「今日はありがとう」
 改めて礼を言い、僕は参考のために借りていた譜面を準備室へ戻そうと思った。日は沈み、部屋はうす暗くなり始めていた。
「いや」
 ぶっきらぼうにマキは言い、僕の手元から譜面を取る。え、と疑問の声を上げると「俺が片付けたほうが早い」と言いながら、扉を開け、はす向かいの準備室へと去っていった。親切にしてもらったは良いものの、ひとりマキを置いて帰るわけにはいかないため、座っていた椅子を部屋のすみに寄せた。
「ありがと、マキ……」
 ガタンと背中の方から、ドアを開ける音がしたため、反射的に答える。
「随分仲良しじゃない」
 しかし、その声はマキではなかった。目を見開いて振り返ると、そこにいるのは帰ってきたマキではなく明らかな闖入者……、ジン先生だった。 何もやましいことはないはずなのに、僕はギギ、と音がなる幻聴を感じながら身体を向ける。
「ジン先生」
「いやあ、マキ君の声が聞こえてきてさ」
 奇妙なくらいゆっくりとした口調で僕に話しかける。真意が見えない。いや、何も先生は僕たち生徒に悪意を持つことはないと信じている。しかし……そう信じきれないくらいに、先生は僕のパーソナルに踏み込んでくる人間だった。
「マキ先輩に、見てもらっていたんです」
 何でもないですよ、と先生に微笑みかける。だが、先生は立ち去らない。
「あなたの知らない〝先輩〟のこと教えてあげようか?」
 先生はずいと距離を詰めて、声を潜める。
「な、何ですか」
 気圧された僕は、声が上ずる。くせっ毛の酷薄な目がギリギリと揺れる視線を追いかけた。
「彼、先生とキスしたことあるの」
「へっ……あ、はあ」
 心臓が止まりそうになる。つい唇へと視線を移すと、先生のうすい唇はいびつに持ち上げられている。笑っているのだ。
「リオ君は、先輩のどこまで知っているの?」
「どこまで……って」
「先輩はね――」
 続けられた耳を疑いたくなるような内容に、呼吸が止まる。どういうことですか? という質問が喉までせり上がって、出てこない。先生にいままで言われた言葉が走馬灯のように頭を走り、混乱する。しかし右足の甲を踏みつける先生の革靴に気づき、何も言えなかった。先生は、明らかに僕を攻撃している。マキは、先生と付き合ってたのか。それでもって、それが恋だったのか。僕は、先生に邪魔をするなと〝脅されて〟いるのか。
 その時、マキが怒声を上げて練習室へ入った。その姿に気づいた先生は、僕の制服の襟首を引っ掴んだ。だがその手を思い切り叩くと、マキは奪取した僕を引きずって音楽室から出た。引きずられながらも、なんとか歩調を取り戻した僕はマキを見上げる。表情の読めない横顔は淡々と言う。
「このまま部屋に戻るのは危ない。あのメガネにも迷惑がかかる」
 無理やりな向きで脚が捻られたせいで、右脚がズキズキと痛みだしてぐらつく。しかし何とか付いていくと、そこはマキの部屋だった。 部屋に慌てて逃げ込み、マキはすぐに鍵を閉める。先生の方でマスターキーを持ってはいるだろうが、掛けないよりはマシだ。自分に宛てられた部屋よりも随分広く、がらんどうさに戸惑った。
「ケントが……」
 あ、そうか。最後まで言わずとも、僕はその呟きを理解した。後輩が出ていったあと、マキはずっとひとりで2人用の寮部屋に暮らしていたのだ。この学校を途中下車する人も、途中乗車する人も滅多にいない上にマキが2年生であったため、このままだったのだろう。片付けられ、骨組みだけになったベッドに腰掛ける。マキも同じように、対面に座った。とられた距離はそう遠いものではない。しかし、2人の呼吸はお互いに判らないくらいには遠かった。
「邪魔だった?」
 先生の暴露を受け、僕は下手(したて)に出る。
「嘘じゃないんだ。この前の言葉は」
「……うん。でも、さっきね、マキは先生と付き合ってるみたいなことを言ってた」
「それは……っ」
 違う、とマキは困った顔をする。
「僕がマキを好きなのだけ、知ってくれればいいよ……別に」
 どうすれば正解なのか、不安に思いながら僕は告げた。でも、と言葉が漏れる。
「良くない……っ。好きになって、よ」
 ポンと本音がこぼれた。自分の中にある謙虚な自分と、我儘な自分が相反した意見を出していることに気づいていた。けれど、わからなくなっていた。
「もう半年もしたら卒業だよ。そうしたらもう二人で話すこともなくなってしまう」
 マキは鬱屈した表情を向けた。
「お前がそんなんじゃ、困るんだ」
「好きって言ってよ」
「お前が言ってくれなくちゃ、駄目なんだ」
 言ったら、応えてくれるの? マキの瞳はまっすぐに僕を向いていた。不安そうな表情と真逆に、緑色の光彩はしっかりとこちらに向いている。
「……好きだよ」
僕は立ち上がり、マキの方へと歩み寄った。
「ずっと、好きだよ」
 ――変わらずに、ずっと好きだ。
そのまま胸に飛び込むと、マキは拒絶せずに僕を抱きしめ返した。少し小柄な僕は、マキに抱きしめられると身体に埋もれるようになる。冬制服のブレザーはごわついて、ボタンが頬に冷たく当たる。
「……ねえ、キスのひとつもくれないの?」
 我儘を言う。眦を下げながら、マキは見上げた僕の前髪を掻き上げた。
「いいよ」
仕方がないな、と頭を撫で、僕のあごを掬い上げた。電気のついていない部屋はとっくに東から昇った、月明かりだけになっていた。チラリと月の光に輝く僕の瞳を3秒見つめたのち、マキはまぶたを閉じてキスを落とした。 柔らかい純真無垢な唇を食まれて、冷気とは違うあたたかな息が吹きかかった。押し付けて、跳ね返る若い恋慕にマキは戸惑い、胸の内に上がる熱を確かに感じていたのだった。

 あの夜に握りしめられた、手のひらの感覚をにぎにぎと確かめる。試験も終わり、差し迫ってやらなくてはならない用事もない夕方。あんなに冷え込んでいた冬は終わり、春が訪れようとしていた。
「ん、もう風呂は入ったのか?」
 部屋のドアがノックもなしに開いたと思ったら、イースが首からタオルをかけて陽気に帰ってきた。
「うん。1時間前くらいに」
 授業終わりに行くと、一番風呂をゲットできる可能性が高いのだ。運が悪いと清掃のオバチャンに怒られるが。
「イース、学年主席おめでとう」
 ちょうど今日発表だった進級考査の結果を言うと、イースは誇らしげに笑った。
「知ってたのか」
「うん、風呂上がりにチェンから聞いた」
 職員室の前に掲示される主席の次席の名前は、今日の授業終わりからだと伝えられていた。