「板谷ッス。よろしくッス」
「椎名美晴です……」

 おもしろい、と幸奈が言った板谷沙都子は、ちょっと美晴の職場にはいないタイプだった。
 長めのボブヘアにスモーキーピンクとモスグリーンのメッシュ入り。派手な見た目なのに淡々とした無表情で、律儀に丁寧語で話す。
 今は、真っ昼間。店に飲みに行ったわけではなく、同時に部屋を出たために遭遇しただけだった。幸奈は抜きで隣人として挨拶したのだが、いちおう言っておく。

「ええと、そっちに住んでる宮下幸奈と私、高校の同級生なんです」
「ああユッキーさんの。んじゃシーナさんも先輩ッスね」
「いやもう大人なんだし、ちょっとの年の差だけで先輩後輩っていうのやめましょうよ。職業だって違いますし。気楽な隣人として、ぜひ」
「そうッスか、あざす」
「お料理のお仕事ですよね、ゆっきーに聞きました。こんどお店に行こうって誘われて」
「まじッスか。いつでも歓迎しますんで、よろしくッス」

 きっちり礼をし、出勤するッス、と出て行く沙都子。歩き出すのは元町・中華街駅へおりる階段とは反対側だ。あちらは石川町駅方面。
 美晴は休日なので、ちょっと観光地を散歩してみるつもりだった。だからいつもの階段へ。

「沙都ちゃん……て私も呼んでいいかなあ」

 なんだか部活の後輩みたいだった。しゃべり方のせいかもしれない。慕われる先輩になれるだろうか。
 先輩後輩じゃなくと言ったくせにそんなことを考えてしまい、美晴は照れて笑った。


 丘の下にあるのは元町商店街だ。人気の服飾店とカフェが並び、犬を連れて歩いている人までいちいちおしゃれ。
 あとは宝石店も多かった。結婚指輪を扱っているのだけど、そういえば港の周辺には結婚式場もたくさんある。
 だって横浜は、異国情緒あふれる街並みや海の景色が映える街だから。恋人たちが吸い寄せられてくるのもわかるけど……今の美晴には全く無関係だった。

 職場では、ひとまず落ち着いて仕事ができている。店舗のレイアウトや品揃えにも慣れたし、同僚たちも前店での騒動には表向き言及してこなかった。
 裏で何か言われているかもと気にするのは被害妄想じみてくるし、そんなことを気にしたらやっていけないので考えないようにしている。
 でもそう思えるのは、職場以外で友だちがいるからだろう。幸奈には感謝しかない。


 ひとり気楽にぶらりと歩くのは、思ったより楽しかった。やはりまずは海かな、と山下公園へ向かってみる。

「うわ……っ」

 海が近づくといきなり風が強くなった。秋も深まり、すこし肌寒い。
 公園沿いの道は両側がイチョウ並木で、葉はまだ緑色を残しているのに歩道には銀杏がたくさん落ちていた。けっこう臭いのがおしゃれじゃなくて、なんとなく笑えた。
 足早に公園に逃げ込んだら、すぐそこにバラ園がある。秋のバラと様々な花が咲きみだれていて夢のようだ。やや低くなった花壇に近づくと芳香がただよい、こんどこそおしゃれだった。

「あれ、花嫁さん」

 そのバラに囲まれ、白いドレスの女性がいた。
 いや、まずドレスが目をひくだけで、ちゃんと花婿も隣にいる。幸せそうな二人にカメラを向ける人がいて――その後ろに立っているのは、幸奈だった。
 そうか、これがウェディングフォト。思いがけず幸奈の仕事場に遭遇したらしい。
 邪魔しないように見守ってみたら、一枚撮るごとに花嫁のドレスの裾を広げ直し、自然な笑顔になるように話しかけ、やや日が陰れば反射板を用意し、幸奈はくるくると動いていた。
 しばらくすると一段落したのか、幸奈が花嫁にベンチコートのようなものを着せかけた。そうか、肩の出たドレスだと寒い気候だ。とにかく気づかいが大切なんだなと感心して、美晴は遠慮がちに歩み寄った。

「ゆっきー」
「え? わ、しぃちゃん」
「ちょっと観光してたら花嫁さん見つけて。こういう仕事なんだね」
「見てたの? ふふん、お綺麗でしょ」

 幸奈は撮影用のブーケをそうっと袋に入れ、立ち上がる。話しかけた美晴をきょとんと見た花嫁が可愛らしく、目礼を返した。

「いいもの見たなあってご利益感じたよ」
「そうそう。ありがたやー、ってなるよね。たまに言われるわ」

 へへ、と得意げな幸奈はまだ仕事中。場所を変えて撮影を続けるらしい。新郎新婦とカメラマンにもペコリとして、美晴は歩き出した。
 ――すてきな仕事だな。


 港は波がおだやかで、大桟橋にはクルーズ船が停泊している。公園の真ん中にある噴水には何かの女神像が立っていて、そういえばこのあたり、テレビのニュース番組でよく映るかも、と気づいた。
 見回すと海と反対側、道路の向こうの方に青っぽい門があって、あ、となった。あれは中華街の朝陽門。よし、行ってみよう。

 足を踏み入れた中華街は、日本だか台湾だかわからない不思議な街並みだった。入ってすぐにあるのはパンダキャラだらけの観光案内所、そしてシウマイ屋。全国的にはシュウマイだけど、ここの商品は〈シウマイ〉というらしい。

「今日は食べ歩きかな」

 お昼はどこかで食べようと思って出てきていた。お店に入ってもいいけれど、たくさんありすぎてよくわからないし、あちこちで観光客が立ち食いしていて目の毒だ。見ていると参加したくなる。

「ええと、肉まん……胡椒餅……うわ、大きな唐揚げがいい匂い。ちょっとチャーシューメロンパンってどういうこと、甘いしょっぱいの無限機関なうえにカロリー爆弾じゃん!」

 目移りしてしょうがない。美晴はそんなに大食いではないので、食べるものは厳選しなければならないのだ。まあこれからは近所なんだから、しょっちゅう来れるんだけど。
 今日はけっきょく大人気の焼小籠包にした。四個入りで、半分ずつ味が違うらしい。
 道の端に立ちどまり、割り箸で緑色の皮を破った。これは海鮮小籠包。中から熱々で透明の汁があふれ出し、期待に目を細めた。汁は容器にためておいて、とりあえず本体をかじる。

「あふっ、うまっ」

 焼かれた底面がガリリと香ばしく、肉はじゅんわりジューシー。エビのプリ感もよかった。すこし冷めたスープを飲めば、心に染みる。
 でも大満足しながら周りを見ると、おひとりさまはあまりいなかった。そりゃそうか、みんなで遊びに来るところだし。

「……でも、負けないもんね」

 アラサー女子を舐めるなよ。
 好きなことをして生きられる、超ボーナスタイムが今なのだ。

 美晴はさらにハリネズミまんも買った。見た目の可愛さに食べるのがためらわれたが、ガブリといく。尖ったハリ部分の生地のクッキーぽさと、中のとろけるカスタード。美味しい。

 なんだかすごく、幸せだった。