「おい、ケントがここを辞めるらしい」
 授業が始まる前、イースがそそくさと寄ってきて耳打ちをした。
「それ本当なのか」
「ああ、今朝先生たちが話してた」
 忘れ物を取りに職員室の前を通り過ぎたとき、先生たちが深刻そうに会議をしているのを耳にしたらしい。
「……何で。あいつから辞めるなんて言い出さないだろ」
「ああ、私も本当に今日知ったんです」
 イースはちらりと時計を確認し、またこの話は部屋で……と声を潜めた。その日は珍しく、ケントの姿が音楽室に無かった。ごく稀に、体調不良などで欠席する生徒はいるから誰も問いはしない。授業が終わり、足早に2人は寮の部屋に戻り慎重にドアを閉める。
「今日、ケントは1日じゅう居なかった。それは風邪なんかじゃない……ってこと?」
「あいつの親が失踪したらしい。んで、じいちゃんとばあちゃんの家に一時帰宅……というか、辞めるみたい」
 ぶっきらぼうにイースはベッドに座った。僕も自分の椅子に腰掛けて視線を合わせた。しかし、いつも強気なイースがやけに沈んだ表情を浮かべている。
「……今からでも退学を止めに行った方が良いですよね」
「先生たちの言っていたことが本当なら、止める止めないの問題じゃないだろう」
 僕は冷静に受け止めた。こんな理不尽に遭遇することは普通に生きていれば無いだろう。僕以上にイースは動揺していた。
「辞めるなんて、ズルい」
「ズルくなんかないよ。思ってもないこと言うな」
「私に何も相談しないで、突然辞めるなんて、ズルいです」
「相談できる暇すらない……んだろ。今日の欠席だって誰からも説明は無かった」
 イースは言葉を詰まらせて、僕を睨みつけた。動揺と、かすかな憎しみを浮かべている。それはきっと、ズルいという言葉を否定された憎悪とやたら冷めたような態度を見せる僕への怒りなのだろう。
「どうして、そんな他人事なの……」
 イースをなだめると、小さな背中は固く縮こまった。何も、リオが薄情な訳ではない。そんなことで、少年の未来が奪われていいのかという悔しさを感じている。だが唯のいち生徒にそんなのを考える余計な時間なんて無いことをリオは理解していた翌日の授業にもケントは姿を見せず、ケントのぶんの楽譜だけが残されていた。去るものに会う権利も、時間も無い。やるべきことは山ほどあるのに、自主練で集まったときにピアノを囲む人数が減ったことへの薄寂しさは僕の心にそっと仕舞われ隠されていくのみだった。