「静かに」

突然、綺那李(キナリ)が声を上げる。耳を澄ませると、複数名の足音が近づいてくる。
「気づかれたみたいだ。歌織さん、早く戻ろう!」
「待って。その前に、水筒を受け取ってよ、京平」
歌織は京平の手に水筒を握らせようとするが、京平はそれを振り払う。
水筒は地面に叩きつけられ、水が漏れてしまう。
歌織は拾おうとするも、綺那李や太市に急かされ、来た道を戻らざるを得ない。
なかなか戻ろうとしない歌織の背中を押し、屋根に上らせるが、そこで運悪く綺那李は兵士に見つかってしまった。

「動くな!ここで何をしている?」
「いや、えっと・・・・」

現れた大柄な兵士は、見覚えのある顔をしていた。
兵士も綺那李のことを訝しげに見つめ、それが兵長の上の娘であるとわかると、肩を震わせる。

「もしや、兵長の・・・・」
「く、九真由(クマユ)さん!いや、いつもの兵士ごっこだよ。興味本位で忍び込んだだけなんだ。だから、父様にはこのことを黙っていてくれない?」
「誰に黙っていろと言った?」

九真由の背後から現れたのは、阿湯太那(アユタナ)だった。
今夜帰宅しなかったのは、牢獄の警備をする務めがあったからなのかと、綺那李が気づいた時には遅かった。
「と、父様」
「どうやら朝方のアレを忠告だと思っているようだ、私の考えが甘かったのだな」
「申し訳ありません、決して悪い事を企もうとしていた訳ではないのです」
「自分の立場を弁えろ。こっちへ来い」

威厳ある父は綺那李の腕を強く引き、牢獄の奥へ連れて行く。
屋根の穴からその様子を見守っている歌織は、彼女を助けるために下へ降りようとするが、綺那李は目線でそれを拒む。
そのまま屋根から顔を出していては兵士に見つかると、やむなく歌織は穴を塞ぎ、その場を立ち去る。

阿湯太那が綺那李を連れて行った先は、京平と太市の牢の前だった。
綺那李の腕を強く引き、床に転がる水筒を見せる。
「悪い事は企んでいないと、確かに言ったな?」
阿湯太那は朝方の説教にも増して、低く怒りの籠った口調で娘に迫る。

「水筒なんか、知らない。私じゃない」
「お前がやったのでないとしたら、誰が出来る?この囚人たちが隠し持っていたとでも?」
「だから、私は知らないって」
「囚人に飲み水や食料を与えるのは禁じられている。発覚すれば罰の対象だ。まさかとは思うが、家に住まわせている客人たちの仕業ではないだろうな」
「・・・・!」
「やはり異国の者同士、密通をしていたか。奴国の敵、ひいては倭の平安を見出すようであれば、あの者たちも捕えねばなるまいな」

阿湯太那は後ろに控えていた九真由に視線を送る。彼に歌織と伊代を捕えさせる気なのだろう。

「違う、あの人たちは関係ない!全て私の独断なんだ」
「そうだと言い切れるか?」
「そう、です・・・・申し訳ありません」

阿湯太那は眉間に皺を寄せる。
しかし娘の言う事を信じたのか、また綺那李の腕を強引に引き、連れて行こうとする。

「ま、待ってください!その子はどうなるんですか?」
と、太市は阿湯太那に尋ねる。
しかし阿湯太那が囚人に視線を向けることは無い。

「囚人に答える事は何もない。詮議を待て」
阿湯太那は綺那李と共に牢獄を去る。
九真由は地面に落ちた水筒を回収し、牢獄を出て扉を閉めた。
牢獄には再び、静寂が訪れる。

「あの子・・・・綺那李は大丈夫かな」
「実の娘に酷なことはさせないさ。それより太市は自分の心配をしろ。このままいつまでも詮議が開かれなければ、ここで餓死するぞ」
「京平・・・・その言い方は冷たすぎるよ。あの兵長と変わらない」
「勝手に思ってろ」

京平は太市に背を向けて座る。
先程まで心を少しでも開いてくれていたかと思ったが、歌織と話した後、心を閉ざす京平に戻ってしまった。
太市は檻の前に漂う飲みかけの水を見つめる。
京平は結局、一滴も飲まなかった。本人は強がっているが、このままで平気な訳がない。
空腹の京平は脱獄する術も考えられず、明日の朝に詮議が開かれることを祈るしか無かった。