「難しい事を考えずとも良い。何の為であるか、それさえ決まっておれば自ずと道は拓ける。お前さんは何の為に悩んでおる?」
「歌織を、京平を、太市を、助ける為」
「わかっておるな。それだけは何があっても失ってはならぬぞ。それに・・・・この奴国の民の事も、助けて貰いたいものだ」
「奴国の人を助けるって?」
「忘れおって。間も無く嵐が来るのであろう?お前さんが祈祷を行い、啓示を受けたのだと言っておったろうに」
「ああ、ついうっかり・・・・その事も忘れません。でも、お婆さんにその事って伝えてましたっけ?」
老婆は問いに答えず、家の反対側の道を振り向く。
そこへ丁度わかっていたかのように、葉李菜が通りかかった。
寝巻きに一枚羽織った姿で外に出てきたようだ。
「何だか少し、いや、随分目が冴えて寝付けぬのだ。日が昇るまで時はあるが、ひと足先に祭壇へ参ろうかと」
確かに葉李菜の瞼は重く垂れ下がり、顔色も月の光に似て青白かった。
そして老婆を見て、頭を深く下げる。
「この婆様はかつての姫巫女、謂わば私に巫女の心得を教えてくださった恩師なのだ」
「久々に御顔を拝したかと思えば、かつての美しさから遠のかれましたな。日々偽りの心なく神に仕えておいでなのでしょうな」
「いや・・・・本当ならば婆様に会わせる顔はない。日々迷ってばかりだ。今日の占いだって、実は鹿の骨に少しばかり翳りが見えていた。ほんの少しであるから心に留め置かず、王にもあのような事を申し上げたが、あの翳りは・・・・伊代殿が言っていた、奴国に迫り来る脅威の事なのかもしれぬ。あの時味方になってやれず、申し訳ない事をした」
葉李菜の衝撃の告白に伊代は驚きながら、深々と頭を下げる葉李菜を庇う。
老婆は杖を握り直し、東の方角へゆっくりと歩き出す。
「儂らも祭壇へ参ろう。お主は小麻李をおぶさって来い。それと、眠れぬ男がもう一人いる故それも連れて行こう」
"眠れぬ男” とは?
伊代が不思議に思っていると、住まいから阿湯太那が出てきた。
目の下に酷い隈を作っているその男は、家の中から話を盗み聞いていたのか、眠ったままの小麻李を無言で背負い老婆の後を追う。
伊代も葉李菜も、考えもつかなかった展開に驚きながら同じく後を追った。
老婆が言った事は正しく、暗闇の中の田園地帯を横切ってまもなく五人は祭壇へ到着した。
老婆は葉李菜と伊代に、これから祈祷を行うため祭壇の準備をするよう指示する。
奴国の最高司祭たる葉李菜が一人の老婆に命令されていいものか、と伊代は戸惑ったが、葉李菜は何の躊躇いもなく祭壇の準備を行い、伊代にも滞りなく指示をする。
高い地位を得ようとも師への恩は忘れず下々の者と同じ働きをする、葉李菜の新しい一面を知る事となった。
東の空が微かに明るくなり始めた頃、祭壇の準備は整った。
毎日の朝の祈祷で行っている祭壇と比べて、銅鏡を飾ったり段の数を増やす等、少し規模が大きいように伊代は思った。
少し欠けた月明かりだけでは辺りは見辛く、ここへ辿り着くまでに手にしていた松明だけでも祭壇全体は見通せない。
「篝火を焚きましょうか」
と、阿湯太那は老婆に進言する。
しかし老婆は首を横に振る。
「確かに暗くて見え辛いだろうが、重要な事は祭壇を見ることではない。視界を制限されるからこそ、日頃見えていない物や形のない事に気が向くというものじゃ」

