「え、ケンちゃん?」
マンションの共用廊下にコツンと足音が響いた。
「え?」
驚いたように目を見開いた健一の顔を横目に振り向くと、同じく、カラコン入りの目を大きく見開く美月がいた。
「え、なに? なんでケンちゃんがここにいんの? 奈月さん、ほんとうはまだケンちゃんと付き合いよったん?」
美月が私と健一を交互に見て、一瞬傷付いた顔をする。美月の泣きそうな顔を見て、タイミング悪いなと思った。でもそれは、美月に誤解をされたくなかったからだ。
「違うよ、美月ちゃん。私たちは一ヶ月前に別れてる。仕事から帰ってきたら、なぜかこの人がここにいたの」
私の話に、こわばっていた美月の表情から力が抜ける。
「ああ、そう。でもなんで? ケンちゃん、もう他の女と結婚したんじゃろ」
一週間前は私のことを品定めるように睨んできた美月が、恋人だったはずの健一を疑いの目でジロリと睨む。
美月との付き合いの長さで言えば、健一よりも私のほうが浅い。それでも、私のほうが美月の信頼を得ているのだと思うと嬉しくなった。
「いや、ちょっと待て。おまえこそ、なんでこんなところにいるんだよ。奈月と知り合いだったのか?」
美月の大きな瞳で睨まれて、さすがの健一も動揺しているようだった。健一が美月に訊ねながら、ちらっと私を見てくる。
「違うよ。美月ちゃんと知り合ったのは一週間くらい前。音信不通になった健一に会うためにうちを訪ねてきたんだよ」
私の言葉に健一が表情を歪める。私に三股がバレていることに気付いたんだろう。
「全然連絡とれんけえ、心配になったんよ。前に連れて来てもらった家がここじゃったけえ会いにきたら、奈月さんしかおらんくて……。いろいろ聞かせてもらったわ。ケンちゃん、あたしのこと騙しとったんじゃね」
美月の言葉に、健一が「はあ?」と目をむいた。
「はじめから二年で大阪戻るって伝えてたし、俺がおまえに本気じゃないことくらいわかってただろ。だいたい音信不通になった時点で、ふつうは切られたんだって気付くだろ。それなのに空気読めずに家までくるとか、ストーカーかよ」
イラついているのか、健一の言葉はあまりにひどい。
「ちょっと、健一……!」
美月が泣いてしまいのではないかと口を開くと、健一が私の肩をつかんできた。
「奈月、早くこの部屋解約して別のとこ引っ越せよ。いきなり知らないやつが訪ねてくるとかあぶねーよ」
そもそも、健一が美月と不誠実に付き合って切り捨てたからこうなっているのというのに。キレ気味に忠告してくる健一に呆れてしまう。
それとも、こんなふうに怒るということは、美月以外にもこの部屋を教えた女性がいるのだろうか。
健一に疑いの目を向けたとき、ケーキの箱を持っていないほうの手をグイッと横から引っ張られる。
驚いて振り向くと、美月が健一のことをものすごい形相で睨みつけていた。
「ふざけんな! 危ないんもストーカーもそっちじゃろ。結婚して子ども生まれるくせに、奈月さんちまで何しにきたんよ。ケンちゃん、ほんまは奈月さんに未練があるんじゃろ」
美月の言葉に、健一が「はあ?」と眦を尖らせた。
「なんなんだ、おまえ。俺が奈月なんかに未練あるわけねーだろ。見た目は地味だし、真面目でつまんねーし。だけど家事ができて役立つから、一緒にいてやっただけだよ」
低い声で健一が言い放った言葉が、ズンッと私の胸を刺す。
健一と付き合っているあいだ、女癖の悪い彼とケンカしたり仲直りをしたりを繰り返してきたけれど、私は根本のところで彼のことが好きだった。だから、小さな浮気は見逃してきたし、同棲もしたし、十年間も付き合った。
だけど……、「家事ができて役立つから、一緒にいてやっただけ」それが健一の本音だったのだろうか。
もしそうだとしたら、ひどすぎる。
健一のことはもう好きではないけれど、彼と過ごした時間はなんだったのかと虚しくなってしまう。
私にとっては、楽しい思い出もあった大切な十年間だったのに。悲しさと悔しさが込み上げてきて、ぎゅっと唇を噛む。
「もう、帰って……」
健一に向かって震える声でつぶやいたとき、私の隣をすり抜けて、美月が前に飛び出してきた。
「奈月さんがあ……」
低く唸ったかと思うと、美月が健一のスーツのジャケットの胸元をつかむ。
「奈月さんが、つまらんわけなかろーがっ!」
美月の声が共用廊下に響き渡って、私も健一もその剣幕にビクッとする。
「奈月さんはあ、夜中に突然きてわけわからんこと言うとるあたしなんかを泊めてくれとるすごいいい人。料理うまいし、優しいし、あんたみたいな人の気持ちもわからんようなつまらんクソ男に都合よく遊ばれるような女じゃないんよ。あんたなんて、今すぐ帰れ。二度と顔見せんな。これ以上、奈月さんのこと傷つけること言うならあたしが許さんけえ」
美月の細い腕が、健一の襟元をつかんで揺らす。
まさか美月がつかみかかってくるとは思わなかったのだろう。健一は、自分より華奢で小さな美月を放心状態で見下ろしていた。
あたりがシーンとなると、ガチャリと音がしてうちから二つ隣の部屋の住人が顔を出す。たまに挨拶をするだけで名前もよく知らないその人が、不審そうに私たち三人を見てきた。
「あの……、通報とかします?」
ドアの隙間から顔を覗かせた彼に遠慮がちに訊ねられて、健一と美月が青ざめる。
「いえ、大丈夫です」
私が首を横に振ると、パタンとドアが閉まる。しばらく気まずい沈黙が流れたが、美月に無言で睨まれた健一はすごすごと帰っていった。
マンションの共用廊下にコツンと足音が響いた。
「え?」
驚いたように目を見開いた健一の顔を横目に振り向くと、同じく、カラコン入りの目を大きく見開く美月がいた。
「え、なに? なんでケンちゃんがここにいんの? 奈月さん、ほんとうはまだケンちゃんと付き合いよったん?」
美月が私と健一を交互に見て、一瞬傷付いた顔をする。美月の泣きそうな顔を見て、タイミング悪いなと思った。でもそれは、美月に誤解をされたくなかったからだ。
「違うよ、美月ちゃん。私たちは一ヶ月前に別れてる。仕事から帰ってきたら、なぜかこの人がここにいたの」
私の話に、こわばっていた美月の表情から力が抜ける。
「ああ、そう。でもなんで? ケンちゃん、もう他の女と結婚したんじゃろ」
一週間前は私のことを品定めるように睨んできた美月が、恋人だったはずの健一を疑いの目でジロリと睨む。
美月との付き合いの長さで言えば、健一よりも私のほうが浅い。それでも、私のほうが美月の信頼を得ているのだと思うと嬉しくなった。
「いや、ちょっと待て。おまえこそ、なんでこんなところにいるんだよ。奈月と知り合いだったのか?」
美月の大きな瞳で睨まれて、さすがの健一も動揺しているようだった。健一が美月に訊ねながら、ちらっと私を見てくる。
「違うよ。美月ちゃんと知り合ったのは一週間くらい前。音信不通になった健一に会うためにうちを訪ねてきたんだよ」
私の言葉に健一が表情を歪める。私に三股がバレていることに気付いたんだろう。
「全然連絡とれんけえ、心配になったんよ。前に連れて来てもらった家がここじゃったけえ会いにきたら、奈月さんしかおらんくて……。いろいろ聞かせてもらったわ。ケンちゃん、あたしのこと騙しとったんじゃね」
美月の言葉に、健一が「はあ?」と目をむいた。
「はじめから二年で大阪戻るって伝えてたし、俺がおまえに本気じゃないことくらいわかってただろ。だいたい音信不通になった時点で、ふつうは切られたんだって気付くだろ。それなのに空気読めずに家までくるとか、ストーカーかよ」
イラついているのか、健一の言葉はあまりにひどい。
「ちょっと、健一……!」
美月が泣いてしまいのではないかと口を開くと、健一が私の肩をつかんできた。
「奈月、早くこの部屋解約して別のとこ引っ越せよ。いきなり知らないやつが訪ねてくるとかあぶねーよ」
そもそも、健一が美月と不誠実に付き合って切り捨てたからこうなっているのというのに。キレ気味に忠告してくる健一に呆れてしまう。
それとも、こんなふうに怒るということは、美月以外にもこの部屋を教えた女性がいるのだろうか。
健一に疑いの目を向けたとき、ケーキの箱を持っていないほうの手をグイッと横から引っ張られる。
驚いて振り向くと、美月が健一のことをものすごい形相で睨みつけていた。
「ふざけんな! 危ないんもストーカーもそっちじゃろ。結婚して子ども生まれるくせに、奈月さんちまで何しにきたんよ。ケンちゃん、ほんまは奈月さんに未練があるんじゃろ」
美月の言葉に、健一が「はあ?」と眦を尖らせた。
「なんなんだ、おまえ。俺が奈月なんかに未練あるわけねーだろ。見た目は地味だし、真面目でつまんねーし。だけど家事ができて役立つから、一緒にいてやっただけだよ」
低い声で健一が言い放った言葉が、ズンッと私の胸を刺す。
健一と付き合っているあいだ、女癖の悪い彼とケンカしたり仲直りをしたりを繰り返してきたけれど、私は根本のところで彼のことが好きだった。だから、小さな浮気は見逃してきたし、同棲もしたし、十年間も付き合った。
だけど……、「家事ができて役立つから、一緒にいてやっただけ」それが健一の本音だったのだろうか。
もしそうだとしたら、ひどすぎる。
健一のことはもう好きではないけれど、彼と過ごした時間はなんだったのかと虚しくなってしまう。
私にとっては、楽しい思い出もあった大切な十年間だったのに。悲しさと悔しさが込み上げてきて、ぎゅっと唇を噛む。
「もう、帰って……」
健一に向かって震える声でつぶやいたとき、私の隣をすり抜けて、美月が前に飛び出してきた。
「奈月さんがあ……」
低く唸ったかと思うと、美月が健一のスーツのジャケットの胸元をつかむ。
「奈月さんが、つまらんわけなかろーがっ!」
美月の声が共用廊下に響き渡って、私も健一もその剣幕にビクッとする。
「奈月さんはあ、夜中に突然きてわけわからんこと言うとるあたしなんかを泊めてくれとるすごいいい人。料理うまいし、優しいし、あんたみたいな人の気持ちもわからんようなつまらんクソ男に都合よく遊ばれるような女じゃないんよ。あんたなんて、今すぐ帰れ。二度と顔見せんな。これ以上、奈月さんのこと傷つけること言うならあたしが許さんけえ」
美月の細い腕が、健一の襟元をつかんで揺らす。
まさか美月がつかみかかってくるとは思わなかったのだろう。健一は、自分より華奢で小さな美月を放心状態で見下ろしていた。
あたりがシーンとなると、ガチャリと音がしてうちから二つ隣の部屋の住人が顔を出す。たまに挨拶をするだけで名前もよく知らないその人が、不審そうに私たち三人を見てきた。
「あの……、通報とかします?」
ドアの隙間から顔を覗かせた彼に遠慮がちに訊ねられて、健一と美月が青ざめる。
「いえ、大丈夫です」
私が首を横に振ると、パタンとドアが閉まる。しばらく気まずい沈黙が流れたが、美月に無言で睨まれた健一はすごすごと帰っていった。