ジワジワと鳴く蝉の声を背にしながら僕はこの世の終わりみたいな顔で木陰の掛かるベンチに腰掛けていた。
 時間は昼過ぎ、駅に近い商店街という事もあり周囲には人が多く騒がしい。世間は夏休み、例に漏れず僕も夏休みに突入している。
 何度も言うが僕は夏が嫌いだ。この纏わりつくような暑さも夏だからと浮かれる人波も嫌いだ。この浮かれる波に飲まれるくらいなら苦手な家に引きこもって涼しい家でずっと勉強している方が余程良い。
 それなら何故今僕がこんなところにいるのか、それは少し前に遡る。

 全くメイクが出来なかったあの日、顔を洗ったあと僕達は動画を見ながら再度トライする事にした。
 トライして気づいたのだが、どうやらメイクとは個人個人の肌の色に合わせた物を選ぶのが良いらしい。肌によって色を変えなくてはならないなんて勿論知らなくて僕と桐生は驚いた。そして桐生が用意していたメイク道具はどうやら僕の肌の色には合わないし、瞼に乗せる色もなんだかチグハグだったらしい。
 なるほどそれならばもうメイクをしたってしょうがないなとその時僕は思った。
 
 その動画で紹介されたメイク道具は値段も一緒に乗っているタイプの物で、正直に言って高い。そこら辺のドラッグストアやコンビニで購入できるとしても高校生の僕には優先順位的に手軽に手を出せる代物では無かった。
 だが桐生は違う。あいつは金持ちだ。親からの絶対的な信頼を何故だか勝ち得ているあのど変態は動画を見て詳細を理解するや否や「買い直すかぁ」なんて当然の様に宣ったのである。
 僕はその事に特に反対はしなかった。だって買うのは桐生だ、僕の懐は一円たりとも痛まないし、桐生の部屋の中で完結する撮影会でのみ実行されるメイクであれば別にもうどうだって良い。だから僕は反対しなかった。好きにしてくれとも思った。
 だがしかし、現実はそう甘くない。

 真夏の炎天下、僕は今大嫌いな喧騒の中にいる。
 蝉の声も電光掲示板の音も雑踏も暑さだって鬱陶しい中、僕は今駅から程近い木陰の掛かるベンチに座っている。
 心境としては死刑台に登る囚人、ギロチンで首を刎ねられる為に体を横にして首に木の枷が嵌め込まれた人生の終わりのその瞬間。
 何故そんな心境なのかは、もう全て全部間違いなく本当にこの馬鹿のせいだ。

「…ボクハイツカゼッタイニオマエヲコロス」
「怖」

 裾をぎゅうっと握り込んだ。今背中を流れたのは気温による物ではない、このアホみたいな状況に対する冷や汗だ。

「なんでそんな怒ってんの? 似合ってるよ」

 桐生の両手にはオシャレなカフェの夏限定のフローズンドリンクが握られている。その片方を当然の様に僕に差し出して当然の様に僕の隣に座る。渋々それを受け取って、僕は自分の足を睨み付けた。
 可愛らしい花柄がプリントされたふわっとしたシルエットの、今僕の足を隠している服を睨んだ。

「そういう問題じゃないんだよクソ馬鹿…!」
「だって今からメイク道具買いに行くのに男二人だと変じゃん」
「どんな格好したって僕は男なんですけどっ」
「どっからどう見ても華奢な女の子だから問題無い」
「クソバカど変態クズ野郎…っ!」

 そう、僕は今女装をしている。
 もう一度言う。
 女装している。
 この多くの人が行き交う夏休みの駅近という場所で、僕は今女装している。

 夢であるのであれば早く醒めろ。こんな悪夢を見るなんて一体全体僕はどうしてしまったんだと何度目かの現実逃避を行うがこれは間違いなくリアルである。
 今日は普通に(普通ではない)撮影会が行われる筈だった。だが桐生の家に着いて早々クソ馬鹿は言い放ったのだ。「メイク道具買いに行こ」僕は「勝手にしなよ」そう言った。けれどあの馬鹿は「斉藤のメイク道具見に行くんだから斉藤がいないとダメでしょ」なんてもっともらしい事を言った。
 それだけで終わるならまだ良かった。けれどあいつは策士だった。
 その時もう僕は既に着替え終わっていた。いつもの女装と違う足首まで隠れるロングタイプのスカート、肩や首周りの骨格が上手く隠れる服、それと帽子。

「その服ならバレないでしょ」
「はあ⁉︎」

 そうして僕は無理矢理街に連れ出される事になったのだ。
 正直生きた心地がしない。奢ってもらったフローズンドリンクも冷たいだけで味がしない。今日程自分の押しの弱さを恨んだ日は無い。

「これ飲んだら行こうか。良い加減涼しいとこ行きたいし」
「お前は良いよな失うものが何もなくて」

 音を立ててドリンクを飲みながら恨言を言うと桐生は楽しそうに笑った。それに無性にイラついて肩を殴る。

「大丈夫だって、斉藤はかわいいよ」
「桐生の目がどうかしてるんだよ、僕は可愛くない。男だよ」
「あ、普通の声量でそれ言うのリスキーじゃない? ていうか苗字で呼ぶのもまずいかな」
「‼︎ この、お前、ほんと…!」

 暑さでやられてかこの非常識なシチュエーションのせいか指摘されるまで気が付かなかった行動に表情を歪め、苛立ちのままもう一発桐生の肩に拳をお見舞いしてやろうとした矢先、視線がかち合う。

「雪穂」

 ひゅ、と喉が狭くなった気がした。

「綺麗な名前だよね」

 雪穂、もう一度呼ばれて今度は心臓がうるさくなるのがわかった。それと一緒に顔に血液が集まっていくのも。
 危機感を覚えて顔が完全に赤くなる前に僕は慌ててベンチから腰を上げた。

「え、ちょっとどこ行くの?」

 背中に掛かる少し焦った声に僕は無言で今日の目的地である施設を指さした。
 一刻も早く目的を済ませて帰ろう。帰らなくてはならない。
 だって心臓がこんなにもうるさくて発火するんじゃないかってくらいに顔が熱い。さっき聞いた桐生の声が耳から離れない。
 こんなの普通じゃない。友達(・・)は名前を呼ばれたくらいでこんな感情になったりしない。こんな反応をしたりはしない。
 僕は普通じゃない。でも、普通であるように振る舞うことは出来る。
 落ち着け、何度も自分に言い聞かせながら入ったビルは余計に涼しく感じられて、少しだけ気分が落ち着いた。

 そして結果から言うと人生で一番疲れた日になった。

「お客様何かお探しですかー?」

 普段は意識して聞くことのない女性店員の高い声。それが自分に向いているとわかってあからさまに肩を跳ねさせると桐生が庇うように僕の前に出た。

「この子にメイク道具をプレゼントしたいんですけど、何をどう選んだらいいかわからなくて」
「わあ! 素敵な彼氏さんですね」

 僕はほとんど喋れなかった。いくら見た目がどうのこうの言っても声はどうしたって女子とは違う。喋れば一発アウトだと信じて疑ってない僕を察したのか受け答えは桐生がしてくれた。
 見た目も派手な桐生の横にいるのが僕で店員も少し訝しんでいた様に思うが生憎店員の顔色を伺う余裕なんて僕にはカケラも無かった。
 それから肌に合う色だとか何が似合うだとかこれが良いだとか僕には到底理解出来ない言葉が飛び交い、桐生は人当たりのいい笑顔で受け答えしながら勧められるままにメイク道具を買っていた。

 店内でメイクをして貰えるサービスもある様だがそれは断固拒否(桐生に断って貰った)してなんとか目的である買い物も済ませるとその頃には僕はもう虫の息だった。もう1秒たりとも人目に触れたくない僕は買い物が終わるや否や店から飛び出して足早に進み出す。

「雪穂待って、もうちょっとゆっくり歩かないと汗だくになるよ」
「僕はもう1秒だってこの服で出歩きたくないんだよ…! 知り合いに見つかったら社会的に死ぬのは僕なんだぞこの馬鹿」

 僕がどれだけ早歩きしても足の長い桐生はさらっと着いてくる。足が長い事に理不尽な怒りを覚えつつ潜めた声で訴えてまた一歩前に踏み出すと、手が後ろに引かれた。

「わかった。でもこの速度で歩いてたら人にぶつかる、危ないよ」

 桐生の手は僕よりも大きい。身長差があるから当然なんだけれど、同じ男なのにすっぽりと僕の手は収まってしまう。すぐに離せば良いのに桐生はそのまま手を繋いで僕の隣に来て歩幅を合わせる。その頃にはもう早歩きしようなんて気はなくて、でもすぐに止まってやるのもなんだか癪で、ほんの数歩大股で歩いてから徐々にスピードを落とした。

「…手、もう良いよ。ゆっくり歩くから」
「良いじゃん別に。周りから見たらこの方が自然だよ」
「…お前の知り合いに会ったらどうするんだよ。僕嫌なんだけど」
「その時はうまいこと誤魔化す」

 振り解こうとした手はなんでか知らないけど握り込まれた。
 ああ、また心臓がうるさくなる。でも桐生にとってこれはなんの意味も持たない行為だっていうのを僕はわかっているから、それだけは確かだからなんとか平静を保っていられる。

「桐生の家行ったら風呂貸して。汗やばいから着替える」
「え」
「メイクはこの服じゃなくても出来るじゃん文句言うな」
「俺のモチベがさあ」
「この服を着てない僕には興味がないですか、そうですか」
「そんなこと言ってないでしょ!」
「じゃあ風呂な」

 17歳の男二人が手を繋いでいる。片方は女装しているし、背格好的にもきっと異性同士に見えているだろうけど、これは決して普通じゃない。
 僕は男で、どうしてだか同性愛者だ。そして悲しい事に桐生の一挙一動に心が掻き乱されている。今だって本当は手を繋いでいる状況が事故だとしても嬉しいと思っている。心臓だってずっと早く動いているし、顔も少し熱い。
 でも今は夏だから顔が赤くても不思議では無いし、繋いでいる手に汗が滲んでも違和感は無い。僕は女装なんてしたくないし、夏も大嫌いだ。でも今だけは、今のこの事故みたいな奇跡は、少し嬉しいと思ってしまった。
 

 時間は進み、一緒に出掛けたあの日以降も最低でも週に一回は撮影会が行われる。それ以外でも呼ばれる日があって、その時は大体夏休みの課題を一緒にやっている。
 本当に普通の過ごし方に僕は面食らって「お前なんか変な物食った?」なんて聞いたが「たまには良いでしょ」と丸め込まれて何度か一緒に課題をした。僕と桐生の得意分野はいい感じに違っていて、互いの不足分を補える時間は正直言ってとても有意義だった。

「意外」
「何が?」

 桐生の部屋にあるローテーブルに参考書を広げひと段落ついた所で向かいに座る桐生を見た。

「人選が」
「つまり?」
「課題やるのにわざわざ僕を呼んでるのが意外。お前友達いっぱいいるじゃん、僕じゃなくても良いでしょ」

 今やっているのは数学の課題。単純な計算問題なら出来るのに文章問題になった途端脳が理解を放棄するから数学はあまり得意では無い。でも桐生のおかげか少しコツが掴めて今まで躓いていたところが少し楽に感じる。

「雪穂ってさ、俺の友達誰かわかる?」

 桐生はあの日からずっと僕のことを名前で呼ぶ。

「カースト上位の派手組陽キャ」
「勉強出来そうに見える?」
「桐生は出来るじゃん」
「俺だけね」

 締め切った窓の外から蝉の鳴き声が聞こえる。クーラーの機械的な音の方が大きくて、でもその音も僕達の話し声に負ける。

「あいつらは勉強に興味無いんだよ、遊ぶには楽しいけどさ。だから勉強する時は雪穂が良い、静かだし」
「まあ桐生が話し掛けて来なかったらほとんど会話無いもんな」
「本当にそれだよ、雪穂はもうちょっと俺に興味持って」
「あ、ここってどうやって解くの?」

 桐生はこうやって、たまに僕を特別扱いする。否、僕が勝手に特別扱いって思ってるだけで桐生にとってはそうじゃないのかもしれないけど、僕にとっては間違いなく特別。
 でも桐生にとっての普通を「あれ、おかしいな」という感覚に変えたくなくて、僕はいつだって細心の注意を払って接している。でも別に苦痛じゃない。普通に紛れて生きていくのは僕にとって当たり前で、これからもずっと続いていくもの。
 今もいつも通り話題を逸らせば桐生は何も無かったみたいに接してくれる。
 これでいい。この距離感が丁度いい。

 僕と桐生はおよそ人前では言えない趣味を分かち合った仲間、ほんの少し歪な関係。でも桐生は器用だから、高校生という枷が外れたらきっと僕との関係も終わりにするだろう。

「雪穂、古典のここなんだけどさ」
「ん、それはね」

 ほんの少し体を前に乗り出して参考書を見る。ふわりと届くのは桐生の香りで、香水の様に強いものじゃない。僕達はきっと少し距離が近い。
 でもこれはおかしな趣味を共有しているから。

「そういえばさ」

 元の位置に戻る手前で桐生の視線が間近で僕を捉える。
 真っ直ぐな迷いのない視線はなんだか流れ星の様にも思えた。

「8月って暇?」
「日によるけど大体暇、どうしたの」
「夏祭り行こ」

 花が咲くみたいな笑顔で向けられた言葉に僕はゆっくりと瞬きをした。
 夏祭り。何度も頭の中で反芻して意味とイメージを合致させ、まず一つ目の疑問が浮かぶがその選択をしなかった目の前の男を見て僕は眉間にこれでもかと皺を寄せて溜息を吐いた。

「…また外に連れ出すつもり…?」
「え、あー…」

 一瞬目を丸くした桐生は次には笑っていた。悪戯っ子のような無邪気な顔で、何も悪びれる様子もなく。

「バレた?」

 可愛らしい効果音でも付きそうな表情に僕はこれ見よがしに溜息を吐いた。

「ほんっっと、桐生って浅はか」
「浅はかって言いつつも雪穂は俺のお願い聞いてくれるよね」
「お前の押しが強いからだろ」
「だって可愛い服着た雪穂見たいし」
「桐生が見たいのは可愛い服を着たそれっぽい男でしょ」
「違うよ」

 桐生の目が僕をじっと見ている。桐生の目は綺麗だ。真っ直ぐで、自信に溢れていて、迷った事なんて一度もないみたいな、でもそれでいて何を考えているのかわからない夜の海みたいな怖さもある目が僕を見ている。

「俺は雪穂のだから見たいって思うんだよ。誰でも良い訳じゃない」

 ここで「それってどういう意味」と聞ける勇気があったなら、僕はきっとこんな人間じゃなかったんだと思う。
 喉に糊が張り付いたみたいに声が出なくて、でもこの言葉を真剣に受け取るなんて事も出来なくて、結局僕はいつもみたいなしかめ面を作った。

「気持ち悪いな」

 出た声に温度はなかったように思う。桐生は口元に笑みを乗せて少し肩を竦ませていた。