2年生の担任講師、ジン先生とこうして個人授業するのは初めての機会だった。
「緊張しなくていいよ」
 微笑みを浮かべられるが、いつもより呼吸が浅くなる。
「でも、そんなもんだよね。じゃあとりあえず声聞かせて。いつものこれで、はい」
 先生はピアノを弾き始める。ドから音階を上がっていく基礎的な音域確認。先生を前に一人で声を出すと、想像していたよりも僕の声が音楽室に響き、ビクリとした。
声を確認し、先生は思案しながらクリスマス曲の譜面をぱらぱらと捲る。その中から一つを手に取り、譜面台に置いた。
「じゃ、この曲やろうか」
 選曲に僕は驚いた。何も言っていないのに、先生は的確に苦手を感じている曲を選んだのだった。やはり、この音楽学校の講師は一流の方が揃っている。改めて感じた学校の凄さに慄いた。
「愛する人に」
 テナーのユニゾンから始まる曲の旋律そのものは難しいものではない。明らかに、歌詞が理解できていない……そんな気持ちが、歌声に滲んでいるのだ。
「曲の背景を説明してもらえる?」
「これは、愛する人に向けた……クリスマスを楽しみにしている男女の歌です」
「うん、そうだね。教科書的には満点。でも、先生が聞きたいのはそれじゃない。どうして、こんなにも2人はクリスマスを恋い焦がれるのか。その理由は?」
 五線譜の下に印刷されている文字を辿る。男はクリスマスツリーの下で、女性を待っている。時間になってもなかなか姿を見せない相手に男は不安な表情を浮かべる。銀色の時計の下で同じように待ち合わせをしている人の群れを必死に探す。時計の針が回る様子を何度も見る。
「2人がデートを楽しみにしていたから?」
「違うね」
 困り顔をしてみせ、先生は僕の胸を指差す。
「恋したことある?」
「お付き合いしたことは……無いです」
「うーん。恋は何も付き合う付き合わないの問題じゃあない。もっと平たく言うと、好きな人がいたことはある? って質問」
 好きな人、それは恋愛の上でということだろう。恐らくお父さんやお母さんという答えは望まれていない。
――マキ?
 違う違う、と頭を振って打ち消す。マキは男で、友人だ。友人かどうかさえ、怪しい。一人で自己完結して出た答えの残酷さにうんざりしてうなだれた。
「そんな場合じゃなかった……ですかね」
「まあ、無理に恋しろとは言わないさ。恋愛なんて得るものよりも、傷ついて失うものが多いかもしれない」
 わざとではないが、つい気の抜けた返事が漏れる。その様子に気づいてか、先生は僕の顔を覗き込んだ。
「上手い人には理由がある。練習量とかだけではなく生き様。恋、人生。すべてが重なって。マキ先輩は、すごく上手だよ」
「そう、なんですね……」
「じゃ、今先生が言ったことを踏まえてもう一度」
 ジン先生は姿勢を正した。慌てて深呼吸をする。二小節分の伴奏を聞き、僕は唇を開いた。マキを傷つけそして失ったのならば、僕にはマキをもう一度得る権利があるのではないか?マキがしつこく吐いた「権利」という言葉が僕の思考に根強く存在し続けている。それと同時に、先生が言ったマキはすごく上手、の意味をはかりかねていた。もやもやしたまま、自室に戻る気にはなれず庭園のベンチに腰掛け、秋めいてきた花や木々をぼんやりと眺めながら思案する。
 要は、僕が入院して知らないうちにカノジョが出来ていたってこと、か。それか、僕に言っていないだけで恋人がいた……という話なのだろう。マキの話を僕にした先生の、笑みと呼ぶには引きつった唇を思い出し、うっすらと寒気がした。
「……マキも、ジン先生も、僕のこと嫌いなんだろうなあ」 バタンと閉じられた音楽室の扉の音や、先生の呆れた声が生々しくよみがえる。
 気が付くと、クリスマスのハレルヤを口ずさんでいた。何十回も練習している歌は、楽譜を見なくても、ひとりでも唄えた。
 明るい旋律と、夕日が滲み始めた空に僕はすうと胸が軽くなるのを感じた。
 誰かを心から好きと言えるようになりたい。
 事故が起きてから、周りの人には迷惑かけてばかりだ。僕のことを嫌いになった人は居ても、好きになってくれた人は居ない。
 余計に……無性に、愛しさの形、愛することを知りたくなった。