夏の残り香が秋に絡まる十月。
千歳が始めたゲームが終わりを迎え、毎日言葉を交わすようになった。だがそれは、想像していたようなものではなかった。話すとは言ってもせいぜい朝と放課後の挨拶程度で、千歳は尊へのそれと一緒にケンスケとナベにも声をかける。ケンスケくんおはよう、ナベくんバイバイ。さすがのコミュニケーション能力と言ったところか。ケンスケとナベが他人に壁を作る人間ではないのも相まって、三人がよく話すことだって増えた。それはともすれば自分との会話以上で。正直ちっとも面白くない。
押しまくる、って言われたよな？
確かに聞いたはずの宣言は、空耳だったかと疑いたくなるほど不確かになっている。
いきなり切り替えられるものではないのかもしれない。ひと言も交わさずこの半年を過ごしてきたのだし。そう呑気に構えていられたのも最初だけで、一週間が経った頃、ついに堪忍袋の緒が切れた。
「尊ー屋上行くぞー」
「先行ってて」
「あいよ。ほんじゃ後でな」
昼休み。屋上へ向かうケンスケとナベを見送って、視線を千歳へと向ける。むすっと尖るくちびるを自覚しながら、ひとつため息をついてその背中へと近づいた。「ちー」と呼んで、千歳が振り向くより先に首に腕を巻きつける。
「こいつ借りてく」
目を丸くしているのは、千歳がいつも昼食を共にしているクラスメイトたちだ。もちろん千歳だって心底驚いているだろう。だがそんなことに構ってはいられない。ガタン、と椅子ごと揺れた体の向こうの弁当をひっつかんで、千歳の腕を引く。
「ちょ、花村！？」
「昼一緒に食お」
激しく狼狽える千歳に構うことなく、そのまま教室を出る。何事かと静まり返ったクラス中の視線を集めていることも理解はしているが、そんなの別にどうでもいい。
「花村？ なあってば」
無言のまま二年の廊下を突っ切る。階段を上がり、屋上を目の前にした踊り場で振り返る。
「ちー」
「な、なに？」
「こないだそこで言ったのは嘘か？ 俺のこと好きだってやつ」
顎をしゃくって、あの放課後ふたりで話した場所を示す。
「え。嘘じゃない！」
「ふーん。の割にほっとくじゃん」
そこまで言ったところで、自分の行動に息を飲んだ。千歳の手を離し、そのまま口を覆う。勢いのまま連れてきて、嘘だったのかと詰め寄って。これではまるで駄々をこねる子どもだ。恥ずかしげもなく「好きだって言ったじゃん、もっとちゃんと構えよ」といった趣旨のことを言い放ってしまった。
なぜ俺はこんなことを。調子が狂っている自覚にたじろぎながらふと千歳を見ると、赤い顔が見えてしまった。それを茶化すこともできない。自分の頬だって火照っているからだ。初めてのことに、どうすればいいのか分からない。
お互いに彷徨わせる視線は交わらない。だがこの場所に居続けると、余計にどつぼに嵌まるだけのような気がする。
「あー。えっと、飯食うか」
「……うん、そうだね」
誤魔化すようにそう誘うと、千歳も安堵の息と共に頷いてくれた。
屋上に出ると、ケンスケとナベがこっちこっちと大きな声で手を上げた。千歳を連れてきたことに驚いたようだが、おう三上、とふたりはすんなり受け入れる。なにがあったかなんて知る由もない、そんなふたりの明るさに救われる思いだ。
四人で輪になるように腰を下ろす。もっと秋が深まって冬になったら、しばらくはここでの昼食もお預けになる。あたたかさが残るうちに千歳をここに誘えてよかった。自分のテリトリーに千歳を招くことができて、不思議と気分がいい。
「花村、食べるのそんだけ？」
「え？ うん、いつもこんなもんだけど」
先ほどの頬の熱もさすがに収まった頃。隣から注がれる視線にふと顔を上げると、千歳が驚いた顔でこちらを見ていた。今日の昼食は菓子パンがふたつ。確かに満腹とまではならないが、これで十分だ。食後に炭酸水を飲み、キャンディを舐めればそれでいつも満足できる。だが千歳は、少ないと感じたらしい。
「花村、背でかいし足りなくない？」
「身長は関係なくね？」
「オレはお腹空く」
「尊と三上って同じくらいだよな。身長いくつ？」
「180」
「あ、オレも180」
「一緒じゃん。80あんの羨ま！」
身長と食欲の関係性はよく分からないが、共通点がひとつ見つかって少し高揚を覚える。いや、身長が同じくらいでなにを、と自分に内心苦笑していると、千歳が首を傾げながら顔を覗きこんできた。
「唐揚げ食べる？」
「……食べる」
例えばこれ以上買う金がないとか、そういうわけでは全くない。自分で好んで選んでいる昼食で、かと言って千歳の申し出を断る理由も特段なかった。特別大きいわけでもない弁当からおかずをひとつ差し出そうとする、千歳の心を欲しいと思った。
「母ちゃんの手作り？」
「うん。はい、一個取っていいよ」
「じゃあ、あー」
「え？」
「食べさせて」
あぐらをかいている膝に頬杖をつき、口を開ける。ああ、またこの顔が見られた。先ほどは眺める余裕はなかったが、千歳の染まった頬に気分がいい。挨拶しか交わせず曖昧に霞んでいたが、ちゃんと今も千歳の中に恋心はあるのだと実感できる。
「マジ？」
「マジ。早く」
「う……はい」
「ん。ん、うま」
「それはよかった、です」
「ふは、ごちそうさま」
きちんと持たれた箸で口元に運ばれたそれを、尊はありがたく頂戴した。箸をぼーっと見つめる千歳を咀嚼しながら観察していると、向かいに座るケンスケとナベが芝居がかった会話を始める。
「ちょっと見ました？ ケンスケさん」
「見たわよ、ナベさん。え、今のなに？ あれは本当に花村尊くんです？」
「最近ずっと様子がおかしいけど、今日がいちばんですわね」
もっとしっかり、この胸のくすぐったさを感じていたかったのに。尊は茶化してくるふたりを放ってもおけない。うっせーぞ、と文句を言えばケラケラと腹を抱えるふたりに、けれど千歳も楽しそうに笑うから。まあいいか、と矛を収める他なかった。
「俺トイレ行って教室戻るわ」
「あ、俺も行く」
先に昼食を終えたケンスケとナベは、しばらく四人での会話を楽しんだ後そう言って立ち上がった。五時間目だりーと言うナベに頷きながら、千歳と共に手を振る。尊は食べ終えたばかりのパンの袋を小さくまとめて、いつもの飴を口に含んだ。
「ねみー」
「お昼の後って眠いよね」
「次サボるか」
「それは駄目だよ」
気だるさに負けて、あくびと一緒にサボり癖を現す。すると千歳が小さく眉を寄せた。静かに叱るような諫めてくる様子に、後ろに両手をつきだらけていた体を持ち上げる。この顔は初めて見た。また新たな千歳を発見できた喜びと、自分だけが知っているのかもしれないという期待。優越感に安心感。もっと欲しくて、確かめるように追及する。
「駄目？ どうしても？」
「どうしても。最近ちゃんと出てるじゃん。この後も出よ？」
「……ちー、こないだのしていい？」
「え？ こないだのってな……」
尋ねたくせに了承も得ないまま、千歳の頬に口づける。そっと吹く秋の心地いい風は、浮かれた想いを後押ししているみたいだ。
ほんの一、二秒で離れ、それでも至近距離で瞳を覗くと、頬を押えた千歳が弾かれたように後ずさる。デジャヴ、と小さく笑えば、千歳はなんでと叫んだ。
「なんでって、したかったから？」
「オレ、花村のこと好きって言ったじゃん！」
「うん」
「こ、困るんだけど！」
「好きなのに？」
「好きだから困んの！」
狼狽える千歳の赤い頬が嬉しい。もっと動揺してほしい。自分に心を動かしてほしい。それを見たい。なぜかと問われれば、答えはただただそういった感情だ。
離れたがる千歳を追ってにじり寄る。
「俺のどこが好き？」
「え～……それ聞く？」
「聞きたい」
「……かっこいいとことか。あと、優しいし。他にも色々」
「は？ 優しくはなくね？」
「ううん、花村は優しいよ」
「…………」
“かっこいい”なんて正直、お前もそれか、という印象だ。それに、千歳にどころか誰かに優しくした覚えはない。せっかく気分がよかったのに。優しいに関しては人違いか？ なんて疑問すら浮かぶ。薄らと腹を立てていると、小さくくちびるを噛んだ千歳に意識を呼び戻される。
「……あのさ」
「ん？」
「こういうの、誰にでもするの？」
そう問われ、あやふやだった怒りが明確な形を持った。戯れなキスを仕掛けているのは確かに自分で、勝手だと言われれば返す言葉もない。それでも千歳に、そんな男だと思われるのは不本意だった。
「してたらどうすんの？ 幻滅するか？」
「ううん、そんな簡単に幻滅するような気持ちじゃないよ。でも、これからはオレだけにしてほしい」
険のある言い方になってしまった自覚がある。けれど返ってきたのは強い意志だった。俺様と形容されても仕方ないような口ぶりに、言葉を失う。
尊が知る限り、千歳は周りの空気を読み、同調することを選ぶ人間だ。その千歳がこんなにはっきりと、「オレだけにして」と言っている。
背筋がゾクゾクと震える。甘く痺れるようなそれに支配される。そして次の瞬間には、脱力した笑みが漏れた。
「……ふ、はは。ちーにしかしたことねえよ」
「ほんとに？」
「うん。それどころか、拒んでフラれたことだってあるしな」
「え、マジ？」
「マジ。中学ん時、先輩に言われるがまま付き合ったことあんだけど。キスされそうになって思わず避けたらフラれた。付き合ったのもそんだけ」
「え。じゃあもしかして、オレがファーストキス！？」
「ほっぺだけどな」
しゃがみ直し、膝に頬杖をつく。それからニヤリと口角を上げてみせると、ポンと音でも出そうな勢いで千歳の顔が一段と赤くなった。その顔を両手で覆い、さらに俯いて何度も問うてくる。
「マジで？」
「マジ」
「絶対に？」
「絶対」
「な、んで……」
「んー？」
「なんでそんな大事なもんオレに……あー、いや、なんでもない」
「そこ聞かないんだ」
「告白の答えになるから、やっぱやめとく」
「はは、頑固なのな」
五時間目の予鈴がなり、重い腰を上げる。授業が億劫なのは今も変わらないが、サボるのは駄目だと叱った千歳に報いるためだ。だが、肝心の千歳は未だ腰を下ろしたままで、不思議に思い顔を覗きこんだ時。千歳のまっすぐに光る瞳が尊を捉えた。
「頑固っていうか、慎重なのはさ。花村のこと、諦めるつもりはないからだよ。確実にいきたい」
「……っ」
「じゃあ、オレ先行くね。サボっちゃ駄目だよ！」
屋上に揺蕩う秋の空気と、それから尊の心を大いにかき混ぜて千歳は走り去る。ついさっきまで、千歳と共に教室に戻るつもりだったのに。力が抜けてしゃがみこんでしまい、あいにく叶いそうにない。
あまりに強い想いを改めて差し出されて、面喰らってしまった。速まる鼓動は心を置いてけぼりに、どこかへと走っていく。
「マジかあ」
少しでも気を抜いたら、まだ自分も知らない自分に辿り着いてしまいそうで。空を仰いで、小さくなったキャンディでカラコロと深呼吸を奏でる。
もっとたくさん千歳と時間を共有して、もっとこの高鳴りを感じてみたい。
本鈴の音をBGMに、どうにかもう一度立ち上がる。サボる気はないけれど、遅刻はもう免れない。後ろの入り口から教室に入って目が合ったら、千歳はあの叱るような瞳をまた自分だけに見せてくれるだろうか。
千歳が始めたゲームが終わりを迎え、毎日言葉を交わすようになった。だがそれは、想像していたようなものではなかった。話すとは言ってもせいぜい朝と放課後の挨拶程度で、千歳は尊へのそれと一緒にケンスケとナベにも声をかける。ケンスケくんおはよう、ナベくんバイバイ。さすがのコミュニケーション能力と言ったところか。ケンスケとナベが他人に壁を作る人間ではないのも相まって、三人がよく話すことだって増えた。それはともすれば自分との会話以上で。正直ちっとも面白くない。
押しまくる、って言われたよな？
確かに聞いたはずの宣言は、空耳だったかと疑いたくなるほど不確かになっている。
いきなり切り替えられるものではないのかもしれない。ひと言も交わさずこの半年を過ごしてきたのだし。そう呑気に構えていられたのも最初だけで、一週間が経った頃、ついに堪忍袋の緒が切れた。
「尊ー屋上行くぞー」
「先行ってて」
「あいよ。ほんじゃ後でな」
昼休み。屋上へ向かうケンスケとナベを見送って、視線を千歳へと向ける。むすっと尖るくちびるを自覚しながら、ひとつため息をついてその背中へと近づいた。「ちー」と呼んで、千歳が振り向くより先に首に腕を巻きつける。
「こいつ借りてく」
目を丸くしているのは、千歳がいつも昼食を共にしているクラスメイトたちだ。もちろん千歳だって心底驚いているだろう。だがそんなことに構ってはいられない。ガタン、と椅子ごと揺れた体の向こうの弁当をひっつかんで、千歳の腕を引く。
「ちょ、花村！？」
「昼一緒に食お」
激しく狼狽える千歳に構うことなく、そのまま教室を出る。何事かと静まり返ったクラス中の視線を集めていることも理解はしているが、そんなの別にどうでもいい。
「花村？ なあってば」
無言のまま二年の廊下を突っ切る。階段を上がり、屋上を目の前にした踊り場で振り返る。
「ちー」
「な、なに？」
「こないだそこで言ったのは嘘か？ 俺のこと好きだってやつ」
顎をしゃくって、あの放課後ふたりで話した場所を示す。
「え。嘘じゃない！」
「ふーん。の割にほっとくじゃん」
そこまで言ったところで、自分の行動に息を飲んだ。千歳の手を離し、そのまま口を覆う。勢いのまま連れてきて、嘘だったのかと詰め寄って。これではまるで駄々をこねる子どもだ。恥ずかしげもなく「好きだって言ったじゃん、もっとちゃんと構えよ」といった趣旨のことを言い放ってしまった。
なぜ俺はこんなことを。調子が狂っている自覚にたじろぎながらふと千歳を見ると、赤い顔が見えてしまった。それを茶化すこともできない。自分の頬だって火照っているからだ。初めてのことに、どうすればいいのか分からない。
お互いに彷徨わせる視線は交わらない。だがこの場所に居続けると、余計にどつぼに嵌まるだけのような気がする。
「あー。えっと、飯食うか」
「……うん、そうだね」
誤魔化すようにそう誘うと、千歳も安堵の息と共に頷いてくれた。
屋上に出ると、ケンスケとナベがこっちこっちと大きな声で手を上げた。千歳を連れてきたことに驚いたようだが、おう三上、とふたりはすんなり受け入れる。なにがあったかなんて知る由もない、そんなふたりの明るさに救われる思いだ。
四人で輪になるように腰を下ろす。もっと秋が深まって冬になったら、しばらくはここでの昼食もお預けになる。あたたかさが残るうちに千歳をここに誘えてよかった。自分のテリトリーに千歳を招くことができて、不思議と気分がいい。
「花村、食べるのそんだけ？」
「え？ うん、いつもこんなもんだけど」
先ほどの頬の熱もさすがに収まった頃。隣から注がれる視線にふと顔を上げると、千歳が驚いた顔でこちらを見ていた。今日の昼食は菓子パンがふたつ。確かに満腹とまではならないが、これで十分だ。食後に炭酸水を飲み、キャンディを舐めればそれでいつも満足できる。だが千歳は、少ないと感じたらしい。
「花村、背でかいし足りなくない？」
「身長は関係なくね？」
「オレはお腹空く」
「尊と三上って同じくらいだよな。身長いくつ？」
「180」
「あ、オレも180」
「一緒じゃん。80あんの羨ま！」
身長と食欲の関係性はよく分からないが、共通点がひとつ見つかって少し高揚を覚える。いや、身長が同じくらいでなにを、と自分に内心苦笑していると、千歳が首を傾げながら顔を覗きこんできた。
「唐揚げ食べる？」
「……食べる」
例えばこれ以上買う金がないとか、そういうわけでは全くない。自分で好んで選んでいる昼食で、かと言って千歳の申し出を断る理由も特段なかった。特別大きいわけでもない弁当からおかずをひとつ差し出そうとする、千歳の心を欲しいと思った。
「母ちゃんの手作り？」
「うん。はい、一個取っていいよ」
「じゃあ、あー」
「え？」
「食べさせて」
あぐらをかいている膝に頬杖をつき、口を開ける。ああ、またこの顔が見られた。先ほどは眺める余裕はなかったが、千歳の染まった頬に気分がいい。挨拶しか交わせず曖昧に霞んでいたが、ちゃんと今も千歳の中に恋心はあるのだと実感できる。
「マジ？」
「マジ。早く」
「う……はい」
「ん。ん、うま」
「それはよかった、です」
「ふは、ごちそうさま」
きちんと持たれた箸で口元に運ばれたそれを、尊はありがたく頂戴した。箸をぼーっと見つめる千歳を咀嚼しながら観察していると、向かいに座るケンスケとナベが芝居がかった会話を始める。
「ちょっと見ました？ ケンスケさん」
「見たわよ、ナベさん。え、今のなに？ あれは本当に花村尊くんです？」
「最近ずっと様子がおかしいけど、今日がいちばんですわね」
もっとしっかり、この胸のくすぐったさを感じていたかったのに。尊は茶化してくるふたりを放ってもおけない。うっせーぞ、と文句を言えばケラケラと腹を抱えるふたりに、けれど千歳も楽しそうに笑うから。まあいいか、と矛を収める他なかった。
「俺トイレ行って教室戻るわ」
「あ、俺も行く」
先に昼食を終えたケンスケとナベは、しばらく四人での会話を楽しんだ後そう言って立ち上がった。五時間目だりーと言うナベに頷きながら、千歳と共に手を振る。尊は食べ終えたばかりのパンの袋を小さくまとめて、いつもの飴を口に含んだ。
「ねみー」
「お昼の後って眠いよね」
「次サボるか」
「それは駄目だよ」
気だるさに負けて、あくびと一緒にサボり癖を現す。すると千歳が小さく眉を寄せた。静かに叱るような諫めてくる様子に、後ろに両手をつきだらけていた体を持ち上げる。この顔は初めて見た。また新たな千歳を発見できた喜びと、自分だけが知っているのかもしれないという期待。優越感に安心感。もっと欲しくて、確かめるように追及する。
「駄目？ どうしても？」
「どうしても。最近ちゃんと出てるじゃん。この後も出よ？」
「……ちー、こないだのしていい？」
「え？ こないだのってな……」
尋ねたくせに了承も得ないまま、千歳の頬に口づける。そっと吹く秋の心地いい風は、浮かれた想いを後押ししているみたいだ。
ほんの一、二秒で離れ、それでも至近距離で瞳を覗くと、頬を押えた千歳が弾かれたように後ずさる。デジャヴ、と小さく笑えば、千歳はなんでと叫んだ。
「なんでって、したかったから？」
「オレ、花村のこと好きって言ったじゃん！」
「うん」
「こ、困るんだけど！」
「好きなのに？」
「好きだから困んの！」
狼狽える千歳の赤い頬が嬉しい。もっと動揺してほしい。自分に心を動かしてほしい。それを見たい。なぜかと問われれば、答えはただただそういった感情だ。
離れたがる千歳を追ってにじり寄る。
「俺のどこが好き？」
「え～……それ聞く？」
「聞きたい」
「……かっこいいとことか。あと、優しいし。他にも色々」
「は？ 優しくはなくね？」
「ううん、花村は優しいよ」
「…………」
“かっこいい”なんて正直、お前もそれか、という印象だ。それに、千歳にどころか誰かに優しくした覚えはない。せっかく気分がよかったのに。優しいに関しては人違いか？ なんて疑問すら浮かぶ。薄らと腹を立てていると、小さくくちびるを噛んだ千歳に意識を呼び戻される。
「……あのさ」
「ん？」
「こういうの、誰にでもするの？」
そう問われ、あやふやだった怒りが明確な形を持った。戯れなキスを仕掛けているのは確かに自分で、勝手だと言われれば返す言葉もない。それでも千歳に、そんな男だと思われるのは不本意だった。
「してたらどうすんの？ 幻滅するか？」
「ううん、そんな簡単に幻滅するような気持ちじゃないよ。でも、これからはオレだけにしてほしい」
険のある言い方になってしまった自覚がある。けれど返ってきたのは強い意志だった。俺様と形容されても仕方ないような口ぶりに、言葉を失う。
尊が知る限り、千歳は周りの空気を読み、同調することを選ぶ人間だ。その千歳がこんなにはっきりと、「オレだけにして」と言っている。
背筋がゾクゾクと震える。甘く痺れるようなそれに支配される。そして次の瞬間には、脱力した笑みが漏れた。
「……ふ、はは。ちーにしかしたことねえよ」
「ほんとに？」
「うん。それどころか、拒んでフラれたことだってあるしな」
「え、マジ？」
「マジ。中学ん時、先輩に言われるがまま付き合ったことあんだけど。キスされそうになって思わず避けたらフラれた。付き合ったのもそんだけ」
「え。じゃあもしかして、オレがファーストキス！？」
「ほっぺだけどな」
しゃがみ直し、膝に頬杖をつく。それからニヤリと口角を上げてみせると、ポンと音でも出そうな勢いで千歳の顔が一段と赤くなった。その顔を両手で覆い、さらに俯いて何度も問うてくる。
「マジで？」
「マジ」
「絶対に？」
「絶対」
「な、んで……」
「んー？」
「なんでそんな大事なもんオレに……あー、いや、なんでもない」
「そこ聞かないんだ」
「告白の答えになるから、やっぱやめとく」
「はは、頑固なのな」
五時間目の予鈴がなり、重い腰を上げる。授業が億劫なのは今も変わらないが、サボるのは駄目だと叱った千歳に報いるためだ。だが、肝心の千歳は未だ腰を下ろしたままで、不思議に思い顔を覗きこんだ時。千歳のまっすぐに光る瞳が尊を捉えた。
「頑固っていうか、慎重なのはさ。花村のこと、諦めるつもりはないからだよ。確実にいきたい」
「……っ」
「じゃあ、オレ先行くね。サボっちゃ駄目だよ！」
屋上に揺蕩う秋の空気と、それから尊の心を大いにかき混ぜて千歳は走り去る。ついさっきまで、千歳と共に教室に戻るつもりだったのに。力が抜けてしゃがみこんでしまい、あいにく叶いそうにない。
あまりに強い想いを改めて差し出されて、面喰らってしまった。速まる鼓動は心を置いてけぼりに、どこかへと走っていく。
「マジかあ」
少しでも気を抜いたら、まだ自分も知らない自分に辿り着いてしまいそうで。空を仰いで、小さくなったキャンディでカラコロと深呼吸を奏でる。
もっとたくさん千歳と時間を共有して、もっとこの高鳴りを感じてみたい。
本鈴の音をBGMに、どうにかもう一度立ち上がる。サボる気はないけれど、遅刻はもう免れない。後ろの入り口から教室に入って目が合ったら、千歳はあの叱るような瞳をまた自分だけに見せてくれるだろうか。
