「……昨日さ、今日が最後とか言ったけど、退寮日の今日が本当の最後だったね」
「ほんとだよ」
 と呟く2人に、嫌な教師が首を突っ込んできた。
「マキ君~、卒業おめでとう」
 割入ったのはジン先生だ
「……どうも」
 どの顔を下げて言うんだ、というような刺々しい言葉を飲み込む。ピリっと凍り付いた空気は、普段なら周りの生徒が異変に気付くだろうが、退寮日は誰もが自分のことで精一杯で3人の様子に気づくものはいない。
「リオ君も、先輩と仲直りできたようでよかった」
「あ、はい……」
 仲直り、という言葉に嫌味を感じるのは気のせいではないだろう。僕は嫌悪感をうっすら抱きながらも笑顔を浮かべようとしていた。
「じゃ、先生たちは忙しいので」
 ジン先生は足早に職員室のほうへと去っていく。
 その姿を見送り、2人きりになると再び微妙な空気が漂った。
 退寮で忙しいマキを引き留めたのは僕なのに、つなげる言葉が見つからない。先輩、と引き留めた僕自身を恨みたくなる。
「あの……、うん」
 昨日の口づけを思い出し、言葉が出なくなった。あれだけのことで、どうして動揺してしまったのだろう。きっと、相手が、ずっと恋焦がれ、拗らせていたマキだったからだ。
「あれは、二人の秘密」
「……っ」
 な、とマキは念を押した。ふわりと小首をかしげ、僕に小さな声をかける。
「うん……」
 あんなこと、ほかの人に言えるわけないじゃないか、と思う。同い年のはずなのに、大人びて見えるマキにとってはそうではないのだろうか。近づいたようで、まだわからないことばかりのマキの姿に、ふとさみしさを感じた。
「マキは進路、どうするの?」
 ついぞ今日まで聞けなかったことを訊く。マキは淡泊な表情を浮かべたまま、口を開かない。
 遠くの渡り廊下を歩くひとの足音が聞こえる。それくらい部屋の前の廊下は静まりかえっていた
「言ったらまた着いてくるんだろ」
 呆れ口調でマキは笑う。
「付いていっちゃダメなの?」
 率直な疑問をぶつけるとマキは形容しがたい表情を浮かべ、僕に言った。
「一緒に逃げてくれるならいいよ」
「何から逃げるの?」
 マキの提案の意味が分からずに、再び質問を重ねた。
「俺たちが恋人になることを邪魔するものから」
 後ろ手に組まれていた大きな手のひらが、僕の頭にぽんと置かれた。そのまま、子犬を撫でるように髪をぐしゃぐしゃにされる。
「……だれも邪魔してない、はず」
「理音はそう思うんだ」 頭に置かれた手のひらが温かい。そのままマキは、左手で僕の顔をやさしく包んだ。
「じゃあ、待ってる」
 吐息とともに唇が僕のものへと重ねられる。やわらかい粘膜の感触が、小鳥のさえずりのように幾度となく繰り返される。
 キスが止んだあと、マキは微笑みながら僕をやさしく突き放した。
「またね」
 マキは手を振る。
 僕は、声も出せずに手を振り返し、自分の部屋へと戻った。
 ひとりで歩いた距離は、そう長くはない。だが、とても長かった。
 指先に残る赤い血の跡は、ゆいいつ形に残った〝約束〟に思えた。

 部屋にはイースがひとり、席について本を読んでいた。
「おかえり」
 眼鏡を押し上げ、穏やかな表情を僕に向ける。
「雨は上がりましたか?」
 その言葉に窓のカーテンを開くと、木漏れ日がまっすぐ床に差し込んだ。ガラスの向こうは、新緑の木の葉が日差しに照らされている。葉の水滴は、宝石のようにきらめいている。
 通り雨は過ぎ去ったようだ。