外は雨、まとわりつく様な湿気と温度が嫌になる。
息をするのも嫌になる季節に僕は一人教室に残って勉強をしていた。雨の音が強くて運動部の声はもちろん聞こえない。聞こえて来るのは吹奏楽部の微かな音色くらいだけど雨の音と混ざってどんな曲なのかもわからない。
相変わらず僕のいくつか前の席の窓が少しだけ開いていて、そこから入り込む風が経年劣化で少し黄色くなったレースのカーテンを雨と一緒に揺らしている。ぽつぽつと机に足跡を残す雨を見ても僕は窓を閉める気にはならない。だってあそこは別に僕の席じゃ無いから。多分玉田だ、そのままにしておこう。
「ねえ待ってー!」
もうほとんど人がいないと思っていた廊下の方向から女子のよく通る声がする。その声に僕は聞き覚えがあった。誰かと一緒に廊下を歩く音はどんどん遠ざかり、やがて聞こえなくなる。もしかしたらと思って昇降口の方を見た。
少し位置が変わってしまったけれど見る分には問題無い角度の為そのまま観察していれば少し時間が経って二人の男女が出てきた。きっと片方は声のよく通る運動部の女子で、その隣にいるのは彼氏だろう。二人は一つの傘の中で肩を寄せ合ってゆっくりと正門に向かって歩いてく。
「…続いてたんだ」
「俺達もあと半年したら追い付くし」
「僕達が追い付く頃にはあの人達はもう半年先に進んでるよ」
声がしたのは出入り口の方でそちらに顔を向けると何でか少し悔しそうな桐生がいた。
「お疲れ。雨だとやっぱり運動部は短いね」
「ん、屋外のやつはしょうがないね」
後ろでに桐生が扉を閉めた事に僕は眉を寄せる。
「桐生」
「だって誰もいないし」
「はあ、本当我儘」
「好きでしょ、こんな俺も」
大きな歩幅で僕との距離を詰めた桐生がなんの戸惑いも無しに僕を腕の中に閉じ込める。運動をした後の上がった体温と制汗剤の匂いの中にちゃんと桐生の香りが混ざっていて、ダメだと思いつつも背中に腕を回して抱き着いてしまう。
「雪穂、大好き」
「ありがとう」
「ねえ好きって言って。俺が言った分好きって返して」
「はいはい好きだよー」
「もっと心込めてよ!」
僕より頭ひとつ分と少し背が高くて体も大きいのに駄々を捏ねる子供みたいに肩口に額を押し付けてくる桐生がおかしくて喉を震わせる様に笑うと不満げな顔の桐生と目が合った。初めて会った時には想像が出来なかった表情に目を細めて宥めるように桐生の唇に軽くキスをする。それにこれでもかってくらい目を開いた桐生が僕の後頭部に手を添えるけど、それと同時に唇の間に手のひらを差し込んだ。
「…雪穂―…」
「学校でこれ以上する訳ないでしょ」
「じゃあ俺の家」
「今日お母さんいる日じゃん」
「…雪穂の家は?」
「今日は父さんと母さんを労う日」
どうしようもない状況なんだと悟ると桐生はまた僕の方に額を擦り付ける。慰めようかと背中をとんとんと撫でていると深く息を吐いたのがわかった。
「…高校卒業したら一緒に暮らす。絶対」
あんまり真剣な声で言うから、ふふ、と思わず声を出して笑ってしまった。
それに桐生が怪訝そうな顔をしているのが気配でわかるけど馬鹿にしてる訳じゃないと伝えるために背中を撫でるのをやめてまた抱き着く。
「…馬鹿だなぁ、桐生は」
どちらとも無く腕に入れていた力を緩めて、親密な距離で視線が絡まる。
「そんなに僕のこと好き?」
「世界で一番雪穂が好きだよ」
ほんの少しの間もおかず、目も逸らさず、それが当然だって顔で僕を好きだって言ってくれるこの男が僕も大好きだ。好きだって言ってくれたあの日から桐生は溢れるくらいの愛を僕にくれる。不安になる隙なんて与えないくらい沢山、これでもかってくらい、溢れても知らないって勢いで僕に安心をくれる。
僕にとっての幸せを形にしたらきっと桐生になるって疑いなく思うくらい、桐生は現在進行形で僕を幸せにしてくれる。
「…僕も桐生がだいすきだよ」
だから愛情を伝える事にも僕は怖がらなくて良くなったんだ。
「…無理、本当無理。雪穂手加減して、俺が我慢強くないって雪穂が一番知ってるでしょ」
「ふふ、そうだね」
「…もう一回キスしていい?」
「今我慢出来たら次桐生の家行った時好きな服着てあげる」
「⁉︎ ぐ、ぅ…!」
筆舌に尽くし難い表情で一歩僕から離れた桐生がおかしくて笑うと今度は睨まれてしまった。でもそんな表情は全然怖くなくて僕は勉強道具を片付けてから鞄を持って立ち上がる。
「途中まで一緒に帰ろ」
「…傘は?」
「あるけど忘れた。だから一緒の傘に入れてよ」
「…うん」
時間が経つと変わる事はそれなりにある。全部を上げるなんてとても無理だけど、例に上げるならこうして僕達はたまに一緒に帰っている。学校でもたまになら人がいても話す様にもなったし、前だったら考えられない学校での触れ合いも人がいないという条件でのみ、たまにする様になった。
小学生の時、はじめて自分が『普通』と違うと理解した時から積み上げてきた変化のない一定の生活がどんどん壊れていく。でも僕はこの変化を怖いなんて思っていない。生きていく限り必ずいつか変化のタイミングが訪れる。僕にとってはきっとそれが一年前のこの時期だった。
肩が触れる距離にいる普通のカップルが羨ましくてしょうがなかった。僕には一生手に入れられない光景だって、ずっと思ってた。でもそんな日々はある日突然変わる。
それは時に暴力的に、変態的に、僕の暗くて狭かった世界をお構い無しに壊してしまった。何にもない、ただ広い雪原だった僕の心には今沢山の大切なものが所狭しと場所を取っている。
「雪穂、もうちょっとこっち来ないと濡れる」
「桐生の右肩はもう致命傷なんだから自分を労りなよ」
「致命傷だから無傷の雪穂を労うんでしょ」
「何だそれ」
肩が触れる距離、親密な人としか出来ないような小さな声での会話。こんなのが僕の憧れだったなんて桐生はきっと知らない。その憧れはもう僕の日常に溶け込んでしまった。
だからもう一歩進んだ憧れを、声に出しても良いんじゃないかなって思った。
「…ねえ桐生、僕料理あんまり得意じゃないけど大丈夫?」
「…は?」
「卒業したら一緒に暮らしてくれるんでしょ。それなら大事だよ、家事分担」
梅雨の降る道の真ん中で桐生の足が止まった。つられて僕の足も止まって、傘に弾く雨の音が強く聞こえる。
言葉を交わさないまま傘を持ってくれている、背の高い僕を好きだと言ってくれる人を見て笑う。きっと文字で表すとしたら破顔なんて表現がしっくりくる顔で僕は笑って、好きな人の頬に触れる。
「なんて顔してるの、桐生」
指先に触れたのは体温と同じ温度の水滴。
変化は怖い事じゃない。それを僕に教えてくれた人の手から傘が落ちて、両腕が背中に回る。
雨の中抱き合って、目が合うと二人して泣き笑いみたいな顔で笑った。
斉藤雪穂、18歳。
僕は今確かにしあわせだと、そう思った。
(了)
息をするのも嫌になる季節に僕は一人教室に残って勉強をしていた。雨の音が強くて運動部の声はもちろん聞こえない。聞こえて来るのは吹奏楽部の微かな音色くらいだけど雨の音と混ざってどんな曲なのかもわからない。
相変わらず僕のいくつか前の席の窓が少しだけ開いていて、そこから入り込む風が経年劣化で少し黄色くなったレースのカーテンを雨と一緒に揺らしている。ぽつぽつと机に足跡を残す雨を見ても僕は窓を閉める気にはならない。だってあそこは別に僕の席じゃ無いから。多分玉田だ、そのままにしておこう。
「ねえ待ってー!」
もうほとんど人がいないと思っていた廊下の方向から女子のよく通る声がする。その声に僕は聞き覚えがあった。誰かと一緒に廊下を歩く音はどんどん遠ざかり、やがて聞こえなくなる。もしかしたらと思って昇降口の方を見た。
少し位置が変わってしまったけれど見る分には問題無い角度の為そのまま観察していれば少し時間が経って二人の男女が出てきた。きっと片方は声のよく通る運動部の女子で、その隣にいるのは彼氏だろう。二人は一つの傘の中で肩を寄せ合ってゆっくりと正門に向かって歩いてく。
「…続いてたんだ」
「俺達もあと半年したら追い付くし」
「僕達が追い付く頃にはあの人達はもう半年先に進んでるよ」
声がしたのは出入り口の方でそちらに顔を向けると何でか少し悔しそうな桐生がいた。
「お疲れ。雨だとやっぱり運動部は短いね」
「ん、屋外のやつはしょうがないね」
後ろでに桐生が扉を閉めた事に僕は眉を寄せる。
「桐生」
「だって誰もいないし」
「はあ、本当我儘」
「好きでしょ、こんな俺も」
大きな歩幅で僕との距離を詰めた桐生がなんの戸惑いも無しに僕を腕の中に閉じ込める。運動をした後の上がった体温と制汗剤の匂いの中にちゃんと桐生の香りが混ざっていて、ダメだと思いつつも背中に腕を回して抱き着いてしまう。
「雪穂、大好き」
「ありがとう」
「ねえ好きって言って。俺が言った分好きって返して」
「はいはい好きだよー」
「もっと心込めてよ!」
僕より頭ひとつ分と少し背が高くて体も大きいのに駄々を捏ねる子供みたいに肩口に額を押し付けてくる桐生がおかしくて喉を震わせる様に笑うと不満げな顔の桐生と目が合った。初めて会った時には想像が出来なかった表情に目を細めて宥めるように桐生の唇に軽くキスをする。それにこれでもかってくらい目を開いた桐生が僕の後頭部に手を添えるけど、それと同時に唇の間に手のひらを差し込んだ。
「…雪穂―…」
「学校でこれ以上する訳ないでしょ」
「じゃあ俺の家」
「今日お母さんいる日じゃん」
「…雪穂の家は?」
「今日は父さんと母さんを労う日」
どうしようもない状況なんだと悟ると桐生はまた僕の方に額を擦り付ける。慰めようかと背中をとんとんと撫でていると深く息を吐いたのがわかった。
「…高校卒業したら一緒に暮らす。絶対」
あんまり真剣な声で言うから、ふふ、と思わず声を出して笑ってしまった。
それに桐生が怪訝そうな顔をしているのが気配でわかるけど馬鹿にしてる訳じゃないと伝えるために背中を撫でるのをやめてまた抱き着く。
「…馬鹿だなぁ、桐生は」
どちらとも無く腕に入れていた力を緩めて、親密な距離で視線が絡まる。
「そんなに僕のこと好き?」
「世界で一番雪穂が好きだよ」
ほんの少しの間もおかず、目も逸らさず、それが当然だって顔で僕を好きだって言ってくれるこの男が僕も大好きだ。好きだって言ってくれたあの日から桐生は溢れるくらいの愛を僕にくれる。不安になる隙なんて与えないくらい沢山、これでもかってくらい、溢れても知らないって勢いで僕に安心をくれる。
僕にとっての幸せを形にしたらきっと桐生になるって疑いなく思うくらい、桐生は現在進行形で僕を幸せにしてくれる。
「…僕も桐生がだいすきだよ」
だから愛情を伝える事にも僕は怖がらなくて良くなったんだ。
「…無理、本当無理。雪穂手加減して、俺が我慢強くないって雪穂が一番知ってるでしょ」
「ふふ、そうだね」
「…もう一回キスしていい?」
「今我慢出来たら次桐生の家行った時好きな服着てあげる」
「⁉︎ ぐ、ぅ…!」
筆舌に尽くし難い表情で一歩僕から離れた桐生がおかしくて笑うと今度は睨まれてしまった。でもそんな表情は全然怖くなくて僕は勉強道具を片付けてから鞄を持って立ち上がる。
「途中まで一緒に帰ろ」
「…傘は?」
「あるけど忘れた。だから一緒の傘に入れてよ」
「…うん」
時間が経つと変わる事はそれなりにある。全部を上げるなんてとても無理だけど、例に上げるならこうして僕達はたまに一緒に帰っている。学校でもたまになら人がいても話す様にもなったし、前だったら考えられない学校での触れ合いも人がいないという条件でのみ、たまにする様になった。
小学生の時、はじめて自分が『普通』と違うと理解した時から積み上げてきた変化のない一定の生活がどんどん壊れていく。でも僕はこの変化を怖いなんて思っていない。生きていく限り必ずいつか変化のタイミングが訪れる。僕にとってはきっとそれが一年前のこの時期だった。
肩が触れる距離にいる普通のカップルが羨ましくてしょうがなかった。僕には一生手に入れられない光景だって、ずっと思ってた。でもそんな日々はある日突然変わる。
それは時に暴力的に、変態的に、僕の暗くて狭かった世界をお構い無しに壊してしまった。何にもない、ただ広い雪原だった僕の心には今沢山の大切なものが所狭しと場所を取っている。
「雪穂、もうちょっとこっち来ないと濡れる」
「桐生の右肩はもう致命傷なんだから自分を労りなよ」
「致命傷だから無傷の雪穂を労うんでしょ」
「何だそれ」
肩が触れる距離、親密な人としか出来ないような小さな声での会話。こんなのが僕の憧れだったなんて桐生はきっと知らない。その憧れはもう僕の日常に溶け込んでしまった。
だからもう一歩進んだ憧れを、声に出しても良いんじゃないかなって思った。
「…ねえ桐生、僕料理あんまり得意じゃないけど大丈夫?」
「…は?」
「卒業したら一緒に暮らしてくれるんでしょ。それなら大事だよ、家事分担」
梅雨の降る道の真ん中で桐生の足が止まった。つられて僕の足も止まって、傘に弾く雨の音が強く聞こえる。
言葉を交わさないまま傘を持ってくれている、背の高い僕を好きだと言ってくれる人を見て笑う。きっと文字で表すとしたら破顔なんて表現がしっくりくる顔で僕は笑って、好きな人の頬に触れる。
「なんて顔してるの、桐生」
指先に触れたのは体温と同じ温度の水滴。
変化は怖い事じゃない。それを僕に教えてくれた人の手から傘が落ちて、両腕が背中に回る。
雨の中抱き合って、目が合うと二人して泣き笑いみたいな顔で笑った。
斉藤雪穂、18歳。
僕は今確かにしあわせだと、そう思った。
(了)