不破大翔(ふわ やまと)! しっかりネクタイを締めろ! だらしなくシャツを出すな! 校則違反だと言っているだろうが!」

 俺が名指しで怒鳴ると校門から入ってきたばかりの奴は柄悪く俺を睨みつけてきた。

「あ~? 毎朝毎朝うっせーなぁ、メガネ委員長」
「毎朝毎朝違反してくるお前が悪いんだろうが! こっちに来い!」

 面倒そうに舌打ちしながらもノロノロとした足取りでこちらにやってきた奴のネクタイに手を掛ける。

「マジでうぜぇ、てめぇはオレの母ちゃんかよ」

 頭一つ分長身の奴からそんな台詞が降ってきて思いっきりネクタイを締め上げてやると奴は「ぐぇっ」と大袈裟に呻き声を上げた。

「てめっ、さすがに締め過ぎだろーが、殺す気か!」
「文句があるなら明日から自分でやってこい。それと、俺はメガネ委員長でもお前の母ちゃんでもない。俺のことは香坂先輩と呼べ。よし、行け」
「あーあ、毎朝クソだりーったらねーわ。ったくよ~」

 ブツブツ文句を垂れながら校舎の方へと向かう奴を見送って、俺はメガネの位置を中指でかちりと直す。
 そして。

(はぁ〜、今日もビジュ優勝過ぎるだろう不破大翔~~!)

 心の中で思いっきり歓声を上げた。

 俺は香坂貴臣(こうさか たかおみ)。高校2年生。一応風紀委員長を任され、こうして毎朝登校してくる生徒たちの制服チェックをしている。
 そのせいかよく「メガネ委員長」やら「堅物メガネ」やら「クソメガネ」と呼ばれることが多い。クソはやめろクソは。

 そして何を隠そう俺はアイツ、不破大翔に惚れている。
 アイツの凛々しい顔が好きだ。
 アイツの男らしい体格が好きだ。
 アイツから漂う気怠そうな雰囲気がたまらなく好きだ。

 ――そう。恥ずかしながら、俺はアイツの大ファンであり、アイツは俺の所謂(いわゆる)『推し』なのである。

 不破は俺よりひとつ下の一年生。
 出逢いは先月。入学早々、校則違反しまくった格好で登校してきた奴に今のように声をかけたのが始まり。
 それから毎朝毎朝アイツがだらしない格好で登校してくるものだから、俺が毎朝毎朝それを指摘しネクタイを直してやるまでが最早日課となっている。
 今では役得だと思っているが、初めの頃はなんだこの生意気な一年はとイライラしたものだ。

 惚れたきっかけは本当に些細なことだった。
 街中で偶然見かけてしまったのだ。アイツが腰の曲がったおばあちゃんの大きな荷物を持ってあげている場面を。
 まさにギャップ萌え。その瞬間、まんまと俺はアイツに落ちてしまったのである。

「ベッタベタだよな~」
「うるさい! あんなの見たら誰だって惚れるだろう!」

 屋上のベンチで並んで昼飯を食べながら一年のときからの級友、仲澤朋也(なかわざ ともや)が呆れたように溜息を吐いた。

「なら毎朝わざわざ喧嘩売らなきゃいいのによ」
「仕方ないだろう。アイツが毎朝違反してくるのが悪いんだ。それに、アイツと正々堂々話せる唯一の口実なんだぞ」
「はぁ~難儀だねぇ」

 朋也だけは俺のこの気持ちを知っている。
 打ち明けたときには流石に驚かれたが今となっては良き相談相手だ。
 いくら友人といえど打ち明けるのには勇気が要った。だが一人では到底この気持ちを抱えきれなくなったのだ。
 それでもこうして友人を続けてくれている朋也には心から感謝している。

「でも本人に明かすつもりはないんだろ?」
「当たり前だ! 毎朝アイツのネクタイを直せるだけで俺は幸せなんだ」
「本当か~?」
「……なんだ」
「いや、好きなら普通もっとあるだろ。触れ合いたい、キスしたい、エッ」
「ストーップ!」

 あわやのところで俺は制止をかける。

「その先は言わせんぞ。アイツを穢すようなことを言うな」
「穢すって……や、健全な男子高校生なら普通そのくらいのこと考えるだろう」
「男子高校生ならと一括りにするな。俺は違う。それに言っているだろう、アイツは俺の『推し』。アイツのネクタイを毎朝直せるだけで俺は幸せなんだ」

 そうして俺は今朝のことを思い出してほぅと溜息を吐いた。

「そうだ。今朝アイツ俺に『てめぇは俺の母ちゃんかよ』と言ったんだ。母ちゃん……ふふ、やぶさかでないぞ」

 俺が弁当のミートボールに箸をつけながらひとりニヤついていると、貸しパンを食べ終えたらしい朋也がビニール袋をくしゃりと丸めながら言った。

「でもよ、不破の奴に彼女が出来たらやっぱショックなんだろ?」
「っ、それは……確かにショックではあるが」

 当然、そんなことは何度も何度も考えている。
 その度に胸が締め付けられるように苦しくなる。あげく涙が出そうになる。
 しかし決めているのだ。

「アイツが決めた相手なら、俺は祝福する」
「そんな顔で言われても説得力ないけどな」
「う、うるさい!」

 いかん、やっぱり想像しただけで涙目になってしまった。
 そんな俺に向かって朋也は止めを刺すように続けた。

「彼女が出来ちまったらネクタイも当然その子がやってくれるだろうし、お前はお役御免になっちまうけど、それでも祝福できるのか?」
「ふぐぅ……っ、出来るし。祝福してみせるし」
「あ~あ~悪かったって。ガチ泣きするくらいならいっそ告っちまえばいいのによ~」
「無理だ!」
「ワンチャンOKかもよ?」
「ワンチャンとか言うな、ありえない!」
「そっかな~?」
「そうだ! むしろアイツが俺となんて解釈違いにもほどがある!」
「解釈違いて……」

 メガネを外して涙を拭い、そのまま良く晴れた空を見上げて俺は呟くように言った。

「いいんだ、このままで。俺は十分幸せだ」

 このささやかな幸せが少しでも長く続いてくれればそれでいい。


 ――そう、思っていたのに。


「クールビズ、ですか?」

 それは、5月も終わりの頃。
 風紀委員顧問の先生に呼び出され、俺は職員室で目を瞬いた。

「ああ、そうだ。本校でも今年から取り入れようということになってな」
「というと……?」
「6月からネクタイの着用は自由ということにする」

 ガァーーン!
 頭の中でそんな漫画のようなけたたましい音が鳴り響いた気がした。
 ネクタイの着用が自由になる。ということは当然不破の奴はネクタイをしてこなくなるだろう。
 ということは俺はアイツのネクタイを直す機会を失うわけで。

(俺の、ささやかな幸せが……)

 いつかはと思っていたが、まさかこんなに早く崩れ去るなんて。
 そんな俺の気持ちなど知る由もなく、先生は満面の笑みで続けた。

「これでお前の負担も少しは減るだろう、香坂」
「そ、そうですね」
「すまんなぁ、いつも嫌われ役をさせてしまって」
「いえ、そんな……」

 俺を気遣ってくれる優しい先生の前で、果たして俺はちゃんと笑えていただろうか……?



「夏が憎い。暑さが憎い。誰だ、クールビズなんて余計なものを考えた奴は」

 教室に戻り机に突っ伏してブツブツ文句を唱えていると、前の席に座る朋也がスマホゲームをしながら軽く言ってのけた。

「俺は大賛成だけどなー、ネクタイ無しとか超楽じゃん」
「俺にとっては死活問題なんだ。あぁ、冬が恋しい……」
「夏休みもあるし、結構先だな」
「ぐぅっ」

 そうだ。夏休みのことをすっかり忘れていた。
 一体俺は何ヶ月の間アイツのネクタイに触れられないんだ……。 

「でもアイツ、ネクタイもだけどシャツもいっつも出してるだろ?」
「あぁ……その緩さがまたアイツによく似合っていてな」
「ならよ、これからは毎朝ネクタイの代わりにシャツをズボンの中に突っ込んでやったらどうだ?」
「ズボンの中に手を入れるなど立派なセクハラだろうが!」

 ガバっと顔を上げて怒鳴ると朋也は意外そうに目を瞬いた。

「あー、だからいつもそっちはスルーだったんだな」
「当たり前だ! お前は俺をなんだと思っているんだ」
「いや~、校則違反を口実にそのくらい出来るもんかと」
「出来るか!」

 そうして俺はもう一度力なく机に突っ伏した。

「あぁ~アイツのネクタイを直したい~~」
「重症だな」

 そんなふうに俺が嘆いていても、6月は無情にもやってくるのである。



「不破大翔! だらしなくシャツを出すな! 校則違反だと言っているだろう!」

 俺が名指しで、ネクタイのことには触れずに怒鳴ると、校門から入ってきたばかりの奴は柄悪く俺を睨みつけてきた。

「あ~? 毎朝毎朝うっせーなぁ、メガネ委員長」
「毎朝毎朝違反してくるお前が悪いんだろうが!」

 いつものやりとり。だが、今日からは違うのだ。
 奴のことだから、てっきり今朝からネクタイはしてこないものと思っていたが、いつものように緩く締めていて、いつものようにそれを直したい欲求を必死に抑え俺は続けた。

「ネクタイも、するのならきちんとしろ」
「あ?」

 すると、不破は眉をひそめた。
 そして呼んでもいないのにこちらへ歩いてくると不機嫌そうに俺を見下ろした。

「んだよ。今日は直してくれねーのかよ、ネクタイ」
「は?」

 ……何を言っているんだ。コイツは。
 そりゃ直したいに決まっている。こちとら今必死に目の前のネクタイに触れたい欲求と戦っているのだ。
 俺は努めて平静を装って訊く。

「お前、クールビズの話を聞いていないのか?」
「は? クールビズ?」
「今日から夏の間、ネクタイの着用は自由ということになったんだ。周りを見てみろ」
「!?」

 不破が驚いた様子で周囲を見回す。
 やはり今日からネクタイをしていない生徒は多い。

「だから、今日から数ヶ月ネクタイのことはとやかく言わん。だが、着けてくるならちゃんとしろ。それだけだ。もう行け」

 頼むから早く行ってくれ。
 でないと、目の前に美味しそうにぶら下がっているネクタイに飛びつきたくなってしまう。
 俺が必死に欲求に抗っている、そのときだった。

「ちっ」

 不破は大きく舌打ちをするとシュルっとネクタイを外してしまった。
 おいやめろ。俺の前でそういうカッコいい仕草をするな。今漫画だったら確実に背景にバラの花弁が舞っていたからな。

「これ、預かっといてくれよ委員長」
「は?」

 目の前に差し出されたネクタイを俺はポカンと見つめる。

「どうせ、クールビズが終わればまた委員長がきっちり締めてくれんだろ?」

 意味が分からずゆっくりと視線を上げると、その凛々しい顔がほんのりと赤く染まっていることに気付く。

 ――え?

 不破は呆然としている俺の手を取り無理やりそのネクタイを握らせると、ぶっきらぼうに言い放った。

「じゃあな。香坂センパイ」
「え? あ、あぁ……」

 そうして不破の奴は俺に背を向け、颯爽と校舎の方へと去っていった。





「――ということがあったんだが、どういうことだと思う?」

 綺麗に畳んだ(くだん)のネクタイを机の上に置いて真剣に問うと、朋也は何やら盛大にヘンテコな顔をした。

「……お前、それガチで言ってる?」
「俺はいつだってガチだ。――ハっ! も、もしかしてこれは所謂『ファンサ』というやつか? だとしたらマズイ……俺がアイツを推していることがバレてしまったということか!?」

 俺が青くなっていると朋也は「はぁ~~」と頗る長い溜息をついて眉間を押さえた。

「まーね、俺も最初からおかしいと思ってたんだわ。あんな奴が毎朝大人しくネクタイ直させるなんてよ? そういうことだろうよと」
「だからどういうことだ!? 俺の気持ち、やっぱり不破の奴にバレバレなのか!?」

 もう一度必死に問うと、朋也はなぜか聖母のごとく優しく微笑んだ。

「もうバレバレでいいんじゃないか?」
「よくないだろう! は、恥ずかしいじゃないか!」
「ハハっ、こりゃあアイツも大変だぁ~」
「何を笑っている! 何で不破が大変なんだ、答えろ朋也!」

 友人の肩を掴んでガクガクと揺するが結局よくわからないことをぼやくだけで話にならなかった。
 とりあえず俺は大切な推しのネクタイが皴にならないよう慎重にバッグに仕舞った。家に帰ったらどこに飾ろう、そんなことを考えながら。

 ちなみに俺が今朝アイツから初めて名前を呼ばれたことに気が付いたのは就寝前のこと。
 最高のファンサを2つももらっていたことに悶絶し、その後眠れなくなったのは言うまでもない。