少し冷たい秋の風を通り抜けて、私は見慣れた居酒屋さんの前で足を止める。引き戸に備え付けられているすり板ガラスからは温かみのある色の光が漏れていた。
それを引くと、顔馴染みの店員さんがある人のところへと導いていく。奥へ奥へと進むと、ある人はこちらを向いて座っていた。座敷席だからか、姿勢を崩しながら彼女は待っている。
やがて私に気づくと、彼女は手を振ってくれた。
「もう、遅いよ。すごく待ったんだから」
自分が男だったら間違いなく付き合いたいと思わせるくらいに彼女は可愛く口を尖らせていた。だけどちゃんと時間には間に合ったはずだから、そんなに言われる筋合いはないはずだ。
「まだ待ち合わせの10分前だよ?」
そう言うと目の前の彼女は更に不機嫌そうな表情を作って「愛花は私といる時間が少なくてもいいの?」と逆に質問してきた。
「そんなわけないじゃない。愛花は私の一番の友だちなんだから」
そこまで言ってやっと彼女は口角を上げて微笑んでくれた。
私たちが出会ったのは小学校を入学して間もない頃。子役のように整った顔立ちと、愛嬌を合わせ持つクラスの人気者。彼女、愛花という女の子はそんな子どもだった。
一方で私は、そんな愛花を遠目で見るような暗くて内気な子どもだった。だからこの時はまさか、自分が愛花と二十年以上付き合っていくことになるなんて、全く予想だにしていなかったのだ。だが……。
「私たちの名前、漢字が一緒だね」
「えっ」
彼女が突然そう話しかけてきたのだ。花壇の真ん中で可憐に咲く美しいチューリップが、道路の端っこの日陰で一輪孤独に咲くタンポポを見つけるように。
「不思議だよね。平仮名にすると全然違う名前なのに」
「えっと……」
人見知りな私は突然話しかけられた彼女に対して何も返事ができないまま、ただ話を聞いているだけだった。きっと愛花も何も喋らない私に嫌気をさしているだろう。
やはり私と彼女とでは住む世界が違う。そう思っていたのだが……。
「今度の週末、私の家においでよ」
彼女は全然嫌な顔一つせずに話を進め、さらにこんな私のことを誘おうとしてくれていた。
「あっ、もしかして用事あったりする?」
両親は共働きでいないし、習い事も基本的に休日は入れてないから用事と呼べるものは何もない。私は首を横に振る。それが初めての彼女とのコミュニケーションだった。
週末、私は彼女の家の前で足を止めていた。足は緊張で震えている。
誰かの家にお邪魔すること自体が初めてで、更にここがクラスの人気者の家だというのがその緊張の根源なのだろう。深呼吸しても心臓は中々大人しくなってくれない。すると扉の向こう側からガチャッと鍵の開く音が聞こえてきた。
そしてそのまま、木製の扉がゆっくりと開かれる。その開いた隙間から彼女の綺麗な瞳がちょこんと見えた。
「もう、待ちくたびれちゃったじゃない。ずっと待ってたのに」
「えっ? どうしてインターフォン鳴らしてないのに扉開けたの?」
とても不思議だった。インターフォンを押さないと、私が来たことには気づかないはずなのに。
「だって愛花ちゃん、いつも十分前行動してるでしょ? 朝登校する時とか。そこからこのくらいの時間に来るんじゃないかなって予測しただけだよ」
「何でそこまで知ってるの?」
朝来た時、彼女は男女問わず色んな人たちに囲まれているから、そんなこと知ってるはずないって思ってたのに。
「私、前々から愛花ちゃんと仲良くなりたいなぁって思ってたんだよね。あっ、ストーカーじみてて気持ち悪かった?」
「そんなわけないよ……」
そんなわけない。手の届かない場所にいると思っていた彼女が、私のことを意識していたことにとても嬉しく感じたのだ。もしかしたら、こんな私にも友だちができるんじゃなかって。しかもクラス一の人気を誇る彼女と。
その言葉のおかげなのか、彼女は瞳を夜の建物の灯りのように輝かせる。頬は少し赤くなっていた。
そして満面の笑みで「我が家へようこそ」と言葉を弾ませた。
「愛花ちゃん、よく来てくれたね。ごはん食べてく?」
世間話に花を咲かせていた私たちに、彼女のお母さんがそう声をかけてきた。いつの間に時計の長い針と短い針が上で一つに重なっている。
もうお互いの名前を呼び捨てし合うほどに、私たちの関係は深まったと思う。
彼女と話したり、笑い合ったりする時間が楽しすぎて時間という存在をすっかり忘れてしまっていたのだ。こんなに充実した時間を過ごしたのは生まれて初めてかもしれない。
そう思えるくらいに、彼女といるこの空間は居心地がよかった。
私の両親は共働きだから、いつも家を空けている。それが影響しているのだろう、私が口にするものは必然的にスーパーのお惣菜や冷食など、手作りじゃないものが多かった。
だから彼女の家の料理を口に入れた時、ここが天国なのではないかと錯覚するほどに旨味が口いっぱいに広がったのだ。
特に私の舌を喜ばせたのは、豚の角煮だった。醤油ベースのタレと豚の脂から注がれる甘みのバランスが絶妙すぎる。呑み込まないでずっと口の中に入れていたいと思わせるくらいに、豚の角煮は最高の出来栄えだった。
「何か、今にも天に昇りそうな顔してるね」
「だって、美味しすぎるんだもん。あっ、もし天に昇ったらいっぱいこの豚の角煮食べれるのかな~」
「もう、どんだけ美味しかったの。でも天国行っちゃったら二度と味わえなくなると思うよ?」
「え~、愛花って意外と現実的だよね」
「いやぁ~、絶対愛花が幼稚なだけだと思うよ?」
「なんだとぉ」
怒り口調でそう言いながらも、途端に噴き出して、彼女もそれにつられて声を上げながら笑う。口から塩キャベツに入っていた昆布が零れそうになるくらいに。こうやって会話を広げるの苦手だったのになぁ。
だけどどうしてか、彼女となら自然と言葉が溢れてくる。いつまでも蛇口から落ち続ける雫のように。
彼女との時間が楽しい。彼女もそう思ってくれていたのか、週末が明けた翌日も彼女は話しかけてきてくれた。周りにいた仲のいい人たちを残して。
その次の日もまたその次の日も。そんな日々は二十年間、ずっと続いていくことになった。
「う~ん、やっぱり塩キャベツ美味しい~」
「愛花、それ昔から好きだよね」
「うん! このキャベツ本来の甘さと、振りかけられた塩のしょっぱさが絶妙に絡み合ってるんだよ。あと、昆布の磯の香りがアクセントになってて……とにかく美味しいの!」
そう言いながら彼女は、ジョッキにたっぷりと盛られているお酒を一気に飲み干す。元々飲みっぷりはいいけれど、今日はちょっと飲みすぎな気がするなぁ。
「ほら、愛花も飲みなよ。まだ全然飲んでないでしょ?」
「いや、私は酔いやすいからもういいかな」
「何言ってるの? 今日は愛花の結婚祝いだよ? パーッといこうよ!」
そう、今日のこの飲み会は、結婚祝いという名目で開かれたものなのだ。まぁ、結婚といっても両親からの紹介から始まったことだけれど……。
「ねぇ。ここだけの話だけどさ、愛花は本当にその人のこと好きなの?」
核心を突かれた。流石は親友。結婚相手のことが本当に好きかと聞かれると、首を傾げたくなる。だって、好きで結婚したわけじゃないから。
「やっぱり嫌なんだね、結婚。どうして断らないの?」
「だって、いつまでも結婚してなかったら両親に心配かけるんだもん」
「だからって、そんな好きでもない人と結婚することないじゃん。それに……」
彼女が言おうとしていることは理解できた。彼女が私の結婚で一番懸念していること。
悲しみを孕んだような表情で彼女は言葉の続きを紡ぐ。
「愛花、その結婚相手の住む場所に行っちゃうんでしょ。今までずっと暮らして来たこの土地を離れて……。そんなの……寂しいよ……。だって、もう簡単には会えなくなっちゃうから。あたりまえのようにいてくれた愛花がいなくなっちゃうから……」
突然胸の辺りが物理的に温かくなる。柔らかい感触とともに。
私は無意識のうちに彼女を抱きしめていた。息を止めてしまうほどに強く。それと同時に頬も温かくなる。とめどなく落ちる温かな涙が。
「私も……寂しいよ……。愛花と離れ離れになるの……」
だって、一番の友だちだから。彼女と過ごす時間はどんな時間よりも楽しくて、心地よくて、かけがえのないものだから。
「あい、、か。くる……」
「あっ、ごめん」
慌てて腕の力を抜くと、彼女は大袈裟なくらい声に出して深呼吸をし始めた。
「はぁ~。もう、危うく天に召されるところだったよ~」
そこには、いつも通りすぎる彼女の表情があった。まるでさっきまでの悲しげな表情が嘘で貼り付けていたものかのように。
その時ちょうど、醤油とお肉から放たれる独特の香りが私の鼻孔をくすぐった。
「ごめんごめん。しみったれた空気作っちゃって」
「いや、全然いいよ。むしろそう思っていてくれたことが嬉しいよ」
しっかりと醤油ベースのタレに付け込まれた角煮は、味も絶品でさらに口の中ですぐに解けていく柔らかさを持ち合わせていた。それは、初めて愛花の家に来て食べた角煮と重なる。
「前々から思ってたんだけど、ここのお店の角煮、愛花の家のに似てるよね」
「まぁ、店主が一から作ってるお店の看板メニューだからね。でも似てるなんて、愛花はまだまだわかってないなぁ」
「何が違うの?」
「ふふ。それはねコクだよ」
「コク?」
「そう。多分ここのタレには砂糖が入ってるんだと思うけど、我が家は代わりにメープルシロップが入ってるの」
「そうだったの⁉」
「そうだよ。じゃあ、わかるまで同棲は見送りってことで」
なんてね、と彼女は冗談ぽく言った。
ふと疑問が湧いてくる。今までどうしてそう思わなかったのかが逆に不思議なくらい。
「そういえば、愛花から結婚の話聞いたことないかも」
容姿もいいし、性格も悪くない。恋なんて呼吸をするくらい簡単にできそうなのに……。
「私のことはどうでもいいの。今日は愛花の結婚祝いなんだから。」
はい、と満タンまでお酒が盛られているグラスを渡される。少しでも揺れたら零れてしまうくらいに。
しかもかなり強めのお酒だ、これ。飲んだ瞬間、喉が痺れて熱くなっていく。
そのお酒が入ったグラスを、塩キャベツを食べていた時よりもハイペースで渡してくる。
「ほらほら、もっと飲んでよ! 私たち離れ離れになっちゃうんだよ。その寂しさも全部忘れるくらい飲んじゃってよ」
彼女の煽りと角煮の旨味によって、お酒がいとも簡単に体へと流れていく。いつもは全然飲めないのに。
そのうち、本当に全部を忘れてしまうくらい、上手く思考が働かなくなってきた。目の前にいる彼女の輪郭が曖昧になっていく。やがて彼女の表情もわからないくらいに視界は朧になり、五感は機能を果たさなくなっていった。
「ずっと一緒にいようね」
最後に機能を果たしたのは、誰かから紡がれた言葉を拾ってくれた聴覚だった。
ずっと寂しかった。寂しくてたまらない。
『私ね、結婚するの。だから一緒に住むために遠くへ引っ越さなくちゃならなくて……』
つい数週間前に言われた言葉。そう言われた瞬間、どうしようもないくらいの虚無感を感じた。
愛花と一緒にいられなくなる……。そう考えれば考えるほど、自分の首を自分で絞めているような心地がした。
もっと一緒にいたかった。何年も、何十年も。この先ずっと。
だから私は恋人を作らなかった。愛花と過ごせる時間が少なくなっちゃうから。
結婚なんてもっての外。
だって、愛花と過ごす時間以上に素敵な時間なんてこの世に存在しないから。少なくとも私は知らない。
だから愛花を束縛していたいという気持ちは富士山よりも大きくて高いと自分でも思う。だけど、それと同時に彼女には幸せであってほしいとも思ってしまう。大好きな親友だからこそ、というやつだ。
だから私は応援することにしたというのに。愛花の幸せを。それなのに……。
『私も……寂しいよ……。愛花と離れ離れになるの……』
その言葉を聞いた瞬間、私の中の何かが外れた。まるでせき止めていたものが壊れて、ダムの水が一気に流れていくように。
そっか、そうだったんだね。愛花も同じ気持ちでいてくれたんだ。
愛花も私も同じ気持ちなのにどうして離れ離れにならなければいけないのだろう。ふとそんな大きすぎる疑問を私は抱えてしまった。
どうしたらいいのだろうか? 愛花の本音を聞いてしまった今、大人しく離れる選択肢なんて選べるはずがなかった。
その時、ある一つの方法が私の思考の全てを占める。決して合法的ではない。けれど、それ以外に思い浮かばなかった。私と愛花がずっと一緒にいられる方法を。私たちの望みを叶えられる方法を。
私はそばにあった度数強めのお酒の栓を抜いた。
目を開けると、そこには彼女が眠っていた。まるで永遠に目覚めさせない呪いをかけられたお姫様のように。
彼女は私よりもお酒に強いから、酔いつぶれて眠っているなんて珍しいなぁと思っていると、突然ピクっと彼女は肩を揺らした。
少しずつ開いていく瞳は、秋の澄んだ空によく見える星のように居酒屋さんの電灯を美しく反射させている。
きっと職場でも学生時代のような人気者やってるんだろうなと思わせる綺麗な瞳が完全に開く。
「ごめんね、待たせちゃって。愛花が私を待つなんて初めてのことなんじゃない?」
「確かに」
思えば私、彼女をよく待たせていた気がする。申し訳ない。
「そっか。あっ、角煮見つけ!」
「えっ」
私も角煮を見つけようと箸を持つ前に、彼女は金魚すくいのごとく素早い箸裁きで角煮を攫ってしまった。そしてそのまま彼女はそれを口の中へと入れる。
「もう、何で食べちゃうの? 私が好きなの知ってるのに」
「私が眠ってる間に食べちゃえばよかったのに」
「だって白い脂が浮いててよく見えなかったんだもん」
頬を膨らませてそう言うと、彼女は仕方ないといった様子で、「じゃあ、二軒目に行く?」と提案してきた。
子ども扱いされているみたいな気分になったけれど、また彼女と美味しいものを食べて楽しい時間を過ごせるのならそれでもいいと思い、彼女の返事に大きく頷く。
そういえば……。
「私たち、今日どうして居酒屋さんに来てたんだろう?」
意識はすっきりしてるから、酔いで忘れたとは思えない。彼女は一瞬満月のようにまん丸に瞳を見開いたが、すぐにいつも通りの笑顔に戻り、「いつもの集まりだよ」と言った。
少し違和感はあるけれど、彼女が言うなら間違いはないだろう。
私たちの他愛ないほのぼのとした日常は続いていく。美味しいものを食べて、くだらない話をして、一緒に時間を過ごして。
そんな日常がずっと。永遠に
終わり
それを引くと、顔馴染みの店員さんがある人のところへと導いていく。奥へ奥へと進むと、ある人はこちらを向いて座っていた。座敷席だからか、姿勢を崩しながら彼女は待っている。
やがて私に気づくと、彼女は手を振ってくれた。
「もう、遅いよ。すごく待ったんだから」
自分が男だったら間違いなく付き合いたいと思わせるくらいに彼女は可愛く口を尖らせていた。だけどちゃんと時間には間に合ったはずだから、そんなに言われる筋合いはないはずだ。
「まだ待ち合わせの10分前だよ?」
そう言うと目の前の彼女は更に不機嫌そうな表情を作って「愛花は私といる時間が少なくてもいいの?」と逆に質問してきた。
「そんなわけないじゃない。愛花は私の一番の友だちなんだから」
そこまで言ってやっと彼女は口角を上げて微笑んでくれた。
私たちが出会ったのは小学校を入学して間もない頃。子役のように整った顔立ちと、愛嬌を合わせ持つクラスの人気者。彼女、愛花という女の子はそんな子どもだった。
一方で私は、そんな愛花を遠目で見るような暗くて内気な子どもだった。だからこの時はまさか、自分が愛花と二十年以上付き合っていくことになるなんて、全く予想だにしていなかったのだ。だが……。
「私たちの名前、漢字が一緒だね」
「えっ」
彼女が突然そう話しかけてきたのだ。花壇の真ん中で可憐に咲く美しいチューリップが、道路の端っこの日陰で一輪孤独に咲くタンポポを見つけるように。
「不思議だよね。平仮名にすると全然違う名前なのに」
「えっと……」
人見知りな私は突然話しかけられた彼女に対して何も返事ができないまま、ただ話を聞いているだけだった。きっと愛花も何も喋らない私に嫌気をさしているだろう。
やはり私と彼女とでは住む世界が違う。そう思っていたのだが……。
「今度の週末、私の家においでよ」
彼女は全然嫌な顔一つせずに話を進め、さらにこんな私のことを誘おうとしてくれていた。
「あっ、もしかして用事あったりする?」
両親は共働きでいないし、習い事も基本的に休日は入れてないから用事と呼べるものは何もない。私は首を横に振る。それが初めての彼女とのコミュニケーションだった。
週末、私は彼女の家の前で足を止めていた。足は緊張で震えている。
誰かの家にお邪魔すること自体が初めてで、更にここがクラスの人気者の家だというのがその緊張の根源なのだろう。深呼吸しても心臓は中々大人しくなってくれない。すると扉の向こう側からガチャッと鍵の開く音が聞こえてきた。
そしてそのまま、木製の扉がゆっくりと開かれる。その開いた隙間から彼女の綺麗な瞳がちょこんと見えた。
「もう、待ちくたびれちゃったじゃない。ずっと待ってたのに」
「えっ? どうしてインターフォン鳴らしてないのに扉開けたの?」
とても不思議だった。インターフォンを押さないと、私が来たことには気づかないはずなのに。
「だって愛花ちゃん、いつも十分前行動してるでしょ? 朝登校する時とか。そこからこのくらいの時間に来るんじゃないかなって予測しただけだよ」
「何でそこまで知ってるの?」
朝来た時、彼女は男女問わず色んな人たちに囲まれているから、そんなこと知ってるはずないって思ってたのに。
「私、前々から愛花ちゃんと仲良くなりたいなぁって思ってたんだよね。あっ、ストーカーじみてて気持ち悪かった?」
「そんなわけないよ……」
そんなわけない。手の届かない場所にいると思っていた彼女が、私のことを意識していたことにとても嬉しく感じたのだ。もしかしたら、こんな私にも友だちができるんじゃなかって。しかもクラス一の人気を誇る彼女と。
その言葉のおかげなのか、彼女は瞳を夜の建物の灯りのように輝かせる。頬は少し赤くなっていた。
そして満面の笑みで「我が家へようこそ」と言葉を弾ませた。
「愛花ちゃん、よく来てくれたね。ごはん食べてく?」
世間話に花を咲かせていた私たちに、彼女のお母さんがそう声をかけてきた。いつの間に時計の長い針と短い針が上で一つに重なっている。
もうお互いの名前を呼び捨てし合うほどに、私たちの関係は深まったと思う。
彼女と話したり、笑い合ったりする時間が楽しすぎて時間という存在をすっかり忘れてしまっていたのだ。こんなに充実した時間を過ごしたのは生まれて初めてかもしれない。
そう思えるくらいに、彼女といるこの空間は居心地がよかった。
私の両親は共働きだから、いつも家を空けている。それが影響しているのだろう、私が口にするものは必然的にスーパーのお惣菜や冷食など、手作りじゃないものが多かった。
だから彼女の家の料理を口に入れた時、ここが天国なのではないかと錯覚するほどに旨味が口いっぱいに広がったのだ。
特に私の舌を喜ばせたのは、豚の角煮だった。醤油ベースのタレと豚の脂から注がれる甘みのバランスが絶妙すぎる。呑み込まないでずっと口の中に入れていたいと思わせるくらいに、豚の角煮は最高の出来栄えだった。
「何か、今にも天に昇りそうな顔してるね」
「だって、美味しすぎるんだもん。あっ、もし天に昇ったらいっぱいこの豚の角煮食べれるのかな~」
「もう、どんだけ美味しかったの。でも天国行っちゃったら二度と味わえなくなると思うよ?」
「え~、愛花って意外と現実的だよね」
「いやぁ~、絶対愛花が幼稚なだけだと思うよ?」
「なんだとぉ」
怒り口調でそう言いながらも、途端に噴き出して、彼女もそれにつられて声を上げながら笑う。口から塩キャベツに入っていた昆布が零れそうになるくらいに。こうやって会話を広げるの苦手だったのになぁ。
だけどどうしてか、彼女となら自然と言葉が溢れてくる。いつまでも蛇口から落ち続ける雫のように。
彼女との時間が楽しい。彼女もそう思ってくれていたのか、週末が明けた翌日も彼女は話しかけてきてくれた。周りにいた仲のいい人たちを残して。
その次の日もまたその次の日も。そんな日々は二十年間、ずっと続いていくことになった。
「う~ん、やっぱり塩キャベツ美味しい~」
「愛花、それ昔から好きだよね」
「うん! このキャベツ本来の甘さと、振りかけられた塩のしょっぱさが絶妙に絡み合ってるんだよ。あと、昆布の磯の香りがアクセントになってて……とにかく美味しいの!」
そう言いながら彼女は、ジョッキにたっぷりと盛られているお酒を一気に飲み干す。元々飲みっぷりはいいけれど、今日はちょっと飲みすぎな気がするなぁ。
「ほら、愛花も飲みなよ。まだ全然飲んでないでしょ?」
「いや、私は酔いやすいからもういいかな」
「何言ってるの? 今日は愛花の結婚祝いだよ? パーッといこうよ!」
そう、今日のこの飲み会は、結婚祝いという名目で開かれたものなのだ。まぁ、結婚といっても両親からの紹介から始まったことだけれど……。
「ねぇ。ここだけの話だけどさ、愛花は本当にその人のこと好きなの?」
核心を突かれた。流石は親友。結婚相手のことが本当に好きかと聞かれると、首を傾げたくなる。だって、好きで結婚したわけじゃないから。
「やっぱり嫌なんだね、結婚。どうして断らないの?」
「だって、いつまでも結婚してなかったら両親に心配かけるんだもん」
「だからって、そんな好きでもない人と結婚することないじゃん。それに……」
彼女が言おうとしていることは理解できた。彼女が私の結婚で一番懸念していること。
悲しみを孕んだような表情で彼女は言葉の続きを紡ぐ。
「愛花、その結婚相手の住む場所に行っちゃうんでしょ。今までずっと暮らして来たこの土地を離れて……。そんなの……寂しいよ……。だって、もう簡単には会えなくなっちゃうから。あたりまえのようにいてくれた愛花がいなくなっちゃうから……」
突然胸の辺りが物理的に温かくなる。柔らかい感触とともに。
私は無意識のうちに彼女を抱きしめていた。息を止めてしまうほどに強く。それと同時に頬も温かくなる。とめどなく落ちる温かな涙が。
「私も……寂しいよ……。愛花と離れ離れになるの……」
だって、一番の友だちだから。彼女と過ごす時間はどんな時間よりも楽しくて、心地よくて、かけがえのないものだから。
「あい、、か。くる……」
「あっ、ごめん」
慌てて腕の力を抜くと、彼女は大袈裟なくらい声に出して深呼吸をし始めた。
「はぁ~。もう、危うく天に召されるところだったよ~」
そこには、いつも通りすぎる彼女の表情があった。まるでさっきまでの悲しげな表情が嘘で貼り付けていたものかのように。
その時ちょうど、醤油とお肉から放たれる独特の香りが私の鼻孔をくすぐった。
「ごめんごめん。しみったれた空気作っちゃって」
「いや、全然いいよ。むしろそう思っていてくれたことが嬉しいよ」
しっかりと醤油ベースのタレに付け込まれた角煮は、味も絶品でさらに口の中ですぐに解けていく柔らかさを持ち合わせていた。それは、初めて愛花の家に来て食べた角煮と重なる。
「前々から思ってたんだけど、ここのお店の角煮、愛花の家のに似てるよね」
「まぁ、店主が一から作ってるお店の看板メニューだからね。でも似てるなんて、愛花はまだまだわかってないなぁ」
「何が違うの?」
「ふふ。それはねコクだよ」
「コク?」
「そう。多分ここのタレには砂糖が入ってるんだと思うけど、我が家は代わりにメープルシロップが入ってるの」
「そうだったの⁉」
「そうだよ。じゃあ、わかるまで同棲は見送りってことで」
なんてね、と彼女は冗談ぽく言った。
ふと疑問が湧いてくる。今までどうしてそう思わなかったのかが逆に不思議なくらい。
「そういえば、愛花から結婚の話聞いたことないかも」
容姿もいいし、性格も悪くない。恋なんて呼吸をするくらい簡単にできそうなのに……。
「私のことはどうでもいいの。今日は愛花の結婚祝いなんだから。」
はい、と満タンまでお酒が盛られているグラスを渡される。少しでも揺れたら零れてしまうくらいに。
しかもかなり強めのお酒だ、これ。飲んだ瞬間、喉が痺れて熱くなっていく。
そのお酒が入ったグラスを、塩キャベツを食べていた時よりもハイペースで渡してくる。
「ほらほら、もっと飲んでよ! 私たち離れ離れになっちゃうんだよ。その寂しさも全部忘れるくらい飲んじゃってよ」
彼女の煽りと角煮の旨味によって、お酒がいとも簡単に体へと流れていく。いつもは全然飲めないのに。
そのうち、本当に全部を忘れてしまうくらい、上手く思考が働かなくなってきた。目の前にいる彼女の輪郭が曖昧になっていく。やがて彼女の表情もわからないくらいに視界は朧になり、五感は機能を果たさなくなっていった。
「ずっと一緒にいようね」
最後に機能を果たしたのは、誰かから紡がれた言葉を拾ってくれた聴覚だった。
ずっと寂しかった。寂しくてたまらない。
『私ね、結婚するの。だから一緒に住むために遠くへ引っ越さなくちゃならなくて……』
つい数週間前に言われた言葉。そう言われた瞬間、どうしようもないくらいの虚無感を感じた。
愛花と一緒にいられなくなる……。そう考えれば考えるほど、自分の首を自分で絞めているような心地がした。
もっと一緒にいたかった。何年も、何十年も。この先ずっと。
だから私は恋人を作らなかった。愛花と過ごせる時間が少なくなっちゃうから。
結婚なんてもっての外。
だって、愛花と過ごす時間以上に素敵な時間なんてこの世に存在しないから。少なくとも私は知らない。
だから愛花を束縛していたいという気持ちは富士山よりも大きくて高いと自分でも思う。だけど、それと同時に彼女には幸せであってほしいとも思ってしまう。大好きな親友だからこそ、というやつだ。
だから私は応援することにしたというのに。愛花の幸せを。それなのに……。
『私も……寂しいよ……。愛花と離れ離れになるの……』
その言葉を聞いた瞬間、私の中の何かが外れた。まるでせき止めていたものが壊れて、ダムの水が一気に流れていくように。
そっか、そうだったんだね。愛花も同じ気持ちでいてくれたんだ。
愛花も私も同じ気持ちなのにどうして離れ離れにならなければいけないのだろう。ふとそんな大きすぎる疑問を私は抱えてしまった。
どうしたらいいのだろうか? 愛花の本音を聞いてしまった今、大人しく離れる選択肢なんて選べるはずがなかった。
その時、ある一つの方法が私の思考の全てを占める。決して合法的ではない。けれど、それ以外に思い浮かばなかった。私と愛花がずっと一緒にいられる方法を。私たちの望みを叶えられる方法を。
私はそばにあった度数強めのお酒の栓を抜いた。
目を開けると、そこには彼女が眠っていた。まるで永遠に目覚めさせない呪いをかけられたお姫様のように。
彼女は私よりもお酒に強いから、酔いつぶれて眠っているなんて珍しいなぁと思っていると、突然ピクっと彼女は肩を揺らした。
少しずつ開いていく瞳は、秋の澄んだ空によく見える星のように居酒屋さんの電灯を美しく反射させている。
きっと職場でも学生時代のような人気者やってるんだろうなと思わせる綺麗な瞳が完全に開く。
「ごめんね、待たせちゃって。愛花が私を待つなんて初めてのことなんじゃない?」
「確かに」
思えば私、彼女をよく待たせていた気がする。申し訳ない。
「そっか。あっ、角煮見つけ!」
「えっ」
私も角煮を見つけようと箸を持つ前に、彼女は金魚すくいのごとく素早い箸裁きで角煮を攫ってしまった。そしてそのまま彼女はそれを口の中へと入れる。
「もう、何で食べちゃうの? 私が好きなの知ってるのに」
「私が眠ってる間に食べちゃえばよかったのに」
「だって白い脂が浮いててよく見えなかったんだもん」
頬を膨らませてそう言うと、彼女は仕方ないといった様子で、「じゃあ、二軒目に行く?」と提案してきた。
子ども扱いされているみたいな気分になったけれど、また彼女と美味しいものを食べて楽しい時間を過ごせるのならそれでもいいと思い、彼女の返事に大きく頷く。
そういえば……。
「私たち、今日どうして居酒屋さんに来てたんだろう?」
意識はすっきりしてるから、酔いで忘れたとは思えない。彼女は一瞬満月のようにまん丸に瞳を見開いたが、すぐにいつも通りの笑顔に戻り、「いつもの集まりだよ」と言った。
少し違和感はあるけれど、彼女が言うなら間違いはないだろう。
私たちの他愛ないほのぼのとした日常は続いていく。美味しいものを食べて、くだらない話をして、一緒に時間を過ごして。
そんな日常がずっと。永遠に
終わり