横浜に来る前に美晴が勤めていたのは、関東平野の真ん中らへんにある支店だった。
 やや郊外なので、広大な敷地と品ぞろえが自慢。もちろん社員もパートもたくさんいた。
 だからって。
 家具部門のコーディネーターである美晴とつき合っていると公言していたのに、パートの色っぽい人妻と不倫した上にインテリアアクセサリー担当のきゅるんとした新入社員を引っかけるとか何を考えているんだろう。
 しかも三人の女のうち、美晴がいちばん地味。というか普通。
 おかげで散々な言われ方をした。「〈本命〉って言葉の意味w」「隠れ蓑にされただけ?」。男性社員だけの会話では「アレがつまんなかったんだろ」。
 そんな噂が横浜支店まで伝わっていないともかぎらない。各地に散った同期たちのネットワークはあなどれないのだ。


「……んで、どうだったん?」

 初出勤、勤務、帰宅後。
 同じく仕事終わりの幸奈を、昨日の返礼に美晴の新居に招いた。ローテーブルにお惣菜とビールを出し、美晴はぶすっとした。

「伝え聞いてる人はいると思う。朝礼で微妙な視線よこす奴いたもん」
「やっぱりか」
「箝口令しいたわけじゃないし、それは覚悟してたよ」

 話しながら、とりあえずビールだ。
 プシュ、と缶を開け、乾杯した。何に乾杯してるんだかわからないけど、のどに流れ込む苦みが美味しい。

「くぅーッ!」
「どうどう」

 幸奈が困った顔でなだめてくれた。

「しぃちゃんは被害者なんだし、くだらないこと言う奴がいても気にしなくていいんだよ」
「もちろん。それで折れるメンタルなら退職してる。いやこれから折れるかもしれないけどさ……でもなんで私が転職活動しなきゃなんないのよ。そんなの癪にさわるから異動で手を打ったんだわ」
「その意気だ! まあ飲も! てかこのツマミ、あの店のだよね?」
「そう。教えてもらったディスカウントストア。料理する気になれなかったし」
 
 買ってきたお惣菜は、いちおう皿に移してある。それだけでやや良い物に見えたりするから不思議だ。

「……しぃちゃんは、こういう気づかいのバランスがいいんだよね。頑張れない時には頑張らないのに、ちょっとだけ幸せをプラスする。変わんないな」
「そうだったっけ?」

 ホッとしたような笑顔の幸奈に、美晴は首をかしげた。自分のことって、他人からどう見えているかよくわからない。

「そーだよー。いき過ぎると〈細やかな暮らし〉とか〈意識高い〉とかなるやつなんだけど、しぃちゃんはイイって思ったことをこっちに押しつけないし、本人も気分で力の抜きどころがわかってるから」

 美晴は身の回りをととのえ、飾るのが好きだ。お気に入りの物が普段使いにあるだけで気持ちが前を向くのが楽しい。それでインテリアに興味を持ったのだ。
 誰かのそういう心を手助けできる、今の仕事も好き――だから退職したくなかった。

「力の抜きどころかぁ……」
「しぃちゃん傷ついたでしょ、そんな男にあたっちゃって。しばらくグダグダしてなよ。料理なんかしなくても死なないし、おしゃれだって自分のためだけにするの楽しいし」
「……ゆっきー大好き」

 本当に好き。美晴はちょっと泣きそうになった。

 裏切られて、噂されて、異動して、引っ越して。
 新しい街で暮らすことになったのはリセットという意味で救いだけど、つらくもある。こうして旧友に会えたのは天の助けだ。

「マジくだらない男にすり減らされるぐらいならフリーがいいでしょ。男なんてたくさんいるし、男なんていらないって説もあるから。今は休憩しときなね」
「そうする。ゆっきーは彼氏とかどうなの?」
「あー、学生時代はいたんだけどね……ほら私の仕事、週末休みじゃないことが多いじゃない。すれ違いが続くと駄目になるんだわ。それになんていうか、今はそんなに興味なくなってるかな」
「恋愛に?」
「うん。仕事おもしろいし、結婚と出産のビジョンが見えない」

 それもアリなのかもしれない。自分が生きるぶんの稼ぎがあって、こうして友だちと美味しいものを食べる時間があれば。幸せってそんなものかも。

「あ、この軟骨、うま」

 美晴はひょいと食べた柚子味噌軟骨で声を上げた。
 ふわりとした柑橘の香りと炭焼き風味の鶏軟骨が合う。大ぶりの食べごたえもいい。味噌のおかげで、なんならご飯もいけそうだ。
 そう聞いて手を出した幸奈もうなずいてくれた。

「うん、私これ買ったことなかったけど、酒がすすむやつだわ」
「いかん、呑兵衛一直線じゃん。ゆっきーと会わない日はつまみ系じゃないもの買ってこないと」
「私は飲み友だちってことかい……あ、ならいい居酒屋も知ってるんだけど」
「いや、ちょっと待って」

 そんな本気の返しが来ると思わなかった。吹き出してしまったが、幸奈は真面目な顔だ。

「私らの間の部屋の住人がね」
「うん?」

 美晴と幸奈の真ん中に住む人に、美晴はまだ会っていなかった。幸奈はちゃんと知り合いらしい。

板谷(いたや)沙都子(さとこ)っていうんだけど、その沙都(さと)ちゃんが和食居酒屋の店員なのよ。調理の方の修行中で」
「へえ、料理人なんだ」
「そこが美味しかったんだ。石川町の方」
「ふうん、じゃあ機会があったら連れてって……あ! 石川町ってことは、平地だよね?」
「あたりまえじゃん。丘の上に店なんて少ないし」
「じゃあ酔ってから、ここまでのぼるってこと?」

 それはちょっと、と美晴は尻ごみしてしまった。今日も仕事帰りにお惣菜とビールをぶらさげて帰るだけでヒイコラ言ったのだ。だがもう慣れっこの幸奈は笑い飛ばしてくる。

「この辺で暮らすと健脚になれるよ。おばあちゃんになっても元気でいられそうでいいじゃん、トレーニングしなきゃ」
「無茶言うー。階段ほんとにキツいんだけど」

 泣き言に幸奈は首を横に振った。平地の部屋は家賃が高いか周辺の治安が悪いかどちらかだと。そういえば不動産屋ですすめられたのは丘の上の物件ばかりだった。

「んじゃ石川町からは、なるべくゆるい道を選んで帰ろ。沙都ちゃんは二十三ぐらいだったかな。年下だけど、なんかおもしろい子で仲よしなんだ。こんど紹介するよ」
 
 幸奈がおもしろいと言うのなら、きっといい子だと思う。ここでの知人友人が増えるのはウェルカムなので楽しみだ。
 でも坂道を帰宅すると考えると――セーブして飲まなきゃ。美晴は節制を誓った。