朝の空気の遠景に、桜が咲いていた。身を柵からぐいと乗り出すとより鮮明に見える。白い柵は、長らく人が触れていなかったせいでささくれ立っていた。
「あの川沿いの?」
「それです」
 桜並木という単語がポン、と思い出された。多分それは、日本に残る家族から向けられた言葉だろう。イースは目が悪いので、思ったより見えないようだ。眉間にシワを寄せている。この学校は丘の上に建つため、ニデルバ川沿いのサクラ以外にもふもとの街の様々な春の訪れが小さく視界に収まっていた。今日僕たちがいる側からはふもとの街が見え、この反対側からは海が遠くまで望めるだろう。灰色から彩度を取り戻した海は、春を象徴する。何も言わずに、見覚えのある姿が訪れた。そしてイースと僕の間に立つ。
「……っ、マキ先輩」
「そんなに驚かなくても……」
 姿は遮られたせいで見えないが、慌てたイースの声が聞こえた。おはよ、とマキは軽くこちらを振り向いた。
「日本にはさくら さくらって曲があるんだ」
「さくら、ですか」
「知らない?」
「知識不足で……どんな曲ですか」
 イースが問いかけると、マキはそっと歌い出した。
 ――さくら さくら。
 野山も里も、見わたす限り、かすみか雲か。朝日ににおう、さくらさくら、花ざかり。
さくらさくら、やよいの空は、見わたす限り、かすみか雲か。匂いぞ出ずる、いざやいざや、見に行かん。
「……みにゆかん」
「見に行こうって意味」
 街並みに向かってささやくように唄ったマキは、歌い終えると身を一歩引いてさらりと教えた。日本語の意味を伝えられたイースは、ぱあっと表情を緩ませ頷いた。
「いいですね。すごく、すごく。春だ」
 もういちどイースは柵にもたれ、桜並木を向くがこんどは目を凝らさず、目を閉じていた。
「サクラの匂いは……わからないですね」
「遠すぎだよ」
 思わず突っ込むと、イースは残念そうな顔をした。
「卒業式のあと位にある、今年の演奏旅行が日本だったらサクラの匂いが分かったかもしれないのに」
「もうその頃には散ってるよ」
「あ、そっか……日本はもっと暖かい所だもんね」
 校舎裏の土は春の温度に少しぬかるんでおり、3人の足跡がばらばらと残る。
「先輩は日本に戻られるんですか?」
「ん……いや、日系だけど学校に入るまでは地元にいたから。戻りはしないかな」
「ということは進学ですか」
 イースの質問にマキは答えあぐね、僕をチラリと見ると目を細めた。
「秘密」
「ええ……そんな」
「知ってどうするの?」
「……ケチですね、先輩」
 イースは分かりやすく拗ねた。知ってどうするかって言ったら、言いふらすんだろう。僕は呆れながらも、胸があったかくなり、思わず笑い声を上げた。マキが卒業後、どうするのか全く知らなかった。この学校の卒業生は、音楽家として活動する人もいれば、音大へと進学する人もいる。地元では、音楽の先生として引く手あまただと聞いたこともある……。つまり、主席での卒業が決まったマキは本当によりどりみどりのはずだ。きっと僕が訊いたら答えてくれる。だが、何となく訊くのが怖かった。訊いたらそのまま、いなくなってしまいそうだったから。突風が街に吹き、ふもとの桜並木からばあっと花びらが舞い上がるのが見えた。