私の幼少期の夢は、お母さんのように素敵なママになることだった。
母は専業主婦で、誰よりも早く起きて、毎日朝ご飯を作ってくれていた。
眠たい目を擦りながら起きると、子供の私を出迎えてくれるのは、美味しそうな音だった。
まな板の上で、トントントン、と食材を切る包丁の規則的な音。
フライパンでじゅわ~と踊るこんがりと焼ける音。
そして、今でも思い出せるのは、部屋中に広がる美味しそうな匂いに心が弾んでいたこと。
母親の鏡のようなお母さんの背中を見て育った。
そのおかげで、お母さんみたいな素敵なママになりたい。結婚して子供たちに素敵な朝ごはんを作ろう。
そう思いながら、夢を見続けていた。
その夢がどれだけ難しいか知らずに……。
自分に結婚は向いていないと気づいたのは、いつ頃だろう。
30代。いや、20代の頃から結婚願望は消えていたのかもしれない。
20代、仕事に全力投球していた。
頑張れば頑張るほど、結果が出る仕事は私に向いていると思った。
30代、ちょっとずつ若い世代との仕事に対しての温度差を感じはじめた。
今の子は、熱量よりコスパが大切らしい。
昭和ながらの精神力は通用しなかった。
いよいよ結婚を諦めたのは35歳を過ぎた頃。
私は生涯独身で生きていこうと決意も固めた。
その頃からだったかな。
人生の財産。自分のために、終の住処を買いたいと思いはじめたのは。
今まで働き詰めで貯めてきた貯金は、頭金に押し込んだ。足りなかった分は住宅ローンで賄った。
ついに手に入れた念願のマイホーム。私にとって終の住処。
40歳を迎えた今、当初の計画には存在していなかった、友人とルームシェアをしている。
歳をとると、目新しいことなんて、そうやたらに起きないと思っていた。
だけど、今こうして生活はガラリと変わっている。
よく聞く言葉だが、人生何が起きるか本当にわからない。
「今日の朝ご飯は私が担当か……」
朝食を一緒に食べようと決めたあと、交代制で作ることも後付けされた。これが案外正解だったと思う。
自分以外の担当のときは、ゆっくり起きても、朝ごはんが準備されていて。
こうして自分の担当のときは、なにをつくったら喜んでくれるかな。とちょっとわくわくする。
時計を見ると、翠と茜が起きる時間が迫っていた。料理に時間はかけられないので、すぐに作業に取り掛かる。
作るのは、野菜たっぷりスープ。
メインはスープにして、ご飯かトーストを選んでもらおうと思う。
材料は全部冷蔵庫に残っていたあまりもの。
キャベツ、玉ねぎ。じゃがいも、ニンジン。味の深さを出すためにベーコン。
栄養を考えて、野菜はあるものすべて使ってしまいたいくらい。
まずは、キャベツを洗って、小さめに切っていく。
そして、玉ねぎ、じゃがいも、人参は皮をむいて、適当な大きさにカットする。
ゴロゴロと大きめの具材にしたいところだけど。
今日は全体的に小さめに切ることにした。
具材が大きくなると、火が通る時間がかかってしまうからだ。
食材切っている間に、鍋に張っていた水が沸騰した。
本当は煮えにくい材料から、投入していくところだけど……。
えーい。この際全部入れてしまえ。
順番を気にすることなく、全ての材料を鍋に入れた。
几帳面な翠が見ていたら「全部一緒に入れるの!?」なんて驚かれてしまいそうだ。
しばらくコトコト煮込む。待っている間に白いご飯を炊く準備を済ませた。
竹串を用意し、ジャガイモと人参に中まで火が通っているか確認する。
人参はスッと竹串が通った。ジャガイモは煮込みすぎたようで、竹串を通す前にほろりと崩れた。まぁ、特に問題はない。これもご愛嬌というものだ。
火が通ったことを確認して、味付けをする。コンソメと塩コショウ。
シンプルだけど、私は一番好きな味だ。
これ以上ジャガイモが崩れないように、全体をゆっくり混ぜた。
小皿に少量のスープを注ぎ、すっと口に運ぶ。
「はぁ~~」
美味しいという感想よりも先に出たのはため息だった。
朝ごはんにぴったりのあたたかいスープの完成。
味見の一口だけでは足りず、もっと食べたくなった。
けれど、ぐっと唾を呑みこみ我慢する。
そうしている間に、リビングのドアが開く音が聞こえた。
「おはよ……」
「おはよ。あれ、すごく良い匂いがする~」
翠と茜がタイミングよく起きてきた。
寝ぼけて目を擦っていた茜は、匂いをかぎ取ったのか、一目散にキッチンへとやってきた。
「この匂いの正体、今日の朝ごはんなにー?」
まるでごはんが待ちきれない小学生のようだった。
その様子に、思わず笑ってしまう。
「今日の朝ごはんのメインは、野菜たっぷりスープです」
「わぁ、野菜たっぷりはありがたいわ」
私たちはいい歳である。しっかり健康のことも考慮済み。
「ご飯と、トーストどっちにする?」
「私は白いご飯もらおうかな」
「私はね、パン派だからトーストにする」
トーストの要望を受けて、パントリーに余っていた食パンをトースタ―に入れた。
そのとき、炊飯器から炊き上がりの音が鳴り響く。ちょうどよくご飯も炊きあがる。
出来上がった料理をリビングテーブルへと運んだ。
今日の朝食、野菜たっぷり温かいスープ。
白いご飯、付け合わせに納豆。こんがり焼けたトーストの完成だ。
「「いただきまーす」」
手を合わせて、挨拶が重なる。
みんな揃ってまず手を付けたのは、野菜スープだった。暖かい湯気を冷ましながら、ごくんと流し込む音が協和する。
「あったか~い」
「おいしいー」
零れ落ちたような感想に、私も嬉しくなる。
自分が作った料理を誰かに食べてもらえて、美味しいを共有できるのってこんなに嬉しいことなんだ。思わずほっこりと笑顔になる。
「そういえばさー、2人の子供の頃の将来の夢って何だった?」
茜は、思い出したように質問を投げかけた。
「朝から深めの話?」
「突然どうしたの?」
唐突過ぎる質問に聞き返すと、茜は真剣な顔で答える。
「私、仕事探してるじゃん? 第二の人生。どうせなら、本当にやりたい仕事に就きたいなぁって思ったの」
「それで将来の夢ね。私は知っての通り、子供の頃から小説家です」
スープとご飯を頬張りながら、翠は答えた。
翠は子供の頃からの夢を叶えている。真面目で努力家の翠だから、成し得たことだ。
「子供の頃の夢を叶えるのすごいよねー」
「へへッ、遅咲きだけどね」
茜はトーストを豪快にサクッとかじった。そして、もぐもぐと口を動かしながら、私に投げかける。
「桜は?」
茜に話を振られて、すぐに答えることが出来なかった。
私の子供の頃に抱いていた将来の夢。
すぐに思い至った。
それは"お母さんみたいに、家族に美味しい朝ご飯を作ること"
すぐに頭に浮かんだけど、なんとなく言い出しにくい。
だって、叶わなかったことになるし、私のキャラではないような気がした。
「うーん、なんだったけなぁ」
うまい誤魔化し方が出てこなくて、あやふやに答える。
「私はね、カフェとか小さなお店を開きたかったの」
次に夢を語ったのは、茜だった。
それは私も初めて聞いた話で、ちょっと驚いた。
「初めて聞いたよ」
「そうでしょ? 初めて言ったもん」
「茜、料理上手だし、向いてるんじゃない?」
茜は主婦をしていたこともあってか、料理が上手だった。
私や翠が作らないような、ちょっと洒落た料理をいつも作ってくれる。
「うれしいー。そっち方面で探そうかなぁ?」
話ながらも、朝ご飯を口に運ぶ動作は欠かさない。
スープとトーストをそれぞれ口に運んで、ごくりと喉を鳴らす。
あっという間に、食器が綺麗に空になった。
美味しいで満たされた体は、ぽかぽかと体温が上がる。
「桜のスープの味、優しくて美味しかったー」
「温かいスープっていいね。体があたたまるよ」
自分の作った朝ご飯を、美味しいと言ってもらえて、心が喜びで波打つ。自然と口角が上がって、口元がほころんだ。
「お粗末さまでした」
照れ隠しに両手を合わせて会釈をする。あたたい言葉は、たしかに私の心に染みて、心が喜びに満ちていた。
テーブルの上を片付けようとした時だった。
ふと、思考が停止して、古い記憶が蘇る。
そういえば、お母さんも私が「美味しかった」って言ったら、嬉しそうに笑ってたっけ。
にこりと優しく笑うお母さんの姿が鮮明に浮かんだ。
「ある意味……叶ったかもしれない」
私はぼそりと呟いた。
「なにが?」
翠と茜は、同じく片づけていた手を止める。そして、不思議そうに首を傾げた。
「私の将来の夢、叶ってた」
再度はっきり繰り返す。今度はしっかりと声を張った。
「私の将来の夢は"お母さんみたくなりたい。家族に美味しい朝ご飯を作ること"だったの」
翠と茜は顔を見合わせた。そして……。
「それは、叶ってるって言っていいんじゃない?」
「ある意味じゃなくて叶ってるよ」
言葉にして、改めてそう思う。今、私は大切な人のために朝ご飯を作ってるのだから。
誰かと食卓を囲むこと。
誰かのために料理を作ること。
誰かが自分のために料理を作ってくれること。
それは日常の延長線上にあるものだけれど。
とても幸せなことなのかもしれない。
あまりに、近すぎて見えていなかった。
誰かのために朝ご飯を作って、一緒に笑って食べる。
そんな夢だった日常が、すぐ目の前にあった。
「これからも、楽しく朝ご飯食べようよ」
昔憧れていた形とはちょっと違うけれど。
現状も、案外悪くない。
いや、はっきりと言いきれる。
友人とルームシェアをして、美味しいご飯を食べる。
この生活が、私にとって最高の日常だ。