「……い、おーい、小鳩真尋」
 遠くで聞こえていた声とともに、ぐわっと目の前に現れたのは白井だった。
「なにボーっとしてんだよ」
 白井は、俺が見ていた場所へと視線を追おうとしていた。それをすかさず引き留める。
「い、いや、なんでも?」
 あぶねー、大神を見てたってバレる。
 ──あの日。
 バス停で過ごした俺らは、その後は何事もなく高校生活を続けていた。
 大神に言われた内容の真意を確かめる勇気はなく、かと言って世間話を振れるほどの余裕もなく、なんやかんやとまた接点が薄れてしまった。
「なんだよ、どうせ女子を見てたんだろ」
「白井と一緒にすんなよ」
「俺は姫一筋」
「そう言われても別に嬉しくもなんともないけど」
「なんだよ、喜べや」
 白井から向けられる好意は、あくまで友達としての好意だと分かる。
『姫は可愛いと思うけど、恋愛対象はあくまで女だから』と以前、八雲から聞かれて答えていた。
 けれど、大神の場合はどうだったんだろうか。
 俺だからキスした。聞き間違いでなければそう言っていたような気もする。
 でも俺は男だ。大神も男だ。つまり、お互い男同士ってことだ。
 もしかして大神には俺が女の子寄りに見えているってことか。
 そうだとしたら、それは不本意ではあるものの、言葉の内容は納得できる。
 山田たちとはキスができないってことだったのかも。
 ……うん、どう考えてもそうだろ。
「なんか一人で頷いてるけど、どうした」
「ちょっと腑に落ちさせてたとこ」
「それ、使い方間違ってね?」
「つーか、なんか用あったんじゃん?」
「ああ、忘れてたわ」
 白井が廊下を見た。
「呼び出しくらってたぞ」
「……え?」

 放課後。俺はすでに呼び出しを済ませ教室に残っていた。
 目の前には逃れようのないプリントが一枚。
「はあああ、一瞬告白とか思ったじゃんよ」
 白井が言っていた呼び出しとは、前回のテストの成績で補習決定の報告を知らされるものだった。
 教科担任に「名前はちゃんと書けてたんだけどな」と憐れみの目を向けられ、そっとプリントを持たされた。
「……終わる気がしない」
 机に頭を伏せる。今日中に提出とか鬼だ。憐れんでくれるならせめて一週間くれたらいいのに。そしたら、……まあ提出日に頑張った。
「なにしてんの」
 耳元で囁かれたその声に、うひゃいと奇声とともに顔を上げた。
「お、大神……まだ残ってたんだ」
「まあ、忘れ物」
 それから、俺の机の上にある無記入のプリントを見た。
「補習?」
「うん、俺だけだったみたいで」
 苦笑いしか浮かばない。
 一軍さまからも何人か出ると思っていたのに、一人も出なかった。
 見事に俺だけということは、学力にも引け目を感じる。
「え、ええと、大神は何点だった? あ、言いたくなかったらいいんだけど」
「この教科のテストだったら全クリだったけど」
「……ホワイ?」
 全クリ? それって満点ってこと?
「え……大神って勉強得意なんだ」
「いや、これは覚えるだけだから。別の教科はそうでもねえよ」
 それはおそらく謙遜だ。
 そういえば、大神が補習って聞いたことないな。本人がテストの点数とか言ってんのも聞いたことないし。
 ガタガタと前の椅子が引かれ、大神が座った。
「あれ……帰んないの?」
「小鳩このままずっと残ってそうだし。ちょっとは俺が役立てると思うけど」
「大神を役立てるなんて滅相もない……! でも、いいの?」
「断られる選択肢は最初からない」
 なんだその男前の回答は。俺からは人生で一度だって口にできないような答え方だ。
「ほら、さっさと終わらせようぜ」
「うん」
 ふわっと大神の匂いが濃くなったのは、前のめりになったから。
 必然的に距離が近くなって、大神の整った顔をどうしたって意識してしまう。
「これ見る限り、基礎を覚えたほうがいいと思うんだけど」
 大神が話す度に、形のいい唇に目がいった。
 俺、キスしたんだよな。
「小鳩」
「えっ」
「基礎、覚える?」
 なんの話をしてたんだっけ。急いで考えていると、大神がふっと笑った。
「意識し過ぎ」
「い、意識って……」
「あれから、俺のことよく見てるよね」
 あれからが、一体いつからのことなのか。それは俺と大神だけが知っていることで、そして「俺のことよく見てる」というのは図星だった。
 自然と目で追いかけてしまうことが増えて、大神が普段どんな風に過ごしているのかをより具体的に知るようになった。
「……見てる、かも」
「素直」
「俺が見てるって気付いてたんだ」
「気付くよ、あんなに見られてたら」
 そこにどんな意味があるんだろう。考えてしまいそうになる。
「……大神は、いろんな女の子からの視線もあるでしょ」
「どうだろうね」
「俺だけの視線に、気付いたってこと?」
 数多の女の子から一心に視線を注がれている。
 一挙手一投足に注目が置かれ、存在そのものが輝いている。
 あー……と大神は唸ると、それから片手で顔を覆った。
「墓穴掘った。今のなし」
 ……え、照れてる?
 そんなことある?
 俺の言葉で?
「あ、あのさ……大神って……なんで彼女作らないの?」
 目の前には、真っ先に解決させなければいけない用紙が鎮座しているというのに。
 俺はどうしたって、大神の心を解き明かしたくて仕方がなかった。
 片手で隠されていた顔が、ゆっくりと全貌を見せていく。ああ、やっぱり何度見たってこの顔は整いすぎている。俺が女で、この顔で見つめられたら、一発で落ちてた自信がある。
「なんでって──」



 大神を初めて知ったのは高校の入学式当日のことだった。
 校庭から校舎へと続く道が桜並木になっていて、その淡い桃色の世界でやたらと周囲の視線をかっさらっていたのが大神だった。正直、芸能人でもいるんかと疑うレベルだったことを今でもはっきり覚えている。
 それから大神を見て、すぐに納得した。なんかすごいのいる。別世界からひょいっと引っ張ってきたみたいな違和感があった。大神はすべてにおいて完成されていた。
 圧倒的な存在感。
 桜吹雪の中で、空を見上げている大神がとんでもなくかっこよかった。俺の場合、男が男に憧れた的な感じで、女の子に向けるようなものではない。大神は俺以外の男が見ても、ついそばにいたくなるようなカリスマ性を持ち合わせていた。
 それからというもの、しばらくは大神への告白者が後を絶たなかった。
 ひとたび歩けば、大神は告白され、そして徹底的に振っていく。
「お試しでいいので付き合ってもらえませんか」
 告白されているシーンを俺は何度か見たことがある。
 きっとここの高校の生徒なら、一度や二度はざらにあってもおかしくはない。
 だからか、大神が次にどんな言葉を口にするのかを想像するのは容易だった。
「お試しだとしても好きになることはないっすよ」
 大神は、明らかに距離を置こうとする人間に敬語を使う。それはタメでも年上でも。年下はちょっと例外だったり、そうじゃなかったりの差がむずいけど。それでも冷たいことには変わりなくて、そんな大神を見てちょっと引いて、それから惹かれた。
 告白され過ぎて、断り方がワンパターンになっているところに引いて、それか、大神の真の強さみたいなところに惹かれる。しつこいけど、男としてという意味合いで。
 好きになることはないと言い切ってしまう大神は、テキトーに告白を受けたりはしない。そこがポイント高かった。
 分かりやすいほど、別の世界で生きているようなタイプ。
 スクールカーストでも同じ層にいられるわけでもなかった俺たちの接点は、通学バスが同じだということ。
「えっ、大神もこのバス?」
 そのときの俺は、あまりにもうれしくてつい声をかけてしまった。ちなみに会話したのはこれが初めてだ。
「……まあ、そうっすね」
 敬語! 距離置かれるパターン!
 いや、でも俺は男だし、さすがに告白されるとかは思われてないだろうし。
 バスが来るまでまだ時間はある。いっそ歩いて帰ってしまおうかと悩んでいたら、「わっ」と分かりやすくテンションが上がったような女の子の声が聞こえた。
「大神くんだあ」
 おお、胸にときめきをいっぱい詰め込んだ三年のマドンナ先輩登場。大神狙いなのはすぐ分かって、その場から二、三歩離れるようにした。
 それでも、ぐわんと香ってきた匂いについ顔に力が入りそうになった。香水とキャラがなかなか強い。俺、鼻が効くからちょっとしんどいっす。
 ちらりと大神を見ると、その横顔はいつものように済ましたものだった。ただ一切、マドンナ先輩を見ないところが相変わらずだ。
「これから帰るの? バスだっけ」
「……みたいっすね」
「えー他人事なんだけど。このまま帰るだけならカラオケでも行こうよ」
「カラオケってなんすかね」
 一軍さまに所属していたら、カラオケというものを知らないわけがなかろうに。概念を問いただしてくるあたり、大神は一筋縄ではいかない。そしてマドンナ先輩も負けていない。
「歌うとストレス発散になるよ~」
 強者だ。今の返しだったら、行かないって言われているようなものなのに。
 ぐいぐいっと大神との距離を縮めるように身体をくっつけようとする。それに微動だにしないところは、こういうシーンに慣れているってことなのか。
「興味ないっすねえ」
「それってカラオケが? それとも私が?」
「どっちもじゃないっすか」
「だから他人事」
 温度差はあれど、そんなリア充満載の会話が、線引きされてるみたいだ。
 同じ空間にいたとしても、俺はほとんど見えていないらしいし。
 俺と大神という男がいたら、女の子は当たり前のように大神を選ぶだろう。
 当たり前だ。大神みたいな奴とは同じ世界にいられないんだから。
 でも、このまま大神がマドンナといい感じになる可能性もなくはないんだよな。
「つーか、スメハラなんすよね」
「なんだっけそれ、聞いたことある」
「匂いきつい人無理なんで」
 いつの間にかマドンナ先輩は大神の腕に絡むようにくっついていた。それを振り払うように距離を置いて、自然と俺との距離が近くなった。じとっとマドンナ先輩に睨まれた。
「ひどっ、そこまで言うとかデリカシーなさすぎ」
「そうっすね」
「信じらんない」
 不機嫌丸出しでマドンナ先輩はバス停から離れていく。強烈な匂いを残して。
 ちょっとこれ、まだきついかも。
 具合が悪くなる一歩手前で、大神と目が合った。
「あー ……大神はやっぱ人気が衰えませんなあ」
 なにか喋らないとと思った結果がこれだった。なんだそれ。
「なんだそれ」
 自分で思ってること、そっくりそのまま大神から返ってくる。
 そりゃあそうだ。
 俺みたいなのからいきなり話しかけられて、「衰えませんなあ」とか言われたって意味不明だって。
「ご、ごめ──」
「しばらくここから離れたほうがいいよ」
「え?」
「まださっきの人の匂い残ってるっしょ」
 匂いと言われて、さっきのマドンナ先輩のことを思い出した。
「あ……うん、じゃあちょっと離れようかな」
「こっち側が安全地帯かも」
 大神は自分で歩いて匂いを確かめる。
 そこに呼ばれていると思っていいんだろうか。
「ええと……じゃあ、おこぼれを」
「小鳩って言葉のチョイスどうなってんの」
「へ、変かな……?」
「そんなことはないと思うけど、なんかいちいち面白いから」
 うわ、トップオブトップにそんなことを言われる日がくるなんて夢にも思わなかった。
「面白い……かな?」
「白井たちともいつもそんな感じ?」
 そう聞かれると、いや、と自然と出ていく。
「違うかも? 大神とは……その、緊張するっていうか」
「しなくていいよ」
「それはなかなか難しいっすよ。一軍さまだし」
「一軍さま?」
「あ、大神は一軍だから」
 勝手に「さま」なんてつけて呼んでるだけだ。
 大神は、なるほど、と答えたきり、会話は続かなかった。
 だけど気まずいという空気感があるわけではない。なんというか、最初よりは、ここに居ても問題はなさそうだと安心している面がある。
 バスはまだ来ない。
「……大神ってさ、なんで彼女作んないの」
「急にそれか」
「気になって」
 正直、もっと怖い人なのかと思っていた。
 女の子を振るときの態度とか、木端微塵にやっつける感じだし。俺なんかを相手にしても、優しくするメリットはほとんどないのに、匂いがしない場所へと案内してくれた。それだけで気分が浮かれているところはあるだろうけど。
「めんどう」
 たった一言、大神は彼女を作らない理由を答えた。
「うわ、それ一度でいいから言ってみたかったやつ」
「小鳩は?」
「え、俺?」
「なんで彼女作んないの」
 まさか質問返しをされるとは思っていなかった。
 大神は優しいんだろうな。俺みたいなのに興味はないだろうに、わざわざ流れとして聞いてくれるなんて。
「作れないよ。俺を好きになってくれる人とかいないし」
「……ふーん」



 初めて会話した日のことが蘇る。
 あのとき、大神は彼女を作ることが「めんどう」だと言った。
 補習プリントを間に挟んだ今、俺と大神は見つめ合っていた。
「──大神って……なんで彼女作らないの?」
 そう言ってから、すぐに後悔した。
 こんなことを聞かれたら大神はまた「めんどう」だと返すはずだ。
「小鳩がいるから」
 ……けれど、予想に反して、答えが変わっていたことに少なからず衝撃を受けた。
 俺がいるという解釈になったのは、キスをしたからなのか。それとも、別になにかがあったのか。
 どちらにしても、大神が冗談でこんなことを言っているわけではない。
「……俺がいるから、彼女を作らないの?」
「そうなるんじゃない? で、ここはどう考えてる?」
 ごく自然な流れだった。
 どうって……と大神が指差ししていたのは、補習プリントの一問目。
「……忘れてた」
 そういえば、俺はこれをクリアするために残っていたんじゃなかったのか。
 そして大神がおそらく善意で助けてくれようとしていた。
 なんでこんな流れになったんだっけ。
「今日中に帰りたいなら終わらせようぜ」
「すんません、なるはやでやります」
 とりあえずシャーペンをカチカチしながら、問題に集中しようと切り替えるが、やっぱり大神とのやり取りで頭が支配されていた。
 なんとなく、真相をはぐらかされたような気がする。
 これ以上はもう話さないよみたいに線を引かれたようで、それは俺の勘違いでもないと思う。
 結局、プリントのほとんどを大神のおかげでクリアすることができ、俺たちは無事に帰宅することができた。
 ただひとつ、分からない問題──大神の気持ちだけを解き明かすことはできなかったけど。