「秋」
冬真の声が少し大きく響いた。
頭をのせていたシーツが小さな地震みたく縦に揺れて、目を閉じていても冬真が膝立ちになって自分の方に近づいてきているのが分かった。
「何で、彼女なんかほしいの」
「なんとなく」
「そんなにいいもんじゃないと思うよ、おれは」
「冬真の意見は関係ないだろ」
「ある」
「あるか?」
「あるよ。そもそもさ、彼女なんかつくって、何かしたいの」
「そんなのあれだよ、手つないだりキスしたりじゃねーの。言っててサムいけどな」
「じゃあ、してみる?」
瞼越しに、うすく人の影が動くのを感じた。
それからすぐに百合の香りが迫ってきたものだから、おれは慌てて目を開いた。
視界のほとんどは冬真だったけど、すべてではなかった。
冬真はおれの頭のすぐそばに膝をついて、おれを覗き込むみたいにじっと見ていた。おれは冬真の影の中にいて、日没よりも先に夜を迎えた。
「秋がしたいこと、おれ、してやれるけど」
「……馬鹿か?」
「あのさ、言っとくけど、秋の方が馬鹿じゃん。お前はね、馬鹿で馬鹿で馬鹿で、本当に馬鹿で、馬鹿すぎる」
「まあ、それはそうだな」
「……うそだよ。おれのほうが馬鹿」
冬真の手が伸びてきて、鼻をむぎゅっとつままれた。
望めば、きっと何でも手に入れることができる。
そんな冬真だから、おれの僻みや嫉みにも真面目に付き合って、おれがしたいことなら自分がしてやれるなんて、簡単に気前の良いことを言う。
でもそれは、おれのことを舐めているからだと思った。無意識に見下して憐れんでいる相手だからこそできることだと思った。
おれが冬真でもそうなるに違いなかったけど、おれは冬真ではなくおれだから、ただ惨めで、身体じゅうが劣等感でびしょびしょに濡れている気がした。
冬真はおれの鼻から指先を離して、依然としておれの顔を覗き込むように見下ろした状態で、小さく溜息を落とした後、ようやくいつものように上手に口角をあげた。上手な分だけ不自然だった。
「吉見ちゃんのことは振った。好きじゃないし、どうしたって好きにならないから」
おれは、冬真の笑みから零れた爽やかさに、微かな胡散臭さを覚えたものの何も言わなかった。
「そもそも、おれ、彼女いらないんだよ」
「まじか。もったいないな」
「それこそ、秋の意見は関係ないだろ」
「ないな」
「あるよ」
「いや、どっちだよ」
「関係ないけど、関係しててほしいってことだろ。なんで分かんないんだよ」
「分からん。あんまり難しいこというのやめろよ」
冬真の手がまた伸びてきて、指の背で目にかかった前髪をはらわれた。
簡単に触れるなよ。簡単に、触れてくれるなよ。おれみたいな陰気そのものみたいな薄暗い塊に、おまえは優しく触れなくていいんだよ。
この時、どうしてそんなことを思ったのか、自分のことだけど分かりたくなかった。
冬真はもう何も言わず、おれの上から退いて再び横になった。
夜はまた昼に戻ったけれど、窓の外はほんの少しさっきよりも暗くなっていた。おれはシーツにつけていた頭を起こして、ベッドフレームから背中を離した。
冬真の一連の動作も、言葉も、自分の感情も、つかみきるのは難しかった。
ローテーブルに頬をつけて、ぼんやりと窓の外を眺めた。
沈黙は、置き去りにされて帰るところを見失った昼の空気みたいに寂しく、おれたちの部屋を包んでいた。
目を閉じる。
そうしたら、いつの間にか少し眠ってしまって、再び意識を取り戻した時には、瞼の向こうは目を閉じる前よりも彩度をぐんと落としていた。
すぐそばで、百合の香りがして、冬真が呼吸する音が響いていた。
そろそろ夕飯の時間だろうし準備をしなければならない。そう思って目を開けようとしたけれど、ちょうどそのタイミングで、「秋」と冬真の声がした。
その声はおれの名前の形をしていたけれど、おれを呼んでいるわけではなさそうな音だったから、おれは寝たふりを続けることにした。
「秋」
今度は、声と一緒に温い空気の振動まで感じて、とても近くに冬真がいることが分かった。
はは、と冬真が笑う。何が面白かったのかは、知らない。でも冬真の笑い声に、おれの中にある劣等感がすごい速度で膨らんで、おれは目を閉じたまま泣きたくなった。
その現象はきっと、寝起きにぐずる幼児とたいして変わらないものだった。でも、泣き出すことは、幼児にはできても、十五のおれには難しかった。
突然、頬に触れられる。
その尖った感触から、冬真がおれの頬に爪を立てたのだと分かった。
冬真は円を描くようにおれの頬を爪の先でなぞって、はは、とさっきよりも切ない音で笑った。衣擦れの音がする。
そして、清潔な百合の香りは近づいて近づいて。
──おれに、合わさった。
知らない温度と柔らかさをした何かが唇に押し付けられる。
もう行き止まりなのに進もうとするような強引さを、おれが眠ったふりをしたまま見逃していられる限界間際のところで、それは離れていった。
劣等感はまだ膨張し続けていたけれど、“何か”が冬真の唇に違いないと確信した時、ぴたりと膨張をやめた。
目を開けることは、できなかった。百合の香りと冬真の息遣いが遠ざかっていく。その途端、心臓が早鐘を打ち始めた。
難しかったはずだった。
だけど何も。何も。難しいことなんて、なかったのだった。自分の劣等感がどこからきていたのか、自分の中で膨張していた劣等感が、どういう型でくりぬいてできたものなのか、おれはその時、気づいてしまった。
いや、ずるい言い方をやめるなら、ただ気づくことを自分に許しただけだった。
キス。されたのだと思う。だれかのかわりか退屈しのぎかつまらない冗談か。冬真にとってはきっとその程度のことで、自分が気づいていないふりをしていればいいだけのことなのだろうと考えた。
次に目を開けた時、冬真はおれのベッドの上で、何事もなかったような顔をして漫画を読んでいた。
寝てた、と努めて平坦な声で言うと、ちょっとイビキかいてたよ、と爽やかに笑われた。
自分の気持ちを認めてからしばらくは、冬真のことをまともに見ることができなかった。
だけど、おれは、冬真に自分の動揺を決して悟られないように、できる限り気を張った。日陰のおれは、気を張ることなら冬真よりも上手かった。
冬真がいきなりキスなんてするから、おれはへんに意識して、もう十年ほど一緒にいるくせに今更、お前を好きになってしまっただけだ。
自分が女ではなく男に惹かれる人間だってことも同時に気づいただけだ。
たったそれだけのことだったよ。どうってことない。でも、どうしてくれる。どうしたい。どうすればよかった。
鈍いふりや浅はかな嘘で責めることは、きっと簡単だった。だけど、おれは、冬真だけではなく自分自身にもそれだけはしないことにした。