「じゃ、皆集まったね。今から合同練習を始めるが、その前に自己紹介をしましょう。1年生から、はいよろしく」
 早口でジン先生が指示をし、僕と視線がかち合う。端の席に座っていたのが災いした。早く、とあごを動かす先生。ツイてないなあ、と思いつつも年長者の僕から行くのは妥当なのかもしれないとひとり納得し、席を立った。
「1年のリオです。パートはテナー。好きな食べ物は……食堂のクロワッサンです。よろしくお願いします」
 パチパチと好奇心に満ちた拍手が2年生の方から聞こえる。僕の近くのクラスメイトは、来る自己紹介に緊張気味なのか拍手をする手が妙にガクガクしている。
 馴染みの九人の自己紹介を改めて聞くと、なんだか面白くて笑いを堪えるのに必死だった。特にチェンとロンは双子なのに、好きな食べ物がそれぞれパンとパスタで対立しているのが可笑しい。その上、勝ち気なチェンとイースに負けず劣らず超真面目なロンは性格すら真逆と来た。なのに性別も同じで見た目もそっくりなのは神様のいたずらといったところだろう。
「皆、もう少し真面目に自己紹介をしたらどうなのかね」
 僕たちの自己紹介を聞いたジン先生がイライラした様子で苦言を呈する。貧乏ゆすりをやめてジロリと僕たちを見舐める。
「まあまあ、いい歌い手が集まった期ですよ」
 トム先生がジン先生をなだめる。そのほほえみにチラリと目線を移し、はあと大きな溜息をつく。そしてジン先生は2年生に「じゃ、先輩らしくよろしく」と自己紹介を促した。
「ホミーです。一応この期の代表やってます。よろしくね」
 人懐こい笑顔を浮かべ、ホミーは一番乗りで自己紹介を買って出た。
「何か先生に言いづらいこととか、好きな映画とか、何でも俺に聞いてね」
先生に言いづらいこと、の部分にジン先生が眉間にシワを寄せる。その様子にはは、とホミーは笑いながら隣の席に座る男の肩を叩いた。
「じゃ、次はマキ」
 叩かれた肩にびくりとし、戸惑ったように……いや、渋々とマキは立ち上がった。のそりと立つ長身が、所在なさげに肩を丸める。
 が、口を開かない。沈黙が5秒、違和感に気づいた生徒たちは視線をマキに遣り始める。ねえ、どうしたの? あれ、先輩? 心配そうなひそひそ話が湧き始める。
「――先輩、なんでしゃべらないの」
 どこからともなく聞こえた疑問符。その声にマキの眼球が動く。僕の、隣へ。ケントだ。無邪気な疑問は、誰もが声に出すことを遠慮していた内容そのもの。
 様子見をしていたホミーがたしなめるように声をかける。それに身体を少し揺らすと、マキは微かに口を開いた。
「バス」
 必要事項だけぼそりと言うと、マキは直ぐに席についてしまった。何、あの人。という雰囲気が漂う。そして、妙に大人びて見えたマキに僕はどきりとした。そのあとの先輩の自己紹介は右から左へさっぱり頭に入らず、僕は機嫌の悪いジン先生の「はい、さっさと練習始めます」の声でハっとした。
「ホミー、ピアノの先生呼んできて」
「うーっす」
 先輩は駆け足で音楽準備室の方へとドアを出る。その間に、ジン先生が手早くペアを組ませる。
「あっち、お前はこっち。そこ、無駄話すんな」
 恐らく高低でペアを組んでいるのだろう。僕はあっという間にケントと離されてしまった。
「マキ、お前リオとペア」
 よりによって。気まずい相手になってしまった。不平を言おうにも、ジン先生はさっさと振り分けをし、音楽室に戻ってきたホミーの方へと向かってしまった。
「ホミーはチェンと」
 ピアノの先生が、天板を開ける。ピアノを囲むように半円状に立つ。
「じゃあ、始めますね。いつも練習してたと思うけど、コンコーネ50番。頭から行きます」
 決して難しいメロディではないけれど、丁寧さが求められる基礎的な練習曲集であるコンコーネ。自分自身の声だけでなく、隣に立つ人の歌声にもきちんと耳を澄ませる必要がある。隣に立つマキの背丈は、僕よりも頭ひとつ高くなっていた。いつの間に、という雑念が頭をよぎる。
「1年、集中して」
 ジン先生の激が飛ぶ。その声にひやりとした。僕の頭上から響く歌声。その旋律はピッチがきちんと合っており、自分の声が上ずっていることに気づく。バスにはつらい音程であるはずなのに、マキは驚くくらい正確に音符を打ち当てている。コンコーネの悠長なメロディさえも、マキが歌うと色づいて聞こえる。言うなれば、森のような緑。ブレスのときに聞こえるその息の音さえも、崇高なものに聞こえた。
 ピアノの音が止み、一旦終了だ。
「じゃ、お互いに指摘してね。1年から」
 指示の元、音楽室は向かい合ってお互いに言う感想でざわつく。やれ、ドの音がうまく戻ってないだの、あそこの休符はブレスじゃないから吸うと良くないんじゃないかだの。
「マキは……すごく、良かったと思う」
 向き合っておずおずと感想を言うと、表情をぴくりともせずマキは小さく頷いた。じゃあ、僕に何かアドバイスを……と思い、マキからの指摘を待つ。しかし、マキは口を一向に開こうとしない。
「何か、アドバイス貰えると助かるんだけど。うん、まあでも……さっきは全然、駄目駄目だったと自分で気づいてる」
 何も言わないマキの前で、自己反省会をしているだけになっていた。
「マキ……せ、先輩は、どう思いますか」
 かつての同級生に先輩という呼称をつけるのに躊躇いを感じてどもる。しかしマキからの返事を貰う前に、指摘するための時間は終わって次の曲へと進んでしまった。 上と下に分かれて和音を歌うときに聞こえる歌声は間違いなくマキのものであるのに、マキから僕に向けた言葉を貰うことはできない。僕は、嫌われているのだろうか。しっとりとした歌声が出る口元をじいと見上げると、僕とは違う低い声が耳朶を底からじわじわと震わせる。見つめる先に引っ張られ、僕の姿勢はわずかに崩れる。
「体幹、基礎だよ、基礎。なんで今さら」
 僕の背中をパシンと叩き、ジン先生が怒りを露わにする。
「あごをあげない。高音きついなら重心は下! 相手見て歌えつったけど、見つめるな!」
 僕の姿勢がぐいぐいと矯正されるのを見下ろしながら、マキは淡々と歌い続けていた。見つめるという単語に何故か体温がぎゅうと上がる。