乙彦(オトヒコ)、いるか」
数刻の後、何かを決意した卑弥呼は、とある従者を呼び出した。
間も開けず即座に、 “乙彦” と呼ばれた男は館に入って来た。この館に入る事が許されている、唯一の臣下である。男は大きな体を丸め、女王に首を垂れる。

「ここに、おりまする」
「夜明けと共に、奴国(ナコク)へ向かってもらいたい」

女王の突然の命令には、昔から慣れていた。神のお告げに従順な女王は、臣下への指示を外したことは無かったが、悪く言うならば人遣いが荒いのである。

「勿論の事、すぐに準備を致します。しかしながら何故奴国へ向かうのか、その真意をお聞かせ願えますか」
「旅人が来ているようだ」
「旅人・・・・と申しますと?」
「我らの大切な客人である。好き勝手に何処かへ行かれては困るのだ。お連れし、丁重にもてなすように」

いつもの事でありながらも、女王は真意を話す事が兎に角下手だと、乙彦は思った。
突然前触れもなく、他国に使者として赴き、何処の誰かもわからない人間を連れて来いとは、女王の考えている事に疑いを持たない日はない。

しかしその疑いが現実となることは絶対になく、女王は必ず民を平和へと導いている。稲作の推進、国領の拡大、他国との同盟締結、それらを成した女王は、邪馬台国のみならず倭国を総べる女王となろうとしていた。

「言っておくが、そなたは女王の代理人である」
「はっ」
「その事、呉々も捨て置かぬように。そなたは代理人であり、女王の弟である。ただ、それだけだ」
「承知致しております。ですがしかし」
「まだ何かあるのか」

乙彦は頭を少し上げ、先ほど占いが行われたばかりの祭壇を覗き見る。
「神々は、何と仰せでございましょう」
「気になるか?」

卑弥呼は祭壇を見据え、そして祭壇奥の窓から差し込む真っ赤な月光を見据えた。
「あの月の光、どこか日の光に似ていると思わぬか」
「眩し過ぎて、どこか不吉な気配が致しまする」
「不吉などではない。夜に顔を見せる事が出来ぬ日の神々が、我らに知らせる為においでになったのだ」
「知らせること、とは?」
「この国の、倭国の平安がかかっている。いよいよ戦をこの国から無くし、民を安寧の世へ導く事ができるのだ。あの赤い月は、その吉兆ぞ」

卑弥呼は月の光を一身に受けて、微笑んだ。
その神々しい後ろ姿を密かに仰ぎ、乙彦は館を出て行った。