普段であればまだ学校にいる時間に、僕はいつもと違う場所に来ていた。否、最早放課後の大体はここに来ていると言っても過言ではないような気さえする。
 僕の部屋の倍の広さはあるそこは落ち着いた色合いでまとめられているし、ソファも机もベッドも高校生男子が使うものにしては大きくて高級感がある。でも本棚には最近流行りの漫画やちょっと懐かしい漫画もあって親近感も湧くのだが、もうそんな親しみを覚えるという次元に僕の心は無かった。

「いいよ! いいよ斉藤! もうちょっと恥じらう感じで!」
「………コウデスカ」
「最高!」

 無駄に広く整えられた部屋のやけに掃除が行き届いたフロアの上で僕は今メイド服を着て座っている。ふわりとした生地が床に綺麗に広がって、そこから僕の生足が出ている。靴なんて履いていない。

「さいっこうだな、その踝の骨っぽさと斉藤の足の細さと白さが最高過ぎる。逸材だよお前」
「こんなに嬉しくない褒め言葉初めてだよ僕は」
「照れんなって」
「桐生の脳味噌どうなってんの。僕は今お前にどう写ってんの」
「最高に可愛い」

 初めて聞いた時はちょっとドキッとしたこの言葉も今となっては最早無である。
 桐生の手に持たれているのはお高そうなちゃんとしたカメラだ。最初は普通にスマホでの撮影だったのに「斉藤の才能はこんな物で納めちゃいけない」なんて意味のわからない事を言い出して、それっぽい撮影環境が出来上がってしまっていた。
 そう、桐生は実家も太いのだ。
 初めて来た時僕は驚愕した。玄関は大理石だしそもそも玄関が広いしなんか見るからに高そうな絵とか飾ってあるしいい匂いもした。住む世界が違うというのはきっとこういう事なんだろうと漠然と思った。

「って、何してんのなんで近付いて来るの!」
「メイド服で上目遣いは男のロマンだろ」

 何言ってんだコイツみたいな顔で見下ろしてくる桐生にビキ、と額に青筋が浮かぶ。

「顔は撮るなって言ってんじゃん!」
「それ最初から言ってるけどさ、そろそろ良くない? 斉藤は顔も綺麗だし」
「僕は! 男です!」
「でも女装興味あったんだろ?」
「グゥ…っ」

 曇りの無い目で見つめられて僕は下唇を強く噛んだ。
 そう、僕はあの日の言葉を未だに撤回出来ていないのだ。あの雨の日、意味が分からないまま連れて来られた僕はあれよあれよという間にセーラー服に着替えさせられ撮影会が始まった。
 止まらないシャッター音と興奮した桐生の息遣いとかっ開かれた目。僕はあの日から桐生をイケメンだと思うことをやめた。

「唇噛むなって」

 ふわ、と温かいものが口元に触れる。それが桐生の指だと理解するのに時間は要らなかった。桐生の人差し指の背が僕の噛み締められた唇に触れる。
 ただでさえ近いのに、桐生は今僕の目の前に片膝を着いている状態で、表情も言葉と連動していて少しキリッとしていて、まるで──

「きっ、気安く触ってんじゃねえぞお!」

 バシン、と桐生の手を叩き落とす。
 危なかった、イケメンオーラに呑み込まれるところだった。これだからイケメンは。
 僕は深く大きく息を吐いて気分を落ち着かせて改めて桐生を見る。
 そこには頬を紅潮させて悦ぶそいつがいた。

「きもっ」
「待ってそういうのも興奮するから手加減して欲しい」
「ほんっとうにきもいなお前‼︎」

 ──この男、桐生空は、僕が思っていた以上の変態だ。

 遡ること数日前。
 怒涛のセーラー服での撮影が終わった頃だ、僕は非常に疲れていた。
 学校から桐生の家までそれ程の距離は無かったが、それでも雨足が強かったせいで足元どころか下半身はどうしようもない程ぐちゃぐちゃだった。これで家に上がるのは申し訳ないと帰ろうとした僕を桐生が引き止め、あっという間に制服を乾燥機に突っ込まれてその代わりにセーラー服を流れるように差し出されて撮影が始まった。
 撮影、というか桐生が満足するまでに制服は乾かなくて、僕はセーラー服のままソファに座っていた時だ。

「ていうかさ」
「ん?」
「女装が好きなら桐生が自分で着て自分で撮れば良くない?」

 その段階で僕はもう桐生は女装が好きなんだというのを骨の髄まで理解していた。
 なぜなら撮影する桐生は普段学校で見るクールな印象とは一変してどこからどう見てもオタク気質の変態だったから。

「…ねえそのおぞましい物を見るような目やめてよ。違うじゃん、その目は僕がお前に向けるべき物であってお前が僕に向けるべき物じゃ無いんだよ」
「いやだって常識的に考えて俺が女装するのは気持ち悪いだろ」
「桐生の口から常識って言葉が出てきて僕はびっくりしてるよ」

 はあ、と溜息を吐いてソファの背もたれに体重を預ける。ふかふか過ぎるソファは深く腰掛けただけで尻が埋まってしまいそうな感覚になるが、その分フィット感があって心地良い。

「…ていうか、なんで女装が良いわけ? 桐生なら普通に女の子釣り放題」
「男だから良いんだよ」
「…はい?」
「女子が女子の服着てたって普通だしエロくもなんとも無いけど、斉藤みたいな男が女子の服着てるのはエロいと思う。俺が自給自足しないのは俺の体が男過ぎるからっていうのと俺自身に女装願望がある訳じゃないから。俺は斉藤みたいな線の細い華奢なやつが女装してるのが好き。やっぱ骨格の差なんだろうな、女子にも斉藤みたいな体型のやつって結構いるけど、こんな風に骨が出たりはしてない。パーツがちゃんと男ってしてるのが良い。ぱっと見女子だけどそうじゃないっていうのが良いんだよな、なんかこう、秘密の扉を開けてるみたいな感じがしてすごいクる」

 ソファに沈む僕の前に座った桐生が僕の足を持つ。ただでさえ理解に時間の掛かる言葉を浴びて混乱気味なのに、そんな僕にお構い無しと言わんばかりにスカートを少し捲って、膝を撫でる。
 その動きが、なんというかすごくいやらしくて、僕は思わず奇声を上げながら桐生を蹴り飛ばした。

「うおああああ!」
「ぐふっ」
「こ、この、このど変態がっ! 好きなのはわかったけど、なんで服とかあるんだよ! おかしいだろ!」
「来るべき日の為に一通り揃えてる。無駄にならなくて良かった」
「ご両親とかになんて説明してんだよお前はさぁ…!」
「自分でいうのもなんだけど俺の親俺の事信用しすぎなんだよね」
「でしょうね…‼︎」

 もう一度大きな溜息を吐いて僕は天井を仰いだ。天井は白くて、なんだか海外にありそうな模様が描かれている。

「ねえ斉藤」
「あー?」
「その格好エロいね」
「は?」

 顔を元の位置に戻すのとスマホのシャッター音が聞こえたのは同じか、音の方が少し早かったくらい。

「その丈のスカートで体育座りってすげえ無防備。でもそれが女装って感じがして良い。あ、そうやってマジで女子がするみたいに手で隠すのも男だからエロいっていうのある。あと、変態って言うんだったら斉藤も同じじゃない?」

 女の子の格好したかったんでしょ?
 うっとり、そんな言葉がぴたりと嵌る顔で笑って首を傾げた姿に僕は自分の顔が真っ赤になるのを感じた。羞恥と怒りとがマグマみたいに腹の奥で噴き出て唇が震える。
 違う、と言いたかった。僕は別に女装趣味なんかじゃない。
 だけどそれを口に出す事なんて出来ないし、激情のまま喚き散らすなんて事も出来なかった。

「…一緒にするな、バカ桐生」

 精一杯の悪態に桐生はきょとんとした後に楽しそうに笑った。「斉藤って意外と口悪いよね」楽しげに言って桐生は乾燥機見てくると部屋から出て行った。

「本当に、一緒にするなよ」

 小さく呟いた声は今度こそ誰にも拾われる事なく、綺麗な部屋に吸い込まれた。


 週に多くて三回あるど変態撮影会が無い日の放課後は至って平和だ。
 突如煮込まれたカレーくらいの濃度のある非日常がやってきた訳だけれど、それさえなければ僕の生活は非常に静かなものなのだ。
 学校で話しかけて来る人も片手で足りるし、部活にも委員会にも所属していないからたまにあるイレギュラーは日直くらい。僕は元々一人でいる方が気楽な方だし、一人で食べるご飯にもほとんど抵抗は無い。
 体育やグループ学習の時もぼっちにならない程度の交流はクラスの人達と取っているおかげもあって孤独感に苛まれた事もない。うん、我ながら上出来だ。
 家にも帰りたくない。かといってこれといった趣味もない僕が時間を潰す事と言えば勉強と読書と音楽を聴くことくらい。だけどそのどれかに特出するような事もなくて、至って平凡。テストでは平均点より上を取るけど、上の下くらい。
 どこにでもいる普通の人に、きっと僕はなっている。

 今日は雨が降っていない。7月の夕方ともなれば外はまだ全然明るくて、空に掛かる橙色がとても綺麗に見える。図書館にももう人はいなくて、残っているのは僕みたいに勉強をしている人か図書委員会の人だけだ。
 確かにそこに人がいるのに、図書室という性質上音が混ざっても静かな空間が僕は好きだ。
 ペンが走る音、ページを捲る音、開いた窓から風が入り込んでカーテンを揺らす音。吹奏楽部の音、外で活動している運動部の声、そこにたまに混ざる演劇部の発声練習の声と、生徒が帰宅している声。

 静かだけど沢山の音が混ざり合う空間が好きだ。
 ガララ、図書室の扉が開いた音がした。時間はもう夕方で、こんな時間に新しく誰かが来るのは珍しい。先生だろうか、それとも誰かの友人だろうか。部活が終わって迎えに来たという可能性が一番高いか。
 そう思考しながら教科書に目を通しているとふと、ページに影が掛かった。

「勉強してんの?」
「!」

 聞き覚えのある声に顔を上げ、僕は目を見開いた。

「そんな驚く? てかスマホに連絡したじゃん、見てないの?」

 桐生が首を傾げた拍子に茶髪がさらりと流れる。癖なんて一つもない綺麗な髪が蛍光灯に照らされていて、そんな仕草一つですらイケメンなそいつに僕の眉間には深い皺が寄る。

「そんなのいちいち見てない。なんの」

 想像すらしていなかった桐生の登場につい普段通りの声量で言葉を発してしまい中途半端なところで口を噤む。一瞬の時間があれば途端に冷静になれるもので、数こそ少ないが確実に図書室にいる全員の注意を引いている事に気がついて無性に頭を掻きむしりたくなった。

「〜〜、出よう、桐生」
「勉強は?」
「良い。今日の分はもう終わってる」

 いかにも真面目そうな生徒達の視線は相変わらずノートや参考書に注がれているが意識は自分達に向いている事が嫌でもよく分かる。こんな好奇の目に晒された状態で歩く電光掲示板みたいな男と話す気にはとてもじゃないけどなれない。
 出来るだけ急いで、でも大きな音は立てずに鞄に教科書達をしまい込んで席を立つ。
 図書室を出る時も興味津々といった視線を背中に感じるのは僕が人のそういう感情に敏感だから。この感覚は自意識過剰なんかではないと言い切れる。

 自分がゲイだと自覚した日から僕はとにかく人に変に思われないように生きてきた。どんな発言、どんな立居振る舞いをすれば「普通」なのかをきっとこの学校の誰よりも考えている。だからこそわかるのだ、斉藤雪穂というありふれた、むしろ目立たない人間と、桐生空という羨望の眼差しを向けられる人間が一緒にいる事がどれほど異質で、人の興味を引くのか。

「…僕、学校では話しかけないでって言ったよね」

 図書館からある程度離れ、人の気配もしなくなった廊下で立ち止まる。
 溜息混じりに振り返ると桐生は意味わからないとでも言いたそうな顔で僕を見ていた。その危機感のない表情に少し苛立ちを覚えながら少し深く息を吸い込む。

「桐生みたいな派手なやつと僕が一緒にいたら目立つ。僕は目立つのが嫌い。だから近づくなって言ってるの。ここまでは理解できる?」
「理解できるけどそれは斉藤の都合でしょ、俺には関係なくない?」
「僕がいやだって言ってるんだから納得しろよ」
「なんで嫌なの?」
「目立ちたくないからだって言ってるじゃん。何、お前の耳は飾りですか」
「でも俺は斉藤と学校でも話したい」

 ぐ、と喉の奥が狭くなるような感覚がした。それと一緒に心臓がどくりと大きな音を立てて少し早くなる。その感覚がとても嫌だ、自分が酷く惨めになるから。

「…桐生は僕じゃなくても話せるやつはいくらでもいるでしょ」
「俺は斉藤と話したいって思ってるんだけど」
「僕はそうじゃない。お前の意見だけを押し付けないでよ」
「斉藤だってそうだろ。俺がお前の意見だけ聞くのはフェアじゃない」

 もっともらしい言葉に喉が詰まる。眉間に深く皺が寄って唇がへの字に曲がるのが自分でもわかった。そんな僕の顔を見る桐生はどこか楽しそうで、その余裕が腹立たしい。
 だけど僕はここで大声を上げて喚き立てる訳にはいかなかった。そしてこれ以上食い下がる事が「普通」ではない事もわかっていた。

「……人がいるところでは話しかけないで。用があったらスマホに連絡して、出来るだけ見るようにするから」
「うん、それなら俺も納得出来る。今度からそうするね」

 ありがとう。嬉しそうに笑う桐生から僕は目を逸らして止まっていた足を前に動かした。

「斉藤ってどの教科が得意なの? 俺は得意っていうのなくてさ、なんか満遍なくやる感じ」
「…現国とか」
「眼鏡なのに文系なんだ」
「文系でも眼鏡はいるだろうが」
「確かに。古典のスガミチ眼鏡だったわ」

 人の気配のしない廊下に夕方のオレンジの光が差し込む。
 早歩きの僕とは対照的に桐生の足取りは優雅だ。それなのに距離は広がるどころか縮まっていて、これがコンパスの差かと悔しさに奥歯を噛み締める。だけど僕の悔しさなんて桐生にわかるはずが無くてあっという間に昇降口に着いてしまった。
 廊下と違ってまだ若干の人の気配がある事にまた溜息を吐いて少し後ろを見る。

「…まさか一緒に帰るとか言わないよね」
「え、ここまで来たら普通一緒に帰るでしょ」
「桐生と僕の普通は違う。人のいるところでは話しかけるな、これは譲れない」
「…えー…」
「もう撮影会しないよ」
「わかった善処する」

 それまでの不満顔はどこへやら、即座に返答した桐生に僕はこめかみを指で揉んだ。
 相変わらずの女装への執着に安堵と呆れを同時に感じながらふと思った事があって下足箱に行く前に口を開く。

「なんで僕が図書室にいるってわかったの」
「教室にいなかったから」
「…? そうですか」

 いまいち納得出来ない返答だったが掘り下げるのも変だなと思い「ばいばい」と告げて足を進める。

「斉藤」

 上履きを脱いで靴に履き替えているとまた桐生に話しかけられ、ぐっと眉間に皺を寄せたまま睨むように顔を向けるとそこにはやっぱり笑顔のそいつがいて僕は面食らう。

「また明日な」

 爽やかだとか、綺麗だとか、そんな表現が似合う顔で桐生が笑っている。軽く片手を上げている様はまるでドラマの登場人物かと思うくらい絵になっていて、なるほどやっぱりこいつは住む世界が違う人間だなと思う。
 ど変態撮影会なんて僕の夢だと言われた方が余程納得出来るなと思うが、あれが夢じゃないなんて事は自覚済みだ。

「…明日は休みだよバーカ」

 手を振り返す事もしっかりとした声量で返す事もせず、僕はほとんど無視みたいな形で学校から逃げるように歩き出した。
 歩きながらポケットに入れたスマホが震えたのがわかって取り出すと桐生からのメッセージが入っていた。通知の欄に収まるくらいの短さで書かれた文章は「また月曜日」それだけの文字なのに、また心が跳ねるのがわかった。
 だけどそれに気付かないふりをして、僕はまたスマホをポケットにしまう。それに返事はしなかった。