綺那李(キナリ)からは、合図があるまで何も喋らずについてくるよう指示を受けていた。
夜道を黙々と進み、住居の合間を縫い、主祭殿(しゅさいでん)を迂回する。
街灯がある訳でもない暗い夜道を照らすのは、少し欠けた月の光だけ。
主祭殿などの建物の周りには松明(たいまつ)が燃やされているが、見回りの兵士が歩き回っている為、人に気づかれずに進むには陰になっている場所を選ぶしかない。

月光の明るさに慣れていない歌織は、足早に進んでいく綺那李の背中を追うのに必死だった。
綺那李は夜目が利くようで、薄暗い場所も障害物を避けてぐんぐん進んでいく。
綺那李だけではない。この時代に住む人は、現代人に比べて視力も格段に高いし、夜目が利く。
それは夜の薄暗さに慣れているからかもしれないし、蛍光灯や液晶画面の光を日頃から浴びていないからかもしれない。

主祭殿の裏に回ると、一層影になり辺りが見えづらくなった。
それにも関わらず兵士が建物の前に立って警備をしていることから、牢獄はそこにあることがわかった。
綺那李は指で反対側の方角を指し、そこへ向かうことを歌織に伝える。
歌織は頷き、綺那李の後に従う。

牢獄の裏手に回ると、綺那李は置かれていた木箱や陶器、縄などを器用に使い、容易に屋根に上る。
どうやら屋根の一部に穴が開けられており、藁や蕗を敷いて隠しているようだった。
綺那李がまるで猿のように屋根へ上っていくのを見て、歌織は目を丸くする。
声を出せない為、簡単に上れないことをジェスチャーでアピールするが、綺那李にはまるで伝わっておらず、早く上ってこいと手招きする。
歌織は仕方なく覚悟を決めるが、元々運動は得意な方ではない。
休日に伊代たちとバドミントンをする程度の運動は学生時代していたが、部活も音楽系ばかりで、持久力もあまりない。

綺那李が手や足をかけていた位置を思い起こし、おずおずと上ろうとするが、運動不足の脚は簡単に震える。
不意に足元が狂い、体重をかけていた木箱を倒してしまう。
すぐに綺那李が歌織の腕を引っ張り転倒は避けられたが、木箱の大きな音が響き、牢獄の正面で警備していた兵士に気づかれてしまう。
歌織は慌てて屋根をよじ登り、兵士が現れる前に屋根の穴から侵入することに成功した。

屋根から飛び降りると、そこは囚人が収監されていない空の牢だった。
「ここから、喋っても大丈夫だ」
と、綺那李は話しかける。歌織は一息つく。

「先ほどは危なかったな。水や食料は落としてないだろうな」
「もう、ばっちりよ」
と、歌織は胸元に隠してある食料と、肩から下げている水筒を確認する。
歌織の聞き慣れない言葉に綺那李は首を傾げる。歌織はさらに、問題ない、と付け加えた。
綺那李は用心深く辺りを見渡し、兵士がいないことを確認する。
「異国人たちの牢屋は奥だ。他にも囚人はいるが、寝ているだろうから物音を立てないように進もう」