいると思いよるんよ。だけど結局、ケンちゃんには裏切られてたし、頼る友達もいなくて、なんの関係もない奈月さん家に居候のままで」
「家族のことに関しては、ネガティヴだね」
「そりゃ、そうよ。ほんとのこと話したら、お父さんもお母さんもお兄ちゃんも呆れ返るわ。合わす顔ない……」
美月が落ち込んだ顔で、スマホを触りながらため息を吐く。
健一のところには向こう見ずに突撃してきたくせに、家族への歩み寄りに慎重になるのは、それだけ家族が大切で、美月自身も家族に大切にされてきたことがわかっているからだろう。
心配かけたくない。がっかりされたくない。傷付けたくない。そんな気持ちがこんがらがって空回りしている。
スマホを見つめて難しい顔をする美月をしばらく見つめたあと、私は夜空の満月に視線を向けた。
今夜は真ん丸な綺麗な満月。けれど、月のカタチはいつも完全なわけじゃない。満ちたり、欠けたり、そういうときも、そのカタチでちゃんと美しい。
「美月ちゃん、今すぐお兄さんに連絡してよ。週末帰るって」
私の言葉に、美月が「え」と少し不安そうな顔になる。
「ごめん、奈月さん……やっぱり、あたしがいつまでも家におったら迷惑よね……」
悲しそうに目を伏せる美月に、私はゆるりと首を横に振った。
「そうじゃなくて、私も一緒に行こうかなって。広島まで」
「え、なんで……?」
「広島って小学校のときの修学旅行で行ったっきりだから行ってみたい。それに、こないだ営業受けた美月ちゃんちの実家の定食屋も行きたいし」
私がそう言うと、美月が途端にあたふたとし始めた。
「いやいや、奈月さん。うちの定食屋、ほんまにふつーの町の定食屋よ? わざわざ行くようなとこじゃないって」
「でもさ、私が一緒だったら美月ちゃんも帰りやすくない?」
にこっと笑いかけると、美月がわかりやすく困ったような顔をした。
「美月ちゃんだって、ほんとうはお父さんが倒れたって聞いて気になってるでしょ。でも、家出みたいに出てきちゃったから意地張って帰れないんだよね? だったら、私を広島観光に連れてきたって名目で一緒に行こうよ。よかったらそのとき、今美月ちゃんとルームシェアしてますって挨拶もするよ。ご家族も、美月ちゃんが駆け落ちした男のところに転がり込んでるんじゃなくて、私の家に住んでてアクセサリーの仕事したりバイトしてるってわかったほうが安心なんじゃない?」
「でも……、何の関係もない奈月さんにそこまで迷惑かけられん……」
迷うように瞳を揺らす美月を「今さらでしょ」と、笑いとばす。
「まだ知り合って一週間くらいだけど、私たち、お互いに恥ずかしいことも情けないこともいっぱい話し合ったよね。そんなん、もう友達じゃない? だから私は、美月ちゃんが困ってたら力になりたいと思うよ」
健一に対して、本気で怒ってくれた美月ちゃんのために。
いろいろな感情を抱えた私たちは、満月になる前の不完全な月のカタチのようで。欠けているところは、互いに思いやれる相手と補い合えばいい。そうすればきっと、堂々と美しく輝ける。
「うわーん、奈月さん、やっぱりめっちゃいい人! 大好きっ!」
小さく肩を振るわせながら話を聞いていた美月が、勢いよく私に飛びついてくる。
「あたし、ケンちゃんに騙されてよかったわ。おかげで奈月さんに出会えたもん」
「いやいや、あいつに騙されたことを喜んじゃだめだって。気を付けないと」
「奈月さんもよ」
微苦笑を浮かべる私に、美月がいたずらっぽく返してくる。
お互いにしばらくじっと視線を合わせて、ふたりで同時に吹き出す。肩を寄せ合って笑う私たちを、黄金色の真ん丸な月の光が優しく照らしていた。
fin.