触れた温度は思ったよりも冷たくて、甘い香りがした。

「はは、目丸くて猫みたい」

 掠れた声と吐息が肌に触れる距離。暗がりでよく見えないけれど、目はどこか楽しそうに細められていたように思う。
 呆然とする僕の頬を撫でた手が離れて、また視界に夜空が映る。花火が上がる。小さなものから大きなものまで、色とりどりの花が夜空を染めていく。だけど僕には今それを楽しむ事なんて全く出来なくて、横を向くことさえ出来ない。

「っ!」

 左手に桐生の手が重なる。指の間に桐生の長い指が入り込んで、まるで逃がさないとでも言う風に僕の手を捕らえた。

「花火もうちょっと見たら」

 僕の耳の奥では自分の鼓動の音がうるさいくらいに響いている。もう花火なんて見ていないし、かき氷で潤したはずの喉はカラカラだ。
 それなのに桐生の様子は何事も無かったかのようにいつも通りで、もしかしたらさっきのは一瞬の夢だったのかななんて思ったりもしたけれど違うって訴えて来るみたいに桐生の手が熱い。
 僕は何も言えなかった。
 嫌だとも、ふざけるなとも、なんの冗談なんだとも、何も。
 ただ心臓がうるさくて、くちびるが触れる瞬間の桐生の目があんまりにも綺麗だったのを思い出して。
 ──ああ、嫌じゃなかったな。なんて、そんな思考に囚われて。

「雪穂、立てそう?」
「…ん」

 花火も終盤に差し掛かったのだろうか、桐生が先に腰を上げた。まだ衝撃から抜け出せない僕はぼんやりと返事をして促されるままに桐生の手を取って歩き出した。
 お互いに無言のまま人波を逆らうように歩いて、気が付けば祭りのほんのり赤い空気感が見慣れた蛍光灯の白さに変わる。祭りから帰っている人はちらほらといるが、みんなそれなりに距離がある。
 横に並ぶんじゃなくて桐生に引かれる形で歩いているのは僕がまだ動揺しているから。
 交差するように繋がれた手は同じ男の手の筈なのに桐生のだけやっぱり大きくて、格好良く見えて、それがどうしようもなく悔しくて、胸が締め付けられた。
 ガチャ、と桐生の家のドアが開いて僕が入ったのを確認してから閉められる。
 人の気配がしないからまだ桐生の両親は帰ってきてないのかもしれない。

「顔真っ赤」

 振り返って僕を見た桐生が心底楽しそうな顔で呟いて、また距離が縮まった。
 とん、と背中がドアにぶつかる。2回目のキスだった。

「…なんで」

 今度はちゃんと出た声は笑えるくらいに細い。
 至近距離で僕を見る桐生の目からは何も読み取れない。綺麗で、でも色が深くて、水みたいにつるりとした目だ。

「……かわいいから」

 怒れば良いのか、笑い飛ばせば良いのか、僕にはわからなかった。
 『普通』の人ならこんな時どうするのだろうか。気持ち悪いと跳ね除けるのだろうか、それとも冗談が過ぎるぞって何事もなく笑って流せば良いのだろうか。選択肢はいくつも浮かぶのに、僕はどれを選択したら良いのか全くわからなかった。
 気が付いたら桐生の家で風呂を借りていて、浴衣もカツラもメイクもなくなったただの斉藤雪穂が鏡の中に居た。
 フル装備だった僕は、自分で言うのもなんだけどそれなりの見た目だったのではと思う。否、見慣れなくてそう思っただけかもしれない、ていうかきっとそう。

 昼ぶりとなる自分の服を着て桐生の部屋に向かう。扉を開けようとドアノブに手を掛けた瞬間体が強張ったのはもう仕方のない事だと思う。いくら考えても答えは出なくて、今もどんな顔をしたら良いのかわからない。けれど時間は止まらないし今すぐ地球が滅亡する事もないから進まないといけない。深く息を吸ってからドアを開けると「風呂ありがとう」と俯いたまま告げる。

「さっぱりした?」

 拍子抜けするくらいいつも通りの桐生に安堵するのと同時にずし、と心に重石が置かれたみたいな心地になる。

「じゃあ俺も入ってこようかな。雪穂今日もう遅いし泊まっていく?」
「…帰る」
「そっか、気を付けてね」

 桐生は僕の横を通り過ぎて行った。パタンと閉まるドアの音がやけに無機質で、それで僕は忘れかけていた事を思い出した。

「…桐生が好きなのは女装してる男だもんね」

 声に出して、それがちゃんとした輪郭を持って僕の中に沈んでいく。馬鹿みたいな理由だけどこれが真実なんだからおかしくて思わず笑ってしまった。
 桐生は僕を特別扱いしてくれる。それはきっと誰にも言えない秘密を共有しているから。一種の運命共同体みたいなものなのかもしれない。バレたらお互いに白い目で見られる事は間違い無いのだから、特別な感情が生まれてしまっても仕方がない事だと思う。ドラマでも映画でも、二人で罪を犯した人達は良くも悪くも固い絆で結ばれているのがセオリーだ。
 僕達はきっとそれに該当する。ただ、僕の特別が普通とは違うだけ。

「…だから、嫌だったんだ」

 冷静になろうと深呼吸しながら元々少ない荷物を持って桐生の家を出る。バスはまだある時間だけど、今日は歩いて帰る事にした。
 夏の夜は蒸し暑い。豪華な家の立ち並ぶ区画から抜けたらちらほらと祭りから帰っている途中の人たちが目に着いた。友人も家族連れも恋人達も大部分はどこか満足そうな顔をして帰っているように思う。
 たった数時間前、僕はきっとこの人達と同じ顔をしていた。
 そう思った途端、その記憶を振り切るように僕は足を前に出す。出来るだけ前を見ず、なるべく早く、熱で流れる汗と一緒にあんな記憶も全部無くなれば良いのに。

「、た、だいま」
「おかえり、ええどうしたのそんなに急いで。お風呂入る?」
「はいる」

 動いている時はそうでもないのに、止まった瞬間汗が吹き出す。
 全身が汗で濡れて気持ち悪い。さっきシャワーを浴びたはずなのに僕はまた風呂場に向かって歩く。服を脱いで、まだほとんど水みたいなシャワーを浴びていたら慣れない匂いがした。

「っ」

 掻きむしるように頭を濡らしていつものシャンプーで洗い直す。
 どんどん桐生の匂いを消しながら、呼吸が苦しくなっている事に気がついた。
 眼鏡を外しているからじゃない理由で視界がぼやけている。目の前が滲んで、足元に泡がどんどん落ちていくのが曖昧な輪郭でわかる。
 ああ、みじめだな。呟いて、僕はその場にしゃがみ込んだ。
 嬉しかったんだ、本当は。あの梅雨の日に話しかけられた事も、こんな馬鹿げた秘密を共有した事も、僕の事を可愛いって綺麗だって言ってくれる事も、二人で出掛けた事も、キスしてくれた事だって全部。
 だって僕は、ずっと前から桐生の事が好きだったから。


 好きになったのは一年の頃だった。
 僕と桐生の間に接点なんて無かった。あったのは二年間同じクラスだったという事だけ。たまに挨拶したり席替えで近くなったりした時にほんの少し世間話をした程度。
 知人にもなりきれていないポジションにいたのに僕は桐生の事が好きだった。
 元々目立つ人だなって思っていた。同じ年の筈なのにどこか落ち着いていて、でも見た目がすこぶる良いから嫌でも人の目を引いていて住む世界の違う人だと思った。
 その感想は桐生が仲良くなった人達を見てさらに深まる。

 マンガとか学園ドラマでしか見たことが無いようなカースト上位軍団の中に桐生がなんの違和感もなく解け込み、休み時間も昼休みも放課後だって賑やか。「俺がこの世の主役」と言わんばかりの華やかさに住む世界が違うと思いつつも、僕は度々見惚れていた。
 今思えば顔が好みなんだと思う。僕は面食いだったらしい。

 だけど意外にも人の事をちゃんと見ていて、折り合いの悪い人達が喧嘩になりそうになるとさりげなく止めに入るところだったり、委員会とか日直も休まない真面目なところだったり、助っ人を頼まれたスポーツの出来が良くなくて悔しがってるところだったり、そんな毎日を真っ直ぐに生きているところが眩しいなって思った。
 一年の時ほんの少し会話をしただけの同級生に僕は恋をしていた。一生誰にも言う事のない、僕の胸にだけしまっておく、小さな宝物みたいな感情だった。
 それが叶う事なんて絶対に有り得ない。でも、それでも、少しだけ。
 近付いてみたい、そう思った。

「雪穂、今日はこれね」

 夏祭りから数日経ち夏休みも終盤になった午後、僕は相変わらず桐生の家に来ていた。あんな事があったのに普通の顔してまた撮影会に臨むなんて正気の沙汰じゃないと理解しているのに、それでも誘いの連絡があった時嬉しいと感じてしまった。
 それに桐生と僕ではキスに対する感覚がきっと全然違う。
 僕にとってはとんでもない出来事だけど、桐生にとっては外国の挨拶並みの感覚なんだと思う。そう思えば納得出来るし、だからこそこんな風に誘えるのだ。

「…一体どんだけ服持ってるの」
「そんなに多くないよ? あ、でもいずれは際どいのとか行きたいよね、バニーとか」
「ぜっっったいに着ないから」
「押しに弱いから土下座すればワンチャンって思ってる」
「……」
「雪穂ってたまに視線だけで人殺せそうだよね」

 これ見よがしに溜息を吐いて今日の衣装に目を向ける。
 桐生の手に持たれていたのはホビーショップで見るような仮装の衣装。今まで桐生が用意していたのは結構質が良かった為見るからにパーティグッズのそれに少し意外だなと瞬きをした。

「今日のコンセプトは初めての女装です」

 口角を上げて得意げに笑う桐生にむかついて脇腹にパンチした僕は悪くない。
 引ったくるように薄い袋に入った衣装を奪って桐生に背を向けて服を脱いでいく。着替えはいつも桐生の前でしている。抵抗が無いと言えば嘘になるけど「だって男同士じゃん」と言われてしまえば僕に取れる選択肢なんて一つしか無かった。
 でも何回もやっていれば慣れるもので最早作業と同じ感覚で服を広げる。やはり生地は薄いし今まで着た服を思うと安っぽく感じるし実際そうなんだろう。
 でも確かに世間一般でいう初めての女装とやらはこのレベルに違いないし、コンセプトには合っているのかと思うと心中は複雑だ。

「…ていうかセーラーじゃん。また撮るの?」
「うん」

 やけに短いスカートに生地の薄い上着、スカーフは真っ赤でいかにもコスプレですと言わんばかりの服だが恐ろしい事に僕はもうそれらに抵抗が無くなっていた。
 着せ替え人形はきっとこんな感情なんだろう。

「雪穂ってさ、背中綺麗だよね」

 掛けられた声は思ったよりも近くて、振り返ろうとした矢先背筋をなぞられて僕は叫んだ。

「やめろこのばか‼︎」

 人の気も知らないでと苛立ちのまま睨んだ桐生の表情に心臓がどくりと脈打った。
 熱を孕む、というのはきっとこんな顔なんだろう。

「…な、に…」

 思わず一歩後退った僕を桐生は静かに見ていた。ただ見て、じっくりと見て、急に片手で口を覆った。

「下スカートで上は裸の破壊力やば…‼︎ 倒錯的ってこういう事を言うのかな、きっとそうだ。なるほどこれが。雪穂全身白くて綺麗だから余計に破壊力が凄すぎて最早芸術なのかもしれない。なんか美術館にも有りそうだもんね、それくらい綺麗だし、エロいし、なんかいけない事してる感じがあってめっちゃくちゃクる」
「うるせえど変態どっかに頭ぶつけて気絶しろ」

 僕は光の速さで上を着た。

「今までちゃんとした服着せてきたからチープなの着ると更にエロい」
「桐生の目ってどうなってるの本当に。腐ってるの」
「生きてきた中で今多分一番視力が良い。今なら多分透視も出来そう」
「きっも」
「チープなセーラー着た黒縁メガネの女装男子にゴミみたいな目で見られるってなんでこんなにも興奮と幸せを同時に運んできてくれるんだろうね?」
「知らないよ」

 肺の中の空気を全部抜くように息を吐き出して興奮気味に鼻息を荒くする桐生の肩を殴る。
 学校でも運動をしている時でも、数いた恋人の前でも桐生はこんな顔をしていなかった。
 だからこれは現状ではきっと僕一人が知っている桐生の顔。その事に対する優越感があるから僕は桐生の誘いを断らないし、桐生が「もういい」って言うまでこの関係を続けて行くんだろう。

「今日はメイクしないの」
「やっぱり積極的になってきたよね雪穂」
「もうそれでいいよ。で、するのしないのどっち」
「んー…今日はいいかな。制服の時はノーメイクの方が良いし、雪穂はメイクしてなくてもかわいいから」
「……お前、誰に対してもこんななの」

 僕は一年の頃から桐生を見てきた。でも見ているだけで桐生がどんな会話をしていたのかなんて全く知らない。恋人らしい女子といる時も、もしかしたら桐生はこんな風に惜しげも無く歯の浮くようなセリフを言っていたのだろうか。そう思うと胸が少し傷んだ。

「こんなって言うのは?」
「…可愛いとか綺麗とか」
「あー、言わないね」

 ふわりと心が軽くなる。単純だなって自分でも思った。

「だって面倒臭いじゃん、勘違いされるの」

 ガツンと鈍器で殴られたような衝撃が襲った。浮上した心が一気に鉛みたいに重たくなって沈んでいく。それと一緒に口の中がカラカラに乾いていく。

「社交辞令的なのでもさすぐに気があるのかもーって勘違いする子っているんだよ。結構面倒臭い目に遭ってきたから言わないようにしてる」

 どう形容したらいいのか分からない感情がお腹の奥で渦巻いている。苦しさと悲しさと羞恥心がない混ぜになった、ヘドロみたいなそれがどんどん僕の首を絞めていく。でもそれを悟られる訳にはいかなくて、僕は興味がないみたいな顔をして「へえ」って言った。

「あ、でも雪穂に言ってるのは全部本心だよ。雪穂は本当に可愛いし綺麗だしあとエロい」
「男にそんなの言われても嬉しくない」

 嘘だ、本当は嬉しい。
 キスされた時ももしかしたら僕にも可能性があるんじゃないかって思った。こうして二人でいる今も、もしかしたらって。
 だけどそんなはずない。桐生が僕にかわいいって言ってくれるのも、きれいだってえろいって言ってくれるのも、全部僕が男だからだ。
 面倒事が発生しない男だから、桐生はそう言ってるだけなんだ。


 ──


 スマホが震えてメッセージの着信を教える。
 休み時間で少し騒がしい教室の中で僕はスマホを取り出して画面を見た。初期設定のまま変えていない待ち受け画面にメッセージアプリの通知が表示されている。

『今何してるの?』
「……」

 よく分からないスタンプと一緒にその文を送ってきたのは桐生だ。
 自分の眉間に皺が刻まれるのがわかり、少しささくれだった気分を落ち着ける為に細く長く息を吐き出した。

『見えてるだろ。何もしてないよ』
『俺が見えてないだけで何かやってたかもしれないじゃん』

 授業間の休み時間は短い。それなのにその時間の度に集まって騒ぐ連中のほとんど中心に桐生はいる。カースト上位組の声は大きいがその中に桐生の声は聞こえないからきっと今は意識をスマホに向けているのだろう。

『人が邪魔で顔見えないけど多分今すごい眉間に皺寄ってるに100円』
『くたばれ』

 騒がしいのは桐生達のグループだけでそれ以外は気にならない程の音量だ。そんな状態だからこそ僕の返信を見たらしい桐生の吹き出すような笑い声がよく聞こえた。

「何急に笑い出してビビるんですけど」
「桐生クンさっきからスマホ見てニヤニヤしてたよ」
「──彼女だろ」
「はああ⁉︎」

 休み時間が終わるまで後数分というところで見た目が派手な女子数名の悲鳴のような声が上がった。彼らは常に自分達が世界の中心だから気が付かないだろうが、そうじゃない僕達みたいな人種は気配を消す。だから今教室は彼ら以外しんと静まり返っていた。

「聞いてないんですけど! てかどこ情報よそれ⁉︎」
「田中―」
「じゃあガチじゃん! ええうそうそー、次はあたしと付き合うって言ったじゃん桐生〜」
「記憶に無いですね」
「クズ!」

 桐生の体に寄り掛かる学校でも美人だと噂の女子に心臓が嫌な音を立てて軋む。

「てかいつからなの。オレらも知らなかったんですけど」
「黙秘権を行使します」

 ワイワイガヤガヤ、そんな言葉がこれ以上ない程似合う騒がしさにまた眉間に皺が深く寄る。なんの関係もない話題なら流せてしまえるがこの件に関してはそうも行かず、何も気にしていない振りをして次の授業の準備をしつつも聴覚はしっかりと賑わいの方に向いている。
 頼むからこのまま黙秘し続けていてくれ。それ以上深掘りしないでくれ。
 何故なら多分その彼女と言われている人物は女装した僕だ。あまりにも心臓に悪過ぎる状況に胃がむかむかする。

「写真とかないの?」
「無い。あっても見せない」
「え、以外。桐生クン今までの彼女とかさらっと見せてたじゃん」
「すんごいかわいいから誰にも見せたくないんだよね」

 一瞬、教室が無音になった。
 女子のかしましい声と次の授業を知らせるチャイムが鳴ったのはほとんど同じタイミング。先生が「うるさいぞー」とハリのない声と共に前側の扉から入って来て、カースト上位組は渋々といった様子で席へと戻っていく。
 またスマホが震えた。
 日直の号令が終わった後、先生にバレないように画面を見た。

『顔赤いよ』
「っ!」

 反射的にスマホの電源を落として引き出しの奥へとしまい込む。ばくばくと心臓がうるさくて、顔が熱いのが自分でもわかる。長い前髪で極力顔を隠してまだ夏の熱い風を運んでくる窓側に顔を向けた。夏真っ盛りの8月よりかは多少和らいだ気のする風に吹かれながらふと視線を僕よりも前の席に座る桐生の方にやる。そこにはいつも通りのそいつが居て、僕はちょっとむかついた。