放課後。
日直ペアの山崎さんと共に課題のノートを整理する。
出席番号順に並び替えながら名簿にチェックをつけていくと、一人だけ名前の横の欄がぽかんと空いてしまった。
「出してないのは……浮島君か! 珍しい」
「出し忘れじゃない? なんか急いでたみたいだし、今日は準備担当だったのかも? 聞きに行ったほうがいいかな」
サッカー部に限らず、運動部は交代で準備や片付けを行っている。今日は浮島君の番だったのだろう。
すでに帰ってしまっているなら『忘』マークをつけて提出するが、浮島君はまだ校内にいる。加えて彼は課題はもちろん、授業の予習を忘れることだってほとんどない。
忘れたとしても、隠したりせずにちゃんと伝えに来てくれるタイプだ。山崎さんも同じ考えだからこそ不思議に思ったのだろう。
「まだ部室にいるかもしれないから、俺が聞いてくるよ。山崎さんは日誌書いといて」
終礼前からノートが集まっていたこともあり、浮島君が教室を出てからあまり時間が経っていない。
まだ着替えているかもしれない。サッカーコートならともかく、部室にいるなら女の子の山崎さんには頼めない。
「分かった。あのさ、ついでと言っちゃあ悪いんだけどお金渡すからサッカー部の部室近くの自販機でミルクティー買ってきてもらってもいい? 購買の自販機は売り切れてて……」
サッカー部の部室近くの自販機なら余ってるかもだからと付け足す。
サッカー部の部室は運動部の部室がある部室棟とは真逆の、サッカーコート近くにある。
強豪と呼ばれるだけあって、うちの高校では部員数ナンバーワン。
サッカー部と彼らの活躍を見るために集まる生徒達、それから近くにある花壇を管理している園芸部くらいしか来ないのに自販機が三台もあるくらいだ。
売っている飲み物の種類も購買の自販機と同じくらいある。だがサッカー部員が買う飲み物には偏りがあり、購買で売り切れやすい紅茶系は残りがちである。
故に一部生徒から穴場自販機として愛されている。まぁ飲み物だけを求めて行くには遠いのだが。
園芸部の俺は、花壇の水やりついでに友人からよくお使いを頼まれる。代わりに、園芸部が手入れする花壇などが近くにない購買での買い物は、部室棟を利用する友人に頼んでいる。
そんなわけで、おつかいには慣れている。
こくりと頷き、きっちり百三十円受け取る。
「紙パックのやつでいい?」
「うん。黒板もやっとくからよろしく!」
もらったお金をブレザーのポケットに入れ、サッカー部の部室を目指す。
一階まで降りてから渡り廊下を通過し、少し歩くとようやくサッカー部の部室が見えてくる。部室のドアをノックし、声をかけながらドアを開ける。
「すみませ〜ん。二年の浮島君いますか〜」
「あれ、大地じゃん。浮島になんか用か?」
どうした? とやってきてくれたのは山田大輝君。通称『サッカー部の山田』である。
俺と目の前の彼を含め、二年生には山田が五人もいる。ちなみに一年生には二人、三年生には一人。
近年稀に見る苗字被りの年らしい。
山田違いが起きぬよう、学年、もしくは所属している部活や委員会の名前+山田で呼ばれることが多い。
特に山田率の高い二年生では、山田間違いがあった際に備えたメッセージグループ『山田家』を設立している。言い出しっぺは目の前にいる彼。
初めは大して使われることはないと思っていたが、誰かの好きそうなテレビが何曜日にやるだとか、美味しそうなお菓子レシピなど、わりとどうでもいいことでちょこちょこと動いている。定期テスト前にはお互い助け合うことも。
今では高校卒業してもこのグループは残るんだろうなぁと思うほどに親睦も深まってる。
「課題のノートもらいにきたんだ」
「え、それわざわざ聞きに来たのか?! メッセージ飛ばしてくれればよかったのに」
「この時間だとスマホ見てるか分かんなかったから。それにサッカー部って成績や忘れ物に厳しいんだよな? 浮島君、毎回課題ちゃんと出してるのに出し忘れで忘れ物カウント付くのも可哀想かなって」
「マジかよ、うちのクラスだったら絶対見捨てられてるわ……。呼んでくるからちょっと待ってろ」
大輝君は「浮島〜」と叫びながらコートに向かって走っていく。それから浮島君がやってくるまで二分とかからなかった。さすがはサッカー部。
浮島君はロッカーを開け、カバンの中からノートを取り出す。やはり出し忘れていただけのようだ。
「山田、すまん! 声かけてくれて助かった。持っていってもらってもいいか?」
「うん。じゃあ、部活頑張ってね」
行き同様、全力ダッシュで去って行く彼にヒラヒラと手を振る。
その足で近くの自販機に向かい、お金を入れてからミルクティーの下のボタンを押す。ガタンと音がした直後、押したばかりのボタンが赤くなった。小さく『売り切れ』と書かれている。
最後の一個だったらしい。
ラッキー、と左手で掴んで教室を目指そうとした時だった。
「山田君……?」
呼ばれている『山田』が自分だという確証はないが、一応振り向いてみる。声の主は三年の早瀬先輩だった。
すでに引退済みだが、元副部長としてサッカー部の様子を見にきたのだろう。
俺に声をかけたのも、たまたま人の少ない場所で知っている後輩を見かけたからか。
知っていると言っても、去年の文化祭、友達の代打でやってきた先輩に受付業務を教えたくらいなのだが。隣で作業をしたのも三十分ほど。
いつもは廊下で会っても軽く会釈する程度なので、名前を呼ばれたことに少しだけ驚いた。
「早瀬先輩。お久しぶりです」
とりあえず挨拶を返し、ペコリと頭を下げる。
そこで終わるはずだったのだが、早瀬先輩はすううっと息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
口元を弄りながらの意味深な深呼吸である。何か気に入らないことでも……。少し考えてハッとした。
先輩もミルクティー狙いだったのではないか。
わざわざ呼び止めるくらいだ。求める気持ちもそれなりのはず。
もしもこの手の中にあるミルクティーが自分用なら譲るところだが、これは頼まれものである。黒板消しまでやってくれている山崎さんのためにも譲るわけにはいかなかった。
どう説得したものか。
空を見上げて考える。だが先輩の口から紡がれた言葉は予想外のものだった。
「まさか君だったとは……。花柄だからてっきり女子だと思っていたが、園芸部だからか。文字の雰囲気も以前見た時から少し違ったが、綺麗になったな」
「文字? ああ!」
ミルクティー狙いじゃなくてよかった!
山崎さんのミルクティーが守られたことに、ひとまず胸を撫で下ろす。
「実は先生にも褒められたんですよ〜。夏休みに兄ちゃんと一緒に練習した甲斐がありました!」
文化祭期間中は夏休みの課題の一部が展示されていた。
早瀬先輩が見てくれたのは、選択科目『書道』の提出課題だろう。毎年先生の気分によって課題の種類が変わるのだが、今年はペン字と毛筆の二種類。毛筆の書体は好きなものを選んでいいとのことだったので、隷書体を選んだ。自信がある書体ではなく、色々書いてみてから一番マシなものを提出しただけなのだが。
それでもペン字の方は自信作だった。
就活を控えた兄と一緒に何度もお手本をなぞったのだ。
先生に褒めてもらえた時も嬉しかった。だが今はその比にもならない。
わざわざ呼び止めるくらい、早瀬先輩の印象に強く残れたのだ。嬉しさを通り越して少し照れてしまう。
ポリポリと頬をかく。すると先輩は柔らかな笑みを浮かべた。
「断ろうと思ってたが、君とならやっていけそうな気がするな」
「? 何がです?」
「早速だが、近くの公園でアイスクリームを食べないか」
なぜ俺はアイスを食べに誘われているのか。書道の話から一気に話題が飛びすぎて状況が理解できない。
元々アイスを食べに行く相手を探していたのだろうか。サッカー部の部室の近くだし、友達と約束していたのかもしれない。だが何らかの理由で友達は食べに行けなくなってしまい、先輩はアイス欲を持て余していた。そこでたまたま見かけた俺を誘った?
かなり雑な推測だが、早瀬先輩がアイスが食べたがっているのは確かだ。
夏場の猛暑日とは打って変わって、コートの出番が迫っているこの時期にアイスなんて……最高じゃないか!
俺のお腹もアイスクリームを求め始めた。だが一つだけ問題があった。
「アイスめっちゃいいと思うんですが、残念ながら今日のキッチンカーはケバブです」
「いつもアイスが来てるんじゃないのか?」
「曜日ごとに違うんです。アイスは金曜日ですね」
「そうだったのか。悪い。よく知らなくて……」
申し訳なさそうに首の後ろを掻く早瀬先輩。
キッチンカーが来ている時間、サッカー部はまだ練習をしているので仕方のないことだろう。
「ならアイスは金曜日に食べにいってもらうとして、今日のところはアイスクレープにしませんか? 前に食べてみたいって言ってましたよね。まだ食べに行けていないようだったら是非!」
もう一年も前の話題だが、サッカー部はほぼ毎日部活がある。休みの日や早く終わった日は勉強に充てていると話しており、引退したばかりのタイミングならもしやと思ったのだ。
俺の提案に、早瀬先輩は目を丸くする。
「一年も前の話をよく覚えてたな」
「俺、アイスクレープ好きなんですよ〜」
チラッと話した程度の話題だが、自分の好物が絡むと覚えているものである。
なんなら俺の中で早瀬先輩といえば『サッカー部元部長』『すごくモテるらしい』『アイスクレープを食べてみたい人』の三つで構成されている。
前の二つに比べてアイスクレープの比重が大きいようにも見えるが、関わりの薄い相手なんてこんなものである。
「なら山田君……いや、大地君のオススメを頼むとしよう。初めてのいい思い出になりそうだ」
「責任重大ですね……。何をおすすめするか悩みます」
うーむと悩む俺の頭を撫でる早瀬先輩。
頭を撫でられるのなんて子供の時ぶりだ。少し気恥ずかしい。だがニコニコと楽しそうな彼に指摘するのは憚られた。
それだけアイスクレープに期待しているのだろう。おすすめする側にも気合いが入るというものだ。
「じゃあ下駄箱で待ってるから。大地君は荷物取ってきな」
「日直の仕事残っててまだ少し時間かかるかもなんですけど、終わったらすぐ向かうので!」
「焦って転ぶなよ」
「気をつけますっ!」
走りながらそう叫ぶ。階段を駆け上がり、山崎さんが待つ教室に入る。
すでに黒板は綺麗になっており、彼女の帰り支度も済んでいた。
「遅くなってごめん! これ、ミルクティー」
謝りながら山崎さんにミルクティーを渡す。
「ありがと〜。日誌書き終わったよ」
今し方回収してきた浮島君のノートを、ノートの山に差し込む。名簿にもチェックを付けたら、日直の仕事の大部分は終わりだ。
「待たせたお詫びに持ってくのは俺やるよ。って言っても帰りがけに職員室寄るだけだけど」
「一階からまた五階まで上がってくるのめんどかったから助かる! じゃ、あとはよろしくね〜」
これから部活に向かう山崎さんの背中を見送り、自分の帰り支度を済ませる。
三十人分のノートの上に名簿と日誌を載せ、職員室へ。担任の先生に提出してから急いで下駄箱に向かう。
「お待たせしました!」
「お疲れ様。待ってる間に少し調べたんだが、アイスクレープやってる店は近くに二つあるらしい」
そう言ってスマホの検索画面を見せてくれる。
画面に映し出された店にはどちらも見覚えがあった。
「俺、両方行ったことありますけど、どっちも美味しいですよ。せっかくなんで先輩が行きたい方いきましょうよ」
「どう違うんだ?」
「こっちはオシャレなカフェで少し割高ですけど、小麦とバターにこだわっている本格派です。クレープの端っこがサクッとしてて、セットで出てくる紅茶も美味いんですよ〜。こっちは先輩も知っての通り、超有名アイスチェーン店です。アイスがメインの店なので、アイスの種類がとにかく豊富で、生地もプレーン・チョコ・抹茶の三種類から選べます。今の時間、席も店前も人がいっぱいなので、落ち着いて食べたかったら外出て公園行くって感じですね。ちょっと寒いですけど、それもまたこの時期のアイスの醍醐味というか!」
早瀬先輩のアイスクレープへの期待が伝わってくるだけに、説明に思わず熱がこもってしまう。すると彼はフッと微笑み、俺の頭をポンポンと撫でた。
「本当に好きなんだな」
先ほども撫でられたばかりだが、癖なんだろうか。さっきも今も自然な手つきだった。それでいて嫌な気がしない。むしろ撫でられた時にふわっと香る柑橘の香りにリラックスしそうになる。
しばらく撫でていて欲しい気もするが、犬じゃないのだ。甘えてはいられない。気持ちを切り替える。
「先輩はどっちがいいです?」
「アイスの店。その方が大地君のおすすめカスタム試せそうだし。それで別の日にオシャレカフェに行く」
「アイスクレープ以外のデザートも美味しいので、甘いの好きな子とか誘って行ってみてください」
「大地君と行くに決まってるだろ。他の子なんて誘うわけない」
早瀬先輩は少しムッとしたように唇を尖らせる。てっきり、一緒にどこかに行くのは今日限りだと思っていたのだ。甘いの好きな子でなくとも、アイスを食べに行く約束をしていた人とか。
彼の周りには友人も多く、一人ぐらい当てはまる人がいるだろうと。放課後、たまたま会った後輩と行く必要はない。だが彼の中では次が決まっていたらしい。
すみませんと、素直にペコリと頭を下げる。
「じゃあ次も期待してもらえるよう、今日も美味しいので選ばせてもらいますね!」
グッと拳を固めてやる気アピールをする。早瀬先輩の表情は和らいでいった。
駅前のショッピングモールでアイスクレープを購入し、すぐ裏手にある公園に向かう。ショッピングモール内の席はどこもいっぱいだが、公園はスカスカだった。並んでベンチに腰掛ける。
アイスクレープを食べるには少し冷えるが、実は結構穴場なのだ。
「チョコベリー美味いな……」
早瀬先輩が選んだのは、チョコ生地の上にチョコソースとイチゴ、三種のベリーアイスをトッピングしたもの。チョコとベリーの相性は抜群で、寒い時期にピッタリな組み合わせだ。
「気に入ってもらえて嬉しいです。あ、よければ俺のも一口食べますか?」
ちなみに俺は、抹茶生地にコーンフレークと生クリーム、抹茶のアイスをトッピングした。シンプルだが鉄板の美味しさを誇る抹茶アイスと、コーンフレークのザクザク食感がたまらない。
チェーン店ながらも抹茶アイスへのこだわりが強く、抹茶は『あっさり』と『濃厚』の二つがある。
暑い日はあっさり、寒い日は濃厚。ダブルで両方攻めるのもいい。チョコベリーと並んで、俺のおすすめクレープであった。
「いいのか?」
目を丸くする先輩に、親しくもない後輩の食べかけはキツイかと考え直す。つい友人と一緒に食べている気になってしまった。
「あ、やっぱ嫌ですよね。気になったら今度食べてみてください」
俺が告げるのと早瀬先輩が抹茶クレープに齧り付くのはほぼ同時だった。
「うん、こっちも美味いな」
モグモグと口を動かす先輩の表情に嫌悪感などはない。こういうの気にしない人でよかった。ほっと胸を撫で下ろす。
「そういえば先輩、福引きで何か欲しい景品あったんですか?」
クレープを焼いてもらっている間、先輩はどこかをじいっと見ていた。
初めはアイス一覧を見ているのかと思ったが、視線はその横、ガラスのウィンドウの向こう側だった。
俺の視力ではそこに何があったかはハッキリとは見えず、その場で聞くことはできなかった。だが店を出た時、福引きのチラシがチラッと見えた。
アイス屋さんを含めた一部店舗では、先月から福引きをやっている。対象店で六百円ごとの買い物で福引き券が一枚もらえる。アイスクレープは種類にもよるが、大抵一枚もらえる。
前回友人と来た際に彼らの分がくれた分を合わせると俺の手持ちは四枚。あと一枚あれば、くじを一回引けるのである。
「俺、四枚持ってるんで、さっき先輩がもらっていたのと合わせて帰りに引いていきませんか」
「福引き? ああ、いや、俺が見てたのは福引きのポスターの隣にあった広告の方だ」
「先輩、サーモンシャークザムライ・カムバックに興味あるんですか⁉」
思わず大きな声が出てしまった。慌てて口を塞ぐ。公開間近とはいえ、B級サメ映画『サーモンシャークザムライ・カムバック』の広告がでかでかと貼られていたことにも驚いたが、先輩が興味を持ってくれたとは思わなかったのだ。
「この前、SNSで新作広告と一緒に前作のリバイバル上映情報を見かけて、気になってたんだ。ただ劇場の場所と時間の問題でなかなか行けなくてな……」
「リバイバル上映している劇場、一番近くても一時間以上かかりますもんね……」
リバイバル上映決定の情報を見かけた時、そりゃあもうはしゃいだものだ。DVDは持っているが、家と劇場とでは音響も迫力もまるで違う。行くつもり満々で詳しい情報をチェックした。
だが続編公開前のリバイバル上映ということで、上映日数が十日とかなり短かった。加えて上映時間は平日の午後三時からの部のみ。
学生が見に行くには無理があった。
今日は四限までだった三年生ならギリギリ間に合っただろうが、観に行くハードルはかなり高い。内容を知っている人ならともかく、新規で観に行こうなんてよほどのサメ映画好きくらいだ。
まぁサメ映画好きは大抵のサメ映画は視聴済みなのだが。
早瀬先輩がサメ映画好きかどうかはともかく、興味を持ってくれた相手を見逃すつもりはない。心の距離を一気に詰め、布教活動を行う。
「よかったら今度、サーモンシャークザムライのDVD貸しますよ」
「いいのか⁉」
「面白かったら続編も是非!」
グッと拳を固め、自分を自制しつつアピールする。さすがにアイスクレープと同じ熱量で語ったら引かれる自覚はあるのだ。
それに劇場で観るほどの迫力は得られないが、サーモンシャークザムライと鮭漁師との死闘あり笑いあり、時に泣けるカオスさはDVDでも十分伝わるはず。語るのはその後様子を窺ってからでもいい。
「観に行きたかったから助かる」
「俺も好きな映画を布教できて嬉しいです」
「もしよければ続編、一緒に観に行かないか?」
「一緒に行くのは構わないんですけど、合う合わないあるので、前作を見てから決めませんか?」
「確かに映画選びを間違えると別れる原因になる、って聞くしな……」
早瀬先輩は「それは避けたいな」と悩み始める。
だが、ただの先輩後輩が映画に行って関係に亀裂が入ることはないと思う。そもそもあまり親しくない相手と映画館に行く、という想定をしづらい。
恋愛話に疎い俺の想像の限界は、友達・加藤のために幼児向けアニメ映画を一緒に見に行くところまでだった。入場特典でもらえるおもちゃが三種類ランダムだからと、いつも遊んでいるグループ総出で行ったのはまだ記憶に新しい。
まだ幼い妹を溺愛している加藤に「妹の誕生日プレゼントに、入場特典のステッキを全種類あげたいんだ」と言われては、友人として一肌脱ぐしかなかったのである。
せっかくお金を払ったのだからと見た映画は意外にも面白く、付き添いで来ている保護者達にも楽しんでもらえるよう、制作陣の努力が垣間見える良い作品だった。
――とここまで考えて、自分と友人達が異例なだけかと思い直す。
そして『もし自分に恋人がいたら』と考え始める。
するとイメージの中の恋人が早瀬先輩の姿に変わっていく。ちょうど目の前にいるからといって、恋人代わりにしてしまって申し分けなさすぎる。
想像力が乏しさを恥じながらも、一緒に映画館に行くイメージを膨らませていく。
「映画館は基本的に最後まで見ること前提ですから、合わない作品や興味がない話だと少しキツイですよね。でも今はDVDやサブスクがあるから、前作を一緒に見てから行くのも手だと思いますよ? 一緒に楽しめればよし、相手がつまんなさそうでも切り上げて後で見ればいいだけですから」
「結構さっぱりしてるんだな」
「好きな人に退屈な時間過ごさせるよりいいじゃないですか。って言っても俺、恋人いたことないんですけどね」
さすがに俺の意見を一般論として受け入れられると困るので、あくまでも恋人いない歴=年齢の俺が恋人と映画を見るなら、という想定であることを付け加えておく。
もちろん、世の中には面白くない映画だって好きな人と一緒なら楽しめる派の人だっているし、そもそも映画は一人で見たい人だっている。楽しみ方も人によりけりなのだ。
あまりにも無責任な発言だったからか、先輩の眉間には皺がギュッと寄る。
かと思えば、首を捻り、なにやら考え始めた。怒っているわけではなかったようだ。
「それは俺が初めて、ってことか?」
「? 友達となら何回も見たことありますよ?」
質問の意図がよく分からない。
不思議に思いながらも、友人と映画を見たことを告げてみる。
けれど彼が聞きたい答えではなかったのだろう。今度は先輩は額を押さえ初め、すううっと長く息を吸い込んだ。
「そう、だな。俺の言い方が悪かった。……よければ今から仕切り直していいか?」
「真面目な話ですか?」
映画の話から一体どこに派生したのだろう。
少し考えてみたが、答えが浮かばない。
「ああ。すごく真面目な話だ」
「なら先にゴミ捨ててきますね。あ、ウェットティッシュどうぞ」
とりあえずクレープのゴミを回収し、バッグからウェットティッシュを取り出す。
ちなみにこれは加藤の影響で最近携帯するようになったものの一つだ。
アイスクレープ以外も買い食いをすることが多いため、持っていると何かと便利なのだ。自分の手を拭いて、先輩の分のウェットティッシュのゴミも回収する。すぐ近くのゴミ箱に捨てに行くついでに自販機で温かいお茶を二種類購入した。
「先輩。緑茶とほうじ茶、どっちがいいですか?」
「じゃあほうじ茶を。いくらだった?」
「気にしないでください。それより、お話聞かせてもらえますか?」
お茶のペットボトルで両手を温めながら、先輩と向き合う。
先輩が真面目な顔をするから、こちらまで少し緊張してしまう。彼は少し悩んでから、ゆっくりと口を開いた。
「手紙、読ませてもらった。正直な気持ちを伝えると、君だと分かるまでは断るつもりだった。うちの学校は山田って苗字が多いし、今日の放課後というのも学年によって異なる曖昧なものだ。些細な問題かもしれないが、この先、付き合っていく上で感覚の違いは大きな壁になりうるだろう? だが君は、去年一緒に受付の仕事した時も今もしっかりしてる。園芸部の世話をしている花壇はサッカーコートから目と鼻の先だから、園芸部の活動はよく見えるんだ。文化祭で一緒に仕事する前から、サツマイモ収穫するところとか、大量の野菜を嬉しそうに運んでいるところとか印象に残ってた。受付した時に収穫した野菜を使ったお菓子売るって聞いて、俺、次の日始まってすぐ買いに行ったんだ。大地君は別の人の対応してたけど、野菜が売れた時の顔が忘れられなくて。話した回数は少ないけど、いい子なんだろうなってずっと思ってた。手紙をくれたのが君だと分かったら、気になっていた部分も緊張してただけだって思えて、むしろそんなところが愛おしいと思えた。君の初めての恋人になれて本当に嬉しい。俺を選んでくれてありがとう。これから恋人として、よろしくお願いします」
深々と頭を下げる先輩を前に、俺の頭はパニックだった。
なにせ手紙なんて出していないのだから。
しかもただの手紙ではなくラブレター。恋人がいたこともなければ、告白されたこともない俺に背負わせるには荷が重すぎる。
相手は学校で三本の指に入るほどのモテ男である。
なるべく角を立てないよう、傷つかないよう、言葉をほんの少しだけまる~く包む努力はする。
だが紡いだ言葉はオブラートにも包めていない、そのまんまの事実だった。
「ものすごーく言いづらいんですが、その手紙出したのは俺じゃないです」
「嘘、だよな? だって大地君は放課後、待ち合わせ場所にいたじゃないか」
「俺は今日の放課後、ノートを出し忘れていた浮島君に声をかけるためにサッカー部の部室に行って、ついでに近くの自販機でミルクティーを買ってきて欲しいと頼まれていたんです。その帰りに先輩にアイス食べに行かないかと誘われて、今に至ります」
「つまり、俺の勘違い……」
「あー、えっと。今から戻る、んじゃあさすがに間に合いませんよね。差出人は『山田』なんですか?」
「ああ、山田としか書かれていなかった。放課後に返事を聞かせてほしいと書かれていたから、あの時間、サッカー部の部室近くで待ってた。あの場所をサッカー部員以外が通れば気付くから」
そこに運悪く、山田である俺が来てしまった、と。
先輩はひどく落ち込んでいる。
よりによって容姿も成績も平々凡々な俺と間違えるなんて……と俺でも思う。
差出人の『山田』が誰か、簡単に見当が付いてしまうからなおのこと。
まず山田豊作の年とまで言われる二年生の山田は全員除外できる。
なにせ入学式の時点で自分以外に四人の山田がいるのだ。『山田』だけでは自分だと特定してもらえないことを自覚している。二年生の二学期が終わりかけた今でさえ、稀に山田間違いが発生するのだ。
故にどんなに緊張していたとしても『山田』だけ残す可能性はゼロに近い。
また、早瀬先輩が元サッカー部だったとしても、大輝君に目撃されそうな場所で告白するとは考えづらい。彼のことだから揶揄うことはないだろうが、メッセージグループが変な空気に満ちること間違いなし。
次に一年生だが、こちらも高確率で違うと言える。
一人は大輝君の弟。彼には幼馴染みの彼女がおり、文化祭のベストカップル賞を受賞した。早瀬先輩に告白をするはずがない。
もう一人は生徒会所属の山田さん。彼女のことは、俺の友人で生徒会役員でもある虎太郎からチラッと話を聞く程度。知っていることといえば『真面目な子』だということくらい。
だがそんな子がわざわざ生徒会活動日の放課後に、手紙で誰かを呼び出すとは思えない。なにせ相手が来てくれる確証がないのだから。
加えて、今日は『三年生のお疲れ様回』でもある。三年生は文化祭をもって生徒会の仕事を終了する。文化祭後の備品確認や諸々の集計を終え、ようやく引退する先輩を見送る日。
虎太郎と一年生の山田さんを含めた生徒会メンバーは朝礼前と昼休みは準備で忙しそうだった。他の日ならともかく、今日はあり得ない。
残るは三年生の山田先輩のみ。
一、二年生と三年生とで『放課後』の時間が変わる日にこの言葉を使ったことも、彼女なのではないかと考える理由の一つだ。
だがあくまでも推測の域を出ない。早瀬先輩に告げるのは憚られた。
かといって『山田』さんへの申し訳なさは微塵も湧かない。先輩が悪いとも思わない。
自分のフルネームと時間を明記しなかったのは、差出人のミスだ。
それに俺がサッカー部の部室付近を通りがかったのは、六限が終わってからしばらく経ってからのこと。
すぐに集まったとはいえ、俺はノートを整理してから降りてきた。先輩と会う前にはサッカー部の部室と自販機にも寄っている。好きな人を呼び出しておいて、それ以上の時間を待たせる方が悪い。
不慮の事故で関わってしまった同じ苗字を持つ者としては、これでめげずに再度アタックするか、きっぱり諦めてくれるのを願うばかりである。
早瀬先輩が自力で探し出す可能性もあるが、感覚の違いを理由に断ろうとしていたくらいだ。気になりはしても、深追いすることはないだろう。
なにはともあれ、俺が気を遣うべきは話したこともない山田さんではなく、目の前の先輩である。
「元気出してください。一緒にアイスクレープ食べただけですし、場所もチェーン店と公園なんて全然ノーカンですって。それにずっと勘違いし続けるより、初日で気付いてよかったじゃないですか」
不幸な事故ではあるが、幸いにも待ち合わせとして指定された場所が基本的にサッカー部と園芸部くらいしか通らない場所かつ、サッカー部員はすでに通り過ぎた後だったこともあり、目撃者がいなかった。
俺と早瀬先輩がなかったことにすれば、黒歴史にすら残らずに終わる。
「……ノーカンにしたくない。放課後デートするの、ずっと夢だったんだ」
悲痛な叫びに胸が痛くなる。
サッカー部は強豪と呼ばれるだけあり、基本的に休みがない。平日は部活で、土日も部活か試合。たまの休みの日は勉強漬け。
文武両道を掲げる我が校では、授業態度や成績に問題ありとされた生徒には一ヶ月間の補習が待っている。定期試験で赤点を取った場合も同様だ。赤点科目関係なしに座学テストのある履修科目全てを網羅させられる。
補習期間中は部活の参加はもちろん、スタメンだろうと試合参加すら許されない。そのため、定期試験前の部活休止期間中、多くの運動部は部活の時間をまるっと試験対策に費やすほど。
恋人と過ごす時間はなく、告白されても断るしかないーーと以前、大輝君がぼやいていた。
一年の時からモテまくりだった早瀬先輩に恋人がいないのも同じ理由なのだろう。だが引退した今は違う。
「今回は残念でしたけど、先輩ならすぐ恋人見つかりますって!」
励ますように、グッと拳を固める。
リップサービスでもなんでもない。この二年間、誰々が早瀬先輩に告白したという噂は何度も耳にしている。
特別興味があるわけではなく、教室にいるだけで聞こえてくるのだ。実際に告白された数はそれ以上であることは間違いない。本人が恋人作りに前向きだと知れば今まで諦めていた人達も名乗りを上げることだろう。俺なんかで妥協する必要はないのだ。
「大地君は俺の恋人になってくれないのか?」
「え?」
「勘違いしてたとはいえ、俺、さっき君に告白したんだが」
「でもそれは、俺が先輩にラブレターを出したと思っていたからで……。いや、俺と分かるまでは断ろうとしていた分、好感度はかなり高かった、のか?」
「俺は大地君の恋人になりたい。それとも手紙の差出人を勘違いするような男じゃダメか?」
「ふつつかものですが、よろこんで?」
正直、好きだと言えるほど先輩のことをよく知っているわけではない。
それでも寒空の下で一緒にアイスクレープを食べてくれて、サーモンシャークザムライに興味を持ってくれて、俺を好きだと語ってくれた彼の手を取ってみたいと思えた。
「好きだ。末永く一緒にいよう」
蕩けるような笑みと共に抱きしめられる。俺よりも高めの体温が心地いい。撫でられた時よりも少しだけ強くなる柑橘の香りと相まって安心させてくれる。
「先輩」
「なんだ?」
「DVD、やっぱり貸すんじゃなくて一緒に見ません? 今は漫画喫茶とかカラオケでもレコーダー借りて見れますし」
「それもいいが、よければ俺の家に来ないか? ポップコーンやジュースを買って、映画館で見るみたいにするんだ」
「楽しそうですね! でもお邪魔しちゃっていいんですか?」
「もちろん。ああ、そうだ。連絡先を交換しておこう」
「あ、そうですね」
スマホを取り出し、連絡先を交換する。
メッセージアプリの友達欄に加わった『RIKU』のアイコンは黒い毛の柴犬。
先輩の飼っている犬だろうか。ニコッと笑っている表情が愛らしく、唐草模様の首輪もよく似合っている。思わず頬が緩む。
視線を感じ、顔を上げると先輩と目があった。
アイコンの柴犬みたいに、楽しそうにニコニコと笑っている。なんだか恥ずかしくて、フッと視線を逸らす。
ついでに話も逸らしてしまおう。
まだ期限に余裕がある福引き券を財布から取り出す。
「あ、そういえば福引き! 回してから帰りましょうよ」
「折角だから一緒に回すか」
「いいの当たるといいですね!」
何が出るかはお楽しみ。
二人で分け合えるものならいいなと思いながら、お茶を飲み干す。
空になったペットボトルを手に立ち上がると、逆側からおずおずと手が伸びてきた。
先輩の大きな手。真剣な表情でたくさん俺の好きなところを言ってくれたのに、手を繋ぐのは少し恥ずかしいらしい。耳が赤くなっている。
ギュッと手を握ると、安心したようにホッと息を吐いた。
こんなイケメン相手に可愛いなんて思うのは、きっと俺くらいだ。これから先、先輩のいろんな表情が見れると思うと楽しみで仕方ない。
そう思うくらいには、俺も先輩に惹かれていた。
『俺も好きです』と伝えられる日も遠くないはずだ。
日直ペアの山崎さんと共に課題のノートを整理する。
出席番号順に並び替えながら名簿にチェックをつけていくと、一人だけ名前の横の欄がぽかんと空いてしまった。
「出してないのは……浮島君か! 珍しい」
「出し忘れじゃない? なんか急いでたみたいだし、今日は準備担当だったのかも? 聞きに行ったほうがいいかな」
サッカー部に限らず、運動部は交代で準備や片付けを行っている。今日は浮島君の番だったのだろう。
すでに帰ってしまっているなら『忘』マークをつけて提出するが、浮島君はまだ校内にいる。加えて彼は課題はもちろん、授業の予習を忘れることだってほとんどない。
忘れたとしても、隠したりせずにちゃんと伝えに来てくれるタイプだ。山崎さんも同じ考えだからこそ不思議に思ったのだろう。
「まだ部室にいるかもしれないから、俺が聞いてくるよ。山崎さんは日誌書いといて」
終礼前からノートが集まっていたこともあり、浮島君が教室を出てからあまり時間が経っていない。
まだ着替えているかもしれない。サッカーコートならともかく、部室にいるなら女の子の山崎さんには頼めない。
「分かった。あのさ、ついでと言っちゃあ悪いんだけどお金渡すからサッカー部の部室近くの自販機でミルクティー買ってきてもらってもいい? 購買の自販機は売り切れてて……」
サッカー部の部室近くの自販機なら余ってるかもだからと付け足す。
サッカー部の部室は運動部の部室がある部室棟とは真逆の、サッカーコート近くにある。
強豪と呼ばれるだけあって、うちの高校では部員数ナンバーワン。
サッカー部と彼らの活躍を見るために集まる生徒達、それから近くにある花壇を管理している園芸部くらいしか来ないのに自販機が三台もあるくらいだ。
売っている飲み物の種類も購買の自販機と同じくらいある。だがサッカー部員が買う飲み物には偏りがあり、購買で売り切れやすい紅茶系は残りがちである。
故に一部生徒から穴場自販機として愛されている。まぁ飲み物だけを求めて行くには遠いのだが。
園芸部の俺は、花壇の水やりついでに友人からよくお使いを頼まれる。代わりに、園芸部が手入れする花壇などが近くにない購買での買い物は、部室棟を利用する友人に頼んでいる。
そんなわけで、おつかいには慣れている。
こくりと頷き、きっちり百三十円受け取る。
「紙パックのやつでいい?」
「うん。黒板もやっとくからよろしく!」
もらったお金をブレザーのポケットに入れ、サッカー部の部室を目指す。
一階まで降りてから渡り廊下を通過し、少し歩くとようやくサッカー部の部室が見えてくる。部室のドアをノックし、声をかけながらドアを開ける。
「すみませ〜ん。二年の浮島君いますか〜」
「あれ、大地じゃん。浮島になんか用か?」
どうした? とやってきてくれたのは山田大輝君。通称『サッカー部の山田』である。
俺と目の前の彼を含め、二年生には山田が五人もいる。ちなみに一年生には二人、三年生には一人。
近年稀に見る苗字被りの年らしい。
山田違いが起きぬよう、学年、もしくは所属している部活や委員会の名前+山田で呼ばれることが多い。
特に山田率の高い二年生では、山田間違いがあった際に備えたメッセージグループ『山田家』を設立している。言い出しっぺは目の前にいる彼。
初めは大して使われることはないと思っていたが、誰かの好きそうなテレビが何曜日にやるだとか、美味しそうなお菓子レシピなど、わりとどうでもいいことでちょこちょこと動いている。定期テスト前にはお互い助け合うことも。
今では高校卒業してもこのグループは残るんだろうなぁと思うほどに親睦も深まってる。
「課題のノートもらいにきたんだ」
「え、それわざわざ聞きに来たのか?! メッセージ飛ばしてくれればよかったのに」
「この時間だとスマホ見てるか分かんなかったから。それにサッカー部って成績や忘れ物に厳しいんだよな? 浮島君、毎回課題ちゃんと出してるのに出し忘れで忘れ物カウント付くのも可哀想かなって」
「マジかよ、うちのクラスだったら絶対見捨てられてるわ……。呼んでくるからちょっと待ってろ」
大輝君は「浮島〜」と叫びながらコートに向かって走っていく。それから浮島君がやってくるまで二分とかからなかった。さすがはサッカー部。
浮島君はロッカーを開け、カバンの中からノートを取り出す。やはり出し忘れていただけのようだ。
「山田、すまん! 声かけてくれて助かった。持っていってもらってもいいか?」
「うん。じゃあ、部活頑張ってね」
行き同様、全力ダッシュで去って行く彼にヒラヒラと手を振る。
その足で近くの自販機に向かい、お金を入れてからミルクティーの下のボタンを押す。ガタンと音がした直後、押したばかりのボタンが赤くなった。小さく『売り切れ』と書かれている。
最後の一個だったらしい。
ラッキー、と左手で掴んで教室を目指そうとした時だった。
「山田君……?」
呼ばれている『山田』が自分だという確証はないが、一応振り向いてみる。声の主は三年の早瀬先輩だった。
すでに引退済みだが、元副部長としてサッカー部の様子を見にきたのだろう。
俺に声をかけたのも、たまたま人の少ない場所で知っている後輩を見かけたからか。
知っていると言っても、去年の文化祭、友達の代打でやってきた先輩に受付業務を教えたくらいなのだが。隣で作業をしたのも三十分ほど。
いつもは廊下で会っても軽く会釈する程度なので、名前を呼ばれたことに少しだけ驚いた。
「早瀬先輩。お久しぶりです」
とりあえず挨拶を返し、ペコリと頭を下げる。
そこで終わるはずだったのだが、早瀬先輩はすううっと息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。
口元を弄りながらの意味深な深呼吸である。何か気に入らないことでも……。少し考えてハッとした。
先輩もミルクティー狙いだったのではないか。
わざわざ呼び止めるくらいだ。求める気持ちもそれなりのはず。
もしもこの手の中にあるミルクティーが自分用なら譲るところだが、これは頼まれものである。黒板消しまでやってくれている山崎さんのためにも譲るわけにはいかなかった。
どう説得したものか。
空を見上げて考える。だが先輩の口から紡がれた言葉は予想外のものだった。
「まさか君だったとは……。花柄だからてっきり女子だと思っていたが、園芸部だからか。文字の雰囲気も以前見た時から少し違ったが、綺麗になったな」
「文字? ああ!」
ミルクティー狙いじゃなくてよかった!
山崎さんのミルクティーが守られたことに、ひとまず胸を撫で下ろす。
「実は先生にも褒められたんですよ〜。夏休みに兄ちゃんと一緒に練習した甲斐がありました!」
文化祭期間中は夏休みの課題の一部が展示されていた。
早瀬先輩が見てくれたのは、選択科目『書道』の提出課題だろう。毎年先生の気分によって課題の種類が変わるのだが、今年はペン字と毛筆の二種類。毛筆の書体は好きなものを選んでいいとのことだったので、隷書体を選んだ。自信がある書体ではなく、色々書いてみてから一番マシなものを提出しただけなのだが。
それでもペン字の方は自信作だった。
就活を控えた兄と一緒に何度もお手本をなぞったのだ。
先生に褒めてもらえた時も嬉しかった。だが今はその比にもならない。
わざわざ呼び止めるくらい、早瀬先輩の印象に強く残れたのだ。嬉しさを通り越して少し照れてしまう。
ポリポリと頬をかく。すると先輩は柔らかな笑みを浮かべた。
「断ろうと思ってたが、君とならやっていけそうな気がするな」
「? 何がです?」
「早速だが、近くの公園でアイスクリームを食べないか」
なぜ俺はアイスを食べに誘われているのか。書道の話から一気に話題が飛びすぎて状況が理解できない。
元々アイスを食べに行く相手を探していたのだろうか。サッカー部の部室の近くだし、友達と約束していたのかもしれない。だが何らかの理由で友達は食べに行けなくなってしまい、先輩はアイス欲を持て余していた。そこでたまたま見かけた俺を誘った?
かなり雑な推測だが、早瀬先輩がアイスが食べたがっているのは確かだ。
夏場の猛暑日とは打って変わって、コートの出番が迫っているこの時期にアイスなんて……最高じゃないか!
俺のお腹もアイスクリームを求め始めた。だが一つだけ問題があった。
「アイスめっちゃいいと思うんですが、残念ながら今日のキッチンカーはケバブです」
「いつもアイスが来てるんじゃないのか?」
「曜日ごとに違うんです。アイスは金曜日ですね」
「そうだったのか。悪い。よく知らなくて……」
申し訳なさそうに首の後ろを掻く早瀬先輩。
キッチンカーが来ている時間、サッカー部はまだ練習をしているので仕方のないことだろう。
「ならアイスは金曜日に食べにいってもらうとして、今日のところはアイスクレープにしませんか? 前に食べてみたいって言ってましたよね。まだ食べに行けていないようだったら是非!」
もう一年も前の話題だが、サッカー部はほぼ毎日部活がある。休みの日や早く終わった日は勉強に充てていると話しており、引退したばかりのタイミングならもしやと思ったのだ。
俺の提案に、早瀬先輩は目を丸くする。
「一年も前の話をよく覚えてたな」
「俺、アイスクレープ好きなんですよ〜」
チラッと話した程度の話題だが、自分の好物が絡むと覚えているものである。
なんなら俺の中で早瀬先輩といえば『サッカー部元部長』『すごくモテるらしい』『アイスクレープを食べてみたい人』の三つで構成されている。
前の二つに比べてアイスクレープの比重が大きいようにも見えるが、関わりの薄い相手なんてこんなものである。
「なら山田君……いや、大地君のオススメを頼むとしよう。初めてのいい思い出になりそうだ」
「責任重大ですね……。何をおすすめするか悩みます」
うーむと悩む俺の頭を撫でる早瀬先輩。
頭を撫でられるのなんて子供の時ぶりだ。少し気恥ずかしい。だがニコニコと楽しそうな彼に指摘するのは憚られた。
それだけアイスクレープに期待しているのだろう。おすすめする側にも気合いが入るというものだ。
「じゃあ下駄箱で待ってるから。大地君は荷物取ってきな」
「日直の仕事残っててまだ少し時間かかるかもなんですけど、終わったらすぐ向かうので!」
「焦って転ぶなよ」
「気をつけますっ!」
走りながらそう叫ぶ。階段を駆け上がり、山崎さんが待つ教室に入る。
すでに黒板は綺麗になっており、彼女の帰り支度も済んでいた。
「遅くなってごめん! これ、ミルクティー」
謝りながら山崎さんにミルクティーを渡す。
「ありがと〜。日誌書き終わったよ」
今し方回収してきた浮島君のノートを、ノートの山に差し込む。名簿にもチェックを付けたら、日直の仕事の大部分は終わりだ。
「待たせたお詫びに持ってくのは俺やるよ。って言っても帰りがけに職員室寄るだけだけど」
「一階からまた五階まで上がってくるのめんどかったから助かる! じゃ、あとはよろしくね〜」
これから部活に向かう山崎さんの背中を見送り、自分の帰り支度を済ませる。
三十人分のノートの上に名簿と日誌を載せ、職員室へ。担任の先生に提出してから急いで下駄箱に向かう。
「お待たせしました!」
「お疲れ様。待ってる間に少し調べたんだが、アイスクレープやってる店は近くに二つあるらしい」
そう言ってスマホの検索画面を見せてくれる。
画面に映し出された店にはどちらも見覚えがあった。
「俺、両方行ったことありますけど、どっちも美味しいですよ。せっかくなんで先輩が行きたい方いきましょうよ」
「どう違うんだ?」
「こっちはオシャレなカフェで少し割高ですけど、小麦とバターにこだわっている本格派です。クレープの端っこがサクッとしてて、セットで出てくる紅茶も美味いんですよ〜。こっちは先輩も知っての通り、超有名アイスチェーン店です。アイスがメインの店なので、アイスの種類がとにかく豊富で、生地もプレーン・チョコ・抹茶の三種類から選べます。今の時間、席も店前も人がいっぱいなので、落ち着いて食べたかったら外出て公園行くって感じですね。ちょっと寒いですけど、それもまたこの時期のアイスの醍醐味というか!」
早瀬先輩のアイスクレープへの期待が伝わってくるだけに、説明に思わず熱がこもってしまう。すると彼はフッと微笑み、俺の頭をポンポンと撫でた。
「本当に好きなんだな」
先ほども撫でられたばかりだが、癖なんだろうか。さっきも今も自然な手つきだった。それでいて嫌な気がしない。むしろ撫でられた時にふわっと香る柑橘の香りにリラックスしそうになる。
しばらく撫でていて欲しい気もするが、犬じゃないのだ。甘えてはいられない。気持ちを切り替える。
「先輩はどっちがいいです?」
「アイスの店。その方が大地君のおすすめカスタム試せそうだし。それで別の日にオシャレカフェに行く」
「アイスクレープ以外のデザートも美味しいので、甘いの好きな子とか誘って行ってみてください」
「大地君と行くに決まってるだろ。他の子なんて誘うわけない」
早瀬先輩は少しムッとしたように唇を尖らせる。てっきり、一緒にどこかに行くのは今日限りだと思っていたのだ。甘いの好きな子でなくとも、アイスを食べに行く約束をしていた人とか。
彼の周りには友人も多く、一人ぐらい当てはまる人がいるだろうと。放課後、たまたま会った後輩と行く必要はない。だが彼の中では次が決まっていたらしい。
すみませんと、素直にペコリと頭を下げる。
「じゃあ次も期待してもらえるよう、今日も美味しいので選ばせてもらいますね!」
グッと拳を固めてやる気アピールをする。早瀬先輩の表情は和らいでいった。
駅前のショッピングモールでアイスクレープを購入し、すぐ裏手にある公園に向かう。ショッピングモール内の席はどこもいっぱいだが、公園はスカスカだった。並んでベンチに腰掛ける。
アイスクレープを食べるには少し冷えるが、実は結構穴場なのだ。
「チョコベリー美味いな……」
早瀬先輩が選んだのは、チョコ生地の上にチョコソースとイチゴ、三種のベリーアイスをトッピングしたもの。チョコとベリーの相性は抜群で、寒い時期にピッタリな組み合わせだ。
「気に入ってもらえて嬉しいです。あ、よければ俺のも一口食べますか?」
ちなみに俺は、抹茶生地にコーンフレークと生クリーム、抹茶のアイスをトッピングした。シンプルだが鉄板の美味しさを誇る抹茶アイスと、コーンフレークのザクザク食感がたまらない。
チェーン店ながらも抹茶アイスへのこだわりが強く、抹茶は『あっさり』と『濃厚』の二つがある。
暑い日はあっさり、寒い日は濃厚。ダブルで両方攻めるのもいい。チョコベリーと並んで、俺のおすすめクレープであった。
「いいのか?」
目を丸くする先輩に、親しくもない後輩の食べかけはキツイかと考え直す。つい友人と一緒に食べている気になってしまった。
「あ、やっぱ嫌ですよね。気になったら今度食べてみてください」
俺が告げるのと早瀬先輩が抹茶クレープに齧り付くのはほぼ同時だった。
「うん、こっちも美味いな」
モグモグと口を動かす先輩の表情に嫌悪感などはない。こういうの気にしない人でよかった。ほっと胸を撫で下ろす。
「そういえば先輩、福引きで何か欲しい景品あったんですか?」
クレープを焼いてもらっている間、先輩はどこかをじいっと見ていた。
初めはアイス一覧を見ているのかと思ったが、視線はその横、ガラスのウィンドウの向こう側だった。
俺の視力ではそこに何があったかはハッキリとは見えず、その場で聞くことはできなかった。だが店を出た時、福引きのチラシがチラッと見えた。
アイス屋さんを含めた一部店舗では、先月から福引きをやっている。対象店で六百円ごとの買い物で福引き券が一枚もらえる。アイスクレープは種類にもよるが、大抵一枚もらえる。
前回友人と来た際に彼らの分がくれた分を合わせると俺の手持ちは四枚。あと一枚あれば、くじを一回引けるのである。
「俺、四枚持ってるんで、さっき先輩がもらっていたのと合わせて帰りに引いていきませんか」
「福引き? ああ、いや、俺が見てたのは福引きのポスターの隣にあった広告の方だ」
「先輩、サーモンシャークザムライ・カムバックに興味あるんですか⁉」
思わず大きな声が出てしまった。慌てて口を塞ぐ。公開間近とはいえ、B級サメ映画『サーモンシャークザムライ・カムバック』の広告がでかでかと貼られていたことにも驚いたが、先輩が興味を持ってくれたとは思わなかったのだ。
「この前、SNSで新作広告と一緒に前作のリバイバル上映情報を見かけて、気になってたんだ。ただ劇場の場所と時間の問題でなかなか行けなくてな……」
「リバイバル上映している劇場、一番近くても一時間以上かかりますもんね……」
リバイバル上映決定の情報を見かけた時、そりゃあもうはしゃいだものだ。DVDは持っているが、家と劇場とでは音響も迫力もまるで違う。行くつもり満々で詳しい情報をチェックした。
だが続編公開前のリバイバル上映ということで、上映日数が十日とかなり短かった。加えて上映時間は平日の午後三時からの部のみ。
学生が見に行くには無理があった。
今日は四限までだった三年生ならギリギリ間に合っただろうが、観に行くハードルはかなり高い。内容を知っている人ならともかく、新規で観に行こうなんてよほどのサメ映画好きくらいだ。
まぁサメ映画好きは大抵のサメ映画は視聴済みなのだが。
早瀬先輩がサメ映画好きかどうかはともかく、興味を持ってくれた相手を見逃すつもりはない。心の距離を一気に詰め、布教活動を行う。
「よかったら今度、サーモンシャークザムライのDVD貸しますよ」
「いいのか⁉」
「面白かったら続編も是非!」
グッと拳を固め、自分を自制しつつアピールする。さすがにアイスクレープと同じ熱量で語ったら引かれる自覚はあるのだ。
それに劇場で観るほどの迫力は得られないが、サーモンシャークザムライと鮭漁師との死闘あり笑いあり、時に泣けるカオスさはDVDでも十分伝わるはず。語るのはその後様子を窺ってからでもいい。
「観に行きたかったから助かる」
「俺も好きな映画を布教できて嬉しいです」
「もしよければ続編、一緒に観に行かないか?」
「一緒に行くのは構わないんですけど、合う合わないあるので、前作を見てから決めませんか?」
「確かに映画選びを間違えると別れる原因になる、って聞くしな……」
早瀬先輩は「それは避けたいな」と悩み始める。
だが、ただの先輩後輩が映画に行って関係に亀裂が入ることはないと思う。そもそもあまり親しくない相手と映画館に行く、という想定をしづらい。
恋愛話に疎い俺の想像の限界は、友達・加藤のために幼児向けアニメ映画を一緒に見に行くところまでだった。入場特典でもらえるおもちゃが三種類ランダムだからと、いつも遊んでいるグループ総出で行ったのはまだ記憶に新しい。
まだ幼い妹を溺愛している加藤に「妹の誕生日プレゼントに、入場特典のステッキを全種類あげたいんだ」と言われては、友人として一肌脱ぐしかなかったのである。
せっかくお金を払ったのだからと見た映画は意外にも面白く、付き添いで来ている保護者達にも楽しんでもらえるよう、制作陣の努力が垣間見える良い作品だった。
――とここまで考えて、自分と友人達が異例なだけかと思い直す。
そして『もし自分に恋人がいたら』と考え始める。
するとイメージの中の恋人が早瀬先輩の姿に変わっていく。ちょうど目の前にいるからといって、恋人代わりにしてしまって申し分けなさすぎる。
想像力が乏しさを恥じながらも、一緒に映画館に行くイメージを膨らませていく。
「映画館は基本的に最後まで見ること前提ですから、合わない作品や興味がない話だと少しキツイですよね。でも今はDVDやサブスクがあるから、前作を一緒に見てから行くのも手だと思いますよ? 一緒に楽しめればよし、相手がつまんなさそうでも切り上げて後で見ればいいだけですから」
「結構さっぱりしてるんだな」
「好きな人に退屈な時間過ごさせるよりいいじゃないですか。って言っても俺、恋人いたことないんですけどね」
さすがに俺の意見を一般論として受け入れられると困るので、あくまでも恋人いない歴=年齢の俺が恋人と映画を見るなら、という想定であることを付け加えておく。
もちろん、世の中には面白くない映画だって好きな人と一緒なら楽しめる派の人だっているし、そもそも映画は一人で見たい人だっている。楽しみ方も人によりけりなのだ。
あまりにも無責任な発言だったからか、先輩の眉間には皺がギュッと寄る。
かと思えば、首を捻り、なにやら考え始めた。怒っているわけではなかったようだ。
「それは俺が初めて、ってことか?」
「? 友達となら何回も見たことありますよ?」
質問の意図がよく分からない。
不思議に思いながらも、友人と映画を見たことを告げてみる。
けれど彼が聞きたい答えではなかったのだろう。今度は先輩は額を押さえ初め、すううっと長く息を吸い込んだ。
「そう、だな。俺の言い方が悪かった。……よければ今から仕切り直していいか?」
「真面目な話ですか?」
映画の話から一体どこに派生したのだろう。
少し考えてみたが、答えが浮かばない。
「ああ。すごく真面目な話だ」
「なら先にゴミ捨ててきますね。あ、ウェットティッシュどうぞ」
とりあえずクレープのゴミを回収し、バッグからウェットティッシュを取り出す。
ちなみにこれは加藤の影響で最近携帯するようになったものの一つだ。
アイスクレープ以外も買い食いをすることが多いため、持っていると何かと便利なのだ。自分の手を拭いて、先輩の分のウェットティッシュのゴミも回収する。すぐ近くのゴミ箱に捨てに行くついでに自販機で温かいお茶を二種類購入した。
「先輩。緑茶とほうじ茶、どっちがいいですか?」
「じゃあほうじ茶を。いくらだった?」
「気にしないでください。それより、お話聞かせてもらえますか?」
お茶のペットボトルで両手を温めながら、先輩と向き合う。
先輩が真面目な顔をするから、こちらまで少し緊張してしまう。彼は少し悩んでから、ゆっくりと口を開いた。
「手紙、読ませてもらった。正直な気持ちを伝えると、君だと分かるまでは断るつもりだった。うちの学校は山田って苗字が多いし、今日の放課後というのも学年によって異なる曖昧なものだ。些細な問題かもしれないが、この先、付き合っていく上で感覚の違いは大きな壁になりうるだろう? だが君は、去年一緒に受付の仕事した時も今もしっかりしてる。園芸部の世話をしている花壇はサッカーコートから目と鼻の先だから、園芸部の活動はよく見えるんだ。文化祭で一緒に仕事する前から、サツマイモ収穫するところとか、大量の野菜を嬉しそうに運んでいるところとか印象に残ってた。受付した時に収穫した野菜を使ったお菓子売るって聞いて、俺、次の日始まってすぐ買いに行ったんだ。大地君は別の人の対応してたけど、野菜が売れた時の顔が忘れられなくて。話した回数は少ないけど、いい子なんだろうなってずっと思ってた。手紙をくれたのが君だと分かったら、気になっていた部分も緊張してただけだって思えて、むしろそんなところが愛おしいと思えた。君の初めての恋人になれて本当に嬉しい。俺を選んでくれてありがとう。これから恋人として、よろしくお願いします」
深々と頭を下げる先輩を前に、俺の頭はパニックだった。
なにせ手紙なんて出していないのだから。
しかもただの手紙ではなくラブレター。恋人がいたこともなければ、告白されたこともない俺に背負わせるには荷が重すぎる。
相手は学校で三本の指に入るほどのモテ男である。
なるべく角を立てないよう、傷つかないよう、言葉をほんの少しだけまる~く包む努力はする。
だが紡いだ言葉はオブラートにも包めていない、そのまんまの事実だった。
「ものすごーく言いづらいんですが、その手紙出したのは俺じゃないです」
「嘘、だよな? だって大地君は放課後、待ち合わせ場所にいたじゃないか」
「俺は今日の放課後、ノートを出し忘れていた浮島君に声をかけるためにサッカー部の部室に行って、ついでに近くの自販機でミルクティーを買ってきて欲しいと頼まれていたんです。その帰りに先輩にアイス食べに行かないかと誘われて、今に至ります」
「つまり、俺の勘違い……」
「あー、えっと。今から戻る、んじゃあさすがに間に合いませんよね。差出人は『山田』なんですか?」
「ああ、山田としか書かれていなかった。放課後に返事を聞かせてほしいと書かれていたから、あの時間、サッカー部の部室近くで待ってた。あの場所をサッカー部員以外が通れば気付くから」
そこに運悪く、山田である俺が来てしまった、と。
先輩はひどく落ち込んでいる。
よりによって容姿も成績も平々凡々な俺と間違えるなんて……と俺でも思う。
差出人の『山田』が誰か、簡単に見当が付いてしまうからなおのこと。
まず山田豊作の年とまで言われる二年生の山田は全員除外できる。
なにせ入学式の時点で自分以外に四人の山田がいるのだ。『山田』だけでは自分だと特定してもらえないことを自覚している。二年生の二学期が終わりかけた今でさえ、稀に山田間違いが発生するのだ。
故にどんなに緊張していたとしても『山田』だけ残す可能性はゼロに近い。
また、早瀬先輩が元サッカー部だったとしても、大輝君に目撃されそうな場所で告白するとは考えづらい。彼のことだから揶揄うことはないだろうが、メッセージグループが変な空気に満ちること間違いなし。
次に一年生だが、こちらも高確率で違うと言える。
一人は大輝君の弟。彼には幼馴染みの彼女がおり、文化祭のベストカップル賞を受賞した。早瀬先輩に告白をするはずがない。
もう一人は生徒会所属の山田さん。彼女のことは、俺の友人で生徒会役員でもある虎太郎からチラッと話を聞く程度。知っていることといえば『真面目な子』だということくらい。
だがそんな子がわざわざ生徒会活動日の放課後に、手紙で誰かを呼び出すとは思えない。なにせ相手が来てくれる確証がないのだから。
加えて、今日は『三年生のお疲れ様回』でもある。三年生は文化祭をもって生徒会の仕事を終了する。文化祭後の備品確認や諸々の集計を終え、ようやく引退する先輩を見送る日。
虎太郎と一年生の山田さんを含めた生徒会メンバーは朝礼前と昼休みは準備で忙しそうだった。他の日ならともかく、今日はあり得ない。
残るは三年生の山田先輩のみ。
一、二年生と三年生とで『放課後』の時間が変わる日にこの言葉を使ったことも、彼女なのではないかと考える理由の一つだ。
だがあくまでも推測の域を出ない。早瀬先輩に告げるのは憚られた。
かといって『山田』さんへの申し訳なさは微塵も湧かない。先輩が悪いとも思わない。
自分のフルネームと時間を明記しなかったのは、差出人のミスだ。
それに俺がサッカー部の部室付近を通りがかったのは、六限が終わってからしばらく経ってからのこと。
すぐに集まったとはいえ、俺はノートを整理してから降りてきた。先輩と会う前にはサッカー部の部室と自販機にも寄っている。好きな人を呼び出しておいて、それ以上の時間を待たせる方が悪い。
不慮の事故で関わってしまった同じ苗字を持つ者としては、これでめげずに再度アタックするか、きっぱり諦めてくれるのを願うばかりである。
早瀬先輩が自力で探し出す可能性もあるが、感覚の違いを理由に断ろうとしていたくらいだ。気になりはしても、深追いすることはないだろう。
なにはともあれ、俺が気を遣うべきは話したこともない山田さんではなく、目の前の先輩である。
「元気出してください。一緒にアイスクレープ食べただけですし、場所もチェーン店と公園なんて全然ノーカンですって。それにずっと勘違いし続けるより、初日で気付いてよかったじゃないですか」
不幸な事故ではあるが、幸いにも待ち合わせとして指定された場所が基本的にサッカー部と園芸部くらいしか通らない場所かつ、サッカー部員はすでに通り過ぎた後だったこともあり、目撃者がいなかった。
俺と早瀬先輩がなかったことにすれば、黒歴史にすら残らずに終わる。
「……ノーカンにしたくない。放課後デートするの、ずっと夢だったんだ」
悲痛な叫びに胸が痛くなる。
サッカー部は強豪と呼ばれるだけあり、基本的に休みがない。平日は部活で、土日も部活か試合。たまの休みの日は勉強漬け。
文武両道を掲げる我が校では、授業態度や成績に問題ありとされた生徒には一ヶ月間の補習が待っている。定期試験で赤点を取った場合も同様だ。赤点科目関係なしに座学テストのある履修科目全てを網羅させられる。
補習期間中は部活の参加はもちろん、スタメンだろうと試合参加すら許されない。そのため、定期試験前の部活休止期間中、多くの運動部は部活の時間をまるっと試験対策に費やすほど。
恋人と過ごす時間はなく、告白されても断るしかないーーと以前、大輝君がぼやいていた。
一年の時からモテまくりだった早瀬先輩に恋人がいないのも同じ理由なのだろう。だが引退した今は違う。
「今回は残念でしたけど、先輩ならすぐ恋人見つかりますって!」
励ますように、グッと拳を固める。
リップサービスでもなんでもない。この二年間、誰々が早瀬先輩に告白したという噂は何度も耳にしている。
特別興味があるわけではなく、教室にいるだけで聞こえてくるのだ。実際に告白された数はそれ以上であることは間違いない。本人が恋人作りに前向きだと知れば今まで諦めていた人達も名乗りを上げることだろう。俺なんかで妥協する必要はないのだ。
「大地君は俺の恋人になってくれないのか?」
「え?」
「勘違いしてたとはいえ、俺、さっき君に告白したんだが」
「でもそれは、俺が先輩にラブレターを出したと思っていたからで……。いや、俺と分かるまでは断ろうとしていた分、好感度はかなり高かった、のか?」
「俺は大地君の恋人になりたい。それとも手紙の差出人を勘違いするような男じゃダメか?」
「ふつつかものですが、よろこんで?」
正直、好きだと言えるほど先輩のことをよく知っているわけではない。
それでも寒空の下で一緒にアイスクレープを食べてくれて、サーモンシャークザムライに興味を持ってくれて、俺を好きだと語ってくれた彼の手を取ってみたいと思えた。
「好きだ。末永く一緒にいよう」
蕩けるような笑みと共に抱きしめられる。俺よりも高めの体温が心地いい。撫でられた時よりも少しだけ強くなる柑橘の香りと相まって安心させてくれる。
「先輩」
「なんだ?」
「DVD、やっぱり貸すんじゃなくて一緒に見ません? 今は漫画喫茶とかカラオケでもレコーダー借りて見れますし」
「それもいいが、よければ俺の家に来ないか? ポップコーンやジュースを買って、映画館で見るみたいにするんだ」
「楽しそうですね! でもお邪魔しちゃっていいんですか?」
「もちろん。ああ、そうだ。連絡先を交換しておこう」
「あ、そうですね」
スマホを取り出し、連絡先を交換する。
メッセージアプリの友達欄に加わった『RIKU』のアイコンは黒い毛の柴犬。
先輩の飼っている犬だろうか。ニコッと笑っている表情が愛らしく、唐草模様の首輪もよく似合っている。思わず頬が緩む。
視線を感じ、顔を上げると先輩と目があった。
アイコンの柴犬みたいに、楽しそうにニコニコと笑っている。なんだか恥ずかしくて、フッと視線を逸らす。
ついでに話も逸らしてしまおう。
まだ期限に余裕がある福引き券を財布から取り出す。
「あ、そういえば福引き! 回してから帰りましょうよ」
「折角だから一緒に回すか」
「いいの当たるといいですね!」
何が出るかはお楽しみ。
二人で分け合えるものならいいなと思いながら、お茶を飲み干す。
空になったペットボトルを手に立ち上がると、逆側からおずおずと手が伸びてきた。
先輩の大きな手。真剣な表情でたくさん俺の好きなところを言ってくれたのに、手を繋ぐのは少し恥ずかしいらしい。耳が赤くなっている。
ギュッと手を握ると、安心したようにホッと息を吐いた。
こんなイケメン相手に可愛いなんて思うのは、きっと俺くらいだ。これから先、先輩のいろんな表情が見れると思うと楽しみで仕方ない。
そう思うくらいには、俺も先輩に惹かれていた。
『俺も好きです』と伝えられる日も遠くないはずだ。