苦手な夏が終わってあっという間に秋が過ぎて、そして長い冬がやって来る。
それでも今は秋の終わり頃で昼は日向にいればそこまで寒くない。でも夕方はもう十分寒くて僕はもうマフラーを持ってきてしまっている。夏が苦手だからといって冬が得意という訳ではない。でも僕は冬という季節が好きだった。
「斉藤また明日なー」
「うん、またね」
一日の授業が終わりクラスメイト達が部活に行く頃僕はそのまま教室に残って本を読んでいた。今日も人がいなくなるまで本を読んで適当なところで図書室に行こう。
文化祭以降僕には友人が増えたけれど日々のルーティーンはほとんど何も変わらない。相変わらず家族との親密な会話も苦手だし、騒がしいのもやっぱり苦手だ。だけど友人が増えるだけで学校生活は何倍も楽しくなったなと、少し本から意識を逸らしてふと思う。
窓の外には帰宅する人や部活動に励む人が見える。その中に親密な距離で帰路に着く二人組を見つけて僕は目を細めた。
──羨ましい?
自分が頭の中で問いかけてきた気がした。
「…わかんない」
仲睦まじく帰路に着く男女の姿を見て思い出すのはやっぱり桐生の事なんだ。
僕が同性愛者だってバレた以上もうきっと桐生と関わりを持つ事は無いし、それを狙って告白した所だってある。だからこれは僕が望んだ日常の筈なのに、ふとした拍子に思い出してしまう自分の情けなさに小さく息を吐いた。
カタン、と誰かがまだ教室にいる音がして思わず肩を跳ねさせる。もしかして独り言を聞かれてしまったかもしれないと羞恥を覚えつつ、本を読むふりをして人の姿を確認しようとして、ぎゅっと心臓が縮こまった。
疑いようが無いほどしっかりと目が合った。体感にして数十秒、でも実際はきっと3秒にも満たない時間。その沈黙に耐えられなくなったのは僕だった。
「……なに…?」
「…その」
窓際の僕の席と廊下側の桐生の席の間には机が4列もある。
二人で話すにはあまりに遠い距離だけど、僕はこれ以上近付けない。それは多分桐生も同じなんだと思う。だって僕よりもずっと「気まずいです」って空気を醸し出しているから。それなのに絶対に目を逸らさない姿勢に僕は少したじろいだ。
「話し掛けていい…?」
「…ぇ?」
「、だから、俺も玉田達みたいに話し掛けていいのかって聞いてるんだけど」
「…なんで?」
純粋な疑問がそのまま口に出た。すると桐生は徐に立ち上がってずんずんと僕の方に歩いてくる。全然状況が掴めなくて硬直している僕の前の前で桐生が立ち止まって見下ろしてくる。常に上がっているはずの口角が今は下がっているし、眉尻も下がっている。
怒っているというには随分寂しげな顔に僕はますます意味がわからなくなった。
「仲良くなりたいから、じゃ、だめなの」
「…えぇ…?」
「そんな嫌そうな顔しないで」
「いや、その、嫌っていうか…本当に意味がわからないんだけど」
意味が分からないという思考は混乱という精神状態に変わる。この男は何を言っているんだろう、どんな意図があるんだろう。混乱を極める頭の中でただ一つ明確にわかっているのは、僕をその混乱に叩き落とした張本人が今にも死にそうな顔をしているという事だ。
絶対に精神的にキツいのは僕の筈なのに、その僕を差し置いてそんな顔をされたんじゃおちおちと混乱していられない。自分を落ち着ける為に視線を下げて深く長く息を吐くとまた顔を上げて桐生を見た。
「…僕が桐生に言ったこと覚えてないの?」
「…覚えてる」
「桐生ならわかると思うけど、僕ああいうの冗談じゃ言わないよ」
今日は天気が良いから外の部活動の声が良く聞こえる。その賑やかさとは対照的に僕たちの間には緊張が張り詰めていた。
「僕はゲイだよ」
ナイフを突き立てるような心地で声に出すと桐生がほんの少し動揺したのがわかった。
それに安堵している自分と、酷く傷付いている自分がいる。
「気持ち悪いでしょ。だから」
「そんな事思ってない!」
大きな声と一緒に両肩を掴まれて目を丸くした。
「あ、ごめん」
ぱっと手が離れて、桐生が自分を落ち着かせるみたいに息を吐きながら僕の隣の席に座った。ほんの少しだけ距離が出来て、その分僕も息がしやすくなった。
「雪穂の事、気持ち悪いなんて思った事ない。告白してくれた時も、そんなの思ってなかったよ。……驚きはしたけど」
「まあ普通は無いだろうからね。同性から告白されるなんて」
また沈黙が落ちる。
桐生はずっと難しそうな顔をしている。まるで必死に言葉を探している様に見える、そんな顔だ。その姿を見て僕はやっぱり分からなくなる。この時間は僕たちにとって苦痛以外の何ものでも無い筈で、生産性だってない。もう互いに何も無かった事にして良い状態の筈なのに、どうして桐生は蒸し返そうとするんだろうか。
「…俺の趣味というか、性癖だって普通じゃないじゃん」
長い沈黙の果て、紡がれた言葉に僕はゆっくりと一度瞬きした。
「むしろバレた時ヤバいのはどう考えたって俺の性癖の方じゃん。雪穂のは諸々置いといてメジャーだし、ネットで少し検索すれば当事者の人だって結構出て来る。だけど俺のはもう、なんていうかアングラにも程があるじゃん。だけど、雪穂は俺に気持ち悪いなんて言わなかったでしょ」
もう随分昔に思えるけど、まだ半年にも満たないくらい前の事。初めて桐生から女装の事を言われた時、僕は何を考えただろうか。もちろん驚いたし、興奮した桐生の顔が怖くて引いた。でも僕を見てほんの少し揺れた顔を良く覚えてる。その時湧いた感情だってもちろん覚えている。
「…自分を否定されるのは、つらいから」
気持ち悪いとは思わなかった。だけど理解は出来なかった。でも僕はその状態でシャッターを下ろされる悲しさを知っているから。
「だから嘘ついたんだよ」
桐生が真っ直ぐに僕を見てる。綺麗に澄んだ水みたいな目だ。
「僕、女装に興味なんてないよ」
「うん」
「だって僕は男で、このままの僕で生きていかないといけないから」
「うん」
「女の子だったら普通になれたのになって思って苦しかったよ」
「…うん」
「だから桐生にキスされた時、嬉しかったけど消えたくなるくらい悲しかった」
僕にとっては一生に一度の奇跡みたいな出来事の連続だった。でもそれは全部桐生の好奇心だけで構成されていたもので、そこに僕の望む夢物語みたいな感情は伴っていない。そのギャップが苦しくて、求めてはいけない人にその先を求めてしまいそうになるのが辛くてしょうがなかった。
「かなしかったよ」
男が二人膝を突き合わせて話す構図はきっとどこにでもある普通の景色。
だけど僕の目の前にいるのは何をどうやって忘れられそうにない好きな人だ。この感情一つあるだけでこの景色は普通から異常に変わる。それくらい僕のこの感情は忌避されるものだ。僕の中ではそうなんだ。
だけど今の僕はどうにも「普通」になれないみたいだ。
鼻の奥が痛くて目の奥が熱い。視界がぐにゃりと滲んでたった一回瞬きをしただけで雨粒みたいな涙が頬を滑り落ちた。
「すごく、かなしかった…っ」
「ごめん」
すぐ側で声が聞こえた。体があたたかいものに包まれている。僕はこの温度を知っている。
「…ごめん」
桐生は僕を抱きしめたままもう一度そう言った。
例えば、もう二度と手に出来なくてもいいと思って海に投げたものがあるとする。そんな大きな物の中に投げ込んだんだからきっと一生見つかりっこないし戻って来る筈がない。その覚悟で投げたものが傷ひとつなく、むしろ輝きを増した状態で帰って来たら普通はどう思うのだろうか。
嬉しかったり、誇らしかったりするのだろうか。それともなんで戻ってきたんだと激昂するのだろうか。
きっと沢山の選択肢があると思うけれど、とりあえず僕には前述のいくつかの感情は当て嵌まらなかった。僕に当て嵌まるのは困惑、この言葉だ。
「雪穂、一緒に勉強しよ」
「い、嫌だ…!」
日を追うごとに寒さが強まる11月下旬、期末テストが間近に迫ったこの時期僕はいつもの様に一人で勉強をする、はずだった。
さて図書室に行こうと荷物をまとめた僕の前の席に座る人物、相変わらずイケている顔を晒している桐生が何食わぬ顔でそんな事を言ってきた。もちろん僕の答えはノーだし、一刻も早く立ち去りたくて鞄を持ち上げるのにそれと同じ速度で桐生が僕の鞄を掴んだから純粋な力比べで僕が勝てる筈もなく、苦虫を噛み潰した心地で渋々腰を落ち着けた。
「僕は一人で勉強する」
「俺なら雪穂の苦手分野全部カバーできるよ」
「一人で出来る様になるために勉強するんだよ」
「でも分からなくて結局明日先生に聞く事になるなら分かる俺に今日聞いた方が効率良くない?」
ぐうの音も出ない正論だ。桐生は頭が良い。理数系なんてクラスどころが学年全体でトップに入るくらい頭が良い。理数が苦手な僕からしてみれば理解の出来ない人間だ。
「…桐生がいると集中出来ないから嫌なんだよ…!」
「でも俺は出来るし」
「っ、こんの…!」
先日僕は目の前の男の前で不覚にも泣いてしまった。正直今思い出しても恥ずかし過ぎて死にそうだ。穴があったら入りたい。ちなみにあの日は正気に戻った後桐生を突き飛ばして逃げた。
けどあの日から、どういう心境の変化が起きたのか桐生は僕によく話し掛けて来るようになった。朝の挨拶だったり、ちょっとした休み時間だったり、こうして放課後だったり。ほんの短い時間だけどまるで友達みたいに話し掛けて来るのだ。正直に言えばやめてほしい。だって曲がりなりにも僕は桐生に好意を持っている訳で、そしてその好意は報われなかったというのを誰よりも知っている。
だから放っておいて欲しいのに、何故かこの男は話し掛けて来るのだ。しかも上手い事人が少ない時を狙って仕掛けて来るから邪険にする事も出来ずこんな事になっているのだ。
「…普通はもうじゃあお互い関わらずにいようねって流れになるだろ…!」
僕は頭を抱えて唸った。状況をどう整理してもやっぱり桐生の行動が理解出来ない。
「なんで?」
「な、なんでって…」
「俺、あの日ちゃんと言ったよ。仲良くなりたいから話し掛けて良いかって」
「僕はいいよって言ってない」
「ダメだとも言ってないでしょ」
「屁理屈だなお前本当」
苛立ちと不可解さに重くて長いため息を吐く。この感覚は久しぶりだった。
「…僕はさ、できればもう桐生と関わりたくなんだよ。お前と話してるとどうしても疲れる。忘れたいからもう僕の事は無い物として扱ってほし」
「無理」
清々しいくらいの我儘っぷりに今度こそ額に青筋が浮かんだ。けれどここで怒鳴れば流石に目立つと必死に自分に言い聞かせてまた深呼吸する。怒鳴り散らそうとする激情は減らせても腹の奥に溜まる苛立ちは募るばかりで、僕は感情の読めない桐生を睨みながら口を開いた。
「…桐生のそういうところ大嫌いだ」
言ってすぐ目を逸らして机の上に置いたままの鞄を睨む。
「僕の言ってる事無視して自分の都合ばっかり押し付けて、それが当然って顔してるお前が大っ嫌いだ。言っただろ、僕はオモチャじゃない。人並みに嫌な事だってあるし怒る事もある。僕は、とりあえずもう桐生と話したくないんだって」
そこまで一息で喋って、また深く息を吐き出した。
結局は感情をぶつけてしまったと思いながら息を吸って、とりあえず鞄を自分の膝の上に避難させる。紺色の鞄を見ながらまた口を開く。
「…それに普通さ、振った人に話しかけるのは無神経過ぎるよ」
ガタン、と大きな音がして反射で肩が猫みたいに跳ねる。
何事かと見てみればそこには目を見開いて少し顔色を悪くさせている桐生がいて僕の目も丸くなる。混乱しているのか目を左右に走らせた桐生はすぐに僕を見て何度も首を横に振った。
「振ってない…!」
「…は?」
「俺、雪穂のこと振ってないよ!」
「ば、バカ声デカい!」
思わず立ち上がって僕は辺りを見渡す。幸い誰かが廊下を歩いている気配もしなければ外はいつもと同じような部活動の音が聞こえる。どこにもバレていないと理解すると安堵感から僕はまた腰を下ろした。
桐生は僕の挙動をずっと見ていて、さっきまでは能面みたいに無表情だったのに今は捨てられた子犬みたいに不安な顔をしている。何がきっかけでそうなったのかは知らないが僕も意味がわからなくて眉間に皺を寄せた。
「ごめんって言ったじゃん、この前」
「は? …え⁉︎ ちょ、待っ、まさかあの時ので?」
「それ以外何があるの」
「ある、けど…! いや、違う。これは完全に俺が悪い、本当に俺が悪い。でもまさか、あー…」
今度は桐生が頭を抱えてしまった。一体どうしてそうなったのかが理解出来ず、流石にこの状態の桐生を置いて逃げ出すのは忍びなくて観察すること十数秒。未だに何故だか撃沈している桐生に僕は意味がわからず首を傾げた。
「…ていうかそれ以前の問題だし。気負わせてるならごめん。忘れていいよ、その方が桐生も楽でしょ」
「ちょっと黙って」
聞いた事のない桐生の低い声に自然と背筋が伸びる。空気が少しピリついていて心臓がきゅうっと縮んだ。
え、なんで桐生が怒ってるんだろう。まず、そう前置きをされて始まった言葉を僕はただ聞く事しか出来ない。
「俺は雪穂の事振ってない。驚いたけど嫌だなんて思ってない。あの時のごめんは告白に対する言葉じゃないから、それはちゃんと知ってて欲しい」
桐生がこぼす呼吸音すら静かな教室ではよく聞こえる。だからそれ以外の物にも以外と意識が向くもので、例えば落ち着きなく握っては開いてを繰り返す手だったり、普段は揺れる事のない瞳が不安げに揺れていたり、そういうものにも気付けてしまった。
桐生が緊張している、そしてきっと、僕の発言のどれかに不満を感じている。
「それと」
その答え合わせが始まるんだ。
「俺の気持ちを勝手に決めないで。…俺は雪穂の気持ちを面倒だなんて思ってない。忘れたいとも思ってないよ」
真っ直ぐに向けられる視線と言葉から僕は逃げられなかった。
もういいやと諦めて置いてきた筈の夢がまた息を吹き返そうとしている気配がする。
「…お願い。俺に雪穂を知るチャンスをください」
その懇願に、僕はゆっくりと瞬きをした。
「チャンスって、何…?」
「? そういう機会が欲しいって意味だけど」
「違うそうじゃなくて」
自分の額を指で押すように僕は思考を巡らせた。けど巡らせたところでなんの答えも浮かばない。それも当然だ。だって僕には桐生が何を考えているのかさっぱりわからないんだから。
「…なんでチャンスが欲しいの」
「雪穂の事が知りたいから」
「なんで知りたいって思うの」
「それを知るためにチャンスが欲しい」
「はあ?」
理解する為に聞いたのにもっとわからなくなって僕の眉間に皺が寄った。そんな僕とは反対に桐生の顔は大真面目で、そこに揶揄いとか嘘の気配は感じられなかった。でもそれから一拍置いて桐生の顔が悔しげに歪む。
「…田中曰く、俺はポンコツらしくて」
「んん…?」
「俺が今まで雪穂にして来た行動は、俺が雪穂に好意を持ってないとしない行動だって教えて貰った」
「ん?」
「文化祭の準備中、クラスのグループに雪穂のかわいい写真載せられたり、俺にはさせてくれないクセに他のやつらとは顔写った写真撮らせたり、学校で触らせたり、そういうのが全部すごく苛ついた。それで俺はそれを、その、お気に入りのおもちゃを盗られたって、感覚だと思ってて」
酷く言いづらそうに紡がれた言葉は、理解していた事だとしてもずしりと重たく心刺してくる。やっぱりそうだったんだなぁって、したくなかった答え合わせに僕は視線を桐生から逸らした。
「でも、そうじゃないって田中が気付かせてくれて」
落ち込みそうになった僕を止まらせたのは田中だ。また出た田中の名前に僕は嫌な予感がして顔をロボットみたいなぎこちなさで再び桐生に戻した。
「あのね、雪穂」
「まさか田中に喋ったの」
「なんで今田中の名前が出るの」
「最初に出したのはお前だよ!」
途端に桐生の顔が顰めっ面になり面白くなさそうに唇を尖らせた。その理不尽さに僕はどうにか落ち着こうとするけど出来なくてびしっと桐生を指さした。
「おまえ、お前まさか田中に僕の事喋ったの…⁉︎」
「雪穂の事は隠してたよ。でもバレた」
「なんでぇ⁉︎」
驚愕に震えている僕とは対照的に桐生は呆気からんとしている。
「俺がグループに上がった雪穂の写真見てキレたの見てたから」
「は、ぇ…? はああああ?」
もう僕には理解不能だった。僕は今度こそ頭を抱えてうずくまった。
「終わった…」
「大丈夫だよ、田中はそういうの言いふらすやつじゃないし」
「そりゃあお前はダメージ無いだろうな!」
「え? 女装とかの事も全部話したよ」
「どっちみち僕も大ダメージじゃん! もうHPレッドゾーン突入してるんだけど!」
「…田中もかわいいって言ってた」
「そもそも女装褒められたってなにも嬉しくな、……なんて顔してんの桐生」
僕とっては一大事でも桐生にとってはそうでないらしく認識の差に苛立つし歯痒いしでどうしてやろうと思いながら顔を上げれば、そこにいたのは形容し難い表情をした桐生だった。多分僕が同じ顔をしたら目も当てられないけど、桐生の顔からはなんだか複雑な感情が読み取れるような気がした。
「雪穂の事かわいいって知ってるのは俺だけで良かったのに」
「…またおもちゃ理論?」
「違う」
複雑な顔のまま桐生はじっと僕を見ている。
「嫉妬してるんだよ、田中に」
というか雪穂の可愛さを知った奴ら全員。そう続けられた言葉に僕は瞬きを繰り返した。言葉は聞こえているし理解はしているが意味がわかって納得できるかと言われたらそうじゃない。まさに頭ではわかっていても体がついていかない状態になっていた。
意味がわからない事の連続でもう驚くというリアクションすら取れない、というか今どんな反応をすれば正解なのかがわからなくて僕は固まった。
「…雪穂だってすごい顔してるよ」
それまで複雑だった桐生の顔がふっと和らいだ。嬉しそうに目を細めてゆっくり開く花みたいに笑って、僕の方に手を伸ばす。桐生の長い指が僕の頬に触れた。輪郭をなぞって顎のラインを包むみたいに大きな手のひらが触れる。
「りんご飴みたいでかわいいね」
悔しくて唇を噛んだ。でもそうすると桐生の指先が口元に触れるから僕は言うことを聞くしかなくて、でもやっぱり悔しくて睨むと桐生は嬉しそうに笑った。
「…なんで僕に触るの」
「触りたいって思ったから」
「僕は、お前に好きだって言ったんだよ」
「うん」
「…こんなことされたら、忘れられない」
まるで宝物みたいに桐生が僕に触れるからどうしようもなく心臓が痛い。どれだけ忘れようとして僕が頑張っても、これじゃ努力が水の泡だ。無神経なやつだって腹立たしいのに、それでも僕の心は今嬉しいって叫んでる。
「忘れないで、覚えててよ」
「…お前本当に自己中だな」
「うん、それで雪穂の事沢山傷付けた。本当にごめん」
するりと手が離れる。謝罪の言葉を吐いている桐生の顔は笑っているけど、目は少しだけ陰っている。
「…俺は本当にポンコツらしくて、未だに自分の気持ちがわかんないところがある。雪穂の事知りたいって思うし、独り占めしたいって思うし、今文化祭の雪穂の格好思い出しただけで見たやつ全員許さないって思うくらいには嫉妬してる」
一つ一つ言葉を置いてくるみたいにゆっくりと桐生が喋る。
「多分俺は雪穂の事が好きなんだ」
ぽつん、と落ちた言葉。考えるよりも先に口を突く。
「……なんで多分…?」
「自発的に人を好きになった事ないから自信持って言えない」
「ぇ」
「今まで告白されたら付き合うってやってたし、付き合ってるから形だけでもって大切にしてたけど、それでその人達を好きになるって事なかった。だから、今俺の中にあるこれが好きなのかどうかわからない」
ぽかんと口を開け間抜け面を晒す僕を見て桐生は眉尻を下げた。
「多分、雪穂の事が好きなんだよ。でも自信を持って言えないから、もっと雪穂と一緒にいたい。そうしたらきっと多分じゃない好きを伝えられると思う」
「……それが勘違いとか、考えないの」
「多分違うから大丈夫」
無性に笑いたくなった。
「っ、ふふ」
声を漏らすと桐生が不思議そうにする。だけど僕は気にせずに笑った。
「あははっ、…ふ、くく、はー…桐生って馬鹿なんだなぁ」
きっと僕も大馬鹿者だと思う。
曖昧過ぎる告白はこの先僕を殺すナイフになるかもしれない。でも、それでも良いかもしれないって思ってしまったから、恋ってやつは本当に面倒臭い。
「いいよ、チャンスをあげる」
どっちに転んでもきっとこれが互いにラストチャンスだ。
それでも今は秋の終わり頃で昼は日向にいればそこまで寒くない。でも夕方はもう十分寒くて僕はもうマフラーを持ってきてしまっている。夏が苦手だからといって冬が得意という訳ではない。でも僕は冬という季節が好きだった。
「斉藤また明日なー」
「うん、またね」
一日の授業が終わりクラスメイト達が部活に行く頃僕はそのまま教室に残って本を読んでいた。今日も人がいなくなるまで本を読んで適当なところで図書室に行こう。
文化祭以降僕には友人が増えたけれど日々のルーティーンはほとんど何も変わらない。相変わらず家族との親密な会話も苦手だし、騒がしいのもやっぱり苦手だ。だけど友人が増えるだけで学校生活は何倍も楽しくなったなと、少し本から意識を逸らしてふと思う。
窓の外には帰宅する人や部活動に励む人が見える。その中に親密な距離で帰路に着く二人組を見つけて僕は目を細めた。
──羨ましい?
自分が頭の中で問いかけてきた気がした。
「…わかんない」
仲睦まじく帰路に着く男女の姿を見て思い出すのはやっぱり桐生の事なんだ。
僕が同性愛者だってバレた以上もうきっと桐生と関わりを持つ事は無いし、それを狙って告白した所だってある。だからこれは僕が望んだ日常の筈なのに、ふとした拍子に思い出してしまう自分の情けなさに小さく息を吐いた。
カタン、と誰かがまだ教室にいる音がして思わず肩を跳ねさせる。もしかして独り言を聞かれてしまったかもしれないと羞恥を覚えつつ、本を読むふりをして人の姿を確認しようとして、ぎゅっと心臓が縮こまった。
疑いようが無いほどしっかりと目が合った。体感にして数十秒、でも実際はきっと3秒にも満たない時間。その沈黙に耐えられなくなったのは僕だった。
「……なに…?」
「…その」
窓際の僕の席と廊下側の桐生の席の間には机が4列もある。
二人で話すにはあまりに遠い距離だけど、僕はこれ以上近付けない。それは多分桐生も同じなんだと思う。だって僕よりもずっと「気まずいです」って空気を醸し出しているから。それなのに絶対に目を逸らさない姿勢に僕は少したじろいだ。
「話し掛けていい…?」
「…ぇ?」
「、だから、俺も玉田達みたいに話し掛けていいのかって聞いてるんだけど」
「…なんで?」
純粋な疑問がそのまま口に出た。すると桐生は徐に立ち上がってずんずんと僕の方に歩いてくる。全然状況が掴めなくて硬直している僕の前の前で桐生が立ち止まって見下ろしてくる。常に上がっているはずの口角が今は下がっているし、眉尻も下がっている。
怒っているというには随分寂しげな顔に僕はますます意味がわからなくなった。
「仲良くなりたいから、じゃ、だめなの」
「…えぇ…?」
「そんな嫌そうな顔しないで」
「いや、その、嫌っていうか…本当に意味がわからないんだけど」
意味が分からないという思考は混乱という精神状態に変わる。この男は何を言っているんだろう、どんな意図があるんだろう。混乱を極める頭の中でただ一つ明確にわかっているのは、僕をその混乱に叩き落とした張本人が今にも死にそうな顔をしているという事だ。
絶対に精神的にキツいのは僕の筈なのに、その僕を差し置いてそんな顔をされたんじゃおちおちと混乱していられない。自分を落ち着ける為に視線を下げて深く長く息を吐くとまた顔を上げて桐生を見た。
「…僕が桐生に言ったこと覚えてないの?」
「…覚えてる」
「桐生ならわかると思うけど、僕ああいうの冗談じゃ言わないよ」
今日は天気が良いから外の部活動の声が良く聞こえる。その賑やかさとは対照的に僕たちの間には緊張が張り詰めていた。
「僕はゲイだよ」
ナイフを突き立てるような心地で声に出すと桐生がほんの少し動揺したのがわかった。
それに安堵している自分と、酷く傷付いている自分がいる。
「気持ち悪いでしょ。だから」
「そんな事思ってない!」
大きな声と一緒に両肩を掴まれて目を丸くした。
「あ、ごめん」
ぱっと手が離れて、桐生が自分を落ち着かせるみたいに息を吐きながら僕の隣の席に座った。ほんの少しだけ距離が出来て、その分僕も息がしやすくなった。
「雪穂の事、気持ち悪いなんて思った事ない。告白してくれた時も、そんなの思ってなかったよ。……驚きはしたけど」
「まあ普通は無いだろうからね。同性から告白されるなんて」
また沈黙が落ちる。
桐生はずっと難しそうな顔をしている。まるで必死に言葉を探している様に見える、そんな顔だ。その姿を見て僕はやっぱり分からなくなる。この時間は僕たちにとって苦痛以外の何ものでも無い筈で、生産性だってない。もう互いに何も無かった事にして良い状態の筈なのに、どうして桐生は蒸し返そうとするんだろうか。
「…俺の趣味というか、性癖だって普通じゃないじゃん」
長い沈黙の果て、紡がれた言葉に僕はゆっくりと一度瞬きした。
「むしろバレた時ヤバいのはどう考えたって俺の性癖の方じゃん。雪穂のは諸々置いといてメジャーだし、ネットで少し検索すれば当事者の人だって結構出て来る。だけど俺のはもう、なんていうかアングラにも程があるじゃん。だけど、雪穂は俺に気持ち悪いなんて言わなかったでしょ」
もう随分昔に思えるけど、まだ半年にも満たないくらい前の事。初めて桐生から女装の事を言われた時、僕は何を考えただろうか。もちろん驚いたし、興奮した桐生の顔が怖くて引いた。でも僕を見てほんの少し揺れた顔を良く覚えてる。その時湧いた感情だってもちろん覚えている。
「…自分を否定されるのは、つらいから」
気持ち悪いとは思わなかった。だけど理解は出来なかった。でも僕はその状態でシャッターを下ろされる悲しさを知っているから。
「だから嘘ついたんだよ」
桐生が真っ直ぐに僕を見てる。綺麗に澄んだ水みたいな目だ。
「僕、女装に興味なんてないよ」
「うん」
「だって僕は男で、このままの僕で生きていかないといけないから」
「うん」
「女の子だったら普通になれたのになって思って苦しかったよ」
「…うん」
「だから桐生にキスされた時、嬉しかったけど消えたくなるくらい悲しかった」
僕にとっては一生に一度の奇跡みたいな出来事の連続だった。でもそれは全部桐生の好奇心だけで構成されていたもので、そこに僕の望む夢物語みたいな感情は伴っていない。そのギャップが苦しくて、求めてはいけない人にその先を求めてしまいそうになるのが辛くてしょうがなかった。
「かなしかったよ」
男が二人膝を突き合わせて話す構図はきっとどこにでもある普通の景色。
だけど僕の目の前にいるのは何をどうやって忘れられそうにない好きな人だ。この感情一つあるだけでこの景色は普通から異常に変わる。それくらい僕のこの感情は忌避されるものだ。僕の中ではそうなんだ。
だけど今の僕はどうにも「普通」になれないみたいだ。
鼻の奥が痛くて目の奥が熱い。視界がぐにゃりと滲んでたった一回瞬きをしただけで雨粒みたいな涙が頬を滑り落ちた。
「すごく、かなしかった…っ」
「ごめん」
すぐ側で声が聞こえた。体があたたかいものに包まれている。僕はこの温度を知っている。
「…ごめん」
桐生は僕を抱きしめたままもう一度そう言った。
例えば、もう二度と手に出来なくてもいいと思って海に投げたものがあるとする。そんな大きな物の中に投げ込んだんだからきっと一生見つかりっこないし戻って来る筈がない。その覚悟で投げたものが傷ひとつなく、むしろ輝きを増した状態で帰って来たら普通はどう思うのだろうか。
嬉しかったり、誇らしかったりするのだろうか。それともなんで戻ってきたんだと激昂するのだろうか。
きっと沢山の選択肢があると思うけれど、とりあえず僕には前述のいくつかの感情は当て嵌まらなかった。僕に当て嵌まるのは困惑、この言葉だ。
「雪穂、一緒に勉強しよ」
「い、嫌だ…!」
日を追うごとに寒さが強まる11月下旬、期末テストが間近に迫ったこの時期僕はいつもの様に一人で勉強をする、はずだった。
さて図書室に行こうと荷物をまとめた僕の前の席に座る人物、相変わらずイケている顔を晒している桐生が何食わぬ顔でそんな事を言ってきた。もちろん僕の答えはノーだし、一刻も早く立ち去りたくて鞄を持ち上げるのにそれと同じ速度で桐生が僕の鞄を掴んだから純粋な力比べで僕が勝てる筈もなく、苦虫を噛み潰した心地で渋々腰を落ち着けた。
「僕は一人で勉強する」
「俺なら雪穂の苦手分野全部カバーできるよ」
「一人で出来る様になるために勉強するんだよ」
「でも分からなくて結局明日先生に聞く事になるなら分かる俺に今日聞いた方が効率良くない?」
ぐうの音も出ない正論だ。桐生は頭が良い。理数系なんてクラスどころが学年全体でトップに入るくらい頭が良い。理数が苦手な僕からしてみれば理解の出来ない人間だ。
「…桐生がいると集中出来ないから嫌なんだよ…!」
「でも俺は出来るし」
「っ、こんの…!」
先日僕は目の前の男の前で不覚にも泣いてしまった。正直今思い出しても恥ずかし過ぎて死にそうだ。穴があったら入りたい。ちなみにあの日は正気に戻った後桐生を突き飛ばして逃げた。
けどあの日から、どういう心境の変化が起きたのか桐生は僕によく話し掛けて来るようになった。朝の挨拶だったり、ちょっとした休み時間だったり、こうして放課後だったり。ほんの短い時間だけどまるで友達みたいに話し掛けて来るのだ。正直に言えばやめてほしい。だって曲がりなりにも僕は桐生に好意を持っている訳で、そしてその好意は報われなかったというのを誰よりも知っている。
だから放っておいて欲しいのに、何故かこの男は話し掛けて来るのだ。しかも上手い事人が少ない時を狙って仕掛けて来るから邪険にする事も出来ずこんな事になっているのだ。
「…普通はもうじゃあお互い関わらずにいようねって流れになるだろ…!」
僕は頭を抱えて唸った。状況をどう整理してもやっぱり桐生の行動が理解出来ない。
「なんで?」
「な、なんでって…」
「俺、あの日ちゃんと言ったよ。仲良くなりたいから話し掛けて良いかって」
「僕はいいよって言ってない」
「ダメだとも言ってないでしょ」
「屁理屈だなお前本当」
苛立ちと不可解さに重くて長いため息を吐く。この感覚は久しぶりだった。
「…僕はさ、できればもう桐生と関わりたくなんだよ。お前と話してるとどうしても疲れる。忘れたいからもう僕の事は無い物として扱ってほし」
「無理」
清々しいくらいの我儘っぷりに今度こそ額に青筋が浮かんだ。けれどここで怒鳴れば流石に目立つと必死に自分に言い聞かせてまた深呼吸する。怒鳴り散らそうとする激情は減らせても腹の奥に溜まる苛立ちは募るばかりで、僕は感情の読めない桐生を睨みながら口を開いた。
「…桐生のそういうところ大嫌いだ」
言ってすぐ目を逸らして机の上に置いたままの鞄を睨む。
「僕の言ってる事無視して自分の都合ばっかり押し付けて、それが当然って顔してるお前が大っ嫌いだ。言っただろ、僕はオモチャじゃない。人並みに嫌な事だってあるし怒る事もある。僕は、とりあえずもう桐生と話したくないんだって」
そこまで一息で喋って、また深く息を吐き出した。
結局は感情をぶつけてしまったと思いながら息を吸って、とりあえず鞄を自分の膝の上に避難させる。紺色の鞄を見ながらまた口を開く。
「…それに普通さ、振った人に話しかけるのは無神経過ぎるよ」
ガタン、と大きな音がして反射で肩が猫みたいに跳ねる。
何事かと見てみればそこには目を見開いて少し顔色を悪くさせている桐生がいて僕の目も丸くなる。混乱しているのか目を左右に走らせた桐生はすぐに僕を見て何度も首を横に振った。
「振ってない…!」
「…は?」
「俺、雪穂のこと振ってないよ!」
「ば、バカ声デカい!」
思わず立ち上がって僕は辺りを見渡す。幸い誰かが廊下を歩いている気配もしなければ外はいつもと同じような部活動の音が聞こえる。どこにもバレていないと理解すると安堵感から僕はまた腰を下ろした。
桐生は僕の挙動をずっと見ていて、さっきまでは能面みたいに無表情だったのに今は捨てられた子犬みたいに不安な顔をしている。何がきっかけでそうなったのかは知らないが僕も意味がわからなくて眉間に皺を寄せた。
「ごめんって言ったじゃん、この前」
「は? …え⁉︎ ちょ、待っ、まさかあの時ので?」
「それ以外何があるの」
「ある、けど…! いや、違う。これは完全に俺が悪い、本当に俺が悪い。でもまさか、あー…」
今度は桐生が頭を抱えてしまった。一体どうしてそうなったのかが理解出来ず、流石にこの状態の桐生を置いて逃げ出すのは忍びなくて観察すること十数秒。未だに何故だか撃沈している桐生に僕は意味がわからず首を傾げた。
「…ていうかそれ以前の問題だし。気負わせてるならごめん。忘れていいよ、その方が桐生も楽でしょ」
「ちょっと黙って」
聞いた事のない桐生の低い声に自然と背筋が伸びる。空気が少しピリついていて心臓がきゅうっと縮んだ。
え、なんで桐生が怒ってるんだろう。まず、そう前置きをされて始まった言葉を僕はただ聞く事しか出来ない。
「俺は雪穂の事振ってない。驚いたけど嫌だなんて思ってない。あの時のごめんは告白に対する言葉じゃないから、それはちゃんと知ってて欲しい」
桐生がこぼす呼吸音すら静かな教室ではよく聞こえる。だからそれ以外の物にも以外と意識が向くもので、例えば落ち着きなく握っては開いてを繰り返す手だったり、普段は揺れる事のない瞳が不安げに揺れていたり、そういうものにも気付けてしまった。
桐生が緊張している、そしてきっと、僕の発言のどれかに不満を感じている。
「それと」
その答え合わせが始まるんだ。
「俺の気持ちを勝手に決めないで。…俺は雪穂の気持ちを面倒だなんて思ってない。忘れたいとも思ってないよ」
真っ直ぐに向けられる視線と言葉から僕は逃げられなかった。
もういいやと諦めて置いてきた筈の夢がまた息を吹き返そうとしている気配がする。
「…お願い。俺に雪穂を知るチャンスをください」
その懇願に、僕はゆっくりと瞬きをした。
「チャンスって、何…?」
「? そういう機会が欲しいって意味だけど」
「違うそうじゃなくて」
自分の額を指で押すように僕は思考を巡らせた。けど巡らせたところでなんの答えも浮かばない。それも当然だ。だって僕には桐生が何を考えているのかさっぱりわからないんだから。
「…なんでチャンスが欲しいの」
「雪穂の事が知りたいから」
「なんで知りたいって思うの」
「それを知るためにチャンスが欲しい」
「はあ?」
理解する為に聞いたのにもっとわからなくなって僕の眉間に皺が寄った。そんな僕とは反対に桐生の顔は大真面目で、そこに揶揄いとか嘘の気配は感じられなかった。でもそれから一拍置いて桐生の顔が悔しげに歪む。
「…田中曰く、俺はポンコツらしくて」
「んん…?」
「俺が今まで雪穂にして来た行動は、俺が雪穂に好意を持ってないとしない行動だって教えて貰った」
「ん?」
「文化祭の準備中、クラスのグループに雪穂のかわいい写真載せられたり、俺にはさせてくれないクセに他のやつらとは顔写った写真撮らせたり、学校で触らせたり、そういうのが全部すごく苛ついた。それで俺はそれを、その、お気に入りのおもちゃを盗られたって、感覚だと思ってて」
酷く言いづらそうに紡がれた言葉は、理解していた事だとしてもずしりと重たく心刺してくる。やっぱりそうだったんだなぁって、したくなかった答え合わせに僕は視線を桐生から逸らした。
「でも、そうじゃないって田中が気付かせてくれて」
落ち込みそうになった僕を止まらせたのは田中だ。また出た田中の名前に僕は嫌な予感がして顔をロボットみたいなぎこちなさで再び桐生に戻した。
「あのね、雪穂」
「まさか田中に喋ったの」
「なんで今田中の名前が出るの」
「最初に出したのはお前だよ!」
途端に桐生の顔が顰めっ面になり面白くなさそうに唇を尖らせた。その理不尽さに僕はどうにか落ち着こうとするけど出来なくてびしっと桐生を指さした。
「おまえ、お前まさか田中に僕の事喋ったの…⁉︎」
「雪穂の事は隠してたよ。でもバレた」
「なんでぇ⁉︎」
驚愕に震えている僕とは対照的に桐生は呆気からんとしている。
「俺がグループに上がった雪穂の写真見てキレたの見てたから」
「は、ぇ…? はああああ?」
もう僕には理解不能だった。僕は今度こそ頭を抱えてうずくまった。
「終わった…」
「大丈夫だよ、田中はそういうの言いふらすやつじゃないし」
「そりゃあお前はダメージ無いだろうな!」
「え? 女装とかの事も全部話したよ」
「どっちみち僕も大ダメージじゃん! もうHPレッドゾーン突入してるんだけど!」
「…田中もかわいいって言ってた」
「そもそも女装褒められたってなにも嬉しくな、……なんて顔してんの桐生」
僕とっては一大事でも桐生にとってはそうでないらしく認識の差に苛立つし歯痒いしでどうしてやろうと思いながら顔を上げれば、そこにいたのは形容し難い表情をした桐生だった。多分僕が同じ顔をしたら目も当てられないけど、桐生の顔からはなんだか複雑な感情が読み取れるような気がした。
「雪穂の事かわいいって知ってるのは俺だけで良かったのに」
「…またおもちゃ理論?」
「違う」
複雑な顔のまま桐生はじっと僕を見ている。
「嫉妬してるんだよ、田中に」
というか雪穂の可愛さを知った奴ら全員。そう続けられた言葉に僕は瞬きを繰り返した。言葉は聞こえているし理解はしているが意味がわかって納得できるかと言われたらそうじゃない。まさに頭ではわかっていても体がついていかない状態になっていた。
意味がわからない事の連続でもう驚くというリアクションすら取れない、というか今どんな反応をすれば正解なのかがわからなくて僕は固まった。
「…雪穂だってすごい顔してるよ」
それまで複雑だった桐生の顔がふっと和らいだ。嬉しそうに目を細めてゆっくり開く花みたいに笑って、僕の方に手を伸ばす。桐生の長い指が僕の頬に触れた。輪郭をなぞって顎のラインを包むみたいに大きな手のひらが触れる。
「りんご飴みたいでかわいいね」
悔しくて唇を噛んだ。でもそうすると桐生の指先が口元に触れるから僕は言うことを聞くしかなくて、でもやっぱり悔しくて睨むと桐生は嬉しそうに笑った。
「…なんで僕に触るの」
「触りたいって思ったから」
「僕は、お前に好きだって言ったんだよ」
「うん」
「…こんなことされたら、忘れられない」
まるで宝物みたいに桐生が僕に触れるからどうしようもなく心臓が痛い。どれだけ忘れようとして僕が頑張っても、これじゃ努力が水の泡だ。無神経なやつだって腹立たしいのに、それでも僕の心は今嬉しいって叫んでる。
「忘れないで、覚えててよ」
「…お前本当に自己中だな」
「うん、それで雪穂の事沢山傷付けた。本当にごめん」
するりと手が離れる。謝罪の言葉を吐いている桐生の顔は笑っているけど、目は少しだけ陰っている。
「…俺は本当にポンコツらしくて、未だに自分の気持ちがわかんないところがある。雪穂の事知りたいって思うし、独り占めしたいって思うし、今文化祭の雪穂の格好思い出しただけで見たやつ全員許さないって思うくらいには嫉妬してる」
一つ一つ言葉を置いてくるみたいにゆっくりと桐生が喋る。
「多分俺は雪穂の事が好きなんだ」
ぽつん、と落ちた言葉。考えるよりも先に口を突く。
「……なんで多分…?」
「自発的に人を好きになった事ないから自信持って言えない」
「ぇ」
「今まで告白されたら付き合うってやってたし、付き合ってるから形だけでもって大切にしてたけど、それでその人達を好きになるって事なかった。だから、今俺の中にあるこれが好きなのかどうかわからない」
ぽかんと口を開け間抜け面を晒す僕を見て桐生は眉尻を下げた。
「多分、雪穂の事が好きなんだよ。でも自信を持って言えないから、もっと雪穂と一緒にいたい。そうしたらきっと多分じゃない好きを伝えられると思う」
「……それが勘違いとか、考えないの」
「多分違うから大丈夫」
無性に笑いたくなった。
「っ、ふふ」
声を漏らすと桐生が不思議そうにする。だけど僕は気にせずに笑った。
「あははっ、…ふ、くく、はー…桐生って馬鹿なんだなぁ」
きっと僕も大馬鹿者だと思う。
曖昧過ぎる告白はこの先僕を殺すナイフになるかもしれない。でも、それでも良いかもしれないって思ってしまったから、恋ってやつは本当に面倒臭い。
「いいよ、チャンスをあげる」
どっちに転んでもきっとこれが互いにラストチャンスだ。