[十二話]
「……お、奈音!」
「へっ?」
 うちはクラスメイトに声を掛けられて、ハッと我に返る。何をしていたかを一瞬思い出せなくなる。
「この参考書、めっちゃわかりやすかった!まじありがとう〜!」
「あぁ、それは良かった」
 そうか、うちはこの子におすすめの参考書を貸していたんだ。すっかり忘れていた。うちは「また何かわかんないところとかあれば言ってね」と笑って鞄に教科書を詰め込む。
 高校三年の冬、もうそろそろ受験本番だ。受験シーズンに差し掛かった今、高三生は一部を除いた殆どが受験勉強のストレスと親や先生からのプレッシャー、不安な想いでピリピリし始めた。
 でもうちは、もう昔のように試験ギリギリに焦らない。受験のために、ずっとずっと努力してきた。
 あの時柚凪と離れてからは、何をしていても楽しくなくて虚しくなるだけだった。うちはずっと続くと思っていた幸せを自分の手で手放してしまった。二人で一つと言えるほど、柚凪はうちにとってかけがえのない存在だった。
 大切な物を失った事を誤魔化すように、うちは事あるごとに教科書を開いて勉強するようになった。
 嫌いなことをしていれば、少しでも寂しさは紛れるかと思ったから。嫌いなことをしている間は頭を真っ白に出来るから。
 うちは、繰り返し教科書の内容を勉強する度にどんどん教科書の内容が脳内に入っている事に気付いた。何度も繰り返しノートに単語を書いたり問題を解くごとに、今まで理解できなかったことが理解できたような気がした。 そして、新しい学校で行われた初めてのテストで全教科九十点以上の成績を収めた。
 自分に合った勉強法を見つけてから、成績は急上昇した。うちの成績が急上昇してから、うちは急に皆からチヤホヤされて、沢山話しかけられるようになった。
 それのお陰で、人間は直ぐに手のひら返しをするのだと気付かされた。
 高校は近所の有名な進学校を希望して、特待生で合格。お父さんはびっくりしながらも、凄く喜んでくれた。今までで一番の笑顔、というほど笑っていた。その姿はとても喜んでいるように思えた。
 うちにとっても嬉しい事の筈なのに、どこか他人事のように感じてしまった。まだ心にぽっかり空いてしまった空洞も埋まらないままで。
 頭が良いという事で一変した態度を見てうちは気付いてしまった。うちと仲良くなりたいなんて本当は思っていなくてただ、利用したいだけなんだと。
 それに気付いてからは段々本当の自分を見せるのが怖くなって、高校に入ると自然に自分を偽るようになった。先生にも、友達にも、お父さんにも偽っていた。
 面倒なことでも自分から積極的に取り組んで、自分の株を上げる。
 そう普段から善行を積んでいるお陰か、うちは高一にして生徒会長に推薦された。高一から高三までずっと、生徒会長でいたなんて昔の劣等生のうちが聞いたら唖然とするだろう。
 高校でついた真面目な生徒会長キャラというイメージを崩さないようにいつもニコニコ笑うようになった。
 辛くても笑えるように、悲しくても泣けないようになってしまったのは良い事なのか悪い事なのか分からない。 まぁ、感情が欠如していても、うちには問題なんてない。
 きっとあの時、柚凪を突き放さなければこうはなっていなかったよなぁ……と溜息を吐く。
 もしも、柚凪とあの時離れていなかったらこんなに急成長はしなかったと思う。ずっと自己否定ばっかりで努力もしないうちが容易に想像できる。
 でもうちは急成長なんて、人望の厚さなんて望んでない。うちはずっと柚凪とくだらない事で笑い合っていたかった。それだけだったのに。あの楽しい時間はもう二度と訪れない。
 折角、柚凪と一緒に生まれ変われたのに離れてしまうなんてどれだけ運が無いんだろう。
「会長〜!」
 鞄を肩に下げて教室を出た矢先、うちを慕ってくれている一人の少女に声を掛けられた。碧と書いてあおいと読む名前の後輩。見た目はふわふわしている可愛い女の子で、性格は優しいけど、友達や大事な人の事を悪く言われると黙って置けずに怒る。怒ると子供のように泣きじゃくりながら罵声を浴びせる。その罵声は大分的確でグサッと刺さるものだから、碧ちゃんを怒らせた者はもう二度と同じ事を繰り返さないのだ。
 碧ちゃんは、うちが生徒会の会計担当に任命してから仲良くなった。
 もう生徒会長は引退しているから会長という呼称は間違っているけど、もしも何かに困っているなら助けてあげたい。力になってあげたい。
「もう会長じゃないけど……どうかした?」
「こっ、高二の怖い先輩方がゴミ捨て場に居て、ゴミ捨てに行けないんです……」
 なるほどとうちは納得した。最近よく見かける高二の集団だろう。校則は平気で破るし、先生にもあからさまに生意気で反抗するような人達。
 確かに、それは怖い。
 ただでさえ一年生から先輩に注意するのすら大変なのに、柄の悪い、怖い先輩に注意するなんてもっと勇気がいる筈だ。それにあの人達は注意すると逆ギレして来るし、面倒なんだよなぁ。
 だけど折角だし、頼まれる事にするか。危ない所にこの子一人で行かせるわけにはいかないし。頼りになる先輩として信頼されているうちが行くべきだ。
「それなら、うちが持ってっとくよ」
 行こう、と決意するより前に口が動いていた。面倒でも、この子が怖い思いをするよりかはずっと良い。
「え、良いんですか⁉︎ありがとうございます!」
 ぱぁっと安心したように笑う所を見ると、矢っ張り引き受けて良かったと思う。
 うちが「良いよ、気にしないで」と微笑んで手を振ると、碧ちゃんはぺこぺこしながら去っていった。
 鞄を肩にしっかり掛け直して、ゴミ袋を持つ。このゴミ袋、想像以上に重かった。うちの体力が落ちただけかもしれないけど、よくこんな重いの軽々と持てたなぁ……。
 ぐっと手に力を入れてゴミ袋を持ち上げる。引き受けたからにはしっかりやり遂げないと。
 手にかかっていた重さが突然ふっと無くなった。
「会長、何やってんの?」
「だからもう会長じゃない……って佐藤?」
 いつの間にか、うちの隣にはクラスメイト兼元生徒会副会長の佐藤湊が立っていた。
 佐藤は世間一般からするとイケメンと騒がれる類であり、その上成績優秀、運動神経抜群で、出来ないことが無いという程何でもできる。
 唯一の欠点を挙げるとすれば仲が深まるとはっちゃけてきて、口が悪くなることだろうか。黙っていれば完璧な所は柚凪にそっくりだ。
 生徒会のメンバーは、特別大きな問題を起こしていない人以外は誰でも生徒会長が選んでいいという決まりがある。だからうちは、三年間ずっと佐藤を副会長に任命し続けた。
「俺は今から帰ろうと思って……てか、もう勉強わかんなすぎて頭痛い」
 佐藤は「面倒くせぇ……」と深いため息をつく。
 放課後はいつも学校で一人で自習しているか、家に帰って塾で勉強しているか、いつでもどこでも勉強をしている佐藤はいつも目の下にクマができていて寝不足なのが一目でわかる。でも佐藤は勉強好きだから勉強をしているわけではなく、希望している大学が物凄く高レベルの物だからだ。うちの希望している大学よりもかなりレベルが高い。
 担任にも、お父さんにももっと高いレベルを狙えると言われたけれど、佐藤みたいにずっと勉強するなんて考えるだけで気が滅入りそうなので全力で拒否した。うちは自分の意思で、少し頑張れば入れるくらいのレベルの県外の大学を希望した。
 でも佐藤は違う。両親の意思で、難関大学を受験させられる。聞いてるだけで面倒くさそうなのにそれに従順に従っているだなんて、いい子なんだなぁとしか思えない。嫌なら拒めば良いだけなのに。
「じゃあ今日くらいは休めば?じゃあ、お大事にね」
 うちは佐藤の手にあるゴミ袋を返してもらう。多忙で疲れている筈なのに、わざわざ着いてきてもらうのもあまり良い気分はしない。佐藤に背を向けて、校舎裏にあるゴミ捨て場まで向かった。

 残念ながらうちがゴミ捨て場に行った時にもまだ高二の集団は居た。男女共に楽しそうにケラケラ笑っている。
 楽しそうにしているのは良い事だけど、どうしてわざわざゴミ捨て場の前でたむろするんだろう。話すなら他にもっと良い場所ありそうなのに。
 丁度通りたい所の前に立たれているから、ゴミを捨てようにも捨てられない……。
 嫌だけど、仕方ない話しかけるしか無いのか。
「ねぇ、そこちょっと良い?」
「はぁ?何で?」
 出来る限り穏便に済ませたい。イラっとする気持ちを抑えて、笑顔を作る。
 受験を控えているのに武力で制圧なんか出来ない。そんなに武力は無いから考えても仕方ないけど。
「ゴミ捨てないとなの」
 誰も何も言わない。無視されてるのか。聞く耳持たないんだから諦めて帰れ、と?
 仲良くも無い、話したこともあまり無いのに敬語も使わず、悪態をつかれる。もう平穏に解決することは難しいのかもしれない。
 うちは強硬手段を選ぶ事にした。向こうがそういう態度なら、うちも別に優しくしてあげる必要は無い。
「ちょっ、何するんだよっ⁉︎」
 うちは無理矢理集団に突っ込んでいく事を選んだ。突然突進してきたたうちにびっくりしたのか、ぽかんと大口を開けて驚いている姿が視界に入る。まさか会長ともあろう人がこんな無理に突っ込んでくるだなんて誰も思わなかっただろう。作戦成功!と心の中でガッツポーズする。
 しゃがんで、ゴミを整えてうちが立ち上がると丁度拳が振り下ろされた。
 殴られる……⁉︎うちは再びしゃがんで、目を瞑る。防御姿勢を取るうちに拳は当たらなかった。
「折角俺が守ろうとしたのに、避けちゃったら格好つけれないじゃん」
「さっ、佐藤先輩⁉︎」
 恐る恐る目を開けると、そこにはさっき別れたばかりの佐藤が立っていた。佐藤は殴りかかってきた後輩の拳を片手で、涼しい顔をして受け止めていた。
「……えぇ、格好つけようとしたの?」
 佐藤が咄嗟に庇ってくれたのは本当に助かったし、凄いとも思う。でも、格好つけようとして計算された行動だと考えるとちょっと……。百歩譲って格好つけようとしてるだけなら何も思わない。せめて、それを口に出すな!
 そんなナルシストみたいな事を言ってたら佐藤がヤバい人みたいになる。実際ちょっと鳥肌ものだった。
「おい、引くな」
「……引いてないよ?」
「嘘つけ」
「じゃあ、引いた」
「どストレートに言い過ぎだろ」
「もー、どうすれば良いわけ?」
 どう言ってもツッコミを入れられて、つい面白くなってケラケラ笑ってしまう。そんな時、突然オロオロと顔を青くした後輩が「あ、あのっ、すみません!」と謝ってきたのだ。さっきの態度とは大違いだ。
「あー……俺に謝るんじゃなくて、会長に謝ろうな」
「は、はい!会長すみません!」
 その子はうちに頭を下げて謝ってきた。びっくりして「え」と声を出してしまう。うちにまで素直に謝らせるなんて一体佐藤はこの後輩に何をしたのだろうか。あんなグレた後輩に怖がられているなんて、はべらせているだなんて衝撃的過ぎる。佐藤意外と怖い。
「……佐藤の後輩は下僕か何かなの?」
「え、知らん」
 佐藤はうちに「じゃ、帰るぞ」と手招きをする。うちは素直にそれに着いていく。
 展開が早すぎて、どれがどうなっているかわからない。
 高校入学からは、ずっと誰にも素の自分を曝け出せていなかったけれど、佐藤にだけは昔の自分のようなままで居られる。
 素直になれない、感情がまだ欠如していない昔のうちのままで。どうして佐藤の前だけはそう在れるのか、どうして素の自分を曝け出せるのか。うちは知らない。