隣の教室から怒鳴り声が聞こえてクラスの生徒たちは反射的に肩をすくませた。低い声が地鳴りのように何かを言っているのが木製の壁越しにこちらまで聞こえてくる。
「マキ、いい加減にしろ」
彼のこと、だった。しかし、僕の記憶にあるマキの姿と、隣の教室で叱られている人物像が一致しない。マキという男は、そういうふうに怒られるほど不器用な人間ではなかったはずだ。無論、それは僕に見せていたマキの姿がピアノ教室での一面に過ぎなかった可能性は否定できないが、だ。器用で、快活。僕より後にピアノ教室へ入ったのに、あっという間に先生とも打ち解ける人としての明るさを持つ。職人肌というよりは、天才。僕がぐるぐると悩みながら完成させる曲の真横を、軽やかに駆けてゆく。記憶の中のマキと、学校で人づてに聞くマキが微妙に重なり合わない。僕の知らないマキに変わっていた?開け放たれていた窓から木々のざわめきが聞こえる。手元にあった音楽史の教科書が急に白けて見える。マキはもう僕の知っている、彼ではないのかもしれない。唐突に浮かんだ疑念が、僕の脳を支配していた。
「それにしても、トム先生はどこいったんだろね」
 ケントは困った顔をして言う。授業を担当していたトム先生は、用意した資料を印刷室に置き忘れてきただとかでもう10分くらい席を外している。教室の中は、先程の騒動のせいでざわつき、誰も集中できていない。同様に、僕も教科書に目を滑らせ頭の中ではマキのことに考えを巡らせていたから大概だ。
「ちょっと先生呼んできます」
 僕が立ち上がると、お調子者のチェンは「ラッキー、お願いします」と笑った。印刷室のある部屋へ向かうと、トム先生が落としたプリントを拾い歩いているところだった。白髪のまるでサンタクロースさんのような先生は、僕に気づくと「すまんねえ」と頭をかいた廊下に散らばる紙を、しゃがんで拾い集める。
「先程、隣の教室で恐らく……ジン先生が声を荒げていらっしゃったのですが、大丈夫でしょうか」
「ああ、ジン先生ね。うん、ちょっと生徒と……ね」
 先生は白いひげをもごもごと言い辛そうに動かす。
「なに、普通にしていれば、先生たちは意味もなく怒ったりしない。大丈夫だ」
 夏の盛りに合同練習が催されることになった。まだ授業で使ったことのない、大きな第一音楽室に集められた20人の生徒と、2名の教師。ここにも慣れてきたが、大半の先輩の顔と名前は一致しておらず薄っすらとした緊張が1年生の間にただよっていた。